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2015/03/09

テレビをめぐってのここ1週間のこと

家のテレビが先週の火曜日突然壊れた。テレビの電源を入れて一瞬画像と音が出たと思ったら、だんだん画面が黒くなり、音も消えた。電源を切って再度入れてみたところ、真っ黒無音で何も変わらず。なんで壊れた!?とイライラの中数時間、自力でどうにかならないものかとネットで解決方法を検索しまくった。そこに載っていたのをいろいろ試してみたけどその甲斐もなく変化なし。自力では無理だと悟った。それで次に頭に浮かんできたのは、修理する?買い替える?これを機にテレビなし生活に転換する?の3択である。結局、修理代金のことや友人からのアドバイス、ネットでの価格調査の結果を踏まえて新しいテレビを買うことにし、その後もどれを買うかで紆余曲折あり、明日ようやくテレビとの生活を再開できることになった。なんとほっとしたことか。

ここ1週間ほどのテレビなしの生活は静かなものだった。テレビがついていないことで、音と色から切り離された感じだった。もちろんまったく音がないということではない。生活音や家の前の通りを走る車の音、人の声は聞こえてくる。でもどこか遠い。窓や壁に囲まれているからなんだろうけど、自分がいるところは静かな別空間みたいな感じだ。たくさんの色も目に入ってこなくなった。視界の片隅に見えるのは、鮮やかな映像ではなくテレビ画面の黒色だけだ。

昨今よくテレビ離れが進んでいるという話を聞く。私の友達も2人ほど好んでテレビなし生活を送っているが、どちらもその生活に特に不便はないらしい。総務省がメディア利用に関する調査を公開しているのでちょっと眺めてみた(平成25年度 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査〈概要〉/総務省 情報通信政策研究所:http://goo.gl/LyNQ4y)。この調査結果での比較は、平成24年度と平成25年度のデータのみなのでテレビ離れが進んでいるかどうかの判断はできないが、40代、50代においてはテレビ(リアルタイム)視聴時間の減少が見られ、10代や20代については他の年代(30~60年代)よりもテレビ(リアルタイム)視聴時間が少なく、下げ止まりが指摘されている。ちなみに私の属する20代の平成25年度のテレビ(リアルタイム)視聴時間は、平日127.2分、休日170.7分で、テレビ(録画)視聴時間は、平日18.7分、休日35.7分である。

さて私のテレビ生活はというとこのデータに全く似つかない。私のテレビ視聴のほとんどは録画したものである。統計データから計算すると、テレビ視聴時間のリアルタイム:録画は、平日で8.7:1.3、休日で8.3:1.7となっているが、私の場合1日のテレビ視聴時間のうち8.5~9割くらいは録画で、残りはリアルタイムである。そしてリアルタイム視聴時間のほとんどは、ながら視聴だ。家にいるときは睡眠時を除いて大体テレビをつけているので、時折現れる気になる言葉や映像に応じてテレビに集中する、みたいな感じである。統計データで録画視聴時間が休日でさえ1時間いかないのに驚いた。

私の一日の録画視聴時間はどのくらいだろうか。ここ1か月くらいを振り返ってみると平均で2時間くらいだろうか。私のテレビ録画視聴の多くはドラマなので、時期によって変わる。今フォローしているドラマは…げ、10本もあるではないか。そもそもテレビなしの生活という選択肢をかなり早い段階で消したのも、ドラマを見れなくなることが困ると思ったからである。地上波のみならずCSで放映されているドラマをけっこう見ているのでやっぱりテレビいるでしょう、となったわけである。ちなみに、地上波ドラマについてはこの1週間スマートフォンのワンセグ機能を初めて使って見てみたが、私の家は電波が悪く、途中で映像は途切れるわ電波を求めて窓際に移動しなくてはならないわでイライラの連続だった…。

しかし、テレビなしの生活を1週間続けてみると静かな部屋にも、ドラマを見ることができない生活にも慣れるものである。静かな部屋は居心地が悪かったので、ネットやアプリでラジオや音楽を流してみた。最初こそ変な感じだったが今は慣れた。今後、家にいるときテレビをつけっぱなしにする必要はないだろう。ドラマについては執着が弱くなった。明日テレビが来たらまたフォローせずにはいられなくなる気がしないでもないが、これから放送が始まるドラマについては少しセーブしようか。

2015/03/06

読書記 モーム 「ランチ」(The Luncheon)

最近、誰かと一緒にご飯を食べに行くとなるとまっ先に頭をよぎるのは、お金のことである。人と一緒に外食するのは好きなので基本的に誘いは断らないし、自分から友人を誘ったりもする。けれど決して思い切りはよくない。「その食事でいくらくらい使うことになるんだろう」「値段に見合った量が出てくるんだろうか」「あ、交通費もけっこうかかるのね…」そんな悶々とした気持ちをしばし抱えることになる。なんともせせこましい自分に悲しくもなるが仕方あるまい。外食は節約生活の敵なのだ。さしあたり貯金を切り崩して生活費と学費をまかなっていることを考えると、外食に十分にお金をかける余裕はない。

とはいえ、私の場合人と外食するときの支払いは、割り勘又は相手が私より多く支払ってくれる、がほとんどである。本当にありがたいと思う。と同時に三十路手前になっても「今日は私がおごるね!」と言えない自分がちょっと恥ずかしい。先日読んだ英作家モームの短編「The Luncheon」(http://goo.gl/994ZSV)の主人公はその点潔い。若き小説家の主人公にファンレターを送ってきた女性の希望に応え、パリの格式あるレストランでその女性と一緒に昼食を食べることにするのだ。もちろん主人公のおごりで。しかしこのランチは主人公にとってとんでもなく冷や汗ものとなる。この女性、「私昼食は1つの料理しか食べないことにしているの。でも~は別よ。」と言いながら旬の食材や高級食材を使った料理を次々とオーダーし、出てくる料理、飲み物をどんどん平らげていくのである。

モームは自身の小説「アシェンデン―英国情報部員のファイル」中で、小説家には2つのタイプがいる、と述べている。1つは事実を淡々と書いていくタイプ、もう1つは事実を元にしつつも適宜創作して意図的に盛り上げ場面を作っていくタイプ。モーム自身は後者であるとのこと。この短編もそのように書かれているのだろう。設定や主人公の心理描写が巧みで、読んでいるとありありと情景が浮かんでくるし、実際にこんなこと起こりそうである。しかし同時に話の流れが明確で短編全体を通して冗長性を感じない。作りこまれた喜劇、という印象を受ける。私にとってのこの短編のいちばんの面白さは、主人公と女性がランチを巡って交わす会話とその時の主人公の心理描写だ。言っていることとやっていることが裏腹であっけらかんと食べ続ける女性と、支払いを気にして今にも気絶しそうな主人公との掛け合いが面白い。読んでて笑いが止まらなかった。主人公の間合いの取り方や皮肉から女性は終始何も察さず、オーダーを続けるのである。察してほしい主人公の気持ちと行動に共感しつつも、ことごとく叶わず食事が進んでいく様子はとても可笑しい。

ちなみにこの短編にはオチがある。私はこのオチにさほど笑えなかったが、オシャレさ漂うオチである。


追記
日本語訳はこちらに収録されている模様。「モーム短篇選〈下〉」

2015/02/19

映画レビュー 「ブルージャスミン」

映画「ブルージャスミン」を観た。大好きなウディ・アレン映画ということでDVDを手にとった。ここ何年かのウディ・アレン作品は全部観ているが、この映画はそれらのどれよりも容赦ない話だった。特にラストシーン、主人公がベンチに座って独り言をつぶやくところで終わるのだが、その姿を見たときにはもう、それこそ「笑ゥせぇるすまん」の喪黒さんにドーン!と突きつけらたような感じである。

この映画の主人公は、元セレブの女性ジャスミン。ジャスミンは、実業家でお金持ちの夫とニューヨークでセレブ生活を送っていたが、実は夫は詐欺をはたらいており、逮捕されてしまった。しかも逮捕後自殺。お金も家も夫も失ったジャスミンは、サンフランシスコに住むシングルマザーの妹を訪ね、妹と一緒に暮らしながらどうにかセレブ生活を取り戻そうとする。

ジャスミンは、はたから見れば滑稽でかなりイタい女性である。一文無しなのにも関わらず高価な衣服やアクセサリーを身につけ、飛行機はファーストクラス。妹に生活をお世話になりつつ内装や男の趣味が悪いと文句をたれ、バカにしていた歯医者の受付の仕事に苦戦する。インテリアコーディネーターになることを夢見、政治家を目指すセレブと結婚しようと嘘に嘘を重ねる。ジャスミンは自尊心が高くて傲慢、虚栄心が強く、ことあるごとに過去の生活を思い出してはそこに浸り、現実を認めることができないでいる。

でも、ジャスミンの行動をジャスミンの視点で考えてみると少し違って見えてくる。内容・程度の差こそあれ私も経験したことがあるし、多くの人が経験していることのようにも思う。だから映画を観ていてギクッとしてしまった。ジャスミンの行動や発言から連想されるのは、アイデンティティクライシスという言葉だ。人は通常、社会でさまざまな経験をしながら自分を知る。接する相手や環境によって、年齢によって行動が変わっても自分から出た行動であることには違いなく、統合され一貫性を持った唯一無二の存在としての自己像を得る。アイデンティティは青年期の発達課題としてよく取り上げられる。しかし青年期に限った問題ではなく、青年期に解決しても人生のどこかのタイミングで再び再燃することはある。ジャスミンの場合を考えてみると、彼女はセレブ生活を心から満足し、特に疑問も抱かず当然のことのように感じていた。ジャスミンのアイデンティティはその生活での経験に帰属し育まれていたといえる。しかしその生活は突然奪われてしまう。自分の拠り所であり、自分を自分たらしめていたものが突然奪われるのである。しかもなんとも悩ましいことにそれは自分が衝動的にとった行動によって引き起こされてしまった。そこでこれらの不快な状況から抜け出すべくジャスミンが考えたことは、限りなく元の生活に近い生活を取り戻すことである。自分の信じていたものや大切にしていたものが突然奪われば、どうしたらいいか分からなくて不安や恐怖を感じるし、頭にくるし、絶望する。すがったりもがいたりしてなんとか取り戻そうとするだろう。黙って「はいそうですか」と受け入れられる人はよっぽど精神を鍛錬している人くらいではないか。

が、かといって失ったものにいつまでもとらわれていたり、現実を認めることができないでいるのも精神的にはよくない。これからのことを考えたら、早い段階で現実に向き合い、折り合いをつけてアイデンティティ再確立に励んだほうが断然いい。その意味で対照的なのはジャスミンの息子(夫の前妻の子のため血はつながっていない)である。ジャスミンは過去にとらわれたままで映画は終わってしまうが、息子は父親の詐欺で友人も信頼も失い、大学をやめて家も飛び出し、荒れた生活も経験したが、現実を受け入れ、地に足のついた生活を始めていた。私はなかなか気持ちを切り替えられないたちなので、ベンチに座って過去を回想しながら独り言をつぶやくジャスミンを見てゾッとした次第である。

私がこの映画でいちばん魅力を感じたのはジャスミンの精神状態とその描写(ケイト・ブランシェット、よかった!)だったが、他にも見どころがある。例えば作品の構成。ジャスミンが過去にとりつかれているようすを表すかのように、ジャスミンによる回想がちょくちょく織り込まれているのだが、物語が進むにつれてなぜジャスミンが一文無しになったのかが分かるようになっている。その理由はなかなか衝撃的である。それからジャスミンとは全く異なる性格の妹。姉と暮らし始めたことで妹にもいろんな変化が訪れる。姉に感化されたりする、全編を通しての妹の変化も共感できるし楽しいと思う。

2015/02/14

読書記 ブレヒト 「ガリレイの生涯」

大学では今年度の講義が全て終わった。今年度は今まであまり接してこなかった分野の講義をいろいろとってきた。その中でおもしろかった講義のひとつは、「科学史」である。その名のとおり科学の歴史についての講義。先生は主に、科学界で歴史に残る人たちの人生や彼らにまつわる小話を紹介していた。私にとって科学はこれまで、数式や理論で覆われている堅くて静かで冷たいイメージだった。でもそれらを生み出した人たちの生活やエピソードを知ったら、科学が血の通ったものになった。そう、科学は血の通った人間が作り上げてきた世界なのである。科学者たちは、世の中に貢献する理論を生み出す能力と、それを活用するための努力と情熱を持っていた。でもそれだけでなく、恋愛や趣味を楽しみ、愛や嫉妬で葛藤し、利己心や自己顕示欲にも駆られる。それに科学者たちの功績は、彼・彼女たちを取り巻く人たちや当時の社会の状況も十分に作用したゆえ成し遂げられた。そんなことを十分に感じる講義だった。

先日、講義中に先生が紹介していた本を一冊読んでみた。ドイツの劇作家ブレヒトが史実に即して書いた「ガリレイの生涯」である。地動説を証明したガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の半生をブレヒトが戯曲にした。ガリレオが初めて夜空に望遠鏡を向けたとされる1609年から、2度の裁判(1616、1633)、そしてガリレオの最後の著作「新科学対話」の原稿がガリレオの書斎を出て祖国イタリアの国境を越えるところまでを15幕に分けて描いている。

ガリレオの生きた時代は、キリスト教会が政治的権力を有していた時代だ。人々は聖書と教会が提示する解釈がすべてだと思っていた。ガリレオは政治的な利害と人々の無知の中で、自分のために世の中のために真理を探求し続けた。2度かけられた裁判もその代償である。望遠鏡を使って天体の観測を始めたガリレオは、地球が太陽の周りを回っていることを確信し言及し始めた。しかし、聖書の記載と矛盾する地動説は教会にとっても天動説を信じきっている人々にとっても具合が悪い。地動説が普及し信じる人が増えれば、これまで同様教会組織は人々を統治しきれなくなるかもしれない。教会はガリレオを2度裁判に召集した。1度目の裁判では、コペルニクスの地動説や本が禁止となったが、ガリレオの研究を妨げるような判決は起こらなかった。しかし、地動説信奉者と天動説信奉者を議論させる「天文対話」を出版すると、ガリレオはまた裁判にかけられる。そして、前回の裁判で言及されなかった「地動説の教示の禁止」を破ったとして罰せられ、「天文対話」は禁書となる。ガリレオは、地動説を放棄する旨の異端誓絶文を読み、死ぬまで監視つきで軟禁を強いられることとなった。

ブレヒトが描いたガリレオは、私がイメージしていたガリレオ像とは異なっていた。そもそも私はガリレオって、物理学者で地動説を唱えて、それでも地球は動いているっていった人、くらいの知識しかなかったから、むしろブレヒトの描いたこの戯曲を読んで活き活きとしたガリレオが目の前に現れた、と言ったほうが正しいかもしれない。ブレヒトが描くガリレオは、真理を追求し周知せずにはいられず、使命感をもって研究し、真理が普及することで全ての人々は啓蒙されることを信じていた。生活資金を稼ごうと画策し、教会と折り合いをつけながら研究をあきらめないための手段を講じる現実的な思考を持ち合わせ、観測データや実験から理論を導き、自らの行動(地動説を放棄したこと)を冷静かつ辛辣に批判する理性を披露するのである。

戯曲の中のガリレオが実際のガリレオにどの程度近いのかはさておき、戯曲に書かれた当時の社会と科学との関係、ガリレオの自己批判は、「私たちは科学の功績をどう扱うのか」という問いを投げかけている。ここでそのシーンの概要を少し加えておくと、ガリレオが地動説を放棄したことで、ガリレオを慕っていた者たちは失望し怒りを抱いた。でもガリレオは新しい著作「新科学対話」を密かに完成させていて、その昔はガリレオを慕っていた来客にそれとなく持ち出すよう示唆するのである。その来客はガリレオとのやりとりで、ガリレオが地動説を放棄したのは科学を続けるためだったのでは、と考える。しかし、ガリレオはそれを否定し、客に向かって科学の目的(人間の生存条件の辛さを軽くすること)を説き、科学の知見が権力者に渡ったときに一般人たちにもたらされうる難を危惧し、自分が地動説を撤回して科学を権力者の手に委ねたことを激しく非難し始めるのだ。このときブレヒトの頭には、アメリカによる原爆投下があったのは事実である。

「科学の功績をどう扱うか」という問いは今、ガリレオの時代よりも戦時中よりも、一般人のもとに迫ってきていると思う。例えば遺伝子診断。女優のアンジェリーナ・ジョリーがちょっと前にガンのリスクを考慮して胸を切除したことが話題になり、出生前診断を行えば、胎児の染色体異常のリスクを調べることができる。最近ではいくつかの会社が遺伝子診断事業を始めた。自分だったら遺伝子診断をどう扱うだろうか。もし診断してガンになるリスクがあったら私も胸を取るんだろうか?でもどれくらいのリスクだったらそうするんだろうか?そもそもガンになるリスクを知るリスクだってある。知っといたほうがいいのか、知らぬほうがいいのか。あとで後悔しないのはどっちなのか…。ちょっと考えたくらいでは答えがまとまらない。

私は、科学の発展に多くの人が関わるようになり、科学の恩恵を多くの人が受けることができるようになっている今の時代が好きだし、否定する気もさらさらないし、今後の発展も期待している。だけどそれを自分ごととして捉え始めるとちょっと不安を覚える。