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2015/11/23

言語連想実験をやってみた

先日大学の実習で言語連想実験を行ったのだが、これがけっこうおもしろかった。言語連想実験とは、あらかじめ準備されていた刺激語(頭、水、炊く、牛など)を被験者に提示し、それぞれの刺激語から連想されることを答えてもらう、というものである。被験者がどのようなことを連想するか、答えを発するまでにどれくらい時間がかかるかなどを手がかりに、被験者のパーソナリティの特徴や内的に引っかかっている感情などを探っていく。心理学者のユングが臨床現場で用い、手法を確立した。ユング被験者の回答を分析するに際して注目したのは、反応の揺れである。他の単語よりも反応時間が遅れる、反応語を思いつけない、刺激語をそのまま繰り返して答える、刺激語を明らかに誤解する、再検査時に忘れる、同じ反応語を繰り返す、明らかに奇妙な反応をする、前の刺激語での反応を次の刺激語に反応する際に引きずる、などの反応の揺れに、被験者の無意識に潜むコンプレックス(感情複合体)が投影されていると考えるのである。


今回はじめて、実験者と被験者の両方を体験した。実験の仕方はいたって簡単。実験者は被験者に100個の刺激語を順番に提示していく。そのとき被験者は、それぞれの刺激語に対して、その言葉から連想したものを答える。深く考え込む必要はない。思ったことをそのまま言えばいいだけだ。実験者は、被験者が言ったこと(反応語)と反応時間を書き留めておく。100個全て終わったら、再生実験を行う。再生実験は、被験者が自分が発した反応語を覚えているかを問うものである。はじめに提示した100個を再度提示し、それぞれに対して自分が先ほど答えた反応語を言ってもらう。それで実験は終了である。

言語連想実験を実際に体験してみておもしろかったのは、自分がある語に対して何をどう連想し、何を声に出すかのプロセスを垣間見ることができたことである。まず実験者から刺激語を呈示されると、ほとんどの場合、その刺激語に関するイメージや経験がすぐに頭の中に広がる。自分になじみのある刺激語の場合はより早く強いイメージ、記憶に残っている経験が浮かんでくる。ちなみに、呈示される刺激語に意味の分からないものはなく、直感的に理解できる簡単な単語ばかりだった。そしてその、頭に浮かんできたイメージや経験をもとに反応語を発していく。浮かんできたイメージの特徴に関係する単語を発することもあれば(例えば、熊―茶色い)、その刺激語の内容を自分はどう感じているか(例えば、タバコ―嫌だを発した場合もあった。また、自分の経験をそのまま発したり(例えば、眼鏡―軽い。私のメガネは軽い)、単に一般的な知識として学習されたようなことを発したり(例えば、マリア―聖母)もあった。これらは、頭の中にスムーズにイメージが浮かび、ストレートに反応したものである。 

しかし、実際100個の単語で実験してみると、そうスムーズ&ストレートに反応できるものばかりではない。これがユングの重視する反応の揺れなのだろう。例えば、反応時間がほかの刺激語よりも長くかかった言葉のひとつに、「結婚式」があった。この単語を呈示されたとき、私は自分の中で激しい感情が喚起されたのを自覚した。なぜかといえば、結婚式にまつわる10年来の友人とのいざこざが原因である。このブログでも以前書いたが(http://yukiron.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html)、そのいざこざで私は、彼女に対する怒り、呆れ、10年来の友人であるにも関わらず彼女のハレの日をお祝いしなかったことの罪悪感、これで本当によかったのだろうかという疑念など、様々なものが混ざり合った感情を体験することとなり、どっと疲れた。j実験で結婚式という刺激語を聞いたときにまず連想したのは、これらの経験だった。だから言葉で発するのに躊躇し、どう言えばいいのだろうと言葉を選んだ挙げ句、発したのは「面倒くさい」であった。私は確かにこれらの自分の感情を扱うのに手を焼いていたし、当時よりは収まったものの、未だに思い出すと不快な気分になる。 もう1つ、反応時間が長く、感情が喚起されたと自覚した刺激語は「キス」である。この言葉を聞いたとき、少し気恥ずかしい気持ちになった。これは自分のこれまでの経験や、そのときの感情が実験者に漏れ出て伝わってしまうように感じたのかなと解釈した。ちなみに、私ははにかみながら「好き」と答えた…。

一方、感情を喚起され、かつ他と比べて反応時間が短かった刺激語もあった。「こわい」と反応した、「怒鳴る」「やくざ」「怒る」「教える」「ライオン」はその最たる例である。これまでの経験や得た知識から、これらのイメージに「こわい」という感情が結びつき、自分の中に刷り込まれているから素早く反応したのだろうと思った。こわいという感情は、自らを守るために必要不可欠な感情である。自分を守るためには、こわいものを迅速に判断し、さっさと防衛反応(撤退、フリーズなど)を表出したほうがよい。また、単純に反応時間が短かったものは、「お金持ち」と「教える」という刺激語であった。それぞれ、「うらやましい」「難しい」と反応していた。どちらの刺激語も最近の私にはとても馴染み深い言葉だ。現在私は、塾で英語講師として働いており、生徒たちを高得点へと導くことの難しさを感じている。英語が苦手な子たちの苦手意識はどこから来ていて、どうしたら取り払うことができるのか、中学生に理解してもらえるくらい分かりやすく説明するにはどうしたらいいか、どうしたら英語を好きになってもらえるか、など、日々試行錯誤中である。「お金持ち」については、貯金がどんどん減っていくことにかなり危機感を抱いているからにすぎない。節約生活を送っており、お金持ちの人を見れば、うらやましいと感じるばかりである…

他に、特に感情は喚起されなかったものの、反応時間がほかより少し長めだったものもあった。例えば「パソコン」と「インターネット」である。あくまでも推測にすぎないが、自分の視界にパソコンが入っていたことが連想の妨げになり、スムーズにいかなかったためではないかと感じている。あるいは、どちらも私にとっては馴染み深く、生活の必需品と化しているがゆえにたくさんのことが連想されてしまい、発声するどれを選ぶか無意識的に迷っていたのかもしれない。「雪」という刺激語でも反応時間が遅れたのだが、これは私自身が反応語を操作したためである。「雪」と聞いた時、白い」というイメージが浮かんできたのだが、「雪」より前に呈示された刺激語で「白い」があり、そこで「雪」と反応していたため、回答に躊躇した。なんとなく、同じにしてはいけないような気がしてしまったのである(もちろん、実験にそんな縛りはない)。そこで自分の名前がゆきであることに気づき「名前」と答えた。反応した後、ぎこちなさが残ってしまっていた。ちなみに、自分が発した反応語を再生する再生実験では、「雪」に対して「白い」と発し、そのあとすぐ、そういえば最初は「名前」と答えた思い出した。最初にいろいろ考えていたことが払拭され、自然に反応してしまったのだろうここからも、「名前」が直感的に出てきた反応ではないことが分かる。


以上が、私の被験者としての反応を自分自身でざっくり分析してみたものである。専門家が見たらどのような分析をするのか、少し気になるところだ。ただ、こういうのは分析者の主観によるところも多いのだろうなと感じている。自分が対象に対して普段感じている感情はもちろん、特段意識していない感情や思い、あるいは意識的に/無意識的に隠そうとしている感情や思いを知るきっかけを、言語連想実験は与えてくれる。

2015/11/03

ヨーロッパにおける動物観の変遷

※このテキストは、大学の「人間・文化・社会」(2014年前期)の講義の際に提出したレポートをリライトしたものである。

「動物園」は現代の私たちにとって馴染みのある施設である。子供のころ誰しも一度は動物園で動物を見たり、エサをあげたりしたことがあるだろうし、日本においては、上野動物園にパンダを一目見ようとたくさんの観客が押し寄せたことが記憶に新しい。動物園は私たちに、動物たちの暮らしぶりを知る機会や、余暇の楽しみを提供してくれる。しかし動物園がこのような、教育とレクリエーションの機能をもつようになったのは、近世の終わりから近代にかけてのことである。このころヨーロッパでは、近代動物園の走りとなる動物園が誕生した。1773年、フランス・パリの王立植物園に動物飼育施設が追加され、一般公開された「ジョルダン・デ・プラント」、1779年にオーストリア・ウィーンにて神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世が一般公開した、「シェーンブルン動物園」、1827年にロンドン動物学会がイギリス・ロンドンに設立した「ロンドン動物園」である。しかし、これらの動物園の原型は古代までさかのぼることができるという。本レポートでは、中世から近代動物園が誕生したころのヨーロッパにおける、動物園に象徴される動物観の変遷を論じたいと思う。

富や権力の象徴としての「動物コレクション」 
ヨーロッパにおいて、動物園の原型ともいえる、野獣や珍しい動物を自国、他国から集めた「動物コレクション」(溝井 2014.p.18)は、古代から中世にかけて存在していた。「動物コレクション」の目的は、権力者たちが自分の富や力を内外にアピールすることである。裕福でなければ動物を飼うことはできないし、他国とのつながりがなければ珍しい動物を集めることはできない。 
中世ヨーロッパでは、王侯貴族や聖職者が所有する動物コレクションが存在した。神聖ローマ帝国のカール大帝(742-814)は、イスラム帝国からゾウやサルを、カイロからライオンやクマを受け取っている。また、同じく神聖ローマ帝国のフリードリヒ二世(1194-1250)は、イタリアのパレルモ、ルチュ―ラ、フォッジャなどに大規模な動物コレクションを構えていた。他国との動物も交換を積極的に行ったほか、他地域に訪問する際にライオンやトラ、ラクダなどを引き連れていたという。イギリスでは、ウィリアム一世(1028頃-1087)の時代から外来動物が集められ、ヘンリー一世(1069-1135)、ヘンリー三世(1207-1272)へと引き継ぎながら規模を拡大し、ロンドン塔で飼育されていた。フランスでも複数の王が城で動物を収集し飼育していた。ルネ・ダンジュー(1409-1480)はアンジェ城にライオン舎や小型哺乳類、有蹄動物、ダチョウ、大型鳥類の飼育施設、水鳥用の池などを保有し、専門の飼育人たちが世話をしていた。また、使者を派遣して、北アフリカや地中海東部沿岸地方で動物の購入を行っていた。 
ここから読み取れる動物観は、「自然界において動物は人間よりも絶対的に下位であり、支配の対象である」という思想である。この動物観はキリスト教が普及し、勢力を強めていくなか、より強固なものになっていったと思われる。政治と宗教が強く結びついていた当時、動物コレクションを有する権力者たちとキリスト教のつながりは深く、聖書での人間による動物支配の明文化によって(旧約聖書・創世記には、神は自身の姿に似せてひとを作り、ひとに動物たちを支配させる旨の記述がある)、動物は人間のために利用されて当然とみなされていたと考えられる。

見世物としての「メナジェリー」 
近世になると、動物コレクションは動物たちを見世物として収集、展示する「メナジェリー」へと変化した。フランスのルイ十四世(1636-1715)は、ヴェルサイユ宮殿の庭園にメナジェリーを設立した。パビリオンから、7つの区画に分けて配置された動物たちの飼育舎を眺めることができるように設計されており、鑑賞に特化していたという。飼育舎には、ヒツジや水鳥、外来の鳥、ジャコウネコやキツネ、ウシやクジャク、マングースなどがいた。また珍しい動物の収集も熱心だったようだ。オーストリアのシェーンブルン宮殿にフランツ一世(1708-1765)が設立したメナジェリーは、現在のシェーンブルン動物園の中核を成している。放射状に広がった13の飼育舎を所有していた。これらのメナジェリーは動物研究に利用されることもあった。フランス・ヴェルサイユのメナジェリーでは1669年から1685年にかけて90種類の動物たちの解剖が行われ、動物の生態や特徴、内臓のスケッチなどの詳細な記録が残された。 
一方、オランダやイギリスでは、民営のメナジェリーが誕生した。民間のメナジェリーは商売目的で運営していた。集客のため、階級の低い層のための安い料金や子供料金、学生割引、複数回入場券などを用意し、宣伝やイベントなども盛んに行っていたようだ。巡回するメナジェリーもこのころヨーロッパで普及しており、巡回メナジェリーは「人びとの教育のためと称して、珍しい動物を大量に人びとに見せていた」(溝井 2014.p.127)という。 
このころ、動物は引き続き人間から支配され、利用される対象だった。動物コレクションに見られた個人の力のアピールに加え、商用も進む。飼育された動物は、メナジェリーの登場で多くの人びとの目に触れることとなり、動物への興味・関心は一般大衆にまで広がっていった。そして、生活に余裕のある大衆を中心に、楽しみのために動物と関わる、という動物観が普及し始めたと言える。また一方で、自然に関する知識が増え、科学技術の発展が進んでいった時代でもあり、様々な種類の生きた動物を目の当たりにしたり、解剖したりして動物についての知識が増えるにつれて、古代ギリシアで見られたような客観的に観察、分析する対象として動物を捉える姿勢が根付く。古代ギリシアでは、一部のギリシア人は動物を研究対象として捉えており、ヒポクラテス(前406頃-375頃)は、動物を陸上、水棲、飛翔動物などに分類し、アリストテレス(前384-322頃)は動物たちを観察し、様々な基準によって分類したものを『動物誌』という本に記載した。古代ギリシアでのこのような動物観は、当時自然哲学が盛んに行われていたことと関係があると思われる。メナジェリーが各地で広まっていったころのヨーロッパでも、知識人の間で「動物とは何か」の考察が進むこととなり、人間と動物の違いについて複数の説が現れた。

教育・研究色が強まった「動物園」 
メナジェリーは近代に入り、教育・研究色が強まった動物園へと徐々に変化していった。先に挙げた、パリの「ジョルダン・デ・プラント」のコンセプトは「新しい自由国家と新しい科学意識の象徴」(溝井 2014.p.145)であり、多様な動物を広い空間に集め、種ごとに分類、記録していくことが目的だった。この時代に誕生したロンドン動物園は、1825年に発表した設立趣意書の中で、設立目的を下記のように残している。「長年、博物学の研究者にとってはなはだ遺憾であったことは、動物学の教育・研究のための大規模な施設がないことと、動物の本性、特性、修正を研究できる生きた動物のコレクション、すなわち公共の動物園がないことであった。(略)つまり、世界中から集めた動物は、低俗な感嘆をよびおこすためではなく、科学研究の対象として用いられるか、あるいはなんらかの有益な目的にあてられるだろう・・・」(G・ヴェヴァーズ 1979.p.17-18)外来種の動物も含め、ゾウやトラ、ハイエナ、ラマ、ワタリガラス、ワシ、オオヤマネコ、オランウータンなどが飼育され、特権者階級から労働者階級まで、あらゆる階層の人々の娯楽の場ともなった。 
1907年、ドイツのハンブルグにカール・ハーゲンベックが開園した「ハーゲンベック動物園」も代表的な近代の動物園である。檻を使用せずに濠や岩で区切った場所で動物を飼育する「無柵放様式」と呼ばれる展示方法を自身の動物園に取り入れ、観客たちに野生に近い環境で動物たちが暮らしているさまを見せた。また、彼は動物と人間を同じ存在として扱い、調教の際には鞭やこん棒などで暴力をふるいながらではなく、良い芸をすれば餌を与え、悪い芸をすれば叱るという、飴と鞭戦略で調教したという。 
近代の動物園を通して見られる動物観は、メナジェリーを通して見られた動物観を踏襲している。動物を研究対象として捉える姿勢と動物を娯楽のための手段として捉える姿勢が広く普及した。動物は引き続き人間の支配下にあるが、動物への客観的な理解が進み、動物を、単に人間に従属するものとして好き勝手に扱うのではなく、人間が持つような命を持つ存在として認識し、扱う思想が見られる。 
以上のことから言えるのは、動物たちが、個人の力をアピールするという目的のもと主に権力者個人に利用されるものから、一般大衆の楽しみや教育といった公の目的で利用されるものへと変化した、ということだ。そして、キリスト教思想と科学の発展を背景に、動物観も変化していった。つまり、キリスト教思想のもとに形作られた、人間は動物に対して絶対的優位であるために、動物を好き勝手に扱ってよいという思想は、動物についての客観的な知識が増すにつれて、人間が人間に対して持つ倫理観を動物たちにも適用し、動物たち自身の特性や生態を考慮して扱うことへと変化していったのだ。 


参考文献 
溝井裕一「動物園の文化史―ひとと動物の5000年」勉誠出版、2014年
H・デンベック、小西正泰訳「動物園の誕生」築地書館、1980年
G・ヴェヴァーズ、羽田節子訳「ロンドン動物園150年」築地書館、1979年

2015/10/15

朝ドラとたくましい女性たち

新しい連続テレビ小説「あさが来た」が始まった。始まって2週間ちょっと、毎日見るのが楽しみになってきた。「あまちゃん」の再放送が終わってちょっと寂しかったから、毎日楽しみにできる朝ドラがまた始まって嬉しい。そう、私は朝ドラが好きなのだ。

とはいえ、私が朝ドラを好きになったのは最近のことである。これまでに全話観た朝ドラは3つ、「梅ちゃん先生」、「マッサン」、「あまちゃん」だ。「あまちゃん」は毎話毎話おもしろかった。なんといっても登場人物たちの掛け合いがおもしろい。観ているうちにどんどんはまってしまった。それぞれのキャラクターが強烈で個性派ぞろい、しかも人懐っこい。実際にいたら会ってみたい人たちばかりである。特に勉さん、大吉さん、夏ばっぱ…。この半年、「あまちゃん」でときには大笑いし、ときには感動し、登場人物と自分を重ね合わせて共感し、挿入歌の「潮騒のメモリー」までつい口ずさんでしまう日々を過ごしていた。

「あまちゃん」は好きな朝ドラだ。だが、実は私は「あまちゃん」以上に「梅ちゃん先生」が大好きだ。朝ドラが好きになったのも「梅ちゃん先生」がきっかけだった。「梅ちゃん先生」は、戦前の東京・蒲田に生まれた梅ちゃんが、町医者として地域の人たちの支えになるまでを描いた、女性の半生物語である。小さい頃からドジで失敗ばかりだった梅ちゃんが、医者になろうと決意、周りで起こるいろいろな問題に対処しながら医者として活躍する。失敗ばかりでもあきらめないし、周りで起こる問題には時間をかけても丁寧に対処する。人を大切にし人と一緒に生きていく。そしていつも自然体――そんな梅ちゃんのキャラクターが大好きだ。

私は昔、強い女性になりたいと思っていた。私が当時イメージしていた強い女性像…それは、いろんなことができて困難をものともせず乗り越えていくような、スーパーウーマンだった。でもそれは現実的でないことがわかった。1人ができることなんてたかが知れてて、困難にぶつかれば、大変!辛い!と思って立ち止まるほうが自然。私がイメージする強い女性の像は変化していった。今その像は、強いという表現より「たくましい」という表現のほうがしっくりくる。目指すところに向かってしぶとくやり続ける、かといってそれ一筋、それしかしませんではなくて、日常生活の他のもろもろのこととか周りの人のこととかも考えることができる、そして自然体でもある。そんな女性がいいと思う。私にとって梅ちゃんは、たくましい女性の一例である。今期始まった朝ドラ「あさが来た」の主人公あさも、そんなたくましい女性を彷彿とさせる。だから毎日見たいと思うのだろう。そういう女性を見ていると、私もがんばろう!って気持ちになる。力をくれる。

朝ドラの女性たちのことを考えていたら、少し前にとてもはまってヘビロテビデオを思い出した。スプツニ子!氏の「ムーンウォーク☆マシン、セレナの一歩」のMVだ。


世界で初めて月面にハイヒールの足あとをつけることを目指して、夢中でローバを設計するおしゃれな可愛い女の子。このビデオも、私に力をくれる。

2015/10/04

記憶の失敗を考える

※このテキストは、大学の「認知心理学」の講義(2015年度前期)に最終レポートとして提出したものをリライトしたものである。

「ちゃんと覚えたはずなのに思い出せない」「相手に話したと思っていたのに実は話していなかった」など、記憶のあいまいさが露呈する出来事は日常生活でよく起こる。先日映画を見たときもそのような出来事が起こった。映画「ブレードランナー」を見ていたのだが、この映画には折り紙で折られた動物が登場する。登場人物の1人が訪れた場所で折り紙を折り、作ったものを置いていくのである。私は映画を見終わったあと、前にその映画を見たことがある友人と、折り紙の動物について話をした。映画のラストシーンで登場した折り紙の動物は何だったか。私は、それは確か鶴じゃなかったかな…と思った。しかし友人は、鶴じゃなかったはずと言いつつ思い出せない様子。実際にラストシーンをもう一度見てみると、四足で額に角の生えた動物、ユニコーンだった。私たちはラストシーンで折り紙の動物が登場したことを認識しており、しかも動物は画面に数秒間映っていたから、覚えるには十分な時間だったはずである。さらに、その動物は明らかにユニコーンだと分かる形態をしていた。それなのに私たちは2人とも正確に記憶していなかった。記憶の過程で何らかの失敗が起こったのである。そこで、これまで認知心理学で提唱されてきた理論を元に、記憶の失敗について考えていきたい。


記憶の2つの考え方
まず、記憶の失敗を考えるうえで指針となる考え方を2つおさえておく。1つは記憶の3つの段階である。記憶とは、刺激を取り入れて記憶痕跡に変換、貯蔵し、その記憶痕跡から情報を取り出す一連の過程を指す。それぞれの段階は、符号化、貯蔵、検索と呼ばれている。記憶過程の3つの段階に沿って上記の出来事を分解すると、折り紙の動物が登場するラストシーンを見て記憶するのが符号化の段階、見終わったあとに折り紙の動物が何だったかを話すまで記憶を保持していたのが貯蔵の段階、記憶をたどって情報を取り出し、何の動物だったかについて話すのが検索の段階といえる。
記憶についての基本的な考え方のもう1つは、AtkinsonとShiffrinが提唱した記憶の三重貯蔵庫モデルである。どのくらいの時間記憶を保持しておくことができるかという点から記憶を分類したもので、1秒以内のごく短い時間保持する感覚記憶、数秒間記憶を保持する短期記憶、数分から数年にわたっての長い時間記憶を保持する長期記憶の3つに分けられる。感覚記憶は、環境から感覚器官を通じて取り入れたすべての刺激を貯蔵する場所と考えられている。一時的に保持された感覚記憶のうち、注意が向けられた情報のみ短期記憶に移行する。つまり、意識が向いている情報が短期記憶に貯蔵されるということである。さらに、短期記憶でリハーサルされた記憶や、何らかの意味を持たせる、視覚的表象と対応させるなどして精緻化された記憶は、長期記憶へと移行する。長期記憶の容量はいくらでも増やすことが可能である。記憶の三重貯蔵庫モデルを使って上記の出来事を解釈すると、まず感覚記憶においては、見た映画のラストシーンの情報がすべて符号化、保持されている。そして保持された感覚記憶のうち、注意を向けていた情報のみが短期記憶へと送られ、そこで符号化され保持される。そして保持された短期記憶のうち、特に印象的だった情報や何度も思い返したりした情報、思考対象となった情報が長期記憶へと送られ、符号化、保持される。短期記憶、長期記憶へと送られる情報は、登場した人物やもの、背景、流れていた音楽など、映画のラストシーンに関するあらゆるものが考えられる。そして、何の動物だったかの話をしているとき、長期記憶に保持されている情報が検索されるのである。
私も友人も、何の動物だったかの正確な記憶を持ちあわせていなかったわけだが、これは短期記憶や長期記憶において、符号化、保持、検索のどこかの段階で何らかの失敗が起こったからだと考えられる。言い換えれば、感覚記憶から短期記憶、長期記憶へと移行し、情報が言語化されて取り出される過程で、そもそも正確に符号化されていなかった、符号化された記憶を忘却してしまった、貯蔵されていた記憶を適切に取り出すことができなかったなどの失敗が起こっていたということである。これらについて詳しく見ていこうと思う。


符号化段階における失敗
まず短期記憶における符号化の段階では、そもそもその情報に注意が向けられていたかどうかが重要である。注意を誤ると符号化される情報が異なり、思い出したい記憶を思い出せないということになるからである。注意の機能的特徴は選択性と有限性である。私たちは常にたくさんの情報の中から認知する情報を取捨選択し、限られた注意資源を、認知した情報に対して必要に応じて分配しながら生きている。どのような情報を選択し、どのように注意資源を分配するかについては個々人によって異なるものの、私たちは環境からの刺激に対して能動的に関わっている。このことは、Baddeleyによってワーキングメモリという概念を使ったモデルでも示されている。ワーキングメモリとは短期記憶における情報処理の側面を強調するニュアンスが含まれた構成概念である。ワーキングメモリは、言語情報を保持したり操作したりする音韻ループと、視空間情報を保持したり操作したりする視空間スケッチパッド、さらに音韻ループと視空間スケッチパッドでの情報処理を互いに関連付けるエピソードバッファー、そしてこれらの下位機構の情報処理の制御に関わる中央実行系から成るとしている。これらのことから、適切な情報に対して適切な処理資源の配分、および適切な貯蔵や操作がなされないとき、記憶の失敗が起こりやすくなるといえる。
符号化における失敗としてもう1つ考えられるのは、符号化する際にどのような解釈が加えられたかということである。これにはスキーマが関わっている。スキーマとは、事物を認知したり理解したりするうえでの枠組みのようなもので、これまでに経験してきた出来事や事物の一般的な展開や状態に関する知識などから構成される。外部からの情報を認知し記憶する際、このスキーマから逃れることは不可能である。出来事がスキーマに基づいて解釈されるとき、事実とかけ離れた内容で符号化されてしまうと記憶の失敗が起こることになる。
スキーマは符号化の段階だけでなく、貯蔵、検索の段階でも記憶に影響をおよぼすことが知られている。いくつかの実験で、経験した出来事がスキーマと一致しているか、逸脱しているかによって記憶が影響を受けることが明らかになっている。AlbaとHasherは、選択(事実に含まれるあらゆる情報の中からスキーマに沿った情報を選び記憶痕跡を形成する)、抽象化(経験した出来事の詳細が失われ、一般的なスキーマに含まれている情報が保持される)、解釈(スキーマに基づいて事実が解釈されることで、不明瞭な部分の明確化、欠落部分の補完、複雑な部分の簡略化が起こる)、統合化(事実とスキーマ、解釈が統合され、それぞれの区別がつきにくくなる)、検索(スキーマに沿った情報が検索されやすくなる)の5つをスキーマの記憶への影響として挙げている。
感情も符号化の段階で記憶過程に影響を及ぼすことが知られている。Christiansonが提唱した、注意集中効果と呼ばれるものがその1つで、感情を喚起するような衝撃的な出来事、重大な出来事を目撃したとき、感情を喚起させた中心情報の記憶は促進されるが、それ以外の周辺情報の記憶は抑制されるというものだ。これは注意資源が感情を喚起させた中心情報により配分されることによって生じるとされている。つまり、記憶の失敗が起こった場合、その記憶へと変換される前の元の刺激は、強い感情を喚起するものではなかった可能性がある。


貯蔵段階における失敗
貯蔵段階では忘却による記憶の失敗が主である。まず短期記憶においては貯蔵できる記憶の容量は限られている。記憶範囲はチャンク数で7±2個が短期記憶の限度とされている。そして、短期記憶に貯蔵された情報は後続処理(リハーサル)が行われなければ忘却してしまう。忘却は、時間の経過とともに記憶痕跡が消失すること、短期記憶に新しく入ってくる情報によって先に貯蔵されていた情報が置き換わることによって起こる。一方、長期記憶においては貯蔵できる記憶の容量に制限がない。よって私たちが忘却とみなしているほとんどは、適切な情報を検索し損なうことによるものだと考えられている。


検索段階における失敗
検索段階における失敗は、主に長期記憶に貯蔵されている記憶に対して起こる。失敗の要因は、適切な検索の手がかりが見つけられないことと、思い出そうとする記憶に、検索の際にはたらく前後の記憶や感情、検索手がかりなどの要素が干渉することである。適切な検索の手がかりの有無による検索の影響については、被験者に単語を記憶してもらう実験で、再生テストの際に適切な検索手がかりが与えられたグループは、与えられなかったグループよりも多くの項目を再生したという結果がTulvingの行った実験によって示されている。このことから、記憶実験において再生検査よりも再認検査のほうが良い成績になりやすいのは、被験者に検索の手がかりが与えられるからだといえる。
検索の手がかりは、検索しようとする記憶と関わりのある事物だけではない。検索しようとする記憶が符号化されたときの状況や状態などの文脈も手がかりとなることが実験で明らかになっている。GoddenとBaddeleyは、単語の記憶実験で被験者を2つのグループに分け、片方には海岸で、もう片方には海中で単語学習をさせた。その後それぞれのグループをさらに2つの小グループに分け、片方には海岸で、もう片方には海中で再生検査をした結果、単語学習をした場所と再生検査をした場所が一致していたグループは、そうでないグループよりも多く再生できたという。また、Eichは、マリファナの影響下にある被験者とない被験者に単語を学習させた後、それぞれの被験者にマリファナの影響下にある状態、ない状態で学習した単語の再生検査を実施した。この実験でも、学習時と再生時に同様の状態にあるほうが同様の状態にないほうよりも単語の再生量が多くなったという。
検索段階の干渉にはいくつかの種類がある。1つは、記憶間で干渉が起こるパターンである。検索しようとする記憶に対して、その記憶よりも後に符号化された記憶が干渉することを逆向干渉、その記憶よりも前に符号化された記憶が干渉することを順向干渉という。先の出来事を例に挙げれば、ラストシーンより後の刺激(例えばエンドクレジット、友人と感想を言い合ったことなど)によってラストシーンの記憶が干渉されていたなら逆向干渉、ラストシーンの前の刺激(例えば折り紙の動物を残していった人物が、それ以前のシーンで折っていたもの、ラストシーンに至るまでのストーリー展開など)によって干渉がおこっていたなら順向干渉ということになる。
感情も記憶の検索に干渉する。Holmesによれば、不安や恐怖などの否定的な感情によって検索しようとすることとは無関係な考えが喚起され、その考えが検索に干渉し、記憶の失敗が起こるのである。

以上、記憶過程において何が記憶の失敗をもたらしうるかについて見てきた。記憶の失敗は、記憶の符号化、貯蔵、検索の段階で、注意の選択性と有限性、スキーマに基づいた解釈、不十分なリハーサルによる忘却、適切な検索手がかりの欠如、他の記憶や感情による干渉によって生じる。
これらをふまえて先に述べた出来事についてもう一度考えてみたい。私と友人は、記憶のどの段階でどんな失敗を犯したのだろうか。私はこの問いに対して明確な答えを出すことができない。なぜなら私が今はっきり自覚しているのは、折り紙の動物が何だったか2人とも覚えていなかったという事実だけだからだ。その時のことをある程度覚えているにしても、記憶の不安定さを知った今となっては、内容が不確かのように感じる。しかもこの出来事は日常の一コマであり、記憶に関する実験のような統制が全く行われていない。この状態でどんな失敗かを明確にするのは不可能と思われる。
しかしあえて私がどんな失敗を犯したのか推測するならば、鶴だと記憶していた私は、符号化の段階で失敗した可能性が高い。折り鶴は、日本人のほとんどが最初に思いつくだろう折り紙で折られる動物である。私がラストシーンで折り紙の動物を見たとき、その動物にあまり注意が向いていなかったためスキーマによって誤った解釈を行い、そのまま保持された、もしくは見た瞬間にスキーマによる解釈が働いてしまったために、折り紙の動物に十分な注意が向かず、誤って符号化、保持されたのかもしれない。感情による干渉という点から考えれば、折り紙の動物は日本の文化になじんでいる私にとっては見慣れたものである。だから折り紙の動物を見たとき、強い感情は特に喚起されず、符号化に失敗したのかもしれない。また、ブレードランナーのストーリーは単純明快ではなく、映画の冒頭から話の展開についていくのに必死だったため、ラストシーンでは利用できる注意資源がほとんどなかったからなのかもしれない。さらには、逆向干渉による記憶の失敗も考えられる。映画を見終わった後、友人と映画のストーリーや印象に残ったシーンなどを話した後、折り紙の動物の話になった。友人との会話の記憶が干渉し、折り紙の動物が正しく検索されるのを妨げたのかもしれない。

起きてしまった記憶の失敗を検証することは困難であるが、記憶の不安定さや、どのようにして記憶の失敗が起こるのかを理解しておくことは、日々生活していくうえで役に立つと感じている。


参考資料
中島義明ら編「心理学辞典」 渡部保夫監修「目撃証言の研究―法と心理学の架け橋をもとめて」 福田由紀編「心理学要論―こころの世界を探る」 Susan Nolen-Hoeksema, Barbara L. Fredrickson, Geoff R. Loftus, Willem A. Wagenaar,内田一成監訳「ヒルガードの心理学」

2015/09/28

読書記 福島智「ぼくの命は言葉とともにある」

ここ最近この本が平積みされているのを目にしていた。表紙のインパクトが強く、印象に残ったのを憶えている。しかし私はこの本を手に取らなかった。というのも、私はこの手の本が好きではないからだ。本のタイトルや表紙から、中に書かれているのはきっと美談であること、感動間違いなしであることを彷彿とさせる本、そういう本が私は苦手である。本に限らず映画でもそういうのは避ける。友人に言わせればそれは、そういう話を読んだり見たりすると、自分の汚い部分や醜い部分を見ざるを得なくなるからだとのこと。…そうかもしれない。だが一昨日、ちょっとしたいきさつからこの本を読むことになった。一気読みできるほどの軽い文章ではなく読むのに時間がかかった。そして、他者とのコミュニケーションや言葉について考えさせられた。

「自己の存在を実感するのに他者の存在が必要」。福島氏が、実感をともなって気づいたことの1つである。他者の存在がなければ自己の存在を実感できないなんてこと、今まで私にあっただろうか。私にとって自己の存在はむしろ、1人のときに実感することが多い。例えばご飯を食べているとき、どこかへ出かけようとしているとき、眠いなと感じているとき、何か書き物をしているとき、これから私はどう生きていこうと悶々としているときなど、自分が1人のときに何かを感じたり、考えたり、行動したりするとき、自己の存在を実感する。他者といるときにも自己の存在を実感することはある。その場合の多くは、他者と意見や好みが食い違ってけんかになったり、誰かと一緒にいるのに、その空気に入ることができずぽつんと取り残されたような感覚を感じるときなど、他者と自分との間に距離を感じるときである。これもある意味、自分が1人のときなのかもしれない。他者との関係から離されたときに感じているからだ。この違いはどこにあるのかを考えると、福島氏と私の置かれている状況が大きく異なるということが理由の1つだろう。目や耳を不自由なく使えている私には、外部から何らかの刺激を受けてそれに反応する生活がデフォルトである。だからそれから少し距離をおいたときに初めて自己を実感することとなる。しかしそれ以上に、「人は1人で生きているわけではない」という当たり前すぎるくらいの事実が、日常生活で私の意識からすっぽり抜けてしまっていることも理由の1つだろう。私はこの事実を誰かに言われたときにはっと思い出す。お金を稼いで生計を立て、一通り家事をこなし、したいことをする生活は、私は1人でもいろいろなことができる、という錯覚を起こさせる。でも実際は、1人でもいろいろなことができるなんてことはないのだ。お金を稼ぐことは、誰かが私の能力を買ってくれなければ成り立たない。家事だって料理1つとっても誰かが野菜や肉を生産し、調理道具を作り、店でそれらを販売してくれなければ成り立たない。したいことをすることだって、誰かがそれをするのに必要なものを用意しているから成り立つのである。自分のしていることやその行為に必要なものの奥行きを見ようとすればするほど、誰かとのつながりの中で生きていることを感じざるを得ない。常に何らかの形で他者とコミュニケーションしながら生きていると感じざるを得ない。そのことを実感を持っていつも意識のどこかにとどめておくことができたらと思う。

彼の文章を読んでいると、1つ1つ彼の内から丁寧に紡ぎ出された言葉だということが伝わってくる。1つ1つに彼の実感が込もっており、深く温かい。そして、感じたことや考えたことを誠実に表現していると感じる。私も言葉をこういうふうに使いたい。私は誰かと話をしているとき、自分のことを表現するのに難しさを感じたり嫌になるときがある。伝えるのに適した言葉が見つからなくて困ることがある。はっきりと言いづらくてお茶を濁すような言い方をしたり、だんまりしてしまうこともある。このままじゃいかん、たとえ時間がかかっても自分の内から言葉を紡いでいきたい。この本を読んで強く思った。


この本で引用されていた、吉野弘氏の詩「生命は」に心がギュッとしめつけられた。このブログにも引用しておこうと思う。

「生命は」 吉野弘

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

2015/09/22

本レビュー ミック・クーパー「エビデンスにもとづくカウンセリング効果の研究 クライアントにとって何が最も役に立つのか」

心理臨床家のミック・クーパーによる著書、「エビデンスにもとづくカウンセリング効果の研究―クライアントにとって何が最も役に立つのか」を読んだ。現在心理臨床の領域では、サイコセラピーがいくつも存在し、カウンセリングもセラピストにごとにいろいろなやり方でなされている。それらは実際、精神疾患を抱えたクライアントの治療に役に立っているのか、役に立っているならば、それは何の/誰の何に起因するのか。これまでに公にされてきたセラピー・カウンセリング関連の大量の論文に掲載されているデータをメタ分析することでこれらの問いに答えていこうという本である。

カウンセリング、サイコセラピーはクライアントに対して役に立っているのか?私もこの問いについて考えてみた。私はカウンセリングやセラピーを受けたことがないから、あくまでも自分が何らかの精神疾患を抱えてカウンセリングやセラピーと受けることを想像して考えているにすぎないのだが、自分の話を聞いてくれる人がいて、症状改善へと進むのをサポートしてくれたなら、私は安心感をおぼえいくらか安定するだろう。家族や友人、恋人など、自分との距離が近い人には言いづらいことでも、自分と距離のあるカウンセラーやセラピストには、言いやすいというのもあるかもしれない。しかもカウンセリングやセラピーにお金を支払っているわけだから、なおさらである。しかしここには、私がカウンセリングやセラピーによって自分の症状を改善することを望んでおり、担当のカウンセラーやセラピストとの相性がよい、という前提が横たわっている。もし、私が自分の症状について特に不満がなかったり、症状があることにもあまり気づいていないときはどうだろう。カウンセラーやセラピストの介入は迷惑に感じるだけで、新たな問題を起こすきっかけになるのではないか。カウンセラーやセラピストとの相性が合わない場合も同様であろう。そう考えると、クライアント自身の症状に対する理解と今後どうなりたいかという意思、カウンセラーやセラピストとの人間関係は、カウンセリングやサイコセラピーがクライアントにとって役に立つかどうかの鍵を握っているように思える。また、カウンセリングやサイコセラピーの効果は、クライアントが実際にカウンセリングやサイコセラピーを受けているときにのみ測られるものではないと思う。たとえカウンセリングやサイコセラピーによって精神の安定を得たとしても、その状態がカウンセリングやサイコセラピーを終了したあとも続かなければ、クライアントの役に立ったとは言えないだろう。なぜなら、カウンセラーやセラピストに頼り続けることは、たいてい不可能だからだ。カウンセリングサイコセラピーを受けている間に、自分で自分を立たせ持ち直す力を養っていくことができるのか、それによってもカウンセリングやサイコセラピーの効果が測られなくてはならないだろう。

では、著者はこの本でどのような結論を提示しているのだろうか。カウンセリングやサイコセラピーの効果に関するこれまでの研究は、大きく分けると、カウンセリングやセラピー全般に関わるもの(セラピーでどのくらいのクライアントが良くなるのか、セラピーの費用対効果、セラピー効果の持続性など)と、考えられる特定の要因に焦点をあてたもの(クライアントの属性や特徴、クライアントのセラピーに対する期待、セラピストのパーソナリティ、クライアントに対するセラピストの関わり方、セラピストとクライアントの関係の質、特定のセラピーの技法の効果など)がある。これらの研究をメタ分析した著者によれば、「カウンセリングは有効」だそうである。これは、カウンセリングやセラピーを受けた人は、そうでない人に比べて最終的に苦悩が少なくなっていること、さまざまな心理的苦悩に対して、カウンセリングやサイコセラピーは薬物と同等に効果的であり、長期的に見れは薬物よりも効果的であることを意味している。

先に私が述べた、クライアントの意思やセラピストとの相性、セラピーによる自助効果に関係のありそうな研究もこの本でいくつか紹介されている。これまでの研究で、クライアントのセラピーへの積極的な参加の度合いは結果を予測するうえでの最も重要な決定因の1つであることや、クライアントのセラピーに対する内発的/自律的な動機付けの水準とセラピーの結果とは特に関連が高いとされている。また、クライアントとセラピストの治療同盟(治療同盟:セラピストとクライアントの間に生じる以下の要素の質や強さ:セラピーの目標の合意、セラピーにおける行動やプロセスについての合意、肯定的で情緒的な絆の存在)によって、全セラピー結果における肯定的な変化の約5%が説明できることが示唆されているという。一方、私はとても興味深いと思ったのだが、適正処遇交互作用(ある性質や特徴をもつクライアントは、ある様態のセラピーにおいて、その他のセラピーよりも成果を上げるという考え方、p.73)を裏付ける結果となった研究はあまりないようである。さらに、セラピー後のクライアントの状態については、セラピー終了時に良い成果をあげていたクライアントはセラピー終了後6ヶ月、1年時の再調査時に良い状態にいる傾向にあり、セラピー中少ししか改善しなかったクライアントは再調査時にもあまり改善が見られない、という結果が出ている。

この本を読んでいて新しく知った概念の1つに、「ドードー鳥の判定」というものがあった。これは、「さまざまなセラピーが、効力や実効性においてほぼ同等であるという主張」(p.66)である。一口にセラピーといっても、異なる技法や理論に基づいたさまざまなセラピーがある。複数の研究を俯瞰してみたとき、相対的にはどのセラピーを施しても特定の精神疾患への効果に大差はないというエビデンスがこれまでに多く示されているようだ。この「ドードー鳥の判定」には反対派も存在し、決着はついていない。