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2015/09/08

もっと知りたいクラシック!

クラシックを聴くのが好きだ。初めて自分からクラシック音楽に手を伸ばしたのは高校生のときだった。岩井俊二監督の「リリイ・シュシュのすべて」の影響でドビュッシーの「アラベスク第1番」(https://youtu.be/mPpdwdOFkRI)にはまり何度もCDを聴いた。数年経ってすっかりドビュッシーから心が離れたころ、ドラマ「のだめカンタービレ」の影響でまたクラシック音楽に近づいた。ドラマで流れていた曲、コミックで紹介されていた曲をネットでたくさん聴いたから、口ずさめるクラシック曲が少しだけ増えた。それからはよくクラシック音楽を聴くようになった。年に何回かコンサートに出かけたり、部屋での作業中にネットラジオのクラシックチャンネル(http://www.accuradio.com/)を聴いたり。年末には、テレ東のジルベスターコンサートとEテレで放送されるベートーヴェンの第九を聞くことがここ数年習慣になっている。

ランダムにいろいろな曲を聴いているから、知っている曲、知っている作曲家の名前は年々増えているけれど、クラシックについて知らないことばかりである。バロック、ロマン派、印象派…曲調がなんか違うのは分かるんだけど、うまく言葉にできないなぁ。ラフマニノフの曲が好きだけど、ラフマニノフってどんな人だったんだろ?対位法って何?などなど、曲を聴くにつれて、曲の解説を読むにつれて?が増えていく。ということで、岡田暁生「西洋音楽史―「クラシック」の黄昏」を読んでみた。

この本、とてもおもしろい。ヨーロッパにおいてどのような経緯でクラシックは生まれ、どのように変化していったのか、とても分かりやすく書いてある。その時代にヨーロッパで起こった出来事と絡めてあり、西洋音楽の変遷を細部にとらわれることなく紹介しているから頭の中でも整理しやすい。出来事は、その出来事が生まれるための土壌が整っていたからこそ生まれることができた、ということを感じれる。例えば、オペラはバロック時代(1600年前後-1750年前後)に誕生した。音楽的には希望や悲しみ、勇気、怒りなどの典型的な情動に対応した、典型的な音楽表現が曲に組み込まれるようになった。時代的には、カトリック圏の王侯貴族たちが豪華絢爛な生活を営んでいたころである。彼らが毎夜のように開く祝祭に音楽は彩りを添えており、そのような環境のもとでオペラは生まれたのである。

音楽の変遷も然りだ。グレゴリオ聖歌のアレンジはその例である。著者によれば、今日でいうところのクラシック音楽は元をたどれば「グレゴリオ聖歌」に行き着く(「怒りの日」は有名なグレゴリオ聖歌の1つ。https://youtu.be/Dlr90NLDp-0)。グレゴリオ聖歌とは、「単旋律によって歌われる、ローマ・カトリック教会の、ラテン語による聖歌」(p.7)だが、この聖歌を人々がアレンジし始め、そのアレンジが人々に受け入れられたことによって様々な音楽が生まれていった。もとの旋律に新しい旋律を加えて歌う、別の言語に翻訳した歌詞を元の旋律に加えて歌う、歌詞を変えてもとの旋律に加えて歌うなどだ。いつしかこのアレンジした旋律や歌詞が主流となり、「楽しむ」という新たな機能が音楽に付加されていくのである。ここから読み取れるのは、音楽に含まれるある要素(例えば、旋律、歌詞、旋律のある一部分など)にアレンジを加えることで新たな音楽が生まれていくということである。このことはグレゴリオ聖歌にとどまらない。先に述べたバロック時代の音楽で感情を表現する行為もそうと言える。時代が下っていくにつれて豊かな感情を豊かな音によって表現するようになっていく。変化していった要素は他にもいろいろある。和音の効果、曲の形式、演奏技法や技巧など、時が移り変わる中でときにそれは精緻化され、時にその性質は消されて反対の性質のものが生み出される。特に、20世紀の前後の音楽家、シュトラウスとマーラー、シェーンベルグとストラヴィンスキーが反対の方向に進んでいくのが興味深い。前の2人はロマン派の名残を引き継ぎ自らの音楽を生み出しだが、後者2人は破壊することで自らの音楽を作っていった。当時の音楽家がそれまでの音楽をどのように感じ、それを踏まえて自分のオリジナルをどう作っていったのか…そんなことに思いを馳せながら曲を聞くのもまた、感慨深いものだ。

2015/09/04

パターン化する人間関係

10年近く付き合いのある友達と、先日ちょっとした揉め事があった。そのとき彼女は自分の結婚式&披露宴を近くに控えていて、それに参加する際の私の服装について指示めいたことをしてきた。私はそれに呆れかえって参加を断り、その後何度も催促されたが結局参加しなかった。揉め事が起きてから数ヶ月が経った今も、私の行動はあれでよかったのかな、というもやもやが少し残っている。

今回の揉め事の直接的な原因は、結婚式に参加する際の服装について彼女からあれこれ指示を受け、それを私が拒否したことによるのだが、実際はこれまでの私たちの関係で起きたあれこれも大いに関係している。詳細を書くことは避けるが、私は以前から彼女の私に対する発言にイライラすることがたびたびあった。その多くは、私をコントロールするような、上からの物言いだ。彼女が実際私に対してコントロールしようとしていたのか、優越感を感じていたのか、はたまた全くそういう意識はなかったのかは定かではない。ただ、私自身はそう感じた、だけである。でも私は気持ちを彼女に打ち明けることはなかった。なぜかと問われれば理由はいくつか挙げられるが、どれもこれも今となっては後付けのような気がしてくる。1つは、私が彼女に対して文句を言うことで彼女が嫌な気分になるだろうと思ったこと、もう1つは、人間関係がこじれるのは面倒であり、こじれた後収拾する自信がなかったこと、さらにもう1つ、長年の付き合いだからまぁいいかと思ったこと、である。しかし、この状態を何年も続けてきたつけが回ってきた。私はこの状態に耐えられなくなって、彼女の人生の思い出である結婚式への参加を拒否したのだ。

これらのことを振り返ってみると、私と彼女の関係にはあるサイクルができていたように感じる。彼女が私に上からの物言いをする→私はイライラしているのにも関わらずそれを受け流す→彼女は私の気持ちを知らないから上からの物言いを繰り返す/エスカレートする、というサイクルである。このサイクルでは、私の事なかれ主義的態度は彼女の私への上からの物言いを助長させるように働くと考えられる。強化学習のようなものだ。私はこのサイクルを意図的に引き起こしたわけではないし、おそらく彼女も同様にそんなつもりはないと思う。ただ、お互いのそれぞれの意図による振る舞いが組み合わさり、結果としてそうなっただけだ。

このような、人間関係のパターンは先日帰郷した時に親の会話にも感じた。両親は、普通に2人で会話していたと思ったらいつのまにか口論になっていることがよくあるのだが、聞いていると大体いつも本質的には同じようなところで口論が生じ、母がしゅんとなって終わる。口論が生じるのは、どちらかが相手の汚点(汚点といってもたいしたことはない。いびきが大きいとかそのくらいの話だ…)をなんかの拍子に指摘するか、相手が自分の思い通りに動かないとき、それにちょっとケチをつけるかのいずれかである。しかしその発端が一旦生じるとあとはエスカレートしていくばかりだ。おそらくどちらも最初から口論するつもりなんてないし、相手が自分の言った何かに対して過剰反応するとも思っていない。だからいつも同じパターンを繰り返すのだろう。

今回私が彼女にした「結婚式に行かない」という行為は、繰り返し続けるサイクルに一石を投じたと考えることができる。受け流すから拒否へと転換したからだ。これから私たちの関係がどうなっていくかは分からない。ただ、私はこのことでけっこうなエネルギーを消費した。慣れないことをしたからか、揉め事を起こしてからしばらくは気が気じゃなかった。未だに後味が悪い。そして火種を大きくする前に手を打っとけばよかったと思った。

2015/08/20

ニュアンスが大事なの

ここのところ、マーク・ピーターセンの書いた「日本人の英語」シリーズ3作を読んでいた。「日本人の英語」、「続 日本人の英語」、「心にとどく英語」だ。20年近く前に出版された本だが、とても勉強になった。というのも、日本語にはないけれど英語にはある考え方や概念を日本語で説明してくれているからだ。たとえば冠詞と単数・複数の区別。英語には名詞の前にa, an, theなどの冠詞をつける場合があり、しかも複数形と単数形使い分けているが、日本語は冠詞はなくてOKだし、複数にするか単数にするかを文をつくる度に気にしない。だから日本語話者はたいてい、この名詞にはどの冠詞をつけるのがいいのか、複数形にしてしまうのがいいのかと悩んだり、冠詞を付け忘れたり、ということになる。私がいつも経験していることだ。一方英語話者は、本によれば、その名詞を発する時点でどの冠詞を使うか、複数形にするのかは既に決まっている。名詞にはその名詞が表す概念があり、冠詞にもその冠詞が表す概念がある。そして名詞と冠詞を組み合わせた時、組み合わせの違いで語同士の間にニュアンスの差が現れる。それをふまえたうえで話者は、言葉を発する際に自分の伝えたいことが伝わる語を選択しているのである。

言葉のもつニュアンスは、自分の言いたいことを相手に正確に効果的に伝えようとすればするほど大切になってくる。母国語ではない言語を使うならなおさらだ。私は中学レベルの単語ですらニュアンスをよく分かっていないと感じることがある。例えば「可愛い」ということを伝えたいとき、cuteを使うのがいいのか、prettyを使うのがいいのか…。前置詞も一通り中学校で習ったけれど、熟語として暗記している使い方以外、それぞれの前置詞の使いどころや、前置詞を使うべきかどうかの判断がいまいちできていない。和英辞典を使って日本語のある単語に相当する英単語を調べたとき、2つ3つ英単語が載っているときも困る。どれを使うのがいいのか…。神経質に考えすぎる必要はないが、伝えたいことが伝わらないことを避けるため、できるだけ適切な言葉を選びたい。英英辞典を使いこなせたら、この悩ましさは多少和らぐと思われる。英語を英語で説明しているからニュアンスの違いも示されている。それを感じ取り、身に付けることができたら今よりスムーズにコミュニケーションできるはず。あとは「日本人の英語」シリーズのように、英語の感覚を日本語で伝えてくれるものを活用する。英語のことでも日本語で理解できるにこしたことはない。そして日々の練習。英英辞典などで学んだことを英語を使うときに適用し続けること。

日本語にはないけれど英語にはある概念や考え方、英語の単語がもつ微妙なニュアンスは、中学校や高校での英語教育を通じても学ぶことができたらといいなと思う。少なくとも、私が中学や高校で英語を学んだとき、そういう教育はなかったし、現在塾で英語を教えていても、生徒たちが学校でそのようなことを教わっているという印象を受けない。私は高校時代、英語と日本語は容易に変換可能であり、構文や単語を暗記すれば済むと思っていた。それでも受験はどうにかなるし、確かに私の英語力はこのときの知識に支えられているところが大きい。でも、英語を使って自分の伝えたいことを伝え、それが相手に伝わる、相手が自分に伝えたいことを理解する、といった実践的なコミュニケーションをするときには、それだけでは十分ではないことも痛感している。それに、そういう微妙なニュアンスの違いや考え方の違いを知りながら英語を学んでいくほうが、ただ機械的に暗記するよりも頭に残りやすいし、応用がきくし、楽しいのではないだろうか。英語だって日本語と同様に、話者の意図や思いが込められて発されているのだから、そこにもっと注目してもいいと思う。

2015/07/20

「Dr.倫太郎」 雑感

4~6月期、日テレで放送されていたドラマ「Dr.倫太郎」を全話見ていた。精神疾患とその治療の話はけっこう好きで、1話が始まる前の予告を見たときから絶対見ようと決めていた。全体を通しておもしろいドラマだった。1話でいきなり、ハリセンボンの近藤春菜が自殺未遂者として登場したのはかなりびっくりだったが、精神疾患の描き方とか、患者の話を聞き、共感を軸に治療をすすめていく倫太郎のスタイルと、脳の画像などの客観的データで判断し投薬メインで治療をすすめていく宮川教授のスタイルの対立とか、とてもリアルな感じがした。それに、高畑淳子と蒼井優の演技がとてもよかった。高畑淳子と蒼井優は劇中では母娘関係にあり、蒼井優は子供の頃の母親との関係によって解離性人格障害になり、高畑淳子はそんな娘を金づるにするギャンブル依存症の母親を演じていた。高畑淳子は何かが憑依したような、まさしく重度の依存症の演技で、昨年のドラマ「きょうは会社休みます。」のときの主人公の母親の演技とのギャップがすごかった。蒼井優は衝動的で世渡り上手な人格とおとなしく心優しい人格の対照的な2人の人格を明確に演じ分けていた。そして、毎回描かれた母娘のどろどろの共依存関係は痛々しいものだった。

ところで、昨今の精神科医のスタイルは、倫太郎ではなく宮川教授のスタイルが主流らしい。昨年受講していた精神医学の講義では、精神科医は的確な診断と投薬指示がメインで、患者の話を聞くことをメインとするのは、臨床心理士やカウンセラーだという話を聞いた。一方、臨床心理学の講義でも、患者の内的世界の把握よりも、症状などの客観的なエビデンスに基づく見立てと心理療法にシフトしてきているという話を聞いた。理性の時代、これは当然の流れだと思う。

薬物療法や画像診断の必要性は承知しているし、それらの発展も望んでいるが、倫太郎の、患者(相手)をまるごと受けとめ共感する姿勢は好きだった。疾患の程度や種類にもよるが、つまるところ人は、他人から認めてもらい、自分でも自分を認められるようになることによって変化しうるのだろうと感じた。そんなことを感じながらドラマを見ていた矢先、倫太郎のスタイルは、精神科医コフートの理論を元にしたものだと知った。そこで、このドラマの制作に協力していた精神科医・和田秀樹の「「自己愛」と「依存」の精神分析―コフート心理学入門」を読んでみた。

コフートの理論のベースは、人間誰でも持っている自己愛を満たしてあげましょうということである。自己愛とは、自分が自分を愛する気持ちを指す。自分はすごいんだ、立派だ、と思ったり、相手に自分のことを褒めてほしい、愛してほしいと思う、そんな気持ちをコフートは肯定する。そして自己愛が周囲の人から満たされないとき、いびつな形の自己イメージが出来上がる一方、自己愛が満たされれば、相手との関係を通じて自己が適切にまとまっていくとする。また、コフートは「共感」を重視する。自分が相手が置かれている状況にいたらどのように考え、感じているかを想像しながら相手の話を聞き、相手の内的世界を観察する、というやりかた(客観的なスタンスをとる)である。なるほど、倫太郎のは、共感でもって自己愛を満たすスタイルとでも言おうか。

余談だが、私が心理学に興味を持ったきっかけもこの手のドラマだった。小学生だったころ、日テレで放送されていた「心療内科医・涼子」を見て、「心も病気になるのか。」「心が傷つくのって目には見えないけど、大変なことなんだ…」と強い衝撃を受けたのを今でも憶えている。

2015/07/13

読書記 ケストナー「飛ぶ教室」

この話を読みながら感じていたのは、こんな友情すごくいいなぁ、こんな大人ステキだなぁ、ということ。裏をかかれることも、斜めから読まないとよく分からないなんてこともなくて、ストレートに読んでストレートにいい!と言えることがいっぱいつまった話だった。それに心がほっこりするようなあったかい話。ドイツの作家、ケストナーの「飛ぶ教室」だ。

この話は児童文学として書かれたものらしい。だからだろう、メインの登場人物はドイツでギムナシウムに通う14歳前後の男の子5人、マルティン、ジョニー、マティアス、ウーリ、セバスチャン。そして彼らの先生とその友達、ライバル校の生徒たちも登場する。5人の男の子たちにはそれぞれ異なるキャラクターが設定されている。マルティンは正義感の強いしっかり者で、5人のうちではリーダー的存在。ジョニーは繊細でおとなしめ、想像力豊かな文学少年。マティアスはいつもお腹をすかしているけど喧嘩は強い。ウーリはそんなマティアスの影に隠れる小さくて弱い男の子。セバスチャンは頭の回転の早いあー言えばこー言うタイプの少年だ。彼らは互いにいいところと欠けているところを分かっていて認め合っている。それに信頼もしている。それぞれが活かすべきところでいいところを活かし、欠けているところを互いに補い合えるから、いろんなことに対処していける。もちろんそれには、そんな5人を温かいまなざしで見守っている先生(正義さん)とその友達(禁煙さん)の存在も大きいのだけれど。彼らは少年たちを信頼し、知恵を与え、人としての道を示す。

あまりにも率直に、それこそ理想的とも言える人間関係、少年たちの成長の物語が紡がれているから、現実はそううまくいかないんだよね、とつっこみたくなっちゃうのだけれど、でもこういうシンプルな理想的なものは心の片隅に留めておきたいなと思う。

この話は、上記した少年たちの物語のほかに子どもたちに励ましのメッセージも送っている。小説全体が枠構造になっていて、「まえがき」と「あとがき」が上記した物語(第1章~第12章)をはさむ構成になっているのだが、「まえがき」と「あとがき」の主人公は、はさまれた物語の作者で彼が子どもたちに現実的な説教を与えているのだ。その中で印象的だったのは、
”きびしい人生は、お金を稼ぐようになってから始まるわけではない。そこで始まるわけでもそこで終わるわけでもない。…ただし、自分をごまかしてはいけない。ごまかされてもいけない。災難にあっても、目をそらさないで。うまくいかないことがあっても、驚かないで。運が悪くても、しょんぼりしないで。元気をだして。打たれ強くならなくちゃ。” (p.22)
というもの。 私は子供のころに読んでいた話や見ていたアニメから、また周囲の大人たちから、このようなことを教わらなかったような気がする。お話やアニメでは、誰かが困難に陥ったら、たいていその人は助けてもらえていた。「打たれ強くなれ」というより、「助けてくれる人はいる」とか、「困っている人がいたら助けましょう」のようなメッセージだったのだろう。それに大人たちも現実の厳しさをそんなに伝えてこなかったように記憶している。もちろんそれは私を守るためだったのだろうけれど。

別に上の引用のようなことをしなくても生きていける。なんだかんだとごまかしていくほうが楽だし、助け手だって現れるだろう。それに実際問題、いざそういう状況に直面したとき、引用のように行動するのはなかなか難しい。子供だけじゃなくて大人だってそうだろう。いや、むしろ大人のほうが経験を積んで知恵がある分難しいかもしれない。でもそうすると結局、つけをいつか死ぬまでに払わなきゃいけないんだろうと思う。だったら1つ1つ正直に向き合って対処していくことを目指したい。それに、始めるなら早いほうが断然いい。

ケストナーの率直な物言いは、読んでいてとても気持ちがよかった。

2015/06/18

MOOCs体験記

MOOCsとは Massive Open Online Courses の略称で、インターネット上で公開されている講義を無料で受講できるサービスのことである。MOOCsで初めて講義を受けたのは2年くらい前のことだったが、講義内容がとても充実していて、かつオンラインだからこそできるいろいろな試みが講義に組み込まれていて、とても魅力的なサービスだと感じた。それから今まで、時間に余裕のあるときや、面白そうな内容の講義を見つけたときに受講しているのだが、ちょっと◯◯について知りたいとか、◯◯に興味があるけれど、何から始めよう、というようなとき、効果的に使えるサービスだと感じている。本を読むより分かりやすいし、なんといっても気軽に始められる。

MOOCsで私が最初に受けたのは、Coursera (https://www.coursera.org/)というプラットフォームで開講されていた「Introduction to Psychology」(https://www.coursera.org/course/intropsych)だった。トロント大学の心理学の教授が開講していた授業で、とにかく内容が濃かった。2ヵ月の開講期間中、いくつかの心理学のトピックに関するビデオ(全体では2時間前後の講義がいくつかの動画に分割されている)が毎週アップロードされ、それを見て受講する。そして、彼の講義に関連する情報が提示されている動画やサイトのリンクをたくさん紹介されるので、自分の興味に合わせて学習を進めることが可能だった。さらにこの教授は、受講者が被験者/実験者として参加できる調査および統計分析のシステムのプラットフォームをオンライン上で公開していたから、それに参加することで簡易的な心理学調査を実際にやってみることができた。このコースは、オンライン上で課題を提出したり、講義で話されていたことに関するクイズなどをやることで修了証とスコアがもらえる。私は課題レポートは提出せず、その他の要件を終えて修了証を得た。

Courseraで受けたもう1つの印象的な授業は、「Introduction to Public Speaking」(https://www.coursera.org/learn/publicspeaking)だ。ワシントン大学の教授が開講していた講義で、英語試験のスピーキング対策にと思って受講した。さすがスピーチについての講義である。とにかく迫力のあるプレゼンテーションで、しかも実用的。即興スピーチから情報を与えるスピーチ、説得のスピーチまで段階を踏んでいけるように構成されていて、スピーチの構成、表現の仕方、話し方などの要点は簡潔にまとめられていた。課題は、その要点に基づいて自分でスピーチを作り発表するというものだ。私は即興スピーチのみ参加したが、まず自分のスピーチを録画して、Youtubeにアップする。その動画を他の受講者が見て、評価するというしくみだ。他の受講者のビデオを見ていたとき、本当にいろんな人が受講しているということを実感した。Courseraは米サイトだが、受講者はヨーロッパや南米からもたくさんいたし、年齢もばらばら。自分と同じようにスピーチをよくしようとしてがんばっている人がいる、と知れたことは励みになった。

今は、数週間前にたまたま見つけたJMOOCのサイト(http://www.jmooc.jp/)で1つ受講している。何かを学ぶときのとっかかりとして、MOOCsは大いに活用できると思う。