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2016/03/09

You are not that special !

人は,自分の存在や行動について,他者が気づいている,注目していると実際以上に過大に推測する傾向があるらしい。社会心理学の分野ではこれを,「スポットライト効果」(Gilovochらによる)と呼ぶ。まさに,自らのみにスポットライトが当たり,観客の視線を集めているかのように感じられる,そんな心情である。多くの人には多かれ少なかれその傾向があるらしい。

このスポットライト効果は,いろいろな場面で経験される。私自身のことを振り返ってみれば,例えば美容院に行ったあとに友人と会ったとき。友人は自分が髪を切ったことに気づいてくれるだろうと推測するものの,当の友人は全く気づかない。がっかりである。そういえば昔こんなこともあった。私はスカートを履くのが嫌いだった。理由は,常々太いと感じていた脚を見せるのが恥ずかしいと思っていたからだが,いざ履いて出かけてみると誰もなんとも思っていないことが分かる。たしかに私も,誰かのスカートから太い脚が見えているのなんて正直どうでもいい。
日常生活で経験するスポットライト効果は,もちろん統制された実験室実験によっても示されている。Gilovochらは,自分の外見や行動の変化に対してや,自分が恥ずかしいと感じている状況においてスポットライト効果が生じていることを実証した。

ところでこのスポットライト効果,”自分がいない”という現象においても生じることが分かっている。つまり,”自分がいない”ことに対しても,他者が実際以上に気づいている,注目していると推測するのである。このこともいくつかの実験により実証されている。例えばSavitskyらは,実験参加者のうち1人に“自分がいない”条件を割り当て,他の参加者たちがその人の不在をどう認識しているかを推測させた。実験は,”自分がいない”条件の人のみが参加者たちから一時離れてまた戻る,という状況を作ることで行われた(もちろん,”自分がいない”条件の人がいないことを他の参加者にあえて意識させるようなことはしない)。そして,”自分がいない”条件の人は、「何人の人が自分がいないことに気づいたと思うか」という質問をされた。他の参加者たちは,「誰がいなくなったか」「実験でいたのは何人だったと思うか」という質問をされた。その結果,”自分がいない”条件の人は、その人の不在を実際に検出できた人数よりも多くの人が検出できると推測した。また,他の参加者たちが推測したいなくなった人の人数は,”自分がいない”条件の人に比べて少なかった。
また別の実験では,自分の不在がグループの他のメンバーに与える影響が調べられた。それは,実験参加者を5人グループに分けて課題をさせたあと,メンバーの1人を退席させて、残りの4人で心臓移植について議論させるというものだった。退席した1人は議論の様子をモニターで見ており,議論が終了したあと,退席した1人/他の4人は「自分/その人が議論に参加していたときとしなかったときで,どの程度議論が異なるか」と,「自分/その人がいなかったことが議論の雰囲気,グループの最終結論,全体的な議論に影響したか」という質問をされた。結果は,退席した人は議論に参加した人よりも,自分がいるときといないときで議論により差がでると推測し,自分がいなかったことが,グループでの最終結論と全体的な議論により大きな影響を与え,自分がいなかったことが議論の雰囲気により大きく影響したと推測していた。
以上から分かるのは,スポットライト効果は”自分がいない”ことに対しても生じ,それゆえ,自分がいないことが他人に与える影響をも過大に推測しているということである。
この不在のスポットライト効果を知ったとき,遠い昔の恥ずかしい過去を思い出した。とある職場をやめるとき,私がやめたあと職場はどうなるんだろうと心配したことがあったのだ。ひどく傲慢かつうぬぼれた態度であり,今となっては当時そんなことを考えた自分が恥ずかしい。私一人いなくなっても会社はまわるのに。これはまさしく不在のスポットライト効果の一つではないか。それが分かったところで気休めにもならないのだが。

スポットライト効果のメカニズムは,係留と調整のヒューリスティックによる説明が定説である。係留と調整のヒューリスティックとは,簡単に言えば,自分が感じているように相手も感じているだろうと思ってしまうことである。自分が体験していることや感じていることは自分にとっては鮮明で印象に残ることだ(係留点)。相手は実際に体験したり感じたりしているわけではないから,自分よりも鮮明さは落ちると考えられる(要調整)。にもかかわらず係留点からの調整がうまくいかず,その鮮明さ伴ってを相手も経験したり感じたりしているだろうと錯覚してしまうのである。また,係留と調整のヒューリスティックが働いてしまうのは,相手の感情や考えを完璧に把握することはできないからだとされている。つまり,相手が何を考え感じているかを把握するには,推測するしか方法がない。そして推測は大抵何かに基づいて行われる。それが,馴染みのある自分の経験や考え,感情なのである。

自分のことを客観的に見るのは難しい。自分のことならなおさら,見たくないものは見ないし,少しでも自信があることは過大に評価してしまう。あるいは,大したことじゃないことでも悲劇のヒロインよろしく,大げさに捉えてしまったりする。自分を客観的に見るのに困難を伴うのに,相手が自分をどう評価しているかを推測するなんてなおのこと難しいだろう。自分を過小評価する必要はない。でも,「あなたはそれほど特別じゃないのよ」と時々自分で自分を戒めないと,肥大化した自意識をもてあますことになりそうだ。

参考文献
Savitsky, K., Gilovich, T., Berger, G., & Medvec, V. H. (2003). Is our absence as conspicuous as we think? Overestimating the salience and impact of one’s absence from a group. JESP, 39, 386-392(https://goo.gl/RbcrfR

2016/03/01

直観と合理的な判断と

※このテキストは、「認知心理学特殊講義」(2015年後期)で提出したレポートをリライトしたものである。

映画「東京タワー」で岡田くんが言っていた、―恋はするものじゃなく、落ちるものだ― というセリフをきまって思い出すときがある。それは、人から「ゆきはどんな人がいいの?」という、恋愛ネタで浮いた話をしないと高確率で飛んでくるお決まりの質問をされたときである。とりあえず、優しい人、背の高い人、など私が好ましいと感じる男性像に含まれる要素を挙げてみるわけだが、考えるだけ無駄のような気がしてならない。それは、自分が認識している自分の好みだけでは、好きになる人を全く予測できないからである。これまでの恋を振り返れば、私が好ましいと感じる男性像に含まれている要素を持たない人や、もしくは好ましくないと感じる男性像に含まれている要素を持つ人でも好きになったからである。なぜ好きになったのかは正直よく分からない。好きなところを考えてみても、後付け感がぬぐえない。そもそも、誰かを好きだと認識するとき、好きな要素の個数を数えたり、それぞれの要素の重みを計算したりしていない。つまり合理的には判断していないのである。その人と出会い、話したり一緒に何かしたりするうちに好きという感情がただ湧いてくるだけである。それは突然起こることもあるし、じんわり来ることもある。おそらく、その人自身とその人のいる状況なども含めた全体から受けとる何かが私と相互作用を起こし、私の好意が喚起されるのだろうが、いずれにしても自分の認識している自らの好みと意識的に照らし合わせたから好意が生まれたのではなく、直感的なものなのである。

そもそも直感とは何だろうか。Gigerenzerは、gut feeling とintuitionの2種類を定義している。日本語では、前者が直感で後者が直観と訳されている。直感は“一瞬で意識にのぼる判断”を、直観は“基になっている理由が自分でもよく分からない判断”を意味するという。そしてこの直感/直観を構成するのは、Gigerenzerによると、“単純な経験則”(ヒューリスティック)と“脳の進化した能力”とのことである。ヒューリスティックとは、労力をかけずに迅速に対象を理解したり問題を解決したりするために私たちがしばしば利用する方略のことである。また、“脳の進化した能力”についてGigerenzerは、“自然が人間に素質を与え、長年の実践がそれを能力に変える”と言っている。つまり、ヒトが生きていく過程で獲得してきた状況に適応的な能力を意味していると考えてよいだろう。
ヒューリスティックの研究はKahnemanとTverskyによってこれまでに多くなされてきた。ヒューリスティックにはいくつかの種類がある。例えば利用可能性ヒューリスティックを用いると、ある特定の対象が目立っていたり、その対象について頻繁に耳にするなどしてヒトの記憶に強く記銘されたとき、ヒトはその対象が生じる頻度を実際以上に見積もってしまうこととなる。また、係留と調整のヒューリスティックを用いると、自分の行動や考えを基準にし(係留点の設定)、相手の行動や考えを過剰もしくは過小に判断したりすることとなる。これらヒューリスティックの多くは、合理的な判断を妨げるバイアス、自らをだますものという文脈で捉えられることが多い。しかしGigerenzerによれば、ヒューリスティック(“単純な経験則”)を彼のいうところの“脳の進化した能力”によって利用するとき、直感/直観は合理的判断をしたときと同等以上に当事者にとって好ましい結果をもたらすという。その例としてGigerenzerが挙げるのは、ある病院の小児科で起こった出来事である。その病院に入院してきた1歳9ヶ月の男の子に対し、ある医師は行き届いた育児環境を整えることがその子にとって重要と直感的に判断した。そして育児環境を管理したところ、男の子の体調は改善に向かっていった。しかし別の医師は、男の子の病因を突き止めることが体調改善に最も重要と判断し、専門チームを組んで男の子にあらゆる検査を実施した。すると病因が見つからなかったばかりか、男の子は死んでしまったという。このような例は他にもある。Gladwellは著書の中で、美術品(彫刻)鑑定の場面で起こった出来事を挙げている。高解像度の立体顕微鏡によって得られたデータから地質学者が希少な年代ものと判断した美術品に、美術史や彫刻の専門家たちは、言葉では言い表せない違和感や危機感を覚えたのだという。実際にその美術品は偽物であったそうだ。

これらのことから言えるのは、直感/直観は合理的判断を行ったときよりも当事者にとって望ましくない結果をもたらすこともあれば、同等以上の結果をもたらすこともあるということである。つまり、自らの未来に対して直感/直観がもたらす影響は決して少なくなく、合理的判断に重きを置き過ぎることはあまり適切ではないということだ。

ところで、直感/直観と合理的判断の結果が問題になるのは、直感/直観による結果と合理的判断による結果が異なるからである。同じであれば判断結果は1つに収束するので何も問題は起こらない。ではなぜ直感/直観と合理的判断の内容は異なってしまうのだろうか。
合理的な判断とはそもそも自らが意識して行うものである。私たちがそのような意識的な判断をするときに避けて通れないのは、論理や常識や、社会的望ましさによる影響である。私たちは、これらを意識せずとも受け入れているため、社会で適応的に生きられる。
一方直感/直観は、Gigerenzerの定義より、意識上でそう判断した理由をつかむことができず、瞬間的に生じるものであることから、無意識下における判断と考えられる。無意識下で起こっていることといえば、接近行動や回避行動を喚起する情動(原始的な感情)や、食欲や性欲、睡眠欲などの生命維持に関わる欲求、生体内で行われている自律的な身体活動、何度も繰り返し学習したことによって意識せずとも行うことができるようになったスキルなどである。これらは無意識下で行われているため、合理的判断時ほど論理や常識、社会的望ましさによる影響は極めて少ないと思われる。

以上をふまえて、先に出した私の好みのタイプ問題について再検討してみる。私は特定の人に対して直観的に好意を抱く傾向がある。その直観的な好意の正体は本能的なものでもあり、技能学習における成果のように獲得したスキルのようなものでもあると思う。本能的であるとした理由は、恋愛は性欲や快―不快などの原始的な感情と結びつきが深いものだからである。獲得したスキルのようなものであるとした理由は、これまでの人生における経験値があるからである。出会い、関わり、別れるというプロセスを恋愛関係に限らず多くの人と繰り返すことで獲得した、蓄積された膨大なデータは、自分の好む人を無意識的に判断するだけの判断力を持っていると考えられる(というか、そうであると信じたい)。一方、私が認識している自らの好みはいわば、合理的で意識的な判断である。自らの好みを意図せずとも、論理や常識、社会的な望ましさによって、多くの人が好ましいと感じる要素や他人が聞いても変だと感じないような要素へと、幾分同化させて認識してしまっている可能性もあるだろう。

直感/直観と合理的判断はどちらも人間が獲得した能力である。どちらによる判断も未来に何らかの影響を及ぼすことは必至であることが分かった今、2つの判断結果が異なるときにどちらを採用するかは大問題である。しかし結局、未来はいくら考えても正確には予測できない。であればつまるところ、自分の下した判断を受け入れ、楽しめる余裕をもつことがどう判断するかよりも大切であると感じる。


参考文献
Gigerenzer, G. (2007). Gut Feeling: The Intelligence of the Unconscious. Viking Adult. (ギーゲレンツァー, G. 小松淳子(訳) (2010). 「なぜ直感のほうが上手くいくのか? - 「無意識の知性」が決めている」インターシフト)
Gladwell, M. (2005). blink: The Power of Thinking Without Thinking. Little, Brown and Company (グラッドウェル, M. 沢田博・阿部尚美(訳) (2006). 「第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」光文社)

2016/02/12

本レビュー V.E.フランクル「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」

「夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録」を読んだ。著者であるフランクルが、第二次世界大戦下での自らの強制収容所体験を綴ったものである。この本及びフランクルは、少なくとも心理学領域では超有名で、これまでにいろんな人(特に臨床系の方々)からオススメされてきたのだが、あまり読んでみようという気持ちが沸かなくて、長いこと気にも留めていなかった。けれど昨年の夏くらいから、第二次世界大戦についての歴史番組や映画を見る機会が度々あって、それらがとても印象深かった。それで「夜と霧」も思い出し、とりあえず読んでみようと思った。

「夜と霧」についての話はいろいろなところで聞いたことがあって、読む前からだいぶ先入観ができあがっていた。人間のすばらしさを感じる、とか、生きる意味の話だ、とかそんな話を聞いてきていたので、仰々しい話なのかなという偏見があったことを自覚している。しかし実際読んでみると、仰々しい話というよりは自分が収容所で体験したことを淡々と述べ、また、自分と周囲の人々を注意深く観察することで得た、強制収容所という状況下(強制収容所に送られる前後、強制収容所での生活下、強制収容所から解放されたあと)での人の心理的変化を記述している本であった。そして、そこから得られた主張、「人が強制収容所の人間から一切をとり得るかも知れないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできない」(p.166)「各人はかかる状態の上でもなお、収容所において何が彼から―精神的な意味で―出てくるかということを何らかの形で決断し得るのである。すなわち典型的な「収容所囚人」になるか、あるいはここにおいてもなお人間としてとどまり、人間としての尊厳を守る一人の人間になるかという決断である」(p.167)を述べていた。主観的な体験を、極めて客観的な記述にするために気を遣っていることが十分に感じられる本でもあった。

どこまでいっても抜けられない苦しみや死に囲まれた人々が、自らの生をいかに追求しようとするかとか、何度も抱いてはその度に消されていく希望を失った人々は、どういう心理状態に陥るのかとか、強制収容所内での処世術とか、読んでいて興味をそそられる話がいくつかあった。しかし、フランクルの主張(どんな状況下でも精神は自由、状況に対してどのような態度をとるかはあなたの決断次第。)にはいささか不快感を覚えた。主張していることが間違っているとは思わない。たしかに人の精神はいつでも自由だ。だからいろいろな想像ができるし、自らを騙すことさえできる。だけど、だからといって状況の解釈を変えたり、離れたところから眺めてみたり、自らの激しい欲望や衝動と折り合いをつけることはそう容易いことではないだろう。そのあたりの話が(私の読む限り)見当たらない。フランクルは自らについて本文中で「私の性分であるオプティムズム」(p.85)と言及しているが、つまりそれは性格の問題?と言いたくなる。

性格だとしてしまうのも雑すぎるので、少し考えを巡らせてみた。もちろん推測にすぎないが、フランクルの話に出てくる、過酷極まりない状況において人間になるという決断をした人は、少なくとも、自らの状況を自らが抱えなければならないこととして向き合い、完全に受け入れた人々であったように思う。自らの意志とは関係なく、突然先の見えない壮絶な苦しさの中に放り込まれたとき、身体的にも精神的にも消耗しながら、状況を打破しようと葛藤するか、状況に身を任せることになると思う。そのとき精神は、状況に囚われたままである。しかし、状況と自分をセットとして受け入れ、その状態をデフォルトにすることができなたなら、「じゃあ自分はどうしようか、どうしたいのか」に視点をシフトさせることができるのではないか。

私の読んだ「夜と霧」(旧版)には、強制収容所関連の写真や図がたくさん掲載されていた。人がただの肉片となって積み上げられた写真は、いつ見ても心が揺さぶられる。

2016/01/21

知能検査で測れること

ドラマや映画を見ていると、"IQ200の天才"が難事件を解決したり大儲けしたりする設定に出くわすことがある。一般的に、頭の良さを表す指標としてよく知られているIQ(Intelligence quotient/知能指数)だが、年代ごとの人々のIQの分布は、平均を100、標準偏差を15とする正規分布を描くとされているから、IQ200なんて人は理論上超ド級のレアケースである(そもそも、年代別人口の50%はIQ90~110に属し、IQ130を超える人は2.2%しかいない)。それはさておき、先日、学校で誰かのIQを測定(知能検査)してこいという課題が出た。誰かのよりも私のIQが知りたいのに…という気持ちを抑えつつ友人に受検してもらったところ、受検者の感想を聞いたり、回答を分析したりするのはけっこう楽しく、いろいろな発見があった。

ところで、IQはどうやって測るのだろうか。大人のIQを測定するときによく用いられるのは、WAIS(ウェクスラー成人知能検査)と呼ばれる知能検査である。WAISは、Wechsler, D. というアメリカの心理学者によって1939年に開発された知能検査で、時代とともに何度か改訂され現在も使用されている。今回の課題で使用したのは、WAIS-Ⅲである。WAIS-Ⅲには、14種類の下位検査が含まれている。下位検査は、言語性検査と動作性検査の2つに大別され、それぞれの検査に7種類の検査がある。言語性検査とは、文字や言語を用いた課題に言語で応答してもらう検査で、単語の意味を問う課題や暗算課題,読み上げられた数字の復唱や逆唱などが含まれる。動作性検査とは、図版や記号を用いて簡単な手の操作で応答してもらう検査で、数字と記号を書き写す課題や提示された絵を話の流れに沿って並び替える課題、ピースを組み合わせて1つの形を作る課題などが含まれる。全部の検査が終了した後、マニュアルの基準に沿って受検者の回答を評価して得点化し、年代ごとに設けてある平均値と受検者の得点を比較することで、IQを算出する。

さて、今回の受検してもらった友人は、採点マニュアルの基準からそれた回答をときおりする人であった。採点マニュアルの基準からそれれば、点数はつかないので、結果的にIQも低くなることとなる。しかし、受検者になぜそういう回答になったのかを聞いてみると、それは着眼点が違っているからだったり、空間認識力が強いからだろうと考えられるからだったりで、むしろ平均的な人よりも知能が高いのではないかと思われるくらいだった。実際、回答内容もマニュアルの基準からはそれるものの、的はずれな回答というわけではなく、理解できるし、理屈も通っていた。しかし、このような能力はWAISでは測定できないしIQにも反映されない。

WAISの開発者であるWechsler, D. (1944) は知能を、”知能とは、目的的に行動し、合理的に思考し、効率的に環境を処理する個人の相対的能力である”と定義し、この定義をもとに知能検査を開発した。
つまりWAISは、受検者がどのくらい目的的に行動し、合理的に思考し、効率的に環境を処理する能力を備えているかを測定していると言える。社会の中で他者やさまざまなものと共生していく人間にとって、彼の提示した能力は生存に有益な能力である。だから知能と捉えることができると思う。しかし同時に、知能はそれだけにとどまらないと感じる。目的からそれても、合理性や効率に欠けても、個人がこれまで生きてくるなかで身につけ発揮しているもの、特にそれが社会生活を送るうえで、また、自身で肯定していたりで適応的ならば、知能になりうるのではないか。

IQとして提示された数値が反映しているものは,あくまでも限定的な能力でしかない―それが今回の実習課題を通して学んだ最も大きなことである。

2015/12/23

ときおり、無性に聞きたくなる90年代ヴィジュアル系

小学校高学年のころから中学生にかけて、ヴィジュアル系バンドが大好きだった。好きなバンドが取り上げられている音楽雑誌を集めまくり、出演する音楽番組はすべて録画、もちろんCDやVHSもたくさん持っていた。家で曲をたくさん聴いて、オリジナルのテープを作って、休日になるとライブ映像を見て、学校ではヴィジュアル系大好きの友達と一緒に盛り上がっていた。

当時好きなバンドがいくつかあった。いちばん好きだったのはL'arc en Cielだ。ラルクを知ったのは彼らがちょうど「虹」(97年)をリリースしたころだった。hydeさんの目鼻立ちのはっきりしたセクシーな顔立ちと、独特の声にすっかり魅了されてしまった。それからデビューした頃の音源までさかのぼってたくさんたくさん曲を聴いて、いつのまにか大好きになっていた。昔にさかのぼるほどメロディは美しく幻想的になり、新しくなるほど美しいメロディに少し力強さが加わって、どちらも好きだった。「DIVE TO BLUE」(98年)以降、ラルクからは少しずつ離れてしまったが、当時懸命に覚えたたくさんの彼らの歌は未だにはっきりと頭の中に残っていて歌うことができる。ラルクのほか、黒夢、Laputa、Dir en grey、LUNASEAをよく聞いていた。紹介したい曲はたくさんあるが、全部貼るわけにもいかないので個人的に選りすぐりの曲をいくつか貼った。もしよかったら聴いてほしい。

今日こんな話をブログに書いているのは、ヴィジュアル系ファンだったころよく聞いていた彼らの音楽を、無性に聴きたくなったからだ。そういうときがたまーにある。ふと思い出したように突然聴きたくなるのだ。あれから15年超経っているわけだが、今聴いても変わらずかっこいい。昔は彼らの見て呉れも好きで、1つのバンドの中にはたいてい好みな1人がいたが、今となっては見て呉れに魅了されることはない。むしろ一部のバンドについては、ちょっと行き過ぎだろうとさえ感じる(おそらく、私の嗜好が変わったせいだろう)。そして、90年代ヴィジュアル系の曲はいまいち共感できない歌詞が多いとも感じている。というか、当時も今も思うのだが、歌詞の内容がイメージしにくいのである。いまいちピンとこない。だけど曲はやっぱりステキなのだ。音と曲の雰囲気がかっこいい。私の中では全く色あせていない。

ということで、今日はヴィジュアル系祭りを開催することにする。


L'arc en Ciel 「flower」

黒夢 「Like @ Angel」

Laputa 「Breath」


Dir en grey 「Garden」


PIERROT 「トリカゴ」

2015/12/08

Javaに翻弄されて

今期、私はJavaプログラミングの授業を履修している。「プログラミングできる人ってかっこいいなー」という単純な憧れから始めたわけだが、毎回毎回自分の書いたプログラムに翻弄されている。書いたものを実行しようと試みれば必ず毎度、「あぁ、なんでそこで止まるの!?」などと修正を余儀なくされ、1回で動いてくれることはまずない。何度かの修正でちゃんと動いてくれれば万々歳、もう打つ手がないと思ったら先生にask、とこんな調子である…。

とはいえ、プログラミングの基本中の基本のことをやっているので、私がひーひーしているプログラミング課題もそんな大掛かりなものではない(はず)。この授業は、プログラミングを全くやったことのない人でも大丈夫という内容で構成されている。コマンドプロンプトの使い方から始まり、Java言語のしくみについて少し触れ、今はコンパイル作業なしでプログラムを実行できるeclipseで書いている。プログラミングは、四則演算、条件分岐(if/switch)、繰り返し(for/while)、配列までたどり着いた。

たくさんのミスプログラミングのかいあって、私が書いたプログラムは何がまずいのかがよくよく見えてきた。プログラミングの肝がおざなりになっていることがまずいのだ。それぞれのコードが表現するものをなんとなくしか分かっていないのに加え、目的のプログラム目指してコード同士が適切につながっていないという…。おおざっぱというか、なんとなくの表現というか、緻密さとはかけ離れたものなのである。こんなところで自分の思考の特徴が露呈するとは思わなかった。それぞれのコードが表現するものは、ルールとして決まっていることだから覚えてしまえばよい。ということで覚え始め、けっこう覚えたつもりになっていたが、私の覚え方はざっくりしすぎていた。だから、あるコードが足りなくても気づかず、プログラムもちゃんと動いてくれない。なんと律儀なことか…。続いて、コード同士をうまくつなげることである。完成したプログラムを、コードのルールをもとに分解して、それらのつながりを考えていかなければならない。上に書いたとおり、そもそも最初のルールを把握する段階で失敗が起きているので、そこをパスしない限り動くことはない。まずはそこからである。ひとつひとつ丁寧に覚えたうえで練習を重ねればどうにかなるだろう。より簡潔なつながり、美しいつながりを求めるのはそのあとだろう。

自分が作ったシナリオを正直に正確に実行してくれるプログラミングは、自己反省にはもってこいである。書いてあることは実行し、書いていないことは実行しない、というのが徹底しているから、結局自分の間違いを認めざるを得ない。人間社会ではうやむやにしているちょっとした揺れやズレをプログラムは受け入れてくれない。どこまでも緻密に、論理的に思考することを求めてくる。1つの課題を完成させるまで、時間もかかるし頭もだいぶ使っている。でもその分、自分で書いたプログラムがちゃんと動いてくれるとすごく嬉しいのは確かだ。そしてまたその嬉しさを感じるために次の課題に取り組むのである。