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2017/03/18

戦国マイブーム近況報告

イケメン戦国にはまったこと(http://yukiron.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html)で始まった戦国マイブームは,半年くらいが経過した今も熱すぎず冷たすぎずな程度で続いている。展覧会に行ったり,関連番組を見たり,読みやすい本を読んだりして地味に知識を増やし,戦国武将や戦国時代に思いを馳せているのだが,特にゴールも定めず,気負いもせず,気ままに学び,気ままに感じるというのはいいものである。

さて,今年に入り2つほど戦国関連の話に触れた。2007年に放映された大河ドラマ「風林火山」と,漫画「雪花の虎」である。どちらもすっかり気に入った。

「風林火山」は,武田信玄に軍師として仕えたとされる山本勘助の人生の話だ。内野聖陽が好きということもあって気軽に見始めたのだが,途中からぐいぐいひきこまれ,謙信役の神がかったGacktが出始めてからはますます面白くなり,このドラマが終わるのが惜しいとさえ思うようになっていた。山本勘助の話といえども,武田家,信玄の半生,甲斐の政治,謙信の人となり,川中島の戦いなどに関する知識を増やすことができたのもよかった。
「風林火山」のストーリーは,ベタで分かりやすく,期待を裏切らず,戦や主従をがっつり描く,なんというか雄々しい作品だった。昨年の大河ドラマ「真田丸」も好きでずっと見ていたが,あのストーリーのような軽やかさや裏をかく感は全くない。そもそも,登場人物のほとんどが重々しい雰囲気やキャラ設定をまとっている。「風林火山」で印象に残ったシーンはいくつもあるが,なかでも強烈だったのは,武田に仕える猛将達の死にざまだろうか。山本勘助をはじめ,板垣信方,甘利虎泰などの武将が討死するのだが,討たれてから命尽きるまでをあれだけ時間をかけて丁寧に映す演出を観たのはいつぶりか,という感じであった。あとはやはり知謀にとんだ戦の数々である。「風林火山」を観るまで戦がこれほど奥深いものだとは考えたこともなかった。また,謀に対するイメージや価値観が肯定の方向へとシフトした。忘れてはいけないGacktについても一言。そもそもGackt自身が醸し出す雰囲気からして異世界感が半端ないが,謙信の衣装(平時,戦時両方)をまとい,さらにゆっくり溜めて話されると,その異世界感は際立つ一方であった。上杉軍と相模の北条軍との戦のシーンで,北条の拠点である小田原城に謙信が単身乗り込み,家臣から見えるところに座って酒を飲み始めるという場面があるのだが,家臣がいくら矢や鉄砲を放っても,すんでのところで謙信には全く当たらない(距離が遠いわけではない)。そんな場面も,あの空気をまとった謙信なら納得しかない。
こんな感じで実に充実した大河ドラマ鑑賞だった。

続いて「雪花の虎」について。この漫画は「東京タラレバ娘」の作者で知られる東村アキコ氏による上杉謙信物語だ。特記すべきなのは,史実を踏まえつつも謙信は女性であったという前提で描いているところ。作者によれば,謙信女性説というのはまんざらでもない話のようである。現在コミック本で4巻まで発売されている。
「雪花の虎」の面白さは,謙信がどういう人かを,彼女をとりまく人たちとの交流を通して描いているところだろうか。フィクションであることは承知のうえだが,「雪花の虎」の謙信は生身の人間感がすごく出ている。泣くし,悩むし,怒るし,人思い。心情描写が丁寧だと思う。一方で,強く厳しくたくましくもある。謙信が女性だとしても,これじゃ女性は惚れちゃいます,という感じだ。脇役キャラも一人一人味があって,流し読みができないほどである。この,謙信と他のキャラクターとのやりとりが本当に面白い。話のところどころに女性っぽさがにじみ出ているのも,私がこの話が好きな理由の一つである。作家が女性,主人公も女性,ということが大きいのだと思うが,ストーリーが全体的に柔らかく,女性はそういうときそう考えがちだよなとか,そこをさーっといかずにしっかり取り上げるんですねとか,女性の多くは共感すると思われる場面が多い。そういえば,今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」でもそんなことを感じた。
現在進行中の漫画であるが,これまで読んだ中で私が好きなのは,謙信が小さいころ学んだ寺の僧,宋謙と謙信のやりとりと,謙信の兄,晴景と謙信のやりとり。4巻の最後では武田信玄との遭遇シーンが描かれていたので,今後ますます面白くなっていくに違いない。続きが楽しみだ。

そんなわけで,戦国マイブームはまだまだ続く見込み。

「風林火山」https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/90000/263024.html
 4月からBSプレミアムで再放送が予定されている。興味ある方もない方もぜひ!
「雪花の虎」http://hi-bana.com/works001.html
 試し読みあります

2017/03/13

顔は口ほどに名を語る?

APA(American psychological association)のリリースで面白いリサーチを見つけた。人は知らない人の顔を見ただけで,その人の名前を意外と正確に当てることができるらしい。
("Do you look like your name? People can match names to faces of strangers with surprising accuracy"      http://www.apa.org/news/press/releases/2017/02/look-like-name.aspx)

リリースによれば,研究者たちは,イスラエルとフランスで何百人もの被験者に対してある実験を行った。被験者に,人の顔写真と複数の名前候補(4~5つ)を提示し,その写真の人物の名前がどれだと思うか答えてもらうというものである。被験者たちは,偶然(20~25%)よりも高い確率(25~40%)で正しい名前を選ぶことができたらしい(統計的に有意な結果であり,被験者の属性は統計的に統制されている)。
この結果は何に起因するのだろうか?研究者たちは,それぞれの文化において名前に対するステレオタイプ的な観念があるのではないか,と考えている。この実験は先に述べたようにイスラエルとフランスで行われているのだが,イスラエルの被験者はイスラエル人の写真と名前に対して,フランスの被験者はフランス人の写真と名前に対して偶然よりも高い確率で正しい名前を当てているからである。
また研究者たちは,顔とそれに対応する名前をコンピューターに覚えさせ,人間と同様の実験を実施した。すると,94000の顔写真に対して,偶然(50%)よりも高い確率(54~64%)で名前当てに成功したらしい(統計的に有意)。

このリリースを読んで思い出したのが,心理学や言語学で取り上げられることの多い「ブーバとキキ」の話である(https://goo.gl/pAB9wG)。詳細はリンク先のwikiを見てもらえればと思うが,要は,2種類の図形と2種類の名前が提示された被験者の大多数において,図形と名前の組み合わせが一致するという話である。

この2つの知見から,どうやら人は,視覚情報に対してなんらかの音のイメージを持っているらしい,ということが言えそうだ。写真に対する名前当ても,名前は読む行為によって音の情報としても処理されるはずなので,ブーバとキキと同様,視覚と音で共感覚的なことが起こっていると思われる。ただ,写真に対する名前当ての場合には,音情報だけでなく,被験者の経験によって喚起される,その名前自体に関する知識や意味などの影響もあることだろう。

ところで私の名前は「ゆき」だが,多くの人は私の写真を見て,「ゆき」を含むいくつかの名前候補から「ゆき」を選ぶことができるんだろうか。自分で判断しようにも,いろんなバイアスが入るので私の顔が「ゆき」っぽいのかいまいち分からない。少なくとも,私がこれまでに会った私以外の「ゆき」さん(1人)とは顔も雰囲気も似つかなかったと記憶しているが…

2017/03/09

最近腑に落ちたこと

「あぁ,そういうことだったのか」と腑に落ちる経験は,そう頻繁には起こらない。大抵の場合,分かったような分からないような…のまま,もしくは分かったつもりのまま時が過ぎて,誰かが言ってた何かはいつのまにか忘れ去られてしまう。だがそれが,繰り返し見聞きしたことや,自分にとって重要なもの,必要なものだったなら,しばらく時が経った後でもふとした瞬間に腑に落ちることがある。

最近腑に落ちたことは,好きな海外ドラマ「エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY」(http://www.superdramatv.com/line/elementary/)を観ているときにやってきた。タイトルどおり,シャーロック・ホームズが現代のNYにいたら…という設定で作られている推理ドラマなのだが,ホームズが事件を推理していくさまをみて,けっこう前に頭に放り込んだ知識の1つのトゥールミンロジック(https://kogolearn.wordpress.com/studyskill/chap4/sec2/)がよくよく分かった。DataからWarrantを考えClaimを出すって,まんまシャーロック・ホームズのしていることである。もっとも彼の場合,観察力が鋭いゆえにDataから気づくことが多く,また知識も豊富ゆえ,様々なWarrantが出てきているが,やってることは事実からいくつかの仮説を立て,反証が出た仮説をつぶしていき,犯人を特定していくことである。

この腑に落ちた経験で今,「考え方がなっていない」とある友人から指摘されてきた理由がつかめつつある。その人がトゥールミンロジックを想定していたかどうかは定かではないけれど,もはや私がしてきた考えるという行為を,考えていたと自信を持って言えなくなってしまった。

今回の経験から理解したことは以下の3つ
・そもそも考えることは作り上げていくことである
・Data(一次情報,事実)重要,軽んじるべからず
・他人が作ったClaimや常識Claim,そのまま使わずDataやWarrantにまずは分解

2017/02/26

本レビュー 小島寛之「完全独習 ベイズ統計学入門」

少し前から気になっていたベイズ。そういえば…と思い出すたびにググり,いくつかのサイトを見てどういうものなのか知ろうとしていたのだけど,なんのこっちゃよくわからんでいつも終わっていた。まとまった時間がとれたので,それなら本でも読むかということで手にした本が,小島寛之「完全独習 ベイズ統計学入門」である。

昨日の午後から今日の午前にかけて数時間,本に載っている練習問題を解きつつ一通り最後まで読んでみたが,とてもわかりやすい。こと本書の前半部は,身近で具体的な例を使って数式ではなく図解でベイズ確率(ベイズ統計)の考え方を手順を踏んで説明し,かつ,これでもかというくらいに同じ説明を繰り返してくれるので,1回読んだだけでベイズの考え方を頭にこびりつけることができる。初学者にとってこの4点はとてもありがたい。

この本では,仮説検定(ネイマン・ピアソン統計学に基づくらしい)のプロセスも少し説明されていて,それとベイズで行う推定の違いが明記されている。仮説検定は心理学ではおなじみの統計処理である。なので私は,これまでに何度も何度も説明を聞き,本も何冊か読んでいる。にもかかわらず,よくよく頭に定着してくれない代物なのだが,ベイズ推定との比較の説明を読んで,その2つの考え方の違いに興味を惹かれた。その違いとは,「おおよそ」の解釈の違いである。

本書に記載のあったことを引用しつつ簡単にまとめると,「おおよそBであろう」の解釈は,
ネイマン・ピアソン:「リスクはあるが,Bを結論しよう」
ベイズ:「AもBもありうるが,Bのほうが可能性が十分大きいだろう」
となるらしい。

ちなみに,ネイマン・ピアソンにおけるリスクとは,間違った結論を出すリスクである。このあたり,話がやや複雑になるのだが,AとBがあってBが正しいとき,間違ってAと判断するリスクである。このリスクは有意水準によって数値化される。有意水準が5%であれば,100回のAとBについての判断(検定)のうち,5回はAと間違って結論する可能性があるということである。心理学では有意水準はたいてい5%(たまに1%)を用いるが,なんでその数値なのかは正直よくわからない(慣例的に,という説明しか今まで聞いたことがない)。とはいえ小さなリスクなので,リスクは置いておいてBと結論しよう,というわけである。いずれにしても,データを統計処理しその結果を有意水準と照らし合わせることで,結論は1つに決まる。

一方ベイズはどうかというと,結論は1つに決まるというよりも,決めるといったニュアンスが含まれているように感じられる。この場合,ベイズに基づく統計処理によって出てくるのは,AとB両方の可能性(確率)である。つまりベイズは,どっちにも可能性はこんだけあるよ!という情報を教えてくれるのみである。統計処理においては結論は留保され,どういう結論を導くかは,結論を出す人次第となる。

この2つの考え方の違いから,日々私はどうやって推測しているんだろうと振り返ってみたのだが,ネイマン・ピアソン流の解釈である「リスクはあるがBを結論しよう」タイプだと思う。とはいえ,そもそも仮説を立てていなかったり,有意水準も全く無視,ろくに計算すらしていないので,杜撰な推測か直観で結論が一つに導かれる,かっこつきの「リスクはあるがBを結論しよう」タイプである。むしろ厳密にいえば,デフォルトは「Bを結論しよう」で,リスクがあることを一応認識している場合は,「(リスクはあるが)Bを結論しよう」かもしれない。いずれにしても,一つの結論にいつのまにか決まっている。そう,直観が働くときはたいてい一直線に結論に到達しているのだ。杜撰な推測の場合も,杜撰なので寄り道をほとんどしない。だから一直線に近い。ベイズの「AもBもありうるが」の想定が,私の推測パターンに登場しないわけではない。ただ,登場しても,AとBを別々に考えてそれぞれに対してあり/なしの結論を出すので,ベイズのように,AとBの相対的な比較から「Bのほうが可能性が十分大きいだろう」などと結論することはほとんどない。この,「AもBもありうるが」という前提を想定し結論を少し留保しておくことの意味は大きいように思う。この話を読んだときにふと頭をよぎったのは,相手の気持ちの読み間違いである。相手がとった行動から相手の意図や気持ちを推測するとき,ついつい自分が知っているいろんな情報や直観からこうだ!と結論づけてしまいがちだが,「AもBも(CもDもEも…)ありうるが」ということを想定し,(さらにはそれぞれの可能性について考えをめぐらし,)結論を少し留保しておけば,無駄に悩んだり,後に非建設的なけんかをしたりすることは減るように思える。エスパーかよ,自分の直観が正しいとは限らないじゃん!と頭ではわかっているつもりだが,ついついそのことが抜け落ち,今まで不毛な言い争いをしたことは数知れず,である。ベイズ統計でそんなことを考えることになるとは思わなかった。少なくとも,「AもBも(CもDもEも…)ありうるが」と想定しておけば,余裕をもって相手と向き合うことができるだろう。

ベイズ確率の考え方を理解できたという点で,本書は私には有益な本だった。本書の後半部分は,数式や分布図が登場して前半部よりも難しくなる。そのあたりは理解が中途半端なので,復習しておきたい。

2017/01/29

単語練習が嫌なのは分かるんだけど…

塾で英語を教えている生徒のあるあるの1つは,英単語の練習ろくにしないことである。毎回のように単語練習をしようと言い,テストもやり,単語は一回覚えてもすぐ忘れちゃうから何度もやらないと定着しないよと言い続けても,なかなかこつこつ練習してくれない。塾で英語を教えてお金をもらっている以上英単語をやらせないとと思うのだが,なかなか生徒の心を動かすことができない。

単語練習をやりたくないという気持ちはよく分かる。今私はドイツ語を学んでいるが,私だって単語練習はしたくない。単語練習なんて退屈だし,面倒だ。生徒になぜ単語練習をしないのか聞くと,時間がなくてと答えるが,他のことをする時間はあるのだから,要は,単語練習には他のことよりも魅力がなかったというだけのことであろう。その点は共感する。

とはいえ,言わずもがなではあるが,単語を多く知っていることは語学においてメリット大なのだ。というよりも,単語を知らないことは語学学習の足かせでしかない。単語が分かっていれば,たとえ文法がごじゃっていたとしても文意を汲むことはなんとなくできるのだ。そうすれば問題も解ける。

そんなわけでここ数ヶ月,自分がこれまでやってきた単語練習法を参考に,取り組みやすい単語練習方法を生徒に提案してみている。私はこれまでいろいろな方法で単語を練習してきたが,単語を発音しながら数回書き,それを毎日一定期間続けるというのがいちばん効いているように思う。この作業は1日に長時間やる必要はなく,10分,15分とかでかまわない。でも毎日やることが大切である。そうすると,否が応でも自然に大体覚えていくものである。もし書く余裕がなかったら,やはり1日10分,15分でもいいから,どうしても無理なら数分でもいいから,単語帳をパラパラと眺めることをするのでもよい。でもやはり重要なことは,同じページを一定期間毎日眺めることである。

提案をした生徒たちに後日,単語練習の状況を聞いてみた。やはりそうよねというべきか,大方の生徒はアドバイス通りに実行してくれていない。さらに話を聞いてみると,結局のところ,毎日やるということ,つまり繰り返し練習するということができていない。1日数分でも難しいか…。繰り返し練習をすることに魅力を感じてもらうためにはどうすればいいのかを考えねばならないのかもしれない。

2017/01/28

1ー3月期の楽しみ,アニメ「昭和元禄落語心中」

毎週金曜の深夜,アニメ「昭和元禄落語心中」http://rakugo-shinju-anime.jp/)が放映されている。昨年の1月―3月期に放送されていたのの続編なのだが,私はこのアニメのファンで,昨年に引き続き今年もはりきって観ている。

「昭和元禄落語心中」と出会ったきっかけは,おととしの年末頃に本屋さんで原作の漫画を立ち読みしたことだ。アニメ放映記念で,一話分の小冊子が置いてあった。落語はなんとなく興味があったし,タイトルにも惹かれて早速読んでみると,こりゃおもしろい!となり,家に帰って即録画予約したものだった。

少しストーリーを紹介すると,主人公は刑務所帰りのお兄ちゃん(与太郎)なのだが,刑務所の慰問で聞いた落語「死神」をいたく気に入って,その落語家(有楽亭八雲)に弟子入りしようとするところから話が始まる。その後のストーリーは与太郎の落語家への成長記録かと思いきや,八雲の半生の話がスタートする。昨年のアニメはここを描いたものだったのだが,彼と彼の人生に深く関わった人たちとの人間ドラマが楽しくもあり,切なくもあり,やるせなくもありで一言では言い表せない気持ちで観ていた。とても引き込まれた。また,彼らの寄席の場面や練習の場面で毎回のように流れる落語を聞くのも好きだった。落語家の人たちの生活,落語の練習風景,昭和の戦前戦後にかけての大衆文化としての落語の雰囲気など,アニメを通してなんとなく知ることができて,私も寄席に行ってみようと,昨年は2つ寄席に足を運んだ。

今放送中の話は,与太郎がついに真打になったところから話がスタートしている。与太郎には家族ができた。八雲さんは厭世感が昨年よりも増しているが,色気は健在である。若き頃の八雲さんは美しかったが,今の少し渋めの雰囲気も嫌いではない。これからどう話が進んでいくのか楽しみだ。