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2015/01/11

近代ヨーロッパを探る⑤ 続く戦争

ヨーロッパは第一次世界大戦で疲弊した。総動員令が出され、男性の多くは出征し、植民地からも兵力を補い、女性も軍需工業で働いた。長期化してたくさんの人が死に、物資がなくなった。第一次世界大戦後には、講和会議が開かれて国際連盟が誕生した。アメリカのウィルソン大統領は、アメリカが民主主義を広めるために参戦したと繰り返し説いており、実際ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国が崩壊したことから、民主主義や自由主義が勝利したかのように見えた。しかし事態はそう単純ではなかった。講和会議では、民族自決の原則が唱えられたが、帝国の植民地や領土だったところは戦勝国に委任統治という形で分配され、独立できなかった。独立国家もいくつか誕生したが、民族が混在している地域においてはかえって国家の形成が難しく、紛争が繰り返されることとなった。敗戦したドイツは多額の賠償金を負うことになり経済は破綻、貧困や失業に苦しむ人びとが増え、国民の不満は増幅した。一方ロシア革命で政権の中心となっていたロシア共産党は、資本主義国からの攻撃を恐れ、他国の民衆の不安を煽って革命を宣伝し、資本主義国との関係を悪化させていた。ロシア共産党の活躍でヨーロッパでは各国に共産党が誕生した。しかし多くの国で、社会主義を掲げる政党は革命推進派と、ほかの政党や運動と共存していこうとする穏健派に分裂していた。さらに、強大化するロシアへの反発や、宗教的な立場から反共産主義を掲げる思想が誕生する。イタリアやドイツ、スペインでは、ファシズムが台頭した。イタリアもドイツも第一次世界大戦で経済的に大きな損害を被り、国民の不満、失望、不安が高まっていた地域である。そこでは、自由主義や共産主義に反発し、全体主義や軍国主義によって社会と国家を再構築しようとした勢力が国民のナショナリズムを刺激し、圧倒的な支持を得るようになっていた。

また、第一次世界大戦後のヨーロッパの景気は、アメリカに支えられていた。アメリカは第一次世界大戦で軍需産業が伸び、経済の繁栄を極め、ヨーロッパに投資していた。しかし1928年、短期資金の調達が困難になるとアメリカは資本を回収し始め、翌年株価は暴落し、世界恐慌になった。イギリスやフランスは、自国および植民地で経済圏を作り、圏内の経済を保護するために圏外からの輸入品に高い関税をかけるなどした。自由主義経済が崩壊していく中、共産主義やファシズムは勢力を拡大していった。

第二次世界大戦は、国民からの支持を集めて政権についた、ファシズムのナチ党によるドイツが、ヨーロッパでの領土拡大を進めていく中で勃発する。1939年ドイツがポーランドに侵攻すると、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦は始まった。ドイツは戦いに次々と勝利し、東ヨーロッパへと領土を拡大しつつあったソ連も攻撃する。イタリアと日本はドイツと同盟を結んで参戦した。イギリスやフランスの連合国に武器を供給していたアメリカが日本との商取引を全面禁止すると、日本はアメリカを攻撃し、太平洋戦争も勃発、世界規模の戦争に発展した。戦争が続くにつれて同盟国側は物資の調達が困難になり、情報収集レベルも連合国より劣っていたため、劣勢となった。1945年、連合国側にソ連が加わったことでドイツは降伏し、その後日本も降伏、第二次世界大戦と太平洋戦争は終結した。

第二次世界大戦により、ヨーロッパは第一次世界大戦後よりも疲弊した。死者は5000万人のぼり、多くの都市が荒廃し、経済、交通、通信、食料の確保など社会のさまざまな側面が大きな打撃を受けた。戦争で衰退したヨーロッパ諸国に代わり、戦後力を拡大し世界を巻き込む強大国となったのは、アメリカとソ連である。第二次世界大戦後、国際連合が設立され、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国に特権が与えられたが、イギリスもフランスも戦争の痛手を引きずっており、中国は近代以降大国としての地位がまだ確立されていなかったため、アメリカとソ連が圧倒的に優位に立っていた。自由主義、資本主義をいくアメリカと、共産主義をいき、東ヨーロッパへと勢力を拡大していくソ連は隔たりが大きく、ヨーロッパはアメリカ側とソ連側に二分され、冷戦体制が確立した。この2種類の経済・社会システムから成る冷戦体制はヨーロッパだけでなく、アジアにも広がる。


参考文献
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006 J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈8〉帝国の時代」創元社 2003
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈9〉第二次世界大戦と戦後の世界」創元社 2003
世界史講義録 第14回 総力戦となった第一次大戦 (http://www.geocities.jp/timeway/kougi-114.html

2015/01/03

読書記 ヘミングウェイ 「異国にて」(In Another Country)

「異国にて」は、第一次世界大戦のさなか、戦争で負傷したアメリカ人の、イタリア・ミラノでの療養生活中に起きたある出来事を綴った話である。1927年に出版された短編集「男だけの世界」(Men Without Women)に収録されている。ヘミングウェイは第一次世界大戦時、自ら志願して、傷病兵運搬車の運転手としてヨーロッパの戦地に行った。そして前線で砲弾を浴びて足を負傷し、ミラノの病院で治療を受けている。この物語にはヘミングウェイの戦地での体験が反映されている。

物語は、主人公が治療を受けているミラノの街と病院の描写から始まる。そして病院で主人公は、戦争前に剣士として活躍していたイタリア人少佐と最新の機械を使った治療を受けていること、少佐は機械治療の効果を信じていないこと、病院には他にもイタリア人の負傷者が集まっており、訓練が終わって前線に配置されてすぐに鼻を失った者や先鋭部隊で華々しい活躍をした者がいることが描かれる。物語に登場する負傷者たちに共通していることは、今後戦地に戻ることはないということだった。主人公が、いつものように少佐とともに機械治療を受けていたある日、彼から、結婚しているのか、と聞かれる。主人公は、結婚していないが結婚したい、と答えると、少佐は、男は結婚してはいけない、もし全てを失うことになるのなら、全てを失うようなところに身を置くべきではない、と激しく怒って答え、主人公に議論の余地も与えず部屋を出て行く。しばらくして少佐は部屋に戻り、主人公の肩に手を置き謝りながら、自分の妻が亡くなったことを話し、また部屋を後にする。少佐は3日間病院に来なかったが、3日後いつもと同じ時間に喪章をつけて現れ、機械治療を再開する。そこで物語が終わる。

ヘミングウェイは、ムダのない、控えめな表現で物語を描く作家として知られている。その作風は「異国にて」にも明瞭に表れている。主人公が見ている風景や登場する人物たちの風貌、なされた会話などが淡々と描写されており、それらの描写から、その場面に流れている雰囲気や登場人物たちの心情を読者に推し量らせようとしているようである。

ヘミングウェイはこの物語で、何を描きたかったのだろう。何かを失った男の姿を描きたかったのだと思う。物語に登場する主人公、少佐、病院に通う他のイタリア人負傷者は何かを失った男たちである。主人公は、第一次世界大戦に参加するために海を越えてきたアメリカ人だ。しかし彼は脚を負傷し、戦線からは離脱している。主人公は、先鋭部隊で活躍し負傷したイタリア人たちと同じメダルを持っているが、主人公がメダルを得たのは、つまるところ彼がアメリカ人だったからであり、メダルを得たイタリア人たちと同等の活躍はしていない。主人公はメダルを得たことを恥じてはいないが、自分は死ぬことをとても恐れており、イタリア人たちのような活躍をしなかったことを自覚している。負傷して現実に直面している主人公からは、健康な脚に加えて、戦地に来る前に抱いていたであろう自信や使命感を失った様を感じる。少佐が失ったのは、健康な手と妻である。妻の死は少佐に、強い怒り、深い悲しみ、やりきれなさ、などの激しい感情を引き起こしている。それは主人公と少佐の会話の場面から読み取れる。一方、登場するイタリア人負傷者たちは、1人は弁護士になる道を、1人は絵描きになる道を、1人は兵士として活躍する道を、絶たざるを得なくなり、1人は鼻と祖国で生きる道を失った。

上述した男たちはみな、戦争によって何かを失っている。しかし、戦争による喪失は、物語の中で簡潔に描かれているだけである。主人公の療養生活の描写が続く物語の中に、特定のエピソードとしてヘミングウェイが挿入したのはむしろ、妻を、戦争ではなく病気で亡くした少佐が取り乱す場面である。戦争は物語の中であくまでも前提として登場している。物語は「…戦争はいつもそこにあった、しかし私たちは戦地に戻らなかった」で始まるが、これはつまり、戦争はそのとき常にそこに存在しており、誰も逃れることはできなかった、そしてそこで主人公たちは戦ったがもう戦うことはない、ということである。戦争を前提とするなら、戦争による喪失は、避けられないことで、仕方のないことである。そして男たちは今、爆弾や戦いとは切り離されたところにいて、戦いに戻ることはなく、リハビリをしているのだ。そして話をしながら、互いの存在を慰めにしている。彼らにとって戦争による喪失は既に過去のものになっていて、次の人生への準備を始めているとも言える。一方で少佐は、他の者とは事情が違っている。少佐も戦争で健康な手を失ったが、少佐をより強く悲しみに浸らせているのは、妻の死である。少佐の妻は肺炎にかかって、数日で死んでしまったのだ。主人公と少佐の会話の場面では、少佐は喪失に対して強い嫌悪感と怒りを示し、悲嘆にくれ、妻を亡くしたという運命を全く受け入れることができない、とむせび泣いているようすが描かれている。喜びや希望、安らぎを不条理に奪われた少佐の姿は痛々しく、戦争の酷さや悲惨さなどは取るに足らないものかのようである。

愛する者を失った男が抱える悲しみややるせなさが、簡潔に描かれた、戦争が起きている現状、戦争による喪失によって、いっそう激しく際立ったものになっていると感じる。

2014/12/30

近代ヨーロッパを探る④ 社会主義思想と国民国家

近代においてヨーロッパの国々は、貿易によって富を得、経済力を高めてきた。なかでもイギリスは群を抜いていた。商人や生産者が国家からの干渉を受けずに自由に貿易をすることができる自由貿易の推進、海軍力によって経済活動は保護され、イギリスは世界経済の中心になっていた。産業革命もイギリスの発展に大きく貢献した。産業革命はフランスやドイツ、アメリカ、日本などにも波及、工業技術によって新たな産業も生まれ、国は豊かになり、人々の生活が向上した。その結果、ヨーロッパでは人口が増加した。

このころイギリスで主流だった政治思想は、功利主義である。功利主義は、「最大多数の最大幸福」という言葉に象徴される。自らの幸福を求めつつ、社会全体の幸福を求めることを道徳原理とする思想である。カントが、理性がもつ普遍的な道徳原理に従って行動することを支持したのに対し、功利主義者は、幸福(快楽を増やし、苦痛をなくす)のための行動を正しい行為と据える。その幸福は個人だけでなく関係者全体の幸福である。功利主義の祖とされるベンサムと、ベンサムの理論を修正、拡張したジョン・スチュアート・ミルの理論を踏まえて、ヘンリー・シジウィックは、社会全体の幸福は個人が幸福を追求することから成るものの、個人の幸福と社会全体の幸福が対立する場合には、政府による介入が望ましいとしている。

一方で、資本主義が確立し経済がどんどん繁栄する中、富を得て投資しさらに富を築く人々と、彼らに雇われて厳しい労働条件の下働く人々の間の格差が明らかになっていった。景気が循環するようになり、失業も発生するようになった。そのような中次第に力を得て行ったのが、社会主義思想である。社会主義思想は、資本主義の自由競争や私的所有権の制限や禁止を訴え、平等で公正な社会の実現を目指す。社会主義思想の拡大に大きな影響を及ぼしたのが、ドイツのカール・マルクスである。マルクスは1848年、エンゲルスとともに「共産党宣言」を発表する。「幽霊がヨーロッパをさまよう―共産主義という名の幽霊が…」で始まり、「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」で終わる共産主義の綱領である。マルクスは、社会を貫く発展法則や社会のあらゆる側面の相互作用を、自然史の過程としてとらえて認識、分析し、その後の発展方向を予測する唯物史観の哲学をもつ。「共産党宣言」を流れているのは、①生産活動から生まれる社会組織がその時期の歴史の基礎をなしている、②よって、社会の発展のさまざまな段階における、支配する階級と支配される階級闘争の歴史が全歴史である、③今支配される階級(プロレタリア)を支配階級(ブルジョア)から開放するためには、社会全体を階級闘争から解放せねばならない、という根本思想である。ヨーロッパのこれまでの経済発展や社会の変化を歴史の必然性の中でとらえて展開し、労働者の団結、革命、現社会秩序の転覆を鼓舞している。マルクスはその後、資本主義の構造を分析した「資本論」を発表する。マルクス主義は19世紀後半~20世紀にかけて全世界に広まり、多くの革命を生んだ。そして共産党政党が生まれ、社会主義国家、共産主義国家が建国されることとなる。

また、18世紀~19世紀にかけて、ヨーロッパでは「国民国家」が次々と誕生した。「国民国家」とは血縁や宗教、言語、伝統などによって結ばれた共同体から成る国家である。近代ヨーロッパにおいて国家は、王の元で王を主権として形成されてきた。しかしフランス革命が起き、人権宣言で人権の保護や国民主権の思想が提唱されると、ヨーロッパのあちこちで国家の構成員が立ち上がり始め、政府への抗議運動や革命を起こしていく。国の代表者たちは、革命を抑え秩序を取り戻そうとするも、失敗に終わる。この間ヨーロッパではベルギーやギリシア、ルーマニアが独立し、イタリア、ドイツも統一を果たす。しかしこの「国民国家」は、争いの火種になり続ける。

東ヨーロッパのバルカン半島でも20世紀初頭に複数の国家が生まれた。しかしもともと東ヨーロッパを統治していたオスマン帝国が衰退していたことやバルカン半島は多くの民族が混在する地域だったことから、隣国である他のヨーロッパ諸国およびロシアの勢力争いがからみ合って、第一次世界大戦が勃発する。1914年の、セルビア人の青年によるオーストリア皇位継承者夫妻の暗殺を期に、オーストリアはドイツの支持を得てセルビアに宣戦する。セルビアを支持するロシアはこれに応じ、ドイツはロシアとその同盟国フランスに宣戦、イギリスもドイツが中立国であるベルギーに侵攻したのを期に参戦した。殺傷能力の高い新型兵器が使われ、膠着状態が続く塹壕戦となり、戦争は長期化、国民の間では厭戦感情が高まっていった。1917年にはアメリカがドイツに宣戦する。一方ロシアでは、戦争で疲弊した民衆や兵士が反乱を起こし、ロシア革命が起きて帝国は崩壊、社会主義国家が誕生して戦争から離脱する。1918年にはドイツでも革命が起こって帝政が崩壊し、第一次世界大戦は終結することとなった。


参考文献
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈8〉帝国の時代」創元社 2003
ミル『功利主義論』を解読する(http://www.philosophyguides.org/decoding-of-mill-utilitarianism/
中井大介「功利主義と経済学―シジウィックの実践哲学の射程」晃洋書房 2009
マルクス、エンゲルス「共産党宣言」岩波書店 2009
ブリタニカ国際大百科事典

2014/12/26

近代ヨーロッパを探る③ 革命のとき

17世紀の後半ごろから18世紀にかけて、ヨーロッパでは啓蒙思想が普及していた。キリスト教の教義、思想による社会基盤が崩れ、商業が発達して都市化が進み、実験や論理を用いる科学技術が進歩しつつあったこのころ、人間の理性や合理的精神、批判的精神が新しい社会を作っていくためのカギになる、と多くの思想家が思っていた。彼らは人間の理性、知性の持つ力を信頼していたのである。前回記述した、社会契約を基にした政治哲学を発表したロックも啓蒙思想家の1人である。啓蒙思想は海を越えて、フランスやドイツでもさかんになった。フランスでは、ロックの政治思想の影響を受けたモンテスキューが、立法権・行政権・司法権の分立を唱え、ディドロとダランベールは、同時代の哲学・芸術・科学・技術・産業などの諸部門の知をまとめた「百科全書」の編さんにあたった。ドイツでは、インマヌエル・カントが認識についての新たな見解を示し、理性について論じた。カントは、理性は生まれつき全ての人間に備わっており、善悪の法則をも持ち合わせているとしている。人々が理性を利用できる社会を求め、理性を用いた自律こそが自由であるとした。

一方、ヨーロッパの強国が植民地支配を続けていたアメリカ大陸では、18世紀後半に転機を迎える。当時アメリカ大陸では、先住民、奴隷としてアフリカから連れて来られた人ほか、ヨーロッパから移住した人も多く住んでいた。先住民たちの入植者に対する反乱や、本国からの植民地への一方的な課税法律への抗議および対抗措置などをきっかけに独立の気運が高まり、1776年、植民地は独立を宣言する。アメリカ合衆国の誕生である。

アメリカが独立を勝ち取ったころ、ヨーロッパ大陸ではフランスに革命が起こった。政治と経済の行き詰まりが原因だ。当時フランスは、イギリスとの戦争で出費がかさみ国の財政が悪化していた。富裕層から徴税を行おうとしたものの、特権や慣習による既得権益で守られている貴族は反発。しかも、増加する人口に食料生産が追いつかず、食料価格は高騰し、農作物の不作や家畜の病気などのあおりを受けて農民たちの生活は苦しくなっていた。民衆は、王や貴族への怒りを募らせ、1789年、バスティーユ牢獄を襲撃する。フランス革命は、ルソーの思想が影響したと言われている。ルソーは、封建的な隷属関係を批判した。各個人が自由・平等であるために互いに契約を結び(社会契約)、各個人に共通する利益を目指す国家を主張した。1791年議会は、国民主権、法の下での平等や個人の権利の法的保護などを提唱した「人権宣言」を前文に、憲法を制定する。フランス革命に象徴される民主主義や自由主義、ナショナリズムの思想は、ヨーロッパ諸国に影響を与え、その後のフランスを含めヨーロッパ各地で反政府運動が勃発していく。

18世紀後半に見られる革命は、アメリカ独立宣言やフランス革命のような、民衆の国家に対する抗議だけではなかった。イギリスでは産業革命が始まっていた。イギリスは毛織物などの工芸製品の生産が進んでおり、工場で人を雇う資本家が出現していた国だ。さらに、農業技術や生産率の向上で収益を得た地主たちが土地の売買を行った結果、仕事を失った農民が現れ、彼らは工場での労働力となった。また、工業の原料や燃料となる石炭や鉄鉱石などの資源が豊富にあり、自然科学の発達が技術の進歩を後押しした。紡績機によって繊維産業の生産性が一気に増し、蒸気機関が新しい動力となり、鉄道や汽船が現れる。鉄道や汽船は原料や生産物の遠距離輸送を可能にした。そして工場が建設され、労働者が集まるようになり、都市ができる。イギリスは工業国として名を馳せ、資本主義社会が確立する。しかし一方で、低賃金労働や児童労働、資本家の力の拡大、公害や犯罪の増加などの問題が浮上していた。



参考文献
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈7〉革命の時代」創元社 2003
ルソー『社会契約論』を解読する (http://www.philosophyguides.org/decoding-of-rousseau-contrat-social/

2014/12/22

近代ヨーロッパを探る② 革命前夜

前回、近代ヨーロッパの幕開けを、経済システムと社会システムの変化(商業および市場経済の発達、中央集権国家の確立)、そして人々の考え方や生き方の変化(合理的精神、現世的な世界観)の始まり、とまとめた。その後のヨーロッパにおいて、経済は資本主義経済へ、社会システムは民主主義へと進んでいく。そして、対外的には植民地化を進め、覇権争いを繰り広げる。一方、中世時代のヨーロッパ精神の根幹ともなっていたキリスト教は、宗教改革を経てカトリックとプロテスタントに分裂、政治ともからみ合ってあちこちで紛争の火種になっていた。

15世紀にポルトガルやスペインが交易海路を開拓し、アメリカ大陸にあった国々支配していったのに続き、オランダやイギリス、フランスもアジアとの交易、アメリカ大陸の植民地化に乗り出していた。ヨーロッパでは貿易会社や銀行が設立され、アントワープやアムステルダム、ロンドンなどの大西洋の都市が商業都市として栄えた。ヨーロッパの商人たちは砂糖や綿花、タバコなどをアメリカ大陸から輸入し、代わりに毛織物などを輸出した。しかし、アジアとの地中海貿易によってもたらされたコーヒーや茶がヨーロッパで普及するにつれて砂糖の需要が高まり、アフリカ大陸から現地民を、奴隷としてアメリカ大陸に連れてきて働かせ、生産物を輸入するようになる。このころイギリスやフランスでは貿易によって国力の増強を図る重商主義政策が行われており、輸出先の拡大や領地拡大のためしばしば戦争が勃発し、覇権争いを繰り広げていた。

大陸内では、それぞれの国で王の権力が強大化していた。王は軍事力を高めて反抗勢力を抑え、役人を雇って政治を行っていった。また、軍事力と官僚組織の維持のために民に徴税を課し、中央への権力の集中を図った。王への権力の集中は、経済圏の拡大を図りたい商人たちにとっても都合のよいことだったので、王権強化に協力した。近代初頭のヨーロッパでは、農業に従事する人たちが大多数を占めていたが、商品経済の発展により工業製品の需要が高まり、工場で人を雇って商品の生産を始める資本家が出現、商品を運搬する道路や運河などのインフラ整備も進められた。そして、農業や酪農の進歩によって栄養状態がよくなったことや飢餓による死亡者の現象、医学の発展などにより、人口も増加していくのである。

続いて思想についてである。17世紀の初頭は、科学革命の時代と言われている。科学革命を後押ししたことの1つは、宗教改革を後押しすることにもなった、印刷技術だ。印刷技術の普及により、人が入手できる情報量が圧倒的に増えた。出版物を通していろいろな知識が行き交うようになり、これまでの通念や権威が力を失い始めた。さらに、貿易海路の開拓で天文学や地理学の知見が増えたことや技術革新により、造船術や農業生産率が向上したことなども科学精神の萌芽に関係していると思われる。そして、実験によって得た事実を元にして、理論を構築していくという試みが始まっていく。科学革命の代表的人物は、天文学のヨハネス・ケプラーやガリレオ・ガリレイ、力学のアイザック・ニュートンである。ケプラーは、ティコ・ブラーエが得た膨大な天体観察記録を使って天体の運動に関する理論を構築し、ガリレオは天体の動きを観察して得たデータを数学を使って分析し、地動説を証明した。ニュートンは、ケプラーやガリレオの説からヒントを得つつ、万有引力の理論を構築した。科学はしばしばキリスト教と対立するものとして描かれる。カトリック教会や聖職者は、科学による新しい発見をキリスト教への脅威とみなしていた。しかしむしろこれは、キリスト教が衰退することへの危惧というよりは、キリスト教という基盤によって成り立っていた社会が崩れることへの危惧といえる。しかし実際には、キリスト教への信仰をほとんどの人たちはやめていない。科学の発展に寄与したガリレオやニュートンも神を否定しなかった。

この時代には、近代を代表する哲学者が2人現れる。デカルト(フランス)とロック(イギリス)だ。デカルトは多彩であった、数学の分野では代数学と幾何学を融合させて座標を発明した。また、疑うことを基礎におき、その著書「方法序説」にて真理を導くための思考のルールを発表する。一方ロックは、政治思想に影響を与えることとなる、社会契約の説を唱える。政治思想においてもキリスト教基盤の理論が崩れたことから、それに代わる新しい理論が必要になっていた。そこに登場するのが自然法と社会契約の考え方である。自然法とは、自然に由来する、あらゆる世界にあてはまるとされている法である。自然法が支配する自然状態において人間は、自由かつ平等である。そこでは他人の生命や自由、健康、所有物を侵害してはならない。しかし、この自然状態は、犯罪や暴行などの侵害行為が起こる可能性を秘めた不安定な状態でもある。もし侵害行為が起これば、そのとき人間は侵害者を自然法に基いて罰することができる。しかし、それぞれの人間が持っている罰する権威をある1つの共同社会に譲れば、その共同社会は大きな力を持つことができる。この共同社会が人間間の仲裁人となり、不安定な自然状態を安定へと導くことができる。人間の同意、契約によって成り立つ共同社会は、人間の私有財産の保護を最大の目的とする。共同社会が自然法を侵害したならば、それに反抗してもよい、といった考え方である。ロックのこの思想には、自由と平等の思想が織り込まれている。そして、共同社会への反抗の権利を条件つきで認めていたことから、のちの市民革命に根拠を与えるのである。


参考文献
ウィリアム・H・マクニール「世界史 下」中公文庫 2008
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部「成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈6〉 近代ヨーロッパ文明の成立」

2014/12/19

「ガリバー旅行記」と国家論

ジョナサン・スウィフトの書いた小説「ガリバー旅行記」は風刺文学と言われている。スウィフトは小説内で、ガリバーが漂流先で体験するあれこれをユーモアたっぷりに描くと同時に、当時のイギリス(イングランド)や人間を糾弾している。スウィフトは「ガリバー旅行記」を出版する際、自分が書いたことが公にならないようにした。タイトルに記載した著者名は、レミュエル・ガリバーとし、ガリバー本人による体験記という形をとった。さらに、自分が書いた原稿を第三者に写させて、その写した原稿を本屋においた、とも言われている。スウィフトは当時の政治への痛烈な批判を意図的に書き、トラブルが生じることも折り込み済みで出版したといえる。スウィフトは「ガリバー旅行記」の中でどのような国家を描き、批判し、どのような国家を理想としたのかを考えていこうと思う。

スウィフトは「ガリバー旅行記」でいくつかの国家を描いている。ガリバーが最初に漂流したのは小人の国リリパッドである。リリパッドは皇帝によって統治されている法治国家だ。軍隊を保有し、宮廷では高官たちが勢力争いや私利私欲の絡みあった陰謀を企てている。隣国との交易が国を支えており、また別の隣国とは戦争状態にある。2番目に訪れたのは、巨人の国ブロブディンナグだ。ここでは王が国を治めている。宮廷は平和で仲睦まじく、外で戦争も起こっていない。登場する人たちはガリバーに親切に対応する。農業がこの国の主要産業だ。大人国を離れたガリバーは5つの島に短期間滞在する。5つの島のうち、ラピュタとバルニバービは主従関係にあり、ラピュタの王による君主制がひかれている。両者は緊張状態にあり、数年前にはバルニバービの住民による反乱が起きた。学問に力を入れていて、天文学が発達しており、科学や政治、医学に関するとんちんかんな研究を行う機関がある。そして最後に訪れるのは、馬の国フウイヌタムである。礼儀正しく、理性を身につけた馬たちによる議会制の国であり、人間(ヤフー)は理性を持たない野蛮な動物として扱われている。

「ガリバー旅行記」で当時のイギリス政界のようすを端的に描写しているのは小人の国リリパッドである。先に挙げたリリパッド国の特徴には、当時のイギリスの政界と重なるところが多々あり、登場人物を政界の誰をモデルにして描いたかを突き止めることが可能という。例えば、リリパッド国に登場する大蔵大臣フリムナップは、当時のイギリスの政治家ロバート・ウォルポール(ホイッグ党)だとの解釈が定説である。「ガリバー旅行記」が出版されたのは1726年だが、イギリスではこの頃、国内では政治の混乱が生じており、対外的にはアメリカ大陸の植民地化と貿易による富の蓄積に励み、フランスやアイルランドなどの隣国との間には争いが起きていた。政治の混乱は、政党の勢力争いとキリスト教の宗派間をめぐる対立に起因する。そもそもイギリスでは、ピューリタン革命(1642-49)で絶対王政が転覆したものの、ピューリタンが独裁政治を始めたため、王政政治が復活、チャールズ2世が王座についた。しかしチャールズ2世は、イギリスの王たちが支持してきたイギリス国教会でも、ピューリタン革命で活躍したイギリス国教会改革派のピューリタンでもなく、フランスやスペインと近づいてカトリックを擁護する。さらにチャールズ2世の後を継いだ弟のジェームズ2世も、カトリックに親和的な政治を行い、絶対王政の復活を目指したことから議会は反発、ジェームズ2世の娘メアリと、プロテスタント国オランダを治めていた夫ウィリアムに武装援助を要請する。オランダからの援助により、ジェームズ2世はカトリック国のアイルランドに亡命、ウィリアム(ウィリアム3世に)とメアリは王位につく。これが名誉革命(1688)である。ジェームズ2世の即位をめぐって、議会には2つの政党ができていた。ホイッグ党とトーリー党である。ホイッグ党は王権の制限、植民地戦争や保護貿易の推進、宗教に対しては寛容な態度を掲げ、トーリー党は王権の擁護、戦争や保護貿易の反対、イギリス国教会支持を掲げていた。ウィリアム3世はホイッグ党を優遇したが、彼の死後王位についたジェームズ2世の娘(メアリの妹)アン女王は、トーリー党を優遇して組閣した。しかしアン上女王の死後は、17世紀前半に即位していたジェームズ1世の曾孫にあたるドイツの諸侯、ゲオルクが、ホイッグ党から多数の支持を受けジョージ1世として即位する。しかしジョージ1世はイギリスを嫌っていた。イギリスの言葉も話せず、議会政治を嫌っていたため、議会が内閣を組織し政治を行うようになった。そこでホイッグ党が政権をにぎり、トーリー党は力を失っていくのである。

スウィフトはトーリー党の支持者である。もともとはホイッグ党を支持していたが、自身の信仰するイギリス国教会に対しての、それぞれの政党の立ち位置が変化していったことから、支持政党を変えている。スウィフトの政治への強い関心は、経歴からうかがうことができる。1667年、イングランドからの移民である両親のもとアイルランドで生まれたスウィフトは、ダブリン大学を卒業後、イギリスで活躍していた外交官テンプルの秘書としてイギリスに渡る。スウィフトはそこでテンプル家にあった書物を読みあさり、イギリスの政治家たちと関わった。健康上の都合でアイルランドに戻って国教会の聖職者となってからもイギリス政界とのつながりを維持し続け、トーリー党のスポークスマンのような役割を果たすなど、政治活動を精力的に行っていた。しかし、支持していたアン女王は亡くなり、外国から連れて来られたイギリス統治に興味のない人間が王になり、ホイッグ党が独占的に政治をすすめ、トーリー党は失墜、スウィフト自身の出世の道も断たれた。このような状況下で「ガリバー旅行記」は書かれた。

ガリバーが2番目に訪れた巨人の国ブロブディンナグの王との会話には、スウィフトの辛辣な批判が現れている。ブロブディンナグの王はガリバーに、ヨーロッパの風俗習慣や法律、政治、学問、宗教になどついて尋ね、ガリバーは祖国の政治や政党間の抗争、貿易、戦争、宗派間の対立など(当時のヨーロッパ、イギリスの事情)を詳しく説明する。ガリバーは、ヨーロッパおよび祖国の社会を褒め称えつつ詳細に説明しているが、王はガリバーの言うところのすばらしさを全く理解しない。むしろ、「おまえの話からはっきりとわかったのは、ときとして無知、怠惰、悪徳のみが立法府の議員たる資格となること、そこで作られた法律は、それをねじ曲げ、混乱させ、すり抜けることに長けている連中によって、説明され、解釈され、適用されるのだということだ。…おまえの国ではどんな地位をめざすにせよ、美徳は何ひとつ必要ではないらしい。人徳が厚いものが貴族になる、敬虔で学識豊かなものが主教になる、勇猛果敢なものが軍人になる、高潔なものが裁判官になる、国を深く愛しているものが議員になる、賢明なものが顧問官になるというわけではないのだな。」(「ガリバー旅行記」p.193)とガリバーが伝えた内容に軽蔑を示す。そしてガリバーは王の才能を賞賛しながらも、視野が狭いと感じている。スウィフトが当時のイギリス政治に並々ならぬ怒りや、嫌悪感を持っていたことを踏まえて読むならば、王の返答のほうがスウィフトの本心で、ガリバーの価値観を嘲笑の対象としている、と解釈できる。ガリバーがヨーロッパやイングランドについて詳細を話すシーンは、ガリバーが最後に訪れる馬の国フウイヌタムにも描かれている。なぜ戦争が起きるのか、政界で高い地位につく方法、医者や法律家、貴族など身分の高い人びとの生活について馬の国の主君に説明するが、ブロブディンナグ国王と同様、主君はヨーロッパやイギリスで起こっていることが全く解せず、「おまえたちが本当に理性の備わった動物ならば、何をすべきか、何をしてはならないかは、自然や理性がはっきりと示してくれるものだと思うのだが」(同p.374)などと言う。馬の君主の理路整然とした返答は、イングランドの、欲にまみれ、争いの絶えない政府や高官たちの実情をさらに浮き上がらせている。

ガリバーが馬の国フウイヌタムに辿り着く前に訪れた、グラブダブドリブ島での体験には、批判とともにスウィフトの怒りと嘆きが反映されている。グラブダブドリブ島には降霊術を使って死者を呼び出し、命令できる族長がいるのだが、ガリバーはその人に古代の哲学者やヨーロッパで活躍した皇帝、名高い貴族を呼び出してもらう。彼らの姿を見てガリバーは、「戦で輝かしい殊勲を挙げたと臆病ものが讃えられ、思慮深い助言をしたと愚かものが称えられ、誠実だったとおべっか使いが称えられ、ローマ的高潔さの持ち主だと売国奴が称えられ、敬虔だと無神論者が称えられ、純潔だと獣姦者が称えられ、正直だと密告者が訴えられる」(同p.299)と語る。国王が次々と変わり、それによって高官や政策も変化する、国内外で反乱や戦争が頻発する、そのような時代にはガリバーが発言したことが実際に起こっていたと判断できる。さらにガリバーは、昔ながらの自作農を族長に呼び出してもらい、彼らを見て「飾り気のない態度、質素な衣食、公明正大な取引、自由を愛する精神、祖国愛あふれる勇敢な行動により、かつては名高かった人びとだ。…この自作農たちが持って生まれた汚れなき美徳も、自らの一票を金に換え、選挙運動に奔走し、宮廷でさまざまな悪徳や腐敗に染まった孫たちの手により、目先の金のために踏みにじられてしまうのだ。それを思うと、とうてい冷静ではいられなかった」(同p.304)と話す。当時イングランドでは既に選挙が行われていた。昔生きた人びとと今生きている人びとを比べ、今の人びとの振る舞いに心を大きく揺さぶられているスウィフトの姿を感じる。

イングランドが当時進めていた植民地政策への言及とみられる箇所もある。馬の国フウイヌタムから帰国したガリバーは、自身が発見した土地がイングランドの植民地とされることを危惧し、航海記録をすぐに国務大臣に提出しなかった、とある。そして続けて入植者の植民地での振る舞いを明確に描写し、「ひとつ断っておくが、こんなことを書いたからといって、わたしはけっして英国を非難するつもりはない。植民地経営の知識、配慮、正義において、英国は全世界の手本となるべき存在なのだから。」(同p.449)と自己弁護する。スウィフトは、ガリバーに語らせている植民地支配の実情が政府への誹謗に当たると自覚していたからこそ、ガリバーに弁明させているのである。よって、スウィフトが当時のイングランドの植民地支配を快く思っていなかったと判断できる。

ではスウィフトは、どのような国家を理想としたのだろうか。スウィフトが考えていた政府は、王、貴族、庶民の3形態から成る政府である。この3つの権力の均衡が保たれている状態が理想という。このことは、スウィフトが1701年に発表した、古代ギリシャやローマにおける統治体制や抗争を分析し、政府のあり方を提言した文書、「アテネとローマにおける貴族・平民間の不和抗争およびそれがこれら両国に及ぼした影響について」内の、「要するに、すべての自由な国家で回避すべき悪は圧政、換言すれば一人もしくは多数者が揮う無制限な権力…である。」(スウィフト,1701,中野、海保訳,1989, p.35)という記述からうかがえる。「ガリバー旅行記」内でも、理想国家について言及していると判断できる箇所がある。例えばブロブディンナグ国王についての、「君主であれ、大臣であれ、密室政治や小手先の技巧、権謀術数のたぐいは徹底的に嫌悪し、唾棄すべきであると国王は信じてやまない」(「スウィフト政治宗教論集」p.199)といった記載である。スウィフトは、前述した文書にて、常軌を逸した間違った政策をすすめないための議会として、「普遍的な協調にもとづき、公共の原理に依拠して公共目的のために行動する団体、非常識な熱狂や特定の指導者や煽動家の影響を封じる討論にもとづいて結論を下す会議、その個々の構成員が自分の私見への多数工作を試みるのではなく、公平で冷静な結論であれば自分と正反対の考えも受け入れる度量の大きい会議体にほかならない。」(同p.40)と述べていることから、スウィフトの理想と捉えることが可能だと思う。さらに、ガリバーが称したブロブディンナグ国王の特徴「国民の尊敬を、敬愛を、崇拝を一身に集める人格者、才能と知恵と学識に恵まれているばかりか、めざましい政治の才を兼ねそなえ、神とも崇められるほどの君主」(「ガリバー旅行記」p.198)は、スウィフトが発表した政治文書との比較により、理想の国王像(才能、知恵、学識、政治の才)だということが証明されており、ブロブディンナグ国の軍隊についての記載(貴族や紳士が無給で指揮を取り、都市の商人や地方の農民から構成される軍隊)も、政治文書に書かれている記載と重なるという。

スウィフトは革命や争いの絶えなかった17、18世紀のヨーロッパに生き、人生を通して政治と深く関わり、辛酸を嘗めた。「ガリバー旅行記」には、航海士ガリバーの旅を通して、スウィフトの政治や国家、そしてそれを取り巻く人間への怒り、やるせなさ、嘆き、悲しみが随所に織り込まれている。


参考文献:
ジョナサン・スウィフト 山田蘭訳「ガリバー旅行記」角川文庫 2011
富山太佳夫「『ガリヴァー旅行記』を読む」岩波書店 2000
青山吉信、今井宏編「新版 概説イギリス史―伝統的理解をこえて」有斐閣 1991
ジョナサン・スウィフト 中野好之、海保真夫訳「スウィフト政治・宗教論集」法政大学出版局 1989
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006