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2015/02/19

映画レビュー 「ブルージャスミン」

映画「ブルージャスミン」を観た。大好きなウディ・アレン映画ということでDVDを手にとった。ここ何年かのウディ・アレン作品は全部観ているが、この映画はそれらのどれよりも容赦ない話だった。特にラストシーン、主人公がベンチに座って独り言をつぶやくところで終わるのだが、その姿を見たときにはもう、それこそ「笑ゥせぇるすまん」の喪黒さんにドーン!と突きつけらたような感じである。

この映画の主人公は、元セレブの女性ジャスミン。ジャスミンは、実業家でお金持ちの夫とニューヨークでセレブ生活を送っていたが、実は夫は詐欺をはたらいており、逮捕されてしまった。しかも逮捕後自殺。お金も家も夫も失ったジャスミンは、サンフランシスコに住むシングルマザーの妹を訪ね、妹と一緒に暮らしながらどうにかセレブ生活を取り戻そうとする。

ジャスミンは、はたから見れば滑稽でかなりイタい女性である。一文無しなのにも関わらず高価な衣服やアクセサリーを身につけ、飛行機はファーストクラス。妹に生活をお世話になりつつ内装や男の趣味が悪いと文句をたれ、バカにしていた歯医者の受付の仕事に苦戦する。インテリアコーディネーターになることを夢見、政治家を目指すセレブと結婚しようと嘘に嘘を重ねる。ジャスミンは自尊心が高くて傲慢、虚栄心が強く、ことあるごとに過去の生活を思い出してはそこに浸り、現実を認めることができないでいる。

でも、ジャスミンの行動をジャスミンの視点で考えてみると少し違って見えてくる。内容・程度の差こそあれ私も経験したことがあるし、多くの人が経験していることのようにも思う。だから映画を観ていてギクッとしてしまった。ジャスミンの行動や発言から連想されるのは、アイデンティティクライシスという言葉だ。人は通常、社会でさまざまな経験をしながら自分を知る。接する相手や環境によって、年齢によって行動が変わっても自分から出た行動であることには違いなく、統合され一貫性を持った唯一無二の存在としての自己像を得る。アイデンティティは青年期の発達課題としてよく取り上げられる。しかし青年期に限った問題ではなく、青年期に解決しても人生のどこかのタイミングで再び再燃することはある。ジャスミンの場合を考えてみると、彼女はセレブ生活を心から満足し、特に疑問も抱かず当然のことのように感じていた。ジャスミンのアイデンティティはその生活での経験に帰属し育まれていたといえる。しかしその生活は突然奪われてしまう。自分の拠り所であり、自分を自分たらしめていたものが突然奪われるのである。しかもなんとも悩ましいことにそれは自分が衝動的にとった行動によって引き起こされてしまった。そこでこれらの不快な状況から抜け出すべくジャスミンが考えたことは、限りなく元の生活に近い生活を取り戻すことである。自分の信じていたものや大切にしていたものが突然奪われば、どうしたらいいか分からなくて不安や恐怖を感じるし、頭にくるし、絶望する。すがったりもがいたりしてなんとか取り戻そうとするだろう。黙って「はいそうですか」と受け入れられる人はよっぽど精神を鍛錬している人くらいではないか。

が、かといって失ったものにいつまでもとらわれていたり、現実を認めることができないでいるのも精神的にはよくない。これからのことを考えたら、早い段階で現実に向き合い、折り合いをつけてアイデンティティ再確立に励んだほうが断然いい。その意味で対照的なのはジャスミンの息子(夫の前妻の子のため血はつながっていない)である。ジャスミンは過去にとらわれたままで映画は終わってしまうが、息子は父親の詐欺で友人も信頼も失い、大学をやめて家も飛び出し、荒れた生活も経験したが、現実を受け入れ、地に足のついた生活を始めていた。私はなかなか気持ちを切り替えられないたちなので、ベンチに座って過去を回想しながら独り言をつぶやくジャスミンを見てゾッとした次第である。

私がこの映画でいちばん魅力を感じたのはジャスミンの精神状態とその描写(ケイト・ブランシェット、よかった!)だったが、他にも見どころがある。例えば作品の構成。ジャスミンが過去にとりつかれているようすを表すかのように、ジャスミンによる回想がちょくちょく織り込まれているのだが、物語が進むにつれてなぜジャスミンが一文無しになったのかが分かるようになっている。その理由はなかなか衝撃的である。それからジャスミンとは全く異なる性格の妹。姉と暮らし始めたことで妹にもいろんな変化が訪れる。姉に感化されたりする、全編を通しての妹の変化も共感できるし楽しいと思う。

2015/02/14

読書記 ブレヒト 「ガリレイの生涯」

大学では今年度の講義が全て終わった。今年度は今まであまり接してこなかった分野の講義をいろいろとってきた。その中でおもしろかった講義のひとつは、「科学史」である。その名のとおり科学の歴史についての講義。先生は主に、科学界で歴史に残る人たちの人生や彼らにまつわる小話を紹介していた。私にとって科学はこれまで、数式や理論で覆われている堅くて静かで冷たいイメージだった。でもそれらを生み出した人たちの生活やエピソードを知ったら、科学が血の通ったものになった。そう、科学は血の通った人間が作り上げてきた世界なのである。科学者たちは、世の中に貢献する理論を生み出す能力と、それを活用するための努力と情熱を持っていた。でもそれだけでなく、恋愛や趣味を楽しみ、愛や嫉妬で葛藤し、利己心や自己顕示欲にも駆られる。それに科学者たちの功績は、彼・彼女たちを取り巻く人たちや当時の社会の状況も十分に作用したゆえ成し遂げられた。そんなことを十分に感じる講義だった。

先日、講義中に先生が紹介していた本を一冊読んでみた。ドイツの劇作家ブレヒトが史実に即して書いた「ガリレイの生涯」である。地動説を証明したガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の半生をブレヒトが戯曲にした。ガリレオが初めて夜空に望遠鏡を向けたとされる1609年から、2度の裁判(1616、1633)、そしてガリレオの最後の著作「新科学対話」の原稿がガリレオの書斎を出て祖国イタリアの国境を越えるところまでを15幕に分けて描いている。

ガリレオの生きた時代は、キリスト教会が政治的権力を有していた時代だ。人々は聖書と教会が提示する解釈がすべてだと思っていた。ガリレオは政治的な利害と人々の無知の中で、自分のために世の中のために真理を探求し続けた。2度かけられた裁判もその代償である。望遠鏡を使って天体の観測を始めたガリレオは、地球が太陽の周りを回っていることを確信し言及し始めた。しかし、聖書の記載と矛盾する地動説は教会にとっても天動説を信じきっている人々にとっても具合が悪い。地動説が普及し信じる人が増えれば、これまで同様教会組織は人々を統治しきれなくなるかもしれない。教会はガリレオを2度裁判に召集した。1度目の裁判では、コペルニクスの地動説や本が禁止となったが、ガリレオの研究を妨げるような判決は起こらなかった。しかし、地動説信奉者と天動説信奉者を議論させる「天文対話」を出版すると、ガリレオはまた裁判にかけられる。そして、前回の裁判で言及されなかった「地動説の教示の禁止」を破ったとして罰せられ、「天文対話」は禁書となる。ガリレオは、地動説を放棄する旨の異端誓絶文を読み、死ぬまで監視つきで軟禁を強いられることとなった。

ブレヒトが描いたガリレオは、私がイメージしていたガリレオ像とは異なっていた。そもそも私はガリレオって、物理学者で地動説を唱えて、それでも地球は動いているっていった人、くらいの知識しかなかったから、むしろブレヒトの描いたこの戯曲を読んで活き活きとしたガリレオが目の前に現れた、と言ったほうが正しいかもしれない。ブレヒトが描くガリレオは、真理を追求し周知せずにはいられず、使命感をもって研究し、真理が普及することで全ての人々は啓蒙されることを信じていた。生活資金を稼ごうと画策し、教会と折り合いをつけながら研究をあきらめないための手段を講じる現実的な思考を持ち合わせ、観測データや実験から理論を導き、自らの行動(地動説を放棄したこと)を冷静かつ辛辣に批判する理性を披露するのである。

戯曲の中のガリレオが実際のガリレオにどの程度近いのかはさておき、戯曲に書かれた当時の社会と科学との関係、ガリレオの自己批判は、「私たちは科学の功績をどう扱うのか」という問いを投げかけている。ここでそのシーンの概要を少し加えておくと、ガリレオが地動説を放棄したことで、ガリレオを慕っていた者たちは失望し怒りを抱いた。でもガリレオは新しい著作「新科学対話」を密かに完成させていて、その昔はガリレオを慕っていた来客にそれとなく持ち出すよう示唆するのである。その来客はガリレオとのやりとりで、ガリレオが地動説を放棄したのは科学を続けるためだったのでは、と考える。しかし、ガリレオはそれを否定し、客に向かって科学の目的(人間の生存条件の辛さを軽くすること)を説き、科学の知見が権力者に渡ったときに一般人たちにもたらされうる難を危惧し、自分が地動説を撤回して科学を権力者の手に委ねたことを激しく非難し始めるのだ。このときブレヒトの頭には、アメリカによる原爆投下があったのは事実である。

「科学の功績をどう扱うか」という問いは今、ガリレオの時代よりも戦時中よりも、一般人のもとに迫ってきていると思う。例えば遺伝子診断。女優のアンジェリーナ・ジョリーがちょっと前にガンのリスクを考慮して胸を切除したことが話題になり、出生前診断を行えば、胎児の染色体異常のリスクを調べることができる。最近ではいくつかの会社が遺伝子診断事業を始めた。自分だったら遺伝子診断をどう扱うだろうか。もし診断してガンになるリスクがあったら私も胸を取るんだろうか?でもどれくらいのリスクだったらそうするんだろうか?そもそもガンになるリスクを知るリスクだってある。知っといたほうがいいのか、知らぬほうがいいのか。あとで後悔しないのはどっちなのか…。ちょっと考えたくらいでは答えがまとまらない。

私は、科学の発展に多くの人が関わるようになり、科学の恩恵を多くの人が受けることができるようになっている今の時代が好きだし、否定する気もさらさらないし、今後の発展も期待している。だけどそれを自分ごととして捉え始めるとちょっと不安を覚える。

2015/02/13

家族って・・・

「8月の家族たち(原題:August: Osage Country)」(http://august.asmik-ace.co.jp/)という映画を見た。父親の失踪と死をきっかけに家族と親戚が久しぶりに集まったものの、食事会で激しい口論が起こり、込み入った人間関係が明るみに出て、また離散する、という話だ。これではあまりにも端的すぎる説明なので、詳しくは映画やサイトを見て欲しいが、家族や親戚との関係で葛藤を抱えたことのある人ならきっと、共感するポイントがいくつか見つかるはずだ。初期のガンを患いヤク中状態の母親を演じたメリル・ストリープは、のっけからド迫力の演技を見せてくれる。

家族との付き合いはときに非常に悩ましい。自分のことをどこまで家族に伝えるか、家族間で起きた嫌なことをどうやり過ごすか・・・簡単に断てるような仲ではないがゆえ、互いがいろんな気を回し、面倒ごとも頻発する。

私の家族は、父、母、私の3人だから、私にとっての家族との付き合いは、親との付き合いを意味する。楽しかった思い出や嬉しかった思い出は多いが、長く続いた揉め事や葛藤もあった。それこそ20歳そこそこくらいまでは、親に自分のことを理解してもらいたくてがんばっていた。親のことを理解するよりも自分を理解してもらうことが優先だった。しかし今ではその情熱は薄れた。以前のように、自分のことを理解してもらおうとたくさん話したり、本音を伝えようとしたり、口論したりしてがんばることはなくなった。自分のために、親に強く出ることはなくなった。あきらめたとも言えるし、どうでもよくなったとも言える。もちろん理解してくれるに超したことはないが、それはあくまでも理想で、現実では到達できないことのように思う。そもそも私だって親のことをそんなに分かっていない。親が私に見せる姿から親がどんな人かを把握していただけで、それは親の一面にすぎないのだから。

今の、親に対する思いは、自分を分かってほしいと思っていた時よりも少々複雑だ。私は年をとっていく親に困惑している。ひとり暮らしをしているため、親の姿をいつも見ているわけでなはい。だから数カ月ぶりに実家に帰ると、前に比べて親が年をとったのがはっきり分かる。体の不調が増えたとか、忘れっぽくなったとか、そんなことを訴えるようになった親にどう対応したらいいものか。話は聞く(正直、話を聞くのもちょっと辛い)、でも返す言葉が見つからない。将来的には私が親をサポートしなければならない。でもどうやって?親が年をとるのは避けられない。でもまだ私はそのことを受け止めきれていない。少しずつそのための準備をしていかなくてはならないのかもしれない。


2015/02/03

少女マンガ談義

少女マンガとの付き合いを思い起こせば、小学生の頃からだろうか。父がマンガ好きなこともあって、マンガはよく買ってもらえたから、小さいころからよく読んでいた。昔ほどは読んでいないが、今でも少女マンガを読むのは好きだし、無性に読みたくなるときがある。そんなときは、家にある好きなマンガのわずかなコレクションを再読するか、ブックオフに立ち読みしに行く。

少女マンガの中で私がもっとも好きなのは「イタズラなKiss」(作:多田かおる)である。小学生の頃初めて読み、これまでに何度読み返したかわからない。このマンガはこれまでに幾度かドラマ化されていて、現在もフジテレビが新しいのを放映している。最初のドラマ化は90年代に日本で、今世紀に入ってからは台湾と韓国でも制作された。そして今回再び日本で新しいキャストで制作された。ドラマも全て見ているほどの好きっぷりなのだが、今回の日本版は先に挙げたどのバージョンよりもストーリーやキャラクター設定が原作に忠実で、こちらにもはまっている次第である。

「イタズラなKiss」は、主人公の琴子と入江くんの高校時代~20代における恋愛物語だ。落ちこぼれで料理下手、たいていのことは失敗する琴子が、IQ200の天才かつ運動神経抜群、高身長で顔もかっこいい入江くんに恋をし、ラブレターを渡そうとするも、受け取ってもらえずに拒絶されるところから話はスタートする。その後諸事情により、琴子と琴子の父(琴子の母は亡くなっているという設定)は入江家に同居することになり、いろんな障壁がありながらも、いつの間にか入江くんも琴子を好きになり、2人は結婚、琴子は4年越しの恋を実らせる。結婚&大学卒業後はそれぞれ看護師と医師になり、結婚生活も続いていく。作者が連載中に亡くなってしまったため、作品は未完。ざっくりとしたあらすじはこんな感じだ。

もう数えきれないくらいこのマンガを読んでいて、話の展開も印象的なシーンも詳細に覚えているに、それでもまた読みたくなるのはどうしてだろう。なんで私はこのマンガが大好きなんだろうか。恋愛ものだがストーリーはコミカルでおもしろいし、絵も嫌いじゃない、脇役もたくさんいて、それで話もさらに盛り上がる、好きなところはいくつかあるが、「主人公が好き」というのがいちばん大きいと思う。主人公は前出の琴子と入江くん。2人の雰囲気や恋愛模様も好きだが、それ以上に個々のキャラクターが好きなのだ。

琴子は上記したように、ドジでたいていのことは失敗し、高校・大学では落ちこぼれ、見た目は人並みである。しかし同時に、元気で明るく前向き、そして自分の感情や思いに正直で、しばしばそれに忠実に行動する。裏表がなく、できてもできなくても一生懸命。友達思いですれていない。入江くんへの気持ちは誰よりも重く、いつも全身で好きをアピールしている。私は読むたびに琴子のキャラクターに心を動かされるし、その素直さや、突っ走った行動に走るパワーを純粋にすごいと感じる。そして可愛いとも思う。琴子が醸し出すパワーに感染した、とでも言おうか。おそらくそれは、自分が自覚している自分と、自分がこうありたいと思う自分の差に由来するものであり、あこがれが混じっているんだと思う。琴子以上に私に感染力を発揮するマンガの主人公に会ったことがない。

もうひとりの主人公の入江くんは、属性ではMr.パーフェクト。頭良し、ルックス良し、しかもなんでもできる。しかしなんでもできるがゆえ、常に冷静沈着で冷淡なところがあり、平気で人をバカにする。でも入江くんは琴子と嫌々接してく中で徐々に変化していく。これまで湧いてこなかったような気持ちを感じたり、変わっていく自分に戸惑ったりする。琴子は入江くんにも感染力を発揮するのだ(私より入江くんに感染するほうが先であるが…)。そして冷淡さは緩和され、根っこのところに優しさを持ち合わせた人間になる。入江くんの魅力は(もちろん属性もすばらしい)、異質なものや変化を受け入れそれに対処していく、優しさをはき違えていない、というところだろうか。異物・変化は自己の安定に揺さぶりをかけるため、基本的には脅威である。にもかかわらず物語が進むにつれ、それを受け入れて向き合うということを自分の意思で選択する。もう逃げられないと思った、慣れてきた、一緒にいると意外と楽しい…理由は何にせよ、自分から変化に飛び込んでいくにはけっこう力がいる。はき違えていない優しさとは、言い換えれば上っ面の優しさではない、ということ。相手の成長のための優しさ、相手の幸せを考えたうえでの優しさとでも言おうか。そういう優しさは、相手と向き合い、相手のことを考えている証拠である。

少女マンガの登場人物についてこんなに熱心に語っていると、「所詮マンガの世界でしょ」「現実にはそんな人はいないよ」などいう辛口コメントが聞こえてきてそうだ。「それはそうなんだけど…」と答えそうになる。がしかし、登場人物そのままのような人間は存在しないかもしれないが、登場人物が持っている個々の特性は現実の人間に存在しないものではない。よって、これは少女マンガに限ったことではないが、登場人物を好きな理由を探ることで、自分のことがちょっとだけ明らかになる。自分は人間のどういう部分に価値をおいているか、今の自分はどんな状況なのかが見えてくる。モデルとしても機能する。

・・・まぁ詰まるところ、少女マンガの世界に浸るのは楽しいのだ。

2015/01/11

近代ヨーロッパを探る⑤ 続く戦争

ヨーロッパは第一次世界大戦で疲弊した。総動員令が出され、男性の多くは出征し、植民地からも兵力を補い、女性も軍需工業で働いた。長期化してたくさんの人が死に、物資がなくなった。第一次世界大戦後には、講和会議が開かれて国際連盟が誕生した。アメリカのウィルソン大統領は、アメリカが民主主義を広めるために参戦したと繰り返し説いており、実際ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国が崩壊したことから、民主主義や自由主義が勝利したかのように見えた。しかし事態はそう単純ではなかった。講和会議では、民族自決の原則が唱えられたが、帝国の植民地や領土だったところは戦勝国に委任統治という形で分配され、独立できなかった。独立国家もいくつか誕生したが、民族が混在している地域においてはかえって国家の形成が難しく、紛争が繰り返されることとなった。敗戦したドイツは多額の賠償金を負うことになり経済は破綻、貧困や失業に苦しむ人びとが増え、国民の不満は増幅した。一方ロシア革命で政権の中心となっていたロシア共産党は、資本主義国からの攻撃を恐れ、他国の民衆の不安を煽って革命を宣伝し、資本主義国との関係を悪化させていた。ロシア共産党の活躍でヨーロッパでは各国に共産党が誕生した。しかし多くの国で、社会主義を掲げる政党は革命推進派と、ほかの政党や運動と共存していこうとする穏健派に分裂していた。さらに、強大化するロシアへの反発や、宗教的な立場から反共産主義を掲げる思想が誕生する。イタリアやドイツ、スペインでは、ファシズムが台頭した。イタリアもドイツも第一次世界大戦で経済的に大きな損害を被り、国民の不満、失望、不安が高まっていた地域である。そこでは、自由主義や共産主義に反発し、全体主義や軍国主義によって社会と国家を再構築しようとした勢力が国民のナショナリズムを刺激し、圧倒的な支持を得るようになっていた。

また、第一次世界大戦後のヨーロッパの景気は、アメリカに支えられていた。アメリカは第一次世界大戦で軍需産業が伸び、経済の繁栄を極め、ヨーロッパに投資していた。しかし1928年、短期資金の調達が困難になるとアメリカは資本を回収し始め、翌年株価は暴落し、世界恐慌になった。イギリスやフランスは、自国および植民地で経済圏を作り、圏内の経済を保護するために圏外からの輸入品に高い関税をかけるなどした。自由主義経済が崩壊していく中、共産主義やファシズムは勢力を拡大していった。

第二次世界大戦は、国民からの支持を集めて政権についた、ファシズムのナチ党によるドイツが、ヨーロッパでの領土拡大を進めていく中で勃発する。1939年ドイツがポーランドに侵攻すると、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦は始まった。ドイツは戦いに次々と勝利し、東ヨーロッパへと領土を拡大しつつあったソ連も攻撃する。イタリアと日本はドイツと同盟を結んで参戦した。イギリスやフランスの連合国に武器を供給していたアメリカが日本との商取引を全面禁止すると、日本はアメリカを攻撃し、太平洋戦争も勃発、世界規模の戦争に発展した。戦争が続くにつれて同盟国側は物資の調達が困難になり、情報収集レベルも連合国より劣っていたため、劣勢となった。1945年、連合国側にソ連が加わったことでドイツは降伏し、その後日本も降伏、第二次世界大戦と太平洋戦争は終結した。

第二次世界大戦により、ヨーロッパは第一次世界大戦後よりも疲弊した。死者は5000万人のぼり、多くの都市が荒廃し、経済、交通、通信、食料の確保など社会のさまざまな側面が大きな打撃を受けた。戦争で衰退したヨーロッパ諸国に代わり、戦後力を拡大し世界を巻き込む強大国となったのは、アメリカとソ連である。第二次世界大戦後、国際連合が設立され、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国に特権が与えられたが、イギリスもフランスも戦争の痛手を引きずっており、中国は近代以降大国としての地位がまだ確立されていなかったため、アメリカとソ連が圧倒的に優位に立っていた。自由主義、資本主義をいくアメリカと、共産主義をいき、東ヨーロッパへと勢力を拡大していくソ連は隔たりが大きく、ヨーロッパはアメリカ側とソ連側に二分され、冷戦体制が確立した。この2種類の経済・社会システムから成る冷戦体制はヨーロッパだけでなく、アジアにも広がる。


参考文献
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006 J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈8〉帝国の時代」創元社 2003
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈9〉第二次世界大戦と戦後の世界」創元社 2003
世界史講義録 第14回 総力戦となった第一次大戦 (http://www.geocities.jp/timeway/kougi-114.html

2015/01/03

読書記 ヘミングウェイ 「異国にて」(In Another Country)

「異国にて」は、第一次世界大戦のさなか、戦争で負傷したアメリカ人の、イタリア・ミラノでの療養生活中に起きたある出来事を綴った話である。1927年に出版された短編集「男だけの世界」(Men Without Women)に収録されている。ヘミングウェイは第一次世界大戦時、自ら志願して、傷病兵運搬車の運転手としてヨーロッパの戦地に行った。そして前線で砲弾を浴びて足を負傷し、ミラノの病院で治療を受けている。この物語にはヘミングウェイの戦地での体験が反映されている。

物語は、主人公が治療を受けているミラノの街と病院の描写から始まる。そして病院で主人公は、戦争前に剣士として活躍していたイタリア人少佐と最新の機械を使った治療を受けていること、少佐は機械治療の効果を信じていないこと、病院には他にもイタリア人の負傷者が集まっており、訓練が終わって前線に配置されてすぐに鼻を失った者や先鋭部隊で華々しい活躍をした者がいることが描かれる。物語に登場する負傷者たちに共通していることは、今後戦地に戻ることはないということだった。主人公が、いつものように少佐とともに機械治療を受けていたある日、彼から、結婚しているのか、と聞かれる。主人公は、結婚していないが結婚したい、と答えると、少佐は、男は結婚してはいけない、もし全てを失うことになるのなら、全てを失うようなところに身を置くべきではない、と激しく怒って答え、主人公に議論の余地も与えず部屋を出て行く。しばらくして少佐は部屋に戻り、主人公の肩に手を置き謝りながら、自分の妻が亡くなったことを話し、また部屋を後にする。少佐は3日間病院に来なかったが、3日後いつもと同じ時間に喪章をつけて現れ、機械治療を再開する。そこで物語が終わる。

ヘミングウェイは、ムダのない、控えめな表現で物語を描く作家として知られている。その作風は「異国にて」にも明瞭に表れている。主人公が見ている風景や登場する人物たちの風貌、なされた会話などが淡々と描写されており、それらの描写から、その場面に流れている雰囲気や登場人物たちの心情を読者に推し量らせようとしているようである。

ヘミングウェイはこの物語で、何を描きたかったのだろう。何かを失った男の姿を描きたかったのだと思う。物語に登場する主人公、少佐、病院に通う他のイタリア人負傷者は何かを失った男たちである。主人公は、第一次世界大戦に参加するために海を越えてきたアメリカ人だ。しかし彼は脚を負傷し、戦線からは離脱している。主人公は、先鋭部隊で活躍し負傷したイタリア人たちと同じメダルを持っているが、主人公がメダルを得たのは、つまるところ彼がアメリカ人だったからであり、メダルを得たイタリア人たちと同等の活躍はしていない。主人公はメダルを得たことを恥じてはいないが、自分は死ぬことをとても恐れており、イタリア人たちのような活躍をしなかったことを自覚している。負傷して現実に直面している主人公からは、健康な脚に加えて、戦地に来る前に抱いていたであろう自信や使命感を失った様を感じる。少佐が失ったのは、健康な手と妻である。妻の死は少佐に、強い怒り、深い悲しみ、やりきれなさ、などの激しい感情を引き起こしている。それは主人公と少佐の会話の場面から読み取れる。一方、登場するイタリア人負傷者たちは、1人は弁護士になる道を、1人は絵描きになる道を、1人は兵士として活躍する道を、絶たざるを得なくなり、1人は鼻と祖国で生きる道を失った。

上述した男たちはみな、戦争によって何かを失っている。しかし、戦争による喪失は、物語の中で簡潔に描かれているだけである。主人公の療養生活の描写が続く物語の中に、特定のエピソードとしてヘミングウェイが挿入したのはむしろ、妻を、戦争ではなく病気で亡くした少佐が取り乱す場面である。戦争は物語の中であくまでも前提として登場している。物語は「…戦争はいつもそこにあった、しかし私たちは戦地に戻らなかった」で始まるが、これはつまり、戦争はそのとき常にそこに存在しており、誰も逃れることはできなかった、そしてそこで主人公たちは戦ったがもう戦うことはない、ということである。戦争を前提とするなら、戦争による喪失は、避けられないことで、仕方のないことである。そして男たちは今、爆弾や戦いとは切り離されたところにいて、戦いに戻ることはなく、リハビリをしているのだ。そして話をしながら、互いの存在を慰めにしている。彼らにとって戦争による喪失は既に過去のものになっていて、次の人生への準備を始めているとも言える。一方で少佐は、他の者とは事情が違っている。少佐も戦争で健康な手を失ったが、少佐をより強く悲しみに浸らせているのは、妻の死である。少佐の妻は肺炎にかかって、数日で死んでしまったのだ。主人公と少佐の会話の場面では、少佐は喪失に対して強い嫌悪感と怒りを示し、悲嘆にくれ、妻を亡くしたという運命を全く受け入れることができない、とむせび泣いているようすが描かれている。喜びや希望、安らぎを不条理に奪われた少佐の姿は痛々しく、戦争の酷さや悲惨さなどは取るに足らないものかのようである。

愛する者を失った男が抱える悲しみややるせなさが、簡潔に描かれた、戦争が起きている現状、戦争による喪失によって、いっそう激しく際立ったものになっていると感じる。