自己紹介

自分の写真
オンラインで英語個別指導します https://yokawayuki.com/service
ラベル 言葉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 言葉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020/05/30

ドイツ語学習再開! Learn German / Deutsch Lernen

最近,ドイツ語学習を再開しました。
数年前,大学で選択した第二外国語として,数年間学んでいたのですが,今覚えているのは少しの単語と簡単な挨拶と簡単な自己紹介くらい。
でも,英語くらい使えるようになりたいなと思っています。

英語学習の経験や英語教授の経験,第二言語習得や学習学で言われていること,日本で効果的な英語学習法,と言われているものなど,私が持っているもので使えるものは全て使って学習をしていくつもりです。
そして,学習はYou Tubeで学習logとして記録していきます。
皆さん,ぜひチャンネル登録を~!そして私のドイツ語学習を応援してください!



使用教材(随時更新) 20/6/9 up

2020/04/22

機械翻訳がここまでくると…

ちょっと話題になっていた機械翻訳を使って,以前書いたブログ記事(https://yukiron.blogspot.com/2020/03/blog-post.html)を英訳してみた。そしたらこの精度。DeepLに至っては,熟語や無生物主語とか使ってくれて,より自然な英語に訳してくれている印象。もちろん,ちょっと?な文章もあるので,完璧に訳してくれてるとは言えないが…2つのいいとこどりをして少し調整したら,かなり良い感じの英語の文章になるのでは。
機械翻訳がここまでくると,4技能で英語力を分けるなら,リスニングとスピーキングスキルの必要性が相対的に上がる。書いてあるものや,書くことは,その場・そのときのものではないから,時間と手間がかかってもネットで機械翻訳通せばそんなに問題ない。でも,会話は録音でもしない限り話が進んでいってしまうから…会話でももちろん翻訳機や通訳使えるけど,友人や親しい人との会話でそのようなコミュニケーションを取りたくない人も多いのではないだろうか。
リーディング・ライティングに関しては,それこそ書いてあること・書きたいことをそのまま翻訳するだけでなく,その裏にある背景,文化的なもの,書き手の意図などを読み取れるか,あるいは英語を使って表現できるかが勝負(読解力・表現力)。ま,これは日本語の文章を読んだり書いたりするときもきっと同じだろうけど。


2020/04/09

#うちで踊ろう やってみた!

外出自粛となり、仕事もリモート。
気持ちはなかなか晴れないけれど、悶々・ソワソワしてても仕方がない!おうちでできることをめいいっぱいやって、将来に備えたいこの頃だ。

さて、星野源さんがつくった、「うちで踊ろう」、優しい音楽でとても素敵だ!だから私ものっかってみた。
せっかくなので、英訳頑張って、英語で歌ってみました~!

私たちの心が少しでも晴れますように…




❄ヨカワユキ❄(@yokawayuki.fp)がシェアした投稿 -

2020/03/14

海外と英語。私の目を開かせてくれた音楽。

イギリスのロックバンド Lostprophets は,私の目を海外に向けて開かせてくれた。それまで,海外のことなんて気にも留めていなかった私は,彼らと出会ったから海外に興味を持つようになったし,洋楽や洋画など海外の文化に貪欲になったし,今生業にしている英語を勉強しなくちゃ!となった。今思えば,彼らはそれくらい私の人生に大きな影響を及ぼした。

とはいっても,きっかけはすごく些細なもの。ある日の深夜,なんとなくテレビを見ていたときのこと,CMである曲のミュージックビデオが流れた。それが,Lostprophets の「last train home」。サビの部分が流れ,それを聞いた瞬間,すごくすごく大きな衝撃を受けました。一瞬で興奮し,すごい!かっこいい!もっと聞きたい!,とこれまでにないくらい強烈に心が動いた。それから私は,彼らのアルバムをすべて集めて聞き込み,歌詞を読み,当時Lostprophetsも利用していた音楽系SNSサイトMyspaceにも登録し,インターネットでも彼らの未発売の曲やライブ音源などを探しまくり,数ヶ月後に予定されていた彼らの来日公演のチケットも確保した。そして迎えた来日公演。彼らのパフォーマンスを生で見ることができて,本当に本当に嬉しかった。興奮した。曲を聞きながら飛び跳ね,彼らと一緒に歌った。

そして何曲か曲を演奏し終えた後,音楽が止み,ボーカルのイアンがMCを始め…。そのときまた私に衝撃が走った。えっ!何言ってるか全然分かんない…。後に知ることになるのだが,彼らはイギリスのウェールズ地方出身。ウェールズの英語は私がこれまでになじんできたアメリカ英語とは発音に違いがあるため,初級者には聞き取りにくい。とはいえ,大好きなバンドが来日し,私もその場に居合わせることができ,しかも私たちファンに向けて何かしゃべっているのに,なんにも分からない。私にはそれがとても悲しかった。それで,こんな思いもうしたくない…英語を勉強しよっ!となったのだ。

2019/10/16

DUBの楽しみ ―「YURI !!! ON ICE」北米版

神アニメとして私の中では不動の地位を築いている「ユーリ!!! on ICE」が,今月~テレ朝土曜の深夜枠で再放送を開始した。今年は映画版の公開が予定されていたものの,公開は延期。でも再放送始まったってことは,公開はそう遠くないのかな?と期待しつつ,これまでに何度観たか分からない「ユーリ!!! on ICE」を,また久しぶりに見始めている。そして,久しぶりに北米版も見返してみよう!と思いたった。

※「ユーリ!!! on ICE」およびヴィクトルへの愛はこちらの記事でも書いています。
 大好きだー!「ユーリ!!! on ICE」https://yukiron.blogspot.com/2017/05/on-ice.html
 年の瀬企画-第一夜- 2017年が初めて記念年 https://yukiron.blogspot.com/2017/12/2017.html

こちらの埋め込みからだと再生が不可のようなので,一度YouTubeにとんで再生ください。
 

私は本当に「ユーリ!!! on ICE」が好きなので,日本版のブルーレイでは飽き足らず,北米版のブルーレイも購入している!その理由は,日本人の声優による日本語のセリフが,英語になったとき,どんな声優がどんなセリフで演じているのかを知りたかったから。日本語と英語は語彙も違うし,文法も違うし,それぞれの言語が生まれている土壌も違うから,一対一対応で翻訳できることはほぼない。たとえ日本語のセリフをがんばって直訳したとしても,それが英語話者にとって伝わりやすく解しやすいセリフかどうかは疑わしい。そんなわけで,「この日本語の表現は,どんな英語の表現に変わっているのか?」を発見しつつ,「あ,こんな言い回しできるんだ」とか「この表現を使うとイメージがこんなふうに変わるな」とか,はたまた「私だったらここはこうするかな」とか,そんなことを考えながら見るのが,楽しい。
北米版の予告編↓


というわけで,私の好きな場面の英語セリフと日本語セリフをいくつか拾っていこうと思う。とその前に,「ユーリ!!! on ICE」のキャラは国際色豊かだ。キャラたちの英語,けっこう癖があるように聞こえる。おそらく,ロシア訛り,イタリア訛りなど,そのキャラの出身に合わせた発音にしているのかな,という印象。でも日本人キャラは日本語訛りになってない(笑)。声質の違いでキャラの印象もけっこう変わるもんで,私の好きなヴィクトルは,日本版では諏訪部さんの透き通るような若めの声,でも北米版では少し年上感がある。どちらも優しい印象の声だけど。JJはね…やっぱり宮野さんに勝てる人はいない…うん。

では早速セリフに行ってみよう!ストーリー順に行こうか。日本語セリフ,英語セリフ,直訳,コメントの流れでそれぞれ紹介!コメントにはその場面の感想や英語表現から受ける私の印象を記しています。
ATTN: 英語・日本語ともにセリフは私の耳による聞き取りです。また,直訳も私がしています。不正確なところがあるかもしれませんがあしからず…。画像はDVDからのスクショです。

◆冒頭部
日:「彼はいつも僕をびっくりさせる。初めて彼のスケートを見たときからずっと,驚きの連続だった。」
英:"Over the years, he's never ceased to surprise me. From the first time I saw him skate till now, it's been one surprise after another."
→「何年にも渡って,彼は僕を驚かせるのを決してやめない。彼がスケートしてるのを初めて見たときから今まで,驚きが次から次へとある。」
コメ:第1話のOPが流れる前の30秒くらいのパートですが,これを見ただけで私は「ユーリ!!! on ICE」に惹きつけられた。このアニメは面白いに違いない!と。
まさに現在完了が本領発揮できるセリフ…そうか,ceaseが使えるのか,stopだとちょっと軽い感じ?になるのかな…

◆第3話 勇利が「愛について~エロス」でパフォーマンスすることが決まり,ヴィクトルがアドバイス
日:「世界中のみんなはまだ勇利の本当のエロスを知らないんだ。それは勇利だって気がついていない魅力かもしれない。それを早く教えてくれないか。」
英:"Unleash the Eros within you. Maybe no one 's seen it before, but I know it's there, smoldering deep down inside you waiting for. It's chance to come out."
→「勇利の中にあるエロスを解き放て。多分これまで,誰も見たことがないかもしれない。でも俺はそこにあるって分かってる。心の深いところでくすぶりながら待っているんだ。今こそ出てくるとき…」
コメ:けっこう変わってるよね。英語のほうが直接的で,より躍動感がある…!それらの言葉からヴィクトルの色気が倍増している。unleashとかsmolderとか,チョイスがいい!

◆第5話 グランプリシリーズに向けて,記者会見での勇利のスピーチ
日:「今年のグランプリシリーズで僕がテーマにするのは,愛です。今までのスケート人生,いろんな人に助けられながらやってきましたが,愛について考えたことは一度もありませんでした。恵まれた環境にいながらそれを活かしきれず,一人で戦っているような気持ちでずっといました。けど,ヴィクトルコーチが現れて,僕の見ていた景色は一変しました。僕の愛,それはわかりやすい愛や恋ではなくて,ヴィクトルとの絆や家族や,地元に対する微妙な気持ち,ようやく自分の周りにある愛のようなものに気づくことができました。初めて自分からつなぎとめたいと思った人,それがヴィクトルです。その感情に名前はないけど,あえて愛と呼ぶことにしました。愛を知って強くなった僕を,グランプリファイナルの金メダルで証明します。」
英:"We struggled to find this theme for Grand Prix. It was hard and in the end I chose love. There've been so many people who helped my competitive skating career. It's somehow I've never thought if it is love until now. I was lucky to have people supporting me, but I had hard time for accepting that support. So I was always like I was fighting alone. But since Victor came in my life and became my coach, I started to seem differently. This love isn't something like clear-cut or romantic love. It's more than abstract feeling and composites of my relationships with Victor, my family, and my hometown. It took a long time but I finally realize I'm surrounded by love every day. For the first time that somebody I want to hold on to, the person is Victor. I don't really have name for that emotion but I've decided to call it love. It's changed me. I'm stronger now. You know prove it the Grand Prix Final with a Gold medal. "
→「グランプリシリーズのためのこのテーマを見つけるのに奮闘しました。大変で,最後に僕は愛を選びました。僕の競技スケートを助けてくれた人はたくさんいます。でもなぜか,それが愛かどうか考えたことは今まで一度もありませんでした。僕はサポートしてくれる人がいて幸運でしたが,サポートを受け入れるのが難しかった。だから僕はいつも一人で戦っているようでした。でも,ヴィクトルが僕の生活に入ってきて,僕のコーチになって,僕は違ったように見始めました。この愛は,なにか分かりやすく,ロマンチックなものではありません。もっと抽象的な感情でヴィクトルや家族,地元との関係が混じったものです。長い時間がかかりましたが,ついに,僕は毎日愛に囲まれていることに気づきました。つなじとめたい誰かがいるのは初めてで,その人はヴィクトルです。その感情への名前はないけれど,僕はそれを愛と呼ぶことにしました。それは僕を変えました。僕は強くなっています。それをグランプリファイナルで金メダルをとって証明します。」
コメ:愛は「ユーリ!!! on ICE」の核となるテーマ。それを勇利くんが語っているので長めに引用。英語的にはけっこう直訳に近い印象。

◆第7話 プレッシャーにつぶされて号泣する勇利からヴィクトルへ
日:「僕が勝つって僕より信じてよ。だまってていいから離れずにそばにいてよ。」
英:"Just have more faith I'm going to win than I do. I order not to say anything, just stay close to me."
→「ただ僕が勝つってことを僕よりも強い信念を持ってて。何も言わないでただ僕のそばにいて。」
コメ:このセリフにはホント共感しかない…。英語的には,faithは宗教的なイメージがあったのだけど,こんな使い方もするんだ,と発見。faithを使うとbelieveよりも,もっと強いもの・確信めいたニュアンスが入り込む感じがある。そして,例のはなそばは,訳そうと思えばいろいろ言えるように思う,例えばBe with me always/all the time., Don't leave/let me alone. Stay with me. などなど。withではなく,close toを使っているのが,ヴィクトルという個と勇利という個がそれぞれ存在して,それらが互いに近くにいる,という個を意識した感が出るかな,という印象。

◆第7話 泣いた後のFS
日:「もっと強くなりたい。もっと強くなれる。僕はヴィクトルの想像を超えられる。」
英:"I want to become stronger. I'll become stronger. I can surpass the Victor's wildest imagination."
→「僕はもっと強くなりたい。僕はもっと強くなる。僕はヴィクトルの荒々しい想像を超えられる。」
コメ:いろいろ吹っ切れて…勇利くん,ガンバー!!なシーン。比較と助動詞のイメージがはまるセリフ。英語ではwildestを加えている。それによって,ヴィクトルの想像してることってダイナミックで荒々しくて普通とは違うんだよ,感が入ってくる印象。

◆第7話 次モスクワで戦うことになっているユーリから勇利へ
日:「モスクワでボルシチにしてやるよ。この豚野郎が!」
英:"In Moscow, I'll make you into Borscht, little piggy bastard!"
→「モスクワで,お前をボルシチにしてやる,豚野郎!」
コメ:ユーリは口が悪いロシアンヤンキーの設定なので,暴言がけっこう飛び出してきて面白い。本当は予告編にもある1話のトイレのシーンとかも切り取りたかったのだけど,いかんせん同じロシアのヴィクトルよりも発音が聞き辛く,何を言っているか不明瞭な部分があるため,断念。このセリフはこのセリフで素直に対抗心むき出しのユーリが現れてて好き。

◆第10話 グランプリファイナル直前,ヴィクトルから勇利へ
日:「いいよ。何も考えなくていいおまじない。明日は,勇利がいちばん好きだって言えるスケートを見せてね。俺が知ってる金メダルの近道なんてそれくらいだ。俺は勇利の決めたことを絶対信じるよ。」
英:"OK. I'll tell you something that you won't have to think about tomorrow. Skating the way that's true to yourself. Show me a program that makes you proud. There's only way to a gold medal that I know and that's it."
→「いいよ。勇利が明日何も考えなくていいようなことを話すよ。自分に正直なスケートをして。自分が誇りに思えるプログラムを見せて。俺が知っている金メダルへの道はそれだけだ。それしかない。」
コメ:あ,おまじないはspellとか使わないのね!?どういうスケートをしてほしいかについては,英語のが詳しい。でも最後の文章では英語ではthat's it.の一言で完結している。シンプルで,ヴィクトルの決心というか腹をくくった感というか,そういうのをより出してるのかな?

◆第12話 グランプリファイナルでのFS
日:「終わりたくないよ,ヴィクトル。ずっと一緒にスケートを続けたい。でも,僕のコーチでいることは競技者としてのヴィクトルを少しずつ殺しているのも同然だ。僕の中にいるヴィクトルを見てて。ヴィクトルがコーチになってくれたことは無駄じゃない。それを証明できるのは,世界中で僕しかいない。」
英:"I don't want it to end here. I wanna skate with you forever. But the price of keeping him as my coach would be killing you slowly as a competitive skater. Look at the Victor who lives on inside me. Becoming my coach wasn't waste of time. I'd be only one who can prove it and that's what I'm doing now."
→「僕はここで終わりたくない。ヴィクトルと一緒にずっとスケートをしたい。でも彼を僕のコーチにし続ける代償は,競技者としてのヴィクトルをゆっくり殺していくだろう。僕の中で生きるヴィクトルを見て。僕のコーチになったことは時間の無駄じゃなかった。僕だけがそれを証明できるんだ。僕が今それを証明しているんだ。」
コメ:後半,助動詞would(婉曲用法かな)と現在進行形を使って意味を強めている。勇利くんの今まさに感じている気持ちが反映されている印象。I don't want to it to end. はあまり目にしたことのない表現。I don't want to endじゃないんだと。it を挟むことでスケートをヴィクトルとするというコンテンツがはっきり現れ,また to end という前置詞+名詞で終わりまでそれを持っていく,みたいなニュアンスが加わるのかなという印象。いずれにしても,単純にwant to endにするよりも凝っている,具体性が増している表現になっているように感じる。

そんなわけでセリフ紹介はひとまずこの辺で。随分たくさん書いてしまった…。やっぱり好きな作品については,その他の素材よりも熱量多いよね…。というわけで,まだ「ユーリ!!! on ICE」を観たことのない皆さんにはぜひ観てほしい…!
DUBは英語学習にも使えるので,今度別記事でやり方など書こうと思います。

追記:ちなみに北米版は,ブルーレイとDVD(どちらも全話収録)のセット販売。それに特典のミニイラスト集みたいなのと缶バッジがついて$63.74だった。配送料と手数料は$12.97。計$79.52で購入した(Right stuf Animeから直輸入)。配送料は安かった分,到着まで発売から1ヶ月弱かかったが(トラッキングによれば,アメリカからヨーロッパ経由でうちに届けられていた…),にしても日本のブルーレイに比べてずいぶん安くてびっくりだ。日本版は,そもそも全話収録で売っていない。2話分×6本で全話となり,1本分で既にだいたい北米版と同じくらいの値段…まあ,その分特典もたくさんついてたりするのだが。この差は一体何なのか。

日本語版は,Amazon プライム・ビデオ で見られます!
ぜひ!

2018/04/23

言葉のお話

「言葉」にはいつも困らされる。「この言葉の意味ってなんだ?」「この言葉ってこういうとき使えるんだっけ?」「どの言葉を使えば言いたいことを的確に伝えられるんだ?」「どの言葉を使ったら相手に理解してもらえるんだ?」「どういう文章にすればおさまりがいいんだ?」「こういうふうに言ったら/書いたら面白いと思ってもらえるかな?」…とまぁこんな具合に,挙げだすとキリがない。私はちょくちょく「言葉」に悩まされ,ときにイライラし,たまには喜びも得ている。

そのせいなのかもしれない。私が「言葉」に関心があるのは。以前のエントリで書いたこと「言葉」という便利で不都合な存在にも少々関連するが,コミュニケーションの場では,言葉自体の性質と,言葉に対する自分と相手の認識のズレによって,摩擦が生じやすい。だからこそ,使う言葉を丁寧に選び的確に使わなくてはならない。そうすれば,多少なりとも摩擦は減らせる。最近はそんなことを意識させられる毎日である。

そんな日々を送る矢先,ある講演を聞く機会に恵まれた。三省堂で国語辞典を作っている,飯間浩明氏による「ことばが変化するってどういうこと?~国語辞典をつくる視点から~」いう講演だ。非常に分かりやすい内容の講演だった。主な内容は,ことばの意味の変化とそれによって起こりがちなコミュニケーショントラブル。それに私たちはどう対処していくのがよいか,また,それに辞書はどういう解決策を提示するか,であった。飯間さん,本当に言葉を一つ一つ吟味しながら話していたように思う。ゆっくり考えながら,落ち着いたトーンで終始お話されていて,言葉を選んでいるというのがよく伝わってきた。

 飯間さんが挙げていたコミュニケーショントラブルの例で思わず食いついてしまったのが,「おもむろに」と「せいぜい」いう言葉にまつわるもの。どちらの言葉も,世代によって認識している意味が違うらしい。「おもむろに」は,年配者はその漢字「徐に」の通り「ゆっくり」と認識しており,若者は逆に「突然,急に」の意味で認識している。ちなみに私は例に漏れず後者の意味しか知らなかった。「せいぜい」については,年配者では主に「精一杯」と認識しており,若い人では「(どうせたいしたことはできないだろうけど)」というニュアンスを出したいときに使っている。こちらも私は後者の使い方しか知らなかった。そういうわけで,同じ言葉の意味を異なって認識している人同士が会話をすると意思疎通が図れなかったり,トラブルが生じたりするわけである。そういう状況に陥ると,人は相手の認識に対する批判に走りやすい。そこで飯間さんは,「新しい意味や使い方があるという可能性を考えましょう」というようなことを提案していた。また,そのような言葉の意味の変化に対して,辞典では,意味の正誤を書くのではなく,いつ頃から,またはどのような集団の中で使われる意味なのか,を明記するようにしている,ということを話されていた。

辞典づくりの話は,三浦しをんの「舟を編む」(http://yukiron.blogspot.jp/2018/02/blog-post.html)で少し学んでいたから,その大変さはなんとなく理解してたつもりでいたけど,今回飯間さんの話を聞いて,本当に本当に大変な作業だということがリアルに伝わってきた。いつ頃から,どのような集団の中で使われる意味なのか…それについての信憑性・妥当性のある答えを導くために,一体どんだけのことを調べなくてはならないか…。想像しただけで気が遠くなる。

ところで,なぜ言葉の意味は変わるのだろう。「おもむろに」はなぜ「突然,急に」の意味でも使われるようになったのか。「せいぜい」はなぜ,マイナスのニュアンスが伴うようになったのか。おざっぱに言ってしまえば,誰かが何かのきっかけで使い出して,それが別の人からも認知されるようになり,そう使うのかということでどんどん広まっていった,というのが定番のルートだと思われるが,その詳細なプロセスが気になる。講演後の質問の時間が短くて,飯間さんに聞くことはできなかった。でも,これこそ調べて答えが出てくるのか難しいところである。結局,言葉の意味の変化というのは,気づいたときにはもう変わっているのだ。つまり,紆余曲折を経たあと。しかも,言葉が変化する場は複雑な人間社会。複雑な人間社会での紆余曲折をどうやって辿るというのか…。これもまた気の遠くなる話である。

ところで今回の講演は,町田市民文学館ことばらんどで開催された。少し前,ここでは本の装丁展をやっていて,それも観てきたのだがとても興味深かった。明治〜戦前に出版された本‥夏目漱石とか、谷崎潤一郎とか、近代を代表する日本文学の面々の本に,竹久夢二とか、棟方志功とか、東郷青児とか、これまた日本美術を代表する面々による装丁が施されている。今の時代の装丁は、カバーのデザインが凝っていて本の表紙は質素,というのをよく見るが、当時カバーはなく、表紙に直接デザインされていた。

「本は、書かれた中身だけでなく、装丁も含んで1つの作品」といったことが,誰かの言葉として展示してあったけれど、本当にそんな感じであった。表紙からでもいろいろなことが伝わってくる。面白いなと思ったのは、齋藤昌三の「げて装本」シリーズ。白樺の樹皮や、新聞紙型、酒袋、竹の皮など、紙以外の素材で表紙を作っている。書物としては扱いにくそう‥でもコレクションには楽しいし、なんといってもアイディアがステキだ。

2018/03/08

谷川俊太郎展にて

谷川俊太郎展(http://www.operacity.jp/ag/exh205/)に行ってきた。谷川俊太郎の作品はもちろん,彼の生活スタイルや好きなモノ・コトも垣間見ることができる展示になっていて,だいぶ昔に教科書の中で知った「谷川俊太郎」を,肉をもつ,血の通った生きている人間として感じる,そんな時間だった。

この展示会は大きく2つに分けられる。1つは,入り口から入ってすぐの音と映像を用いたインスタレーションで谷川俊太郎の詩を紹介する展示。その空間を抜けたところにあるもう1つは,谷川俊太郎の作品と日常を様々なモノを使って紹介する展示だ。1つめのインスタレーションもけっこう衝撃的だったのだが,そこを抜けて次の展示会場に入った瞬間,これはすごい,やばい,こう来るのか…と度肝を抜かれた。展示会場内のキュレーションがものすごくステキだったのだ。
ステキなキュレーション
「自己紹介」
そう,彼の「自己紹介」という詩の一行一行にちなんだモノを展示しているのだ!展覧会のHPで読んだ詩がこんな形で展開されているとは…これだけでめちゃくちゃ興奮!!

詩を紡いでいます
「ばか」音で遊んでいるよう
展示品も心ゆさぶられるもの,グッとくるものがたくさんあった。例えば,そういうふうにして彼の詩は生まれるのだな…を見せる2つの展示。
1つは,谷川俊太郎が即興で詩を作っている様子が映し出されたワード。一文字一文字ゆっくりゆっくりタイピングされるていく。途中,タイプミスをけっこう犯し,一度入力した言葉を思い直して消去し,別の言葉を紡いでいく…。そのプロセスを観ていたら,妙に人間くさくて愛おしくなった。彼は何を思って言葉を変えたのかな。もう1つは,言葉の促音と韻で遊んでいる詩の制作過程の自筆メモ。アイウエオを縦横に一字ずつ書いた表を使って,使える言葉を探しているように見えた。そういうのの結晶が,インスタレーションで発表されていた詩や「ばか」につながっているんだろう。耳になじんで心地いい。

「朝のリレー」
バカボンのパパの詩
彼の作品もたくさん展示されていた。詩はもちろん,取扱説明書や国語の問題文,辞書の表記,英語からの翻訳作品,歌詞,子ども向け科学本の文章などなど。「春に」という詩を読んだとき,身震いした。「朝のリレー」という詩を読んだとき,心に何か滲みていくような気がした。バカボンのパパの詩を読んだとき,涙が出そうになった。
私は誰

「見る」というところに展示してあった作品は,何度も見返した作品の1つ。自分からみる自分と他者から見る自分が違うということを,これほど分かりやすく表現したものはこれまであっただろうかと思った。私は私。でも他者から見た私は,あくまでもその人の世界のどこかに布置される。その人の視点が反映される。「ジョハリの窓」よりも,もっと具体的に直感的に理解できるし,絵付きということもあって想像しやすい。

彼の作品を全部理解することは叶わなかった。日本語だから読めはする。でも,自分の中にストンと入ってこない谷川俊太郎の感性,思想,言葉があった。けれどそれでも,それぞれの作品に,訴えてくる何かはあって,何も感じないとかつまらないと感じるものは1つもなかった。

そういえば展覧会中,日本語の文字が放つニュアンスの多様さ,豊かさを感じていた。日本語ではひらがな,カタカナ,漢字を使う。ある言葉を詩の中で用いるとき,ひらがな,カタカナ,漢字のどの表記を使うか,これはけっこう重要じゃないか。例えば先に紹介した「ばか」の詩。この詩は全てひらがなで書かれているが,もし漢字が使える言葉を漢字にしたら,この詩のリズム感や遊び心みたいなものはひらがなのときに比べて伝わりにくいんじゃないだろうか。また,バカボンのパパの詩はカタカナと漢字のみで書かれている。もしカタカナの部分がひらがなに変わったら,バカボンのパパっぽくないよなぁ…。音で聴く分にはどんな表記でも気にならない。でも紙に文字として書くと,その文字のもつ雰囲気も読む人に伝わっていく。表記によって内容に色付けができるのだ。その分,表記の選定に気をつかうことにはなるが。緻密な計算,センスがいるだろう。

谷川俊太郎のひとこと

最後に…
先に紹介した「春に」は合唱曲の歌詞としても知られている。うろ覚えだった「春に」の合唱を家に帰ってから聴いてみた。うん,いい…(泣)また震えた。
それから,展示の軸になっていた詩の一行一行が書かれていた棚。裏側には谷川俊太郎の直筆ひとことが貼ってあった。その中で一番いいなと思ったのがこれ。

3/25まで新宿オペラシティで開催中です。ぜひ足を運んでみてくださーい!

2018/02/07

読書記 三浦しをん「舟を編む」

久しぶりに小説を読んだ。三浦しをんの「舟を編む」。暖かく優しい気持ちが漂う読後感。そして,だんだん自分が使っている言葉が気になり始める…そんなお話だった。

「舟を編む」は,ある出版社の辞書編集部の面々が,『大渡海』という1冊の辞書を作り上げていく過程を描いたお話だ。企画から完成までに15年。たくさんの人が執筆,校閲,製本,販売戦略に携わって『大渡海』が完成する。辞書がどのように作られるかなんて考えたこともなかった私には,辞書づくりのプロセスを知ること自体とても新鮮だった。そして,辞書づくりに真心を込める登場人物たち。彼らが本当に愛おしい。

登場人物たちの会話には穏やかな時間が流れていて,でもときに滑稽で,笑いを誘う。主人公は,言葉に敏感で辞書作りに抜群のセンスを発揮するも,人間関係は不器用で失笑を買うことも多い男性。言葉を聞いて,言葉を見て,その言葉の語義や似た意味の言葉とどうニュアンスが違うのかを思い巡らしては,自分の世界に入っていってしまうような人だ。彼が後に結婚する女性に宛てたラブレターは,実際もらったらとまどうだろう…,というくらいにおかしい。でもお話を読んでいると,彼が,不器用でも一生懸命なことや,誠実なことが伝わってくるから,私も彼が好きになった。そんな彼を,いつでもどこでも用例採集を欠かさない先生や,辞書編集部を退職した主人公の元上司,対外交渉には頼もしいちょっとチャラい同僚,挫折しそうになりながらも辞書づくりにはまっていく新人さん,ちょっと辛口だけど思いやりある女性などが支えながら辞書づくりは進んでいく。

チャラい同僚や新人さんが,主人公と関わり辞書づくりに関わっていく中で変化していく様もステキだった。何かに一生懸命なこと,何かをとても愛していることをどこかで憧れつつもごまかしていた同僚は,そんな自分に終止符を打っていく。花形のファッション編集部から辞書編集部に異動させられ,これまでとは全く異なる同僚,仕事内容,環境にとまどって新人さんは,辞書づくりを,言葉を大切にするようになっていく。

「舟を編む」の登場人物たちは,辞書を利用する人たちのことをとてもよく考えているのも印象的だった。掲載語の選定,語釈はもちろんのこと,辞書に使う紙の選定や装丁まで,『大渡海』を使う人がそれを読んだらどう感じるか,『大渡海』を使いやすくするにはどうしたらいいかなど利用者の身になって考え,改善していくことを決して疎かにしない。最近めっきり紙の辞書を使わず,電子辞書ばかりの私だが,辞書に使う紙の選定や装丁の場面を読んでいるときには,利用者への配慮や『大渡海』のアイデンティティのようなものを感じられ,小中学生の頃使っていた紙の辞書のことを思い出した。

また,「舟を編む」には聞いたことのない言葉(私が知らないだけかもしれないが…)やいくつかの言葉の辞書の語釈も出てくる。聞いたことのない言葉は,都度都度辞書を引きながら読み進め,語釈については,へーそういうふうに定義するのか,そういう意味もあったのか,と興味をひかれながら読んだ。

人に何かを伝えるとき,何かを考えるとき,言葉を正確に使うことはとても大切だ。言葉が違えば,どんなに意味が似たものであってもそこには差異がある。言葉のもつそのニュアンスを汲み取るには,辞書の助けを借りつつ,自分で咀嚼し,実際にその言葉を使いながら身体に染み込ませていくことなのかなと思う。簡単なようで難しい「言葉」。言葉を大切にしよう!と思い始めている。

少し前にアニメが放映されていたようなので,今度見てみよう!
http://www.funewoamu.com/

2017/12/26

年の瀬企画-第ニ夜- 2017年心にひっかかった本

こちらの4冊
さてさて2017年もあと1週間…年の瀬企画ー第ニ夜ーの開催です。
今回は,今年心にひっかかった本について。今年は多分50冊くらいは読んだのではなかろうか(漫画は除く)?その中でなんか心にひっかかった本を4冊ピックアップしてみた。写真左端を除く3冊は,本を読みながら自分はどうかと考えたときに生まれたひっかかり。左端は,純粋に書いてあることが理解できないことでのひっかかり。これらの本の内容とひっかかりは,このまま心に留めておいて来年も考えたり読み返したりしていきたい。

・ティナ・シーリング「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義」
 理由:無駄遣い禁止!解放!解放!
再読本。読んだのは今回で3回め。以前読んだときはほとんど気にも留めずにすーっと通り過ぎていってばかりだったが,年をとって,状況も変わって,今になって心にビンビンひびいてきた。
この本を読んで実践していくことに決めたのは「自分に許可を与える」ということ。これに尽きる。結局,いろんな制限を自分に課しているのは自分なのだとつくづく思った。この本には,どこにでもありそうな身近なものを使って新しい何かを生み出したり,ちょっと思いついたアイディアを試したり,常識的に考えるとするのをためらうことをすることで,自分の夢をつかんだり,より充実した人生を送ることになった人の事例がたくさん登場する。彼らのはじめの一歩は,本当に些細なことで,多くの人にとってやろうと思えば簡単にできることだ。ただ,「やってみたらいいんじゃない?」と自分に許可を与えてやればよい。
この本を読んでいたら,なんだか自分を無駄遣いしているなとつくづく思った。私にはできたかもしれないことがたくさんあっただろう。でもそうしなかった。そう考えるとなんかイライラしてきた。だからもうこれ以上の無駄遣いは禁止なのである。

・山田ズーニー「あなたの話はなぜ「通じない」のか」
 理由:相手に何かを伝えるのって,相手のことを知ることって難度高っ!
彼女の文章は本当に分かりやすくて,心地よいリズムがあって,丁寧で…。困っている読者に寄り添ってくれる,とても練られた文章,構成になっている。しかも,「考えることを通して自分の意見をはっきりさせる」,「自分の根っこにある気持ちに嘘はつかない」,「相手の話を正確に理解し,それを表明する」など,自分も相手も消さずに,「分かり合う」ことを目標として話が展開されていく。小手先のテクニックは全くなしだ。
この本は「問い」の重要性を推している。相手と「意見」はくい違っても「問い」は共有できる,と。また,相手の主張や意見を聞いたら,それがどんな問いに対する主張・意見なのかを考えてみるのがよい,と。問いを考えることは実際にやってみている。さすがに毎度毎度は出来ていないが,思い出した時や書かれた文章についてはやるように努めている。それで気づいたのは,「問い」のほうに視点を移すと,主張や意見に目を向けていたときよりも,その主張や意見を一歩引いたところから眺めることができるのだ。「問い」という大元の存在がクッションとなり,その主張や意見に対するとっさの反応は抑制される。最近は,その主張や意見の根拠となっているデータやワラントも考えるように意識を向けている。
それから著者のいう,「根本思想」のくだりも心に留め置きたいこと。「根本思想」とは,自分の言葉の根っこにあるその人の生き方や価値観のことである。
根本思想は,言葉の製造元。だから,短い発言でもごまかしようなく,にじみ出て,相手にわかってしまう。… 逆に言うと,根本思想はそれだけ強いものだからこそ,根本思想と言葉が一致したとき,非常に強く人の心を打つ。(p.15)
 根本思想と一致した言葉を,私はどれだけ発しているのだろう?調子に乗って都合のよいことを口走ったり,思慮浅で適当に,その場しのぎで発言していることがよくある…。これではいかんね…。人にとっての私の価値も私にとっての私の価値も貶めることになるだろう。

・エーリッヒ・フロム「愛するということ」
 理由:正直,愛するよりも愛されたい…
こちらも再読本。一番最初に読んだのは8年くらい前だった。8年前,やはり私はこの本の内容を十分に咀嚼できていなかった。
フロムは「愛すること」を技術だと考えている。技術だから,才能大アリでもない限り,学んで練習して身につけていくことが必要。それが愛するという行為である。
さてフロムが言うには,愛することができるのは,「性格が生産的な段階に達している人間」だ。少し引用しよう。
”生産的な性格の人にとっては,与えることはまったくちがった意味をもつ。与えることは,自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて,私は自分の力,富,権力を実感する。… 与えることはもらうよりも喜ばしい。それは,剥ぎ取られるからではなく,与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。”(p.44)
” 愛するためには,性格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は,依存心,ナルシシズム的な全能感,他人を利用しようとかなんでも貯め込もうという欲求をすでに克服し,自分のなかにある人間的な力を信じ,目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。これらの性質が欠けていると,自分自身を与えるのが怖く,したがって愛する勇気もない。(p.48)” 
「与えることが自分の生命力の表現」だなんて考えたこともなかった。与えることそれ自体を通して自分を見出す…。「与えることはもらうよりも喜ばしい」か…。どうだろう,「与える→相手が喜んでくれる→嬉しい」はある。だが「与える→相手が喜んでくれない→嬉しい」と私は思うのか…?…生産的な段階には全然達していないんだな私は…。だって正直,与えるよりももらうことのほうが嬉しいよ…そんなことを思いつつ読んでいた。

・ジャック・ラカン「テレヴィジオン」
 理由:私はラカンが分からない
今年の春から夏にかけて,ラカン関連の本を読み散らかしていた。ラカンは,20世紀後半に活躍したフランスの精神科医・精神分析家。私は昨年末辺りから無意識についての文献をいろいろ読んでいたのだが,ラカンに手をつけていなかったことをある人に指摘され,それじゃあ読んでみるか,となったのだ。
実はラカンの思想には2年くらい前にとった現代思想の講義で触れていた。そのとき感じたラカンの印象は,「何やら初めて聞く言葉がいっぱいありますが…?」だった。ラカンは自分の思想を表現するために新しい言葉や概念を作っていたから,講義ではその言葉の解説がメインだったのだけれど,解説を聞いても分かるような分からないようなという感じ。そのときの先生も先生で,「ラカンは難解ですから…」みたいな感じでいろいろ濁された…。その時,ラカン解説本も数冊目を通したのだけど,やっぱりよく分からなかった。
こんな感じでラカンにマイナスイメージがついていたものの,今回こそはラカンの思想を理解したい!と思って読み始めたのも事実。それで読んだ最初の1冊目がこれ。フランスの一般向けのテレビ放送でラカンが話したことをまとめた薄い本だから,論文集「エクリ」よりはとっつきやすいかなと思って読み始めてみたら…甘かった。というか甘すぎました。最後まで読み通したし,部分的にはいろいろ調べながら丁寧に読んでいたのだけれど,はっきり分かったことは,「ラカンが何を言っているのか私は分からない」ということくらい…。その後ラカン解説本を数冊読んだものの,せいぜい分かったような気になるのが関の山…。

以上,2017年心にひっかかった本を紹介した。ちなみに私は小説をほとんど読まない。物語系の場合,小説よりも大体漫画に手が行く。今年最後まで読んだのは,司馬遼太郎の「国盗り物語」だけではなかろうか。お万阿さまのいい女っぷりに惚れ惚れし,光秀さん余計なことを…という読後感だった。ハイ。

2017/09/29

一に書いて,二に書いて,三四も書いて,五も書いて

最近,”書くこと”を結構意識してやっている。なんでも書いていい用のノートは机に常に開いておき,出かけるときもなんでもノートと筆記具を持ち歩き,なんか思いついたら書く。もちろんスマホやPCも使う。ネットを開けばピンからキリまでいろんな情報飛び込んでくるし,自分の体験以外にも,これは誰かと共有したいなと思ったら,twitterやfacebookで書く。Blogは即時性よりもある程度まとまった内容でいきたいので,時間がとれるときに書く。そんな感じで書くことを続けるようにしている。

なんでこんなことをしているのかというと,書くことで思考が進むということを感じ始めたからである。そもそも書くことは私にとっては面倒くさい。これでも昔は記者をやっていた人間だが,書くのはやはり面倒なのである。というか,時間かかるし効率が悪いように感じる。でも,書くことで思考が進むため,書かないときよりも生産性は高い。最近,何かしらのテーマについてプレゼンする,ということを毎週やっているのだが,その過程でそう感じた。

いちいち書かなくても考えることはできる,と思っていたのだが,それは私の思い込みだったらしい。書いて考えるのと頭の中でだけで考えているのでは,思考の広がりが随分違う。書きながら考えてもまだ十分考えているとは言えないが,書かないで考えていたときよりもアイディアが浮かんだり,着想したことから展開していけたり,ストーリー性をもった説明を考えられるようになったりする。というより,書かないときのはただ考えているつもりに過ぎなかったのかもしれない。だから,書くという行為に向かいやすい環境を作り,自分に書くことを促している。なんせ書くことが面倒なので,とりあえず目につくところに書く道具を用意しておかないと,すぐ書かないというほうに流れてしまう。人間生きていれば常に何かしら思ったり感じたりしているが,その多くは瞬間的なもので,その瞬間が過ぎればその思ったことや感じたことはたいていどこかに行ってしまう。あとで振り返ることができたとしても,そのときに思ったことや感じたことの断片か,微妙に違う何かが出て来るにすぎない。だから書いて残しておこう!と,いかにそのとき思ったことや感じたことが貴重か?を考えてみても,やはり面倒なことはしたくないのである。なので,書くことに対するハードルを物理的に,心理的に下げるべく,鋭意努力中というわけである。

書くことと思考の関係はいろんなところでいろんな人が述べている。よく,書くことによって思考が整理されるという話を聞く。たしかにそれはそうかもしれない。書くとそこには書かれたものがあり,自分はそれを見て,その書いたものに反応する。そうそう,そういうことなんだとか,いやいやそうじゃないとか,ホントにそうなんだっけとか,いろんな反応が出るだろう。だから,そのプロセスが繰り返されれば,整理もされるだろう。個人的に思うのは,人間の特性とアイディアの特性をふまえると書くことは実は合理的ということだ。ほとんどの人間は,1つのことに長く集中できないし,ワーキングメモリには限界がある。しかもすぐ忘れる。それに加えて,アイディアの発現のタイミングはコントロールできない。であるなら,とりあえず書き留めて,それを見れる状態にしておくことが思考を進めるうえで役に立つといえる。

そんなわけで,面倒くささと日々戦い,習慣化までもっていきたい。

2017/06/30

「言葉」という便利で不都合な存在

先日このブログで「ユーリ!!! on ICE」が大好きだという話を書いた(http://yukiron.blogspot.jp/2017/05/on-ice.html)。あれから数ヶ月経った今もどはまりしている状態は続いていて,ユーリ関連の品々や情報,特にヴィクトルのもろもろは日に日に増えていくばかり。好きなものを愛でることがこんなにも楽しいとは…!それだけでこんなにハッピーな気分になれるとは…!アニメを見返したり,グッズを眺めたり,ユーリに関する情報を得たりする度に自分の中でいろいろな感情が喚起されるうえ,物語やキャラクターたち,はたまた自分の価値観や欲に対してまでも確認作業や発見,新しい視点の獲得が起こる。そしてそれによってまた感情が喚起される。その波みたいなものが心地よい。こういうの,今まで味わった記憶がないのですごく新鮮に感じている。

さて,そろそろ本題に話を戻そう。ユーリの話になるとつい長くなってしまうが,今日のテーマはユーリがメインではない(汗)。ではなぜこんな話をしているかというと,「ユーリ!!! on ICE」の監督である山本沙代さんが「「ユーリ!!! on ICE」公式ガイドブック『ユーリ!!! on Life』」という雑誌でこんなことを話していたからだ。以下引用。
”…いつも自分の作品では「家族」とか「恋人」のような名前がついている関係性に縛られない「絆」みたいなものをすごく大事にしていて,それを描こうと思っていたんですよね。”
この記事を読んだとき,自分と同じようなことを考えている人がいる!と思ってすごく共感した。しかも私がユーリを好きな最大の理由の1つはまさしくそれなので,こりゃ好きになって当然だなと思った。

人との関係を言葉で規定することの不都合さを感じることが私にはしばしばある。ある人が私にとってどういう存在なのかをとらえようとするとき,あるいは,その人との関係を別の誰かに伝えようとするとき,適切な言葉を見つけることが難しいのだ。たしかに社会には人と人との関係を表す言葉があふれている。「家族」,「親子」,「兄弟」,「友人」,「恋人」,「同僚」,「上司/部下」,「知り合い」,「先生」など,関係全体を表す言葉から社会的な属性を示す言葉を用いて関係を表現しようとするものまで,バリエーション豊かだ。私たちはこれらの言葉に十分なじみ,意味を理解している。だから関係をとらえるにはこれらの言葉を使えばよい。しかし私は,これらの端的で理解しやすい言葉を使うことでとりこぼされてしまうものが惜しくて仕方がない。だからいつも言葉に迷う。

言葉にすることでとりこぼされてしまうものとは何なのか。それは私の場合,相手との間にある距離感とか,相手やその関係に対するさまざまな感情とか,そういう極めてパーソナルなものである。例えば一口に「友人」といっても,どの友人とも同じ関係を築いているわけではなく,その友人ごとに歴史もあれば距離感もあるし,抱いている気持ちや期待していることも違う。「友人」という言葉でくくってしまうと,「友人」という言葉にまとわりついているイメージ・意味のせいで,パーソナルなものが全部捨象されてしまい,その人との関係が何か別のもののようになってしまう気がするのである。そして,その言葉を使って別の誰かにその人との関係を伝えようとするとき,伝えようとする相手に自分の本意を誤解されるのではないかと感じるのである。そもそも上に挙げたような関係性を表す言葉は,対社会の機能が強いように思う。だから,それらにパーソナルなことまで包含しようとすること自体,無理があるように思えないこともないのだが。

この現象はつまるところ,言葉とは何なのかということに関わっている。言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールは,言葉をシニフィアンとシニフィエという2側面から成るものだと考えた。シニフィアンとは,言葉の記の側面だ。具体的には音とか文字とか。知覚を通してとらえられる側面ともいえる。一方,シニフィエとは言葉の意味の側面である。例えば,ブログいう言葉を読めばブログの概念やイメージが,おにぎりという言葉を聞けばおにぎりの概念やイメージが頭の中に浮かんでくるだろう。そういうのがシニフィエである。まとめると,音や文字(シニフィアン)を使って意味(シニフィエ)を表す,それが「言葉」というものである。

以上の言葉の特性を元に整理してみると,私が感じている不都合さは,シニフィアンを介して伝わるシニフィエの限界というところに行き着くと思われる。具体的には,ある言葉を使って関係性(事象)をとらえよう→その言葉のシニフィアンによってその言葉のシニフィエが喚起される→このシニフィエによって関係性(事象)の捉え直しが起こる→本来の事象とずれている,となって違和感が生じるわけである。シニフィアンはシニフィエを喚起する。だから,シニフィエを喚起されたら,そのシニフィエを通して事象は解釈される。このとき喚起されたシニフィエは,フィルターのような役割を果たしているんじゃないかと思う。とはいえ,喚起されるシニフィエも結局はシニフィアンを用いている。そうすると,またそのシニフィアンがシニフィエを喚起して…となり,結局は無限に続ていく。ジャック・ラカンのいうところの「シニフィエに対するシニフィアンの優位」とはこういうことなのではないかと思っている。

こんな話を考えていた矢先,私がもうかれこれ10年以上大好きな漫画「きみはペット」を思い出した。主人公のスミレちゃん(アラサー)は,家の前に置かれていた段ボール箱に入っていた男性(20代前半)を拾う。そして行く当てのなかった彼をペットとして飼うことにし,彼を昔飼っていた犬の名前である「モモ」と名付ける。そこから2人のご主人様―ペット関係が始まる。ご主人様―ペットの関係というと,どんなシニフィエが喚起されるだろうか。スミレちゃんとモモは,そのくくりを外してみると普通の恋人同士のように見える。でもお互いの間では,私はご主人様,僕はペットという自覚があるため,互いを恋人とは認識していないし(スミレちゃんには彼氏がいる),その自覚が足かせのようになっていたりもする。特にモモは,スミレちゃんに対して恋心のようなものを抱き始めるのだが,ペットであるということがモモのスミレちゃんに対する気持ちや行動を縛る。スミレちゃんにしても,モモの存在がスミレちゃんの中でだんだん大きくなっていくのだが,モモはペットであるという認識がスミレちゃんの気持ちや行動を縛る。そのあたりの葛藤は,読んでいるこっちをイライラさせたり切なくさせたりする。でも,2人の間には互いが互いを必要としている絶対的なつながりみたいなものが生まれていて,もはや,ご主人様ーペットというのとも,恋人というのとも,家族というのとも何か違うように私には見える。

先に山本沙代さんの発言を引用したが,私が心打たれたのは「関係性に縛られない絆」という箇所である。「ユーリ!!! on ICE」も「きみはペット」も,作品の中でそのあたりを十分に描いてくれている。私はそれが大好きだし,それは私が求めているものでもあるのだろうと思った。関係性を示す「言葉」にとらわれることなく,その人との間に感じているさまざまな気持ち,距離感,つながり,そういったものを大切にしていきたい,そんなことを思う日々である。

2017/04/26

いろんな文字で名前を書いてみた

先日のドイツ語クラスでのこと。一緒に会話練習をしていた女の子に「ドイツ語の他に何か習いたい言語はある?」と質問したところ,「ロシア語!私キリル文字が好きなの。」と返ってきた。キリル文字,私も何度か目にしたことがある。何が書いてあるのかはさっぱりだが,文字の形はなんかおしゃれだ。改めてキリル文字をググってみたところ,文字の表を発見,さっそく自分の名前を書いてみた。私の名前はこんな感じになる→ ёкаwаюки。なんか新鮮!yo(ё)はドイツ語のウムラウトのついた文字(ä,ü,ö)っぽいと思いきや,ドイツ語にはない文字。ka(ка)とwa(wа)は,ラテン文字と似ているのでなんとなくわかる。yu(ю)はハングル文字に見えなくもないが,ハングル文字一覧には載っていなかったので韓国語にはない文字だ。ki(ки)はラテン文字のNかと思いきや,斜線が逆向きになっている。全体で見てみると,yoとyuは一文字で表せるのに,kaとwaとkiは子音と母音の組合せになっている。

キリル文字での名前表記があまりにも新鮮で面白かったので,他の文字で私の名前はどう表せるのかが気になった。そこで,インターネットで見つけたいろんな文字の表や,かな⇔文字変換プログラムをたよりに,いくつかの文字で自分の名前を書いてみた。日本語発音と一致する音がないものは,その文字における近しい音で記載している。
いろんな文字で書いた名前
ここに挙げたのは,ネットで文字の表やかな⇔文字変換プログラムが見つかったもののうちの一部である。ノート1ページ分調べて書いたところで,いろんな文字の表記ルール解読に疲れてしまった(汗)。とはいえ,実にいろいろな文字が世界にはあることが分かる。世界には一体どれだけの文字があるんだろうか。

文字の表記ルールは,本当にいろいろであった。子音だけ,母音だけの文字があり,ひらがなのように子音と母音の組み合わせの文字もあり,それらの組み合わせをどう表記するかも文字によって違ったりする。長音と短音で文字を分けるものがあり,oとuを区別しない文字もあり,文字の向きを回転させることで異なる母音を表せるものもあり,ととても興味深い。音だけでなく,形も実にユニークである。ほとんどの文字で書くのが初めてだったため,どう書いたらいいか分からない…となっていた。特に,フォントによって微妙に文字の細部が異なるものは完全にお手上げであった。とりあえず見たまま写してみたが,文字というより絵を描いている感覚であった。カーブの具合とか,〇がどこにつくのかとか,文字のどこを太くするのかとか,てんてこまいであった。そうそう,下のほうに古代文字のヒエログラフ(エジプトの象形文字)とウガリット(楔形文字)を書いているが,これは完全に絵と言っても問題ないだろう。とはいえ,しっかりルールはあると思われる。私の名前で書いた文字から推測するに,ヒエログラフではyはナイフ2本が並んでいるようなものであらわし,kはカップのようなもので表すのだろう。ちなみに,kaのところにいる鳥はwaとyuのところにいる鳥とは異なっている(waとyuのところにいる鳥は同じに見えた)。ウガリットでは,yは逆三角形が縦に三つならんだ下に縦棒が突き出ているもの×2で表せると思われる。oとuの区別はないようであった。

いろいろな文字を書いてみたが,個人的には,ティフナグ(モロッコで使われているとのこと),ヴァイ(リベリアで使われているとのこと),クメール(カンボジアで使われている),チェロキー(アメリカ先住民チェロキー族の言葉とのこと)の文字の形が好きだ。ティフナグやクメールはなんか可愛く感じるし,ヴァイやチェロキーはなんかかっこいい。日本語のひらがな・カタカナの形に,外国人はどんな印象を受けるのかな。

文字の世界,とてもとても奥深い。


参考にした主なサイト
世界の文字で遊ぼう(http://www.geocities.jp/p451640/moji/
地球ことば村(http://www.chikyukotobamura.org/home.html

2017/01/29

単語練習が嫌なのは分かるんだけど…

塾で英語を教えている生徒のあるあるの1つは,英単語の練習ろくにしないことである。毎回のように単語練習をしようと言い,テストもやり,単語は一回覚えてもすぐ忘れちゃうから何度もやらないと定着しないよと言い続けても,なかなかこつこつ練習してくれない。塾で英語を教えてお金をもらっている以上英単語をやらせないとと思うのだが,なかなか生徒の心を動かすことができない。

単語練習をやりたくないという気持ちはよく分かる。今私はドイツ語を学んでいるが,私だって単語練習はしたくない。単語練習なんて退屈だし,面倒だ。生徒になぜ単語練習をしないのか聞くと,時間がなくてと答えるが,他のことをする時間はあるのだから,要は,単語練習には他のことよりも魅力がなかったというだけのことであろう。その点は共感する。

とはいえ,言わずもがなではあるが,単語を多く知っていることは語学においてメリット大なのだ。というよりも,単語を知らないことは語学学習の足かせでしかない。単語が分かっていれば,たとえ文法がごじゃっていたとしても文意を汲むことはなんとなくできるのだ。そうすれば問題も解ける。

そんなわけでここ数ヶ月,自分がこれまでやってきた単語練習法を参考に,取り組みやすい単語練習方法を生徒に提案してみている。私はこれまでいろいろな方法で単語を練習してきたが,単語を発音しながら数回書き,それを毎日一定期間続けるというのがいちばん効いているように思う。この作業は1日に長時間やる必要はなく,10分,15分とかでかまわない。でも毎日やることが大切である。そうすると,否が応でも自然に大体覚えていくものである。もし書く余裕がなかったら,やはり1日10分,15分でもいいから,どうしても無理なら数分でもいいから,単語帳をパラパラと眺めることをするのでもよい。でもやはり重要なことは,同じページを一定期間毎日眺めることである。

提案をした生徒たちに後日,単語練習の状況を聞いてみた。やはりそうよねというべきか,大方の生徒はアドバイス通りに実行してくれていない。さらに話を聞いてみると,結局のところ,毎日やるということ,つまり繰り返し練習するということができていない。1日数分でも難しいか…。繰り返し練習をすることに魅力を感じてもらうためにはどうすればいいのかを考えねばならないのかもしれない。

2017/01/24

目的に応じた読み方を

私は基本的に本を読むのが遅い。漫画や小説ですら遅い。なんで遅いのかと考えてみると,つまるところ,一文一文読みながら考えているからだということになった。

まず,学術書に類するものでは,読みながら?が頻繁に頭に浮かんでくる。話が見えなくなったらその文を再度読み,場合によってはその前の数文を読み返す。分からない言葉が出てきたら,できるだけ辞書をひいて,意味を把握する。そんな調子なので,読むとすぐ疲れるし眠くなってしまう。さらには,ささっと読めないので読むモチベーションも下がる。で,結果的に一冊終えるのにだいぶ時間を使ってしまう。漫画の場合は少し状況が変わる。漫画の場合,内容が理解できないということはほとんどない。だが,読んでいると,漫画の中のキャラクターに感情移入したり,漫画の世界に浸ってしまう。結果的に,丁寧に読むことになり,結局読み終えるまでに時間がかかる。小説の場合は,学術書と漫画を足したような感じだろうか。漫画に近い状況が大方だが,たまに難しい言葉が出てきたりするので。

時間をかけて本を読むこと自体はいいと思うのだが,そうしているといかんせん時間が足りない。百歩譲って漫画や小説は娯楽のためなのでよしとしよう。ただ学術書については,研究のために読んでいるので,そんな調子では研究がなかなか進まない。そこで最近,本を思い切って速く読むようにしている。すべての文章を読むのは変わりないのだが,意味が分からない文章があってもとりあえず先に進む。分からない文章がどうしても気になる場合や,それが肝となるような主張だと思われる場合は,とりあえずもう一度読むが,深追いはしない。さらに,本を速く読むために,目を積極的に動かすようにする。速読の人が本を読むときの目の動きを見たことがあるが,彼らは目をほとんど動かさずに,全体を俯瞰するようにしてものすごい速さで読んでいる。だが,訓練していない私にはそれは無理。だから,行の始めから終わりまで目で追うスピードを意識的に上げた。目が動いたら見えるものも変わるので,必然的にそのスピードで読まないといけなくなる。目を動かすことが眠気防止にもなって,一石二鳥かもしれない。

そんな感じで数冊読み終えた。そうする前は,速く読んだら本の中身全然入ってこないんじゃないかなと不安に思っていたが,速く読んでも遅く読んでも大して変わらないと思われる。残ることは残るし,残らないことは残らない。また,遅く読んだからといって忘れにくいかというと,そういうわけでもない。速く読むのも普通のリーディングに決して劣っていなかった。情報をインプットするという目的なら十分だ。読んでいれば,どの本にどんなことが書いてあったか(概要)やキータームは頭に残る。論文を書くときにはそれを元にして再度本にあたればよい。

これからまた速い読書の再開である。

2017/01/22

気晴らしに書く

最近ブログを書きながら,ブログを書くって気晴らしにもなるんだなーと感じている。いつもそう感じているわけではなくて,気楽な日記調の記事を書くときとか,大学や研究関連でレポートを書いたり本を長時間読んだりしたあとに記事を書くときとかにそう思う。

たしかに当初に比べると,書くということに関しての心理的負担はだいぶ軽くなった。ネタの選定にしろ,書く内容にしろ,表現の仕方にしろ,以前よりもずっと自由になっている感がある。今でも何を書こうかなーと思うことは思うが,なんでも記事になるよなと感じるし,内容もこれ言ったらまずいかなとか,間違ったこと書いているかもとか,自分の書く内容に対するネガティブな意見にそれほど縛られなくなった。表現に至っては,当初からわかりやすい表現,読みやすい表現を書くことに徹しているが,いちいち気を回さずとも自然に出てくるようになったし,記事全体の構成においてもそれほど悩むことはなくなった。たかだか1ヶ月ちょっとであるが,「継続は力なり」である。

気楽にブログを書けるようになってきたことは,ブログを書くことのストレス量と,難しい本を読むとか,課題のレポートを書くとかのストレス量の逆転を引き起こしている。ブログを書くことに全くストレスを感じていないわけではないが,相対的に低くなっているので,大学関連ですべきことがたくさんあって時間が惜しいと感じる今も,こうしてブログを書いている。本やレポートで疲れたときの息抜きのような位置づけである。

息抜きにブログを書くのは,他に思いつく息抜き手段に比べて,なかなかいいことかもしれない。息抜き(になりそうなこと)の例をいくつか挙げるが,テレビを観る→ダラダラ見続ける可能性あり,漫画を読む→積ん読になっている漫画を読み始める気力はないし,かといって何度も読んでいる漫画は,その漫画の世界観にひたりたいときでないとなかなか楽しめない,小説を読む→漫画の場合とほぼ同じ,寝る→寝入ってしまうリスクあり,家事→好きじゃないから気晴らしにならない,オンライン英会話する→時間が指定されるので息抜きにしては制限があってちょっと・・・,食べる→お腹の空き具合による,飲む→飲みながらやれるので息抜きとはちょっと違うような・・・,イケメン戦国→息抜きになるほどの時間を無料でやれるものがない,といったところだろうか。これらに比べてブログを書くことのメリットは,1つ記事を書いたら終わりになるので,息抜きタイムのオシリが決まっている。しかも,時間はかかっても1時間程度。そしてなんといってもいいのは,(一応)考えて文章を書いているので,本を読んだり,レポートを書くことに似ていることをやっているということだ。似ていることをやっていると,全く別のことをしているよりも,息抜き前にやっていたことにスムーズに戻ることができる。さらに,いちばんこれがいちばん大きいかもしれないが,自分の思いのたけを気楽に書けるので,書いた後スッキリする。

こんなことを以前の私が聞いたらびっくりするだろう。やってみないとわからないもんである。

2017/01/17

文法エラーの感覚

英作文の講義で先生に英文の添削をしてもらっていたとき,ふと思ったことがあった。英語のネイティブスピーカーが文法的に間違っている英語の文を見たときに感じる感覚と,日本語のネイティブスピーカーが文法的に間違っている日本語の文を見たときに感じる感覚は一緒なのだろうか。

日本語のネイティブスピーカーである私は,これまでに何度も日本語を学習中の友人たち(日本語のネイティブスピーカーではない)が書いた日本語の文を添削した経験がある。文法的な間違いで最も多いのは,助詞の使い間違いである。続いてよくあるのが活用の仕方の間違い,文脈に合わない単語の使用だろうか。そういった文を見ると,理屈抜きに瞬時に違和感を感じる。何を言いたいか分からない,意味が汲み取れない文章ではない場合でもはっきりおかしいと感じる。そしてどこがおかしいかもすぐ特定することができ,正しい表現に直すことも簡単だ。ただ,なぜそれが違うのかを説明しろと言われると,場合によってはしばし考えないといけなくなる。日本語を専門的に学習したことはないゆえうまい理屈が見つからず,結局日本語のネイティブスピーカーはこういうときにはこう言う,程度のことしか伝えることができていない。

一方で,英語の場合はどうか。英語は私にとっては第二言語であり,日本語のように自然に身につけたものではない。中学と高校でガッツリ文法を叩き込み,それを元に英文を読んだり書いたり,聞いたり話したりしている。英文を書いたり話したりするとき,私はよく文法ミスをする。話をしているときには,たまに今間違えたと自覚することもあるが,たいていはミスに気づかない。また,書いたものについても,よくよく見直しをしない限り自分では気づかないことが多い。つまり,母国語でなくなった途端,ミスをしても違和感を感じにくくなるわけだ。そして指摘されたあと,自分の頭の中にある文法知識と書いた文を照合させ,やっとミスに気づくこととなる。

母国語と,成長してから習得した言語の間には超えられない壁のようなものがあると私は思っている。しかし,それは私のレベルが高くないからそう思うのだろうか。もっと学習したら母国語のように外国語を扱えるようになるんだろうか。

イギリス人の先生は,私の書いた英文をささっと読んでミスを指摘してくれた。文法ミスのある英文を見たとき,彼はどんな感覚を感じているのだろう。私が文法ミスしている日本語文を見たときに感じるように,直感的に瞬時に変だと感じるのだろうか。そのような違和感は,言語によらず母国語において感じる普遍的なものなんだろうか。

2016/12/28

国語ってどうすりゃいいの

私が働く塾では今,冬期講習開講中だ。入試が迫るこの時期,多くの受験生は1日に複数の教科を受講する。その一方,大学が長期休暇に入るため,帰省したり出かけたりで稼働可能な講師の数が減る。そんなわけで冬期講習の期間中,通常授業でみている英語に加え,国語(現代文)をみることになった。それで,国語ってどうやって教えるのがいいんだ!?となっている。

英語は,文法知識と単語の暗記量が点数を上げるための必須条件である。程度の如何の問題はあるものの,それらさえあれば受験英語は対処できる。問題を解くときに,持っている知識を出したりひっこめたり,組み合わせたりして使いまわせばいいからだ。だからとにかく,文法の問題演習と単語の練習を徹底的にやらせる。長文問題でも,文法力と単語力で長文と設問の選択肢の意味が分かれば恐れることは何もない。長文問題の多くは,本文中に明記されていることしか問われない。言い換えれば,その答えが正解となる根拠が明らかなのである。

では国語はどうだろうか。英語のように文法と語彙はもちろん必要である。さらに漢字も覚えておかなければならない。文法は日本語話者であれば日常的に使っているし,語彙だって文章に出てくるものの多くは分かるだろう。漢字だって普通に生きていればそれなりに書ける。だが,問題はそう易々と解けない。それは,その答えが正解となる根拠が,本文中に明記されているといえないからではないだろうか。

英語と国語の読解問題の違いは,求められている文章の内容理解の深度に由来するのではないかと思っている。英語の長文問題は,表層的な理解でもけっこう解ける。これは文章に書いてあった/書いていないのレベルで大丈夫なものが多い。しかし国語の問題となると,表層的な理解だけで解くとひっかけ選択肢に見事にひっかっかったりする。そこに書いてあることから,こういうことが言えるし,これはこう解釈できる,だからこれが正解だ,ともっていかないと正しい答えにたどり着けないことが多い。

そういうわけで,国語をどう教えたらいいか困っている。何回か国語の授業をやって,つくづく国語は英語と同じように教えられないと思った。国語では,英語のように細かく文を分解したところで解決しない。分解するよりもむしろ,文同士や段落同士がどういう関係を持っているかを汲みつつ読まないと,深いレベルの内容理解には達することができない。さらには,その文章(論説文)は筆者の主張と,それを主張するための材料から成っている,と考えて読み進めることが肝要である。そういうふうな文章の読み方をできるようにさせるにはどうしたいいものか。試行錯誤が続きそうだ。

2016/12/22

英語指導での気づき

働いている塾でここ半年くらい,来年1月にセンター試験を受験する高3生(1人)の英語を担当していた。今日はその子の英語を担当する最後の機会だった。その子の英語を担当しているもう1人の先生が,センター試験までの残り20日余り専任で担当することになっているからである。適材適所の采配だと納得しているが,自分の力不足が悔しくもあり,思い入れがある生徒だけに寂しさも感じている。ここに来て点をとれるようになってきているので,あと二十日余り,がんばってほしい。

センター試験の英語対策を塾で教えるのは,今年初めての経験だ。私自身,センター試験を受けている。確か,8割くらい点をとっていた。しかしそれは2005年のこと。10年以上も前だ。当時私は過去問を解いてセンター試験対策を行っていたが,詳しいことはほとんど覚えていない。だが,英語の勉強自体については,一般的な人よりも年季も執念も入っている。私の場合,20代になってからの方が高校時代よりも英語の勉強に費やしているので,覚えていることも多い。だからそれをベースに,春くらいから英語の基礎力づくりをサポートしてきた。とはいえ,思うように成績は上がってくれず,少し不安だった。

11月くらいからは,センター試験の練習問題や過去問を利用した対策にシフトしていった。それで,センター試験の何年か分の過去問と,センター試験対策問題集に出ている問題を一緒に解きつつ解説したりしていった。その中で,私が実際に受けた年度の問題にもあたったが,ここ数年のセンター試験の問題形式とは違うところがけっこうあった。ちょうどその頃,もう1人その生徒の英語を担当する先生が決まって,その先生と授業内容などのすり合わせでよく話をするようになっていった。

その先生が来てくれたことに,私は正直ほっとしていた。それは,センター英語対策をどう進めていくのがよいのか,よく分からなかったからだ。英語力が十分あれば,センター試験だろうと別の試験だろうと点数はとれる。しかし,英語力が不十分な状態で少しでも高い点をとらせるにはどうしたらいいか。今のままの勉強の仕方で大丈夫なんだろうかと思った。そんなとき,その先生が,センター試験では○○しか聞かれないとか,文章のどこを読めば答えを見つけられる,などのセンター試験虎の巻的な知識をたくさん持っていることが分かったのだ。それでその先生はその生徒にそれらを伝授してくれるという。それを聞いて,あぁ,私にはこれが足りなかったのかと思った。要は,問題の分析をろくにしていなかったのだ。生徒の英語力について,より伸ばすべきところや克服すべきところを分かっているだけでは,試験で勝てない。孫子もそんなことを言っていたのを今更思い出している。痛い経験だが,経験してよかった。その生徒の英語からは外れるが,高校入試の生徒や,受験生以外の生徒も担当しているので,この経験を生かしたい。

今度のセンター試験の英語は,自分でも通しで解いてみようと思う。

2016/12/21

言語化の効能

今日は言語化することのメリットについて書こうと思っている。というのも,自分がなんとなく感じていることや思っていることを紙に書きだして可視化すると,考えている内容がより明確になり先に進むという経験を私自身何度かしており,言語化することで生産的になれるなと感じていたからだ。それで,言語化することのメリットについて,好きなことを発表していいことになっている認知心理学演習の時間に,それらを扱った論文をいくつか発表することにした。今日の午前中発表してきたところである。

今日の発表で取り上げた論文の多くは,言語化することで自己成長や意識改革へと導くことができるというていで話が進んでいる。論文の中で取り上げられていたケーススタディで面白かったのは,コーディネートの上達のために言語化を利用したケースだ(庄司・諏訪,2008)。実験参加者(大学生の女性)は,自身のコーディネートをよくするため,8ヵ月間言語化を行った。言語化は,ファッション雑誌を読んでそこに載っているモデルの写真の中から気に入ったコーディネートを切り抜き,感じたことをメモすること,買い物の際に目にした洋服やアクセサリに関して感じたことをメモすること,ファッションに興味のある友達と座談会を開いて,それぞれのメンバーにどんなコーディネートが似合うか意見交換をしたり,そこで感じたことや考えたことをメモすること,で行った。記述内容は,言語化を進めてく中で変化していった。最初の頃は,自分と洋服を概念的に合わせることについての内容が目立ったが,3ヵ月後くらいからは,自分の身体部位の特徴や,洋服の見た目を関連付けた知識が頻繁に登場するようになる。さらに,5ヵ月後くらいからは,相手からの視線と自分の身体部位や洋服を関連付けた知識がたびたび出てくるようになり,6ヵ月後くらいからは,これまでの記述で出てきた知識が統合されたような知識が書かれるようになっていたようである。論文では,言語化によって生じる変化ついて,自分の中にだけあった表象が外に出されることで,他の表象との関係の発見が促されるようになることや,言語化することで今まで見いだせなかったものに気づくようになること,自分と周り(環境)との関係が再構築されることや,知識が単なる知識にとどまらず,自分とリンクして咀嚼されていくことなどを挙げていた。これらによって,人の意識改革が促される,というわけだ。

冒頭でも述べている通り私は,言語化することで考えが進み,より生産的になれることを感じている人間なので,この主張はけっこう納得ができる。ぼんやりとしたものをいくら思っても,何かに答えを出すことはできない。言語化するとは,ある意味,一つ一つの思いを決着していくことだと思う。だから次に進めるのだろう。

しめくくりにこの言葉を。

”ホモ・サピエンスたるもの,誇りを持って自分の言語を駆使しましょう”

この言葉は,私が今年最もよく読んだであろうブログ&twitterの住人,ぱぷりこさんが著書「妖怪男ウォッチ」で言っていたものである。私はこの言葉を気に入っている。


引用文献
庄司裕子・諏訪正樹(2008) 個人生活における価値創造の方法論:メタ認知実践のケーススタディ (https://goo.gl/WShJE3

2016/12/20

パラフレーズは勉強の友

今日は,英作文の時間にパラフレーズの練習をした。あるテーマについて書かれた短い文章を読み,そこに書いてあることをパラフレーズしながら要旨を作る。そのあと,同じテーマについての講義(内容は文章とは別)を聞いて,それもパラフレーズしながら要旨を作る。そして最後に,2つの要旨を再構成して1つの文章を作る。TOEFLのintegrated writingでも同様の問題が出題される。

パラフレーズをすることは,英語/日本語関わらず,何かを勉強するときにとても役に立つ。パラフレーズのプロセスは大きく2つに分けることができる。文献に書かれていることや相手の言ったことを理解するフェーズと,それを別の言葉で表現するフェーズだ。両方ともうまくできないと,話が別のほうにいってしまう。だから,パラフレーズをしてみることで,自分がどれくらいそれを理解しているのかを確認することができるし,自分の表現の幅を広げることができるのだ。

勉強するとき,インプットだけでなくアウトプットが大切だということをよく聞く。子供のころはアウトプットといえば問題集を解くことばかりしていたが,資格試験や語学でもない限り,大人になっての勉強は問題集があるわけではない。そこで,読んだことや聞いたことを書き出す,というアウトプットをすることになるのだが,やってみるとインプットだけのときよりも断然理解が進むことを実感する。アウトプットすることで,インプットのときに感じた「あ~なるほど,分かった」が,「分かったつもり」だったことに気づき,もうそれを一度読んだり,別の素材にあたって調べたりするからだ。また,個人的な感覚では,同じアウトプットでも,文献に書いてあることや先生が言ったことをそのままメモするのはあまり効果がないように思う。あくまでも,自分の言葉で書くこと,つまりパラフレーズするのがよいのである。多分,同じことをそのままメモするというのは,行為としてはアウトプットだが,頭の中ではインプットでの処理と大差ないのだろう。パラフレーズするとなると,内容を解釈して,それを表現するための適切な言葉を見つけるという作業が組み込まれるので,理解が促されることになるのである。

とはいえこのパラフレーズ,やってみるとけっこう疲れるもので,必要ないならやりたくない,というのが正直なところだ。しかし私は,仕事でもプライベートでもしばしば,「中学生にも分かるように話しなさい」と言われる。つまり「優れたパラフレーズをせよ」ということだ。日々精進である。