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2018/04/06

無料だよ! 本郷・御茶ノ水散策

都内で美味しいラーメン屋探しをしていたときのこと(http://yukiron.blogspot.jp/2018/03/blog-post_19.html),本郷にある瀬佐味亭に行ってみることを決めたので,ついでにあのあたりを散策してみようと思いついた。本郷はなかなか行かないエリアなので,せっかくだからいろいろ見てみようと思ったのだ。それであのあたりを調べてみたら,なんと無料で見られる博物館が3つもある…!というわけで,3つの博物館をはしごしてきた。

東京都水道歴史館http://www.suidorekishi.jp/
江戸の上水システム
今回訪れた3つの博物館の中で,個人的に一番良かったのはココ!特に2階の,江戸時代,江戸の人々がどうやって水を手に入れ,使っていたかを知れる展示の数々がツボだった。水をひくって,本当に大掛かりな工事だ。しかもただ工事すればいいって話ではない。土壌や高度,人口分布など土地のことも考えなくてはいけない。現在でさえそうなんだから,400年前の江戸時代なんてもっと大変だったに違いない。それを人力と知恵をフル活用して,江戸の町に水を持ってくるという…。本当にすごいことだよ。
江戸時代の水道管は,木で作られていて木樋と呼ばれている。その木樋は,もちろんでかい!そして,1本の木樋の端っこには記号がついている。これは,その木樋にどの木樋をつなぐかを示すものだ。そして,つなぎ目には,檜や杉の内皮で作った繊維を詰めて,水漏れを防ぐ。当時の人々の創意工夫を感じられる。
記号を使って木樋をつなぐ
木樋
木樋
江戸時代の上水井戸
家庭では主に,上水井戸から汲み上げて水を使っていたようだ。上水井戸は数軒に1つ。飲料として,台所で,洗濯に,お風呂にみんなで使う。といっても潤沢に水があるわけではないので,無駄使いはできない。蛇口をひねれば水が出てくる生活をしている私が,もし江戸時代にとばされたら,思い通りに水を使えなくてイライラするに違いない。
発掘された上水跡
敷地内にある神田上水の復元
1階には,明治時代以降の東京の水道についての展示が並んでいる。今の都庁のところにあった,淀橋浄水場の写真や,水道管の変遷,戦時中の水の使用に関する注意記事,奥多摩にある小河内ダム,水をひくネットワークのことなど。江戸時代では単に「町に水をひく」だった。それだけでもすごいことだった。でも技術が発展して,知識も増えた現在は,「安全でおいしい水を絶やすことなくひく」ことができるようになった。改めて考えてみると,それって本当に幸せなことだ。そしてそれまでにはたくさんの人の力が必要だったのだ。1階ではその過程を知ることができる。
展示をすべて見終わったところで,東京の水道水の試飲の案内を発見した。東京の水のこと,こんだけ学んだら飲んで帰らずにはいられない!と思って,早速受付の人にお願いしてみた。すると,冷たくて透き通った,コップ1杯の水を出してくれた。味わうようにゆっくり飲んだ。これは美味しい…。東京では蛇口ひねるとこの味が出てくるのか…。私の住む某政令指定都市の水道水より断然うまくてびっくりした。


東京大学総合研究博物館http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/UMUTopenlab.html
本郷といえば東大だよね!東大になんか面白いものはないかと調べていたら,博物館が併設されているではないか。ってことで行ってみた。ここの博物館のいちばんの見所は,入り口入ったところにあるコレクションボックスではなかろうか。撮影不可のため,ここで写真を紹介できないのが残念だが,約100弱の展示物‥蝶の標本,動物や人の骨,埴輪や土器,装飾具などの出土品,日本の鉱物,被爆瓦などが,大きなガラスケースの中に収まっている。学者の作った蝶の標本の実物を見たのは初めてだったのだけれど,身体のどこかが微妙に違うたくさんの蝶が大量に並んでいるビジュアルは圧巻だった。
掘り出された土偶,道具など
人骨
コレクションボックスの外にもたくさんの展示があった。「総合研究博物館」の名にふさわしく,動植物の標本や剥製,鉱物,化石などいろんなものが並んでいる。展示の一つに,アイスランドガイの標本があった。ラベルの説明に目を通すと,人間より長生きな長寿の二枚貝とな…!何歳くらい生きるのか気になって,ささっとネットで調べてみたら,なんと507歳のアイスランドガイについて書かれた記事を発見…。500年前って,日本じゃ戦国乱世じゃないか。すごいな,おい…。
年代測定装置(AMS)
それからこの博物館には,放射性炭素年代測定ができる装置が置いてあります。モノに含まれている炭素の量で,それがどれくらいの年代のものなのか高い精度で分かるって話は聞いたことがあったのだけど,装置を見たのは初めて!ちょっと興奮した。


明治大学博物館https://www.meiji.ac.jp/museum/index.html
本郷と御茶ノ水は目と鼻の先だったのですね…!ということで,前から気になっていた明治大学に併設されている博物館にも行ってきた。私はその昔,明大生だったのだけど,在学中は博物館になんて行こうとも思わなかった。でも卒業後,博物館に行った友達の,「あそこギロチンがあるよ」との一言を聞いてから,いつか行ってみようと思って延ばし延ばしになっていたのだ。
ここの博物館は,「商品」「刑事」「考古」の3テーマで構成されていて,花形の展示は「刑事」。ギロチンありました。レプリカですが。それ以外にも,ヨーロッパ,中国,日本で使われていた拷問器具のレプリカや使用方法などを示した絵,記録が展示してある。個人的には,江戸時代の拷問の展示が興味深かった。テレビで見る歴史ドラマや時代劇では拷問シーンは出てこないし,そういう本も読んだことがない。だからとても新鮮だった。よくまぁこんなにたくさんの種類の拷問(罰)を考えたなと思いつつ,実際に拷問器具を使っているところの絵を見ていたらだいぶ怖くなった(汗)拷問だから当たり前ですが,あれやられたら絶対痛いし絶対辛い。いろんな拷問があることからも分かるように,江戸時代の刑罰はけっこう複雑なようだ。ところで,島流しは死刑の次に重い刑だと聞いたことがある。個人的にはあの拷問器具で拷問されるよりも島流しのほうがいいのだが…,島流しってそんな軽く考えていいものではないんだろうか…。
ところで明治大学といえば,旧日本陸軍の登戸研究所の跡地に生田キャンパスがあることでも知られている。登戸研究所に関する資料は,生田キャンパスの「明治大学平和教育登戸研究所資料館」(https://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html)に展示してあるのだが,こちらも興味深い。旧日本陸軍が,敵に対してどんなことを仕掛けようとしていたかを知ることができる。正直,原爆と比べたら雲泥の差なのだけれども…。あまり公には報道されない情報がつまっているから,訪問して損はないと思う。ちなみにこちらも無料です。

紹介した博物館はどこも規模が小さめ。ゆっくりめに観覧しても2時間くらいで全部見終わるんじゃないだろうか。近くにお出かけの際は,ぜひ立ち寄ってみてください~!

2015/11/03

ヨーロッパにおける動物観の変遷

※このテキストは、大学の「人間・文化・社会」(2014年前期)の講義の際に提出したレポートをリライトしたものである。

「動物園」は現代の私たちにとって馴染みのある施設である。子供のころ誰しも一度は動物園で動物を見たり、エサをあげたりしたことがあるだろうし、日本においては、上野動物園にパンダを一目見ようとたくさんの観客が押し寄せたことが記憶に新しい。動物園は私たちに、動物たちの暮らしぶりを知る機会や、余暇の楽しみを提供してくれる。しかし動物園がこのような、教育とレクリエーションの機能をもつようになったのは、近世の終わりから近代にかけてのことである。このころヨーロッパでは、近代動物園の走りとなる動物園が誕生した。1773年、フランス・パリの王立植物園に動物飼育施設が追加され、一般公開された「ジョルダン・デ・プラント」、1779年にオーストリア・ウィーンにて神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世が一般公開した、「シェーンブルン動物園」、1827年にロンドン動物学会がイギリス・ロンドンに設立した「ロンドン動物園」である。しかし、これらの動物園の原型は古代までさかのぼることができるという。本レポートでは、中世から近代動物園が誕生したころのヨーロッパにおける、動物園に象徴される動物観の変遷を論じたいと思う。

富や権力の象徴としての「動物コレクション」 
ヨーロッパにおいて、動物園の原型ともいえる、野獣や珍しい動物を自国、他国から集めた「動物コレクション」(溝井 2014.p.18)は、古代から中世にかけて存在していた。「動物コレクション」の目的は、権力者たちが自分の富や力を内外にアピールすることである。裕福でなければ動物を飼うことはできないし、他国とのつながりがなければ珍しい動物を集めることはできない。 
中世ヨーロッパでは、王侯貴族や聖職者が所有する動物コレクションが存在した。神聖ローマ帝国のカール大帝(742-814)は、イスラム帝国からゾウやサルを、カイロからライオンやクマを受け取っている。また、同じく神聖ローマ帝国のフリードリヒ二世(1194-1250)は、イタリアのパレルモ、ルチュ―ラ、フォッジャなどに大規模な動物コレクションを構えていた。他国との動物も交換を積極的に行ったほか、他地域に訪問する際にライオンやトラ、ラクダなどを引き連れていたという。イギリスでは、ウィリアム一世(1028頃-1087)の時代から外来動物が集められ、ヘンリー一世(1069-1135)、ヘンリー三世(1207-1272)へと引き継ぎながら規模を拡大し、ロンドン塔で飼育されていた。フランスでも複数の王が城で動物を収集し飼育していた。ルネ・ダンジュー(1409-1480)はアンジェ城にライオン舎や小型哺乳類、有蹄動物、ダチョウ、大型鳥類の飼育施設、水鳥用の池などを保有し、専門の飼育人たちが世話をしていた。また、使者を派遣して、北アフリカや地中海東部沿岸地方で動物の購入を行っていた。 
ここから読み取れる動物観は、「自然界において動物は人間よりも絶対的に下位であり、支配の対象である」という思想である。この動物観はキリスト教が普及し、勢力を強めていくなか、より強固なものになっていったと思われる。政治と宗教が強く結びついていた当時、動物コレクションを有する権力者たちとキリスト教のつながりは深く、聖書での人間による動物支配の明文化によって(旧約聖書・創世記には、神は自身の姿に似せてひとを作り、ひとに動物たちを支配させる旨の記述がある)、動物は人間のために利用されて当然とみなされていたと考えられる。

見世物としての「メナジェリー」 
近世になると、動物コレクションは動物たちを見世物として収集、展示する「メナジェリー」へと変化した。フランスのルイ十四世(1636-1715)は、ヴェルサイユ宮殿の庭園にメナジェリーを設立した。パビリオンから、7つの区画に分けて配置された動物たちの飼育舎を眺めることができるように設計されており、鑑賞に特化していたという。飼育舎には、ヒツジや水鳥、外来の鳥、ジャコウネコやキツネ、ウシやクジャク、マングースなどがいた。また珍しい動物の収集も熱心だったようだ。オーストリアのシェーンブルン宮殿にフランツ一世(1708-1765)が設立したメナジェリーは、現在のシェーンブルン動物園の中核を成している。放射状に広がった13の飼育舎を所有していた。これらのメナジェリーは動物研究に利用されることもあった。フランス・ヴェルサイユのメナジェリーでは1669年から1685年にかけて90種類の動物たちの解剖が行われ、動物の生態や特徴、内臓のスケッチなどの詳細な記録が残された。 
一方、オランダやイギリスでは、民営のメナジェリーが誕生した。民間のメナジェリーは商売目的で運営していた。集客のため、階級の低い層のための安い料金や子供料金、学生割引、複数回入場券などを用意し、宣伝やイベントなども盛んに行っていたようだ。巡回するメナジェリーもこのころヨーロッパで普及しており、巡回メナジェリーは「人びとの教育のためと称して、珍しい動物を大量に人びとに見せていた」(溝井 2014.p.127)という。 
このころ、動物は引き続き人間から支配され、利用される対象だった。動物コレクションに見られた個人の力のアピールに加え、商用も進む。飼育された動物は、メナジェリーの登場で多くの人びとの目に触れることとなり、動物への興味・関心は一般大衆にまで広がっていった。そして、生活に余裕のある大衆を中心に、楽しみのために動物と関わる、という動物観が普及し始めたと言える。また一方で、自然に関する知識が増え、科学技術の発展が進んでいった時代でもあり、様々な種類の生きた動物を目の当たりにしたり、解剖したりして動物についての知識が増えるにつれて、古代ギリシアで見られたような客観的に観察、分析する対象として動物を捉える姿勢が根付く。古代ギリシアでは、一部のギリシア人は動物を研究対象として捉えており、ヒポクラテス(前406頃-375頃)は、動物を陸上、水棲、飛翔動物などに分類し、アリストテレス(前384-322頃)は動物たちを観察し、様々な基準によって分類したものを『動物誌』という本に記載した。古代ギリシアでのこのような動物観は、当時自然哲学が盛んに行われていたことと関係があると思われる。メナジェリーが各地で広まっていったころのヨーロッパでも、知識人の間で「動物とは何か」の考察が進むこととなり、人間と動物の違いについて複数の説が現れた。

教育・研究色が強まった「動物園」 
メナジェリーは近代に入り、教育・研究色が強まった動物園へと徐々に変化していった。先に挙げた、パリの「ジョルダン・デ・プラント」のコンセプトは「新しい自由国家と新しい科学意識の象徴」(溝井 2014.p.145)であり、多様な動物を広い空間に集め、種ごとに分類、記録していくことが目的だった。この時代に誕生したロンドン動物園は、1825年に発表した設立趣意書の中で、設立目的を下記のように残している。「長年、博物学の研究者にとってはなはだ遺憾であったことは、動物学の教育・研究のための大規模な施設がないことと、動物の本性、特性、修正を研究できる生きた動物のコレクション、すなわち公共の動物園がないことであった。(略)つまり、世界中から集めた動物は、低俗な感嘆をよびおこすためではなく、科学研究の対象として用いられるか、あるいはなんらかの有益な目的にあてられるだろう・・・」(G・ヴェヴァーズ 1979.p.17-18)外来種の動物も含め、ゾウやトラ、ハイエナ、ラマ、ワタリガラス、ワシ、オオヤマネコ、オランウータンなどが飼育され、特権者階級から労働者階級まで、あらゆる階層の人々の娯楽の場ともなった。 
1907年、ドイツのハンブルグにカール・ハーゲンベックが開園した「ハーゲンベック動物園」も代表的な近代の動物園である。檻を使用せずに濠や岩で区切った場所で動物を飼育する「無柵放様式」と呼ばれる展示方法を自身の動物園に取り入れ、観客たちに野生に近い環境で動物たちが暮らしているさまを見せた。また、彼は動物と人間を同じ存在として扱い、調教の際には鞭やこん棒などで暴力をふるいながらではなく、良い芸をすれば餌を与え、悪い芸をすれば叱るという、飴と鞭戦略で調教したという。 
近代の動物園を通して見られる動物観は、メナジェリーを通して見られた動物観を踏襲している。動物を研究対象として捉える姿勢と動物を娯楽のための手段として捉える姿勢が広く普及した。動物は引き続き人間の支配下にあるが、動物への客観的な理解が進み、動物を、単に人間に従属するものとして好き勝手に扱うのではなく、人間が持つような命を持つ存在として認識し、扱う思想が見られる。 
以上のことから言えるのは、動物たちが、個人の力をアピールするという目的のもと主に権力者個人に利用されるものから、一般大衆の楽しみや教育といった公の目的で利用されるものへと変化した、ということだ。そして、キリスト教思想と科学の発展を背景に、動物観も変化していった。つまり、キリスト教思想のもとに形作られた、人間は動物に対して絶対的優位であるために、動物を好き勝手に扱ってよいという思想は、動物についての客観的な知識が増すにつれて、人間が人間に対して持つ倫理観を動物たちにも適用し、動物たち自身の特性や生態を考慮して扱うことへと変化していったのだ。 


参考文献 
溝井裕一「動物園の文化史―ひとと動物の5000年」勉誠出版、2014年
H・デンベック、小西正泰訳「動物園の誕生」築地書館、1980年
G・ヴェヴァーズ、羽田節子訳「ロンドン動物園150年」築地書館、1979年

2015/01/11

近代ヨーロッパを探る⑤ 続く戦争

ヨーロッパは第一次世界大戦で疲弊した。総動員令が出され、男性の多くは出征し、植民地からも兵力を補い、女性も軍需工業で働いた。長期化してたくさんの人が死に、物資がなくなった。第一次世界大戦後には、講和会議が開かれて国際連盟が誕生した。アメリカのウィルソン大統領は、アメリカが民主主義を広めるために参戦したと繰り返し説いており、実際ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国が崩壊したことから、民主主義や自由主義が勝利したかのように見えた。しかし事態はそう単純ではなかった。講和会議では、民族自決の原則が唱えられたが、帝国の植民地や領土だったところは戦勝国に委任統治という形で分配され、独立できなかった。独立国家もいくつか誕生したが、民族が混在している地域においてはかえって国家の形成が難しく、紛争が繰り返されることとなった。敗戦したドイツは多額の賠償金を負うことになり経済は破綻、貧困や失業に苦しむ人びとが増え、国民の不満は増幅した。一方ロシア革命で政権の中心となっていたロシア共産党は、資本主義国からの攻撃を恐れ、他国の民衆の不安を煽って革命を宣伝し、資本主義国との関係を悪化させていた。ロシア共産党の活躍でヨーロッパでは各国に共産党が誕生した。しかし多くの国で、社会主義を掲げる政党は革命推進派と、ほかの政党や運動と共存していこうとする穏健派に分裂していた。さらに、強大化するロシアへの反発や、宗教的な立場から反共産主義を掲げる思想が誕生する。イタリアやドイツ、スペインでは、ファシズムが台頭した。イタリアもドイツも第一次世界大戦で経済的に大きな損害を被り、国民の不満、失望、不安が高まっていた地域である。そこでは、自由主義や共産主義に反発し、全体主義や軍国主義によって社会と国家を再構築しようとした勢力が国民のナショナリズムを刺激し、圧倒的な支持を得るようになっていた。

また、第一次世界大戦後のヨーロッパの景気は、アメリカに支えられていた。アメリカは第一次世界大戦で軍需産業が伸び、経済の繁栄を極め、ヨーロッパに投資していた。しかし1928年、短期資金の調達が困難になるとアメリカは資本を回収し始め、翌年株価は暴落し、世界恐慌になった。イギリスやフランスは、自国および植民地で経済圏を作り、圏内の経済を保護するために圏外からの輸入品に高い関税をかけるなどした。自由主義経済が崩壊していく中、共産主義やファシズムは勢力を拡大していった。

第二次世界大戦は、国民からの支持を集めて政権についた、ファシズムのナチ党によるドイツが、ヨーロッパでの領土拡大を進めていく中で勃発する。1939年ドイツがポーランドに侵攻すると、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦は始まった。ドイツは戦いに次々と勝利し、東ヨーロッパへと領土を拡大しつつあったソ連も攻撃する。イタリアと日本はドイツと同盟を結んで参戦した。イギリスやフランスの連合国に武器を供給していたアメリカが日本との商取引を全面禁止すると、日本はアメリカを攻撃し、太平洋戦争も勃発、世界規模の戦争に発展した。戦争が続くにつれて同盟国側は物資の調達が困難になり、情報収集レベルも連合国より劣っていたため、劣勢となった。1945年、連合国側にソ連が加わったことでドイツは降伏し、その後日本も降伏、第二次世界大戦と太平洋戦争は終結した。

第二次世界大戦により、ヨーロッパは第一次世界大戦後よりも疲弊した。死者は5000万人のぼり、多くの都市が荒廃し、経済、交通、通信、食料の確保など社会のさまざまな側面が大きな打撃を受けた。戦争で衰退したヨーロッパ諸国に代わり、戦後力を拡大し世界を巻き込む強大国となったのは、アメリカとソ連である。第二次世界大戦後、国際連合が設立され、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国に特権が与えられたが、イギリスもフランスも戦争の痛手を引きずっており、中国は近代以降大国としての地位がまだ確立されていなかったため、アメリカとソ連が圧倒的に優位に立っていた。自由主義、資本主義をいくアメリカと、共産主義をいき、東ヨーロッパへと勢力を拡大していくソ連は隔たりが大きく、ヨーロッパはアメリカ側とソ連側に二分され、冷戦体制が確立した。この2種類の経済・社会システムから成る冷戦体制はヨーロッパだけでなく、アジアにも広がる。


参考文献
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006 J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈8〉帝国の時代」創元社 2003
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈9〉第二次世界大戦と戦後の世界」創元社 2003
世界史講義録 第14回 総力戦となった第一次大戦 (http://www.geocities.jp/timeway/kougi-114.html

2014/12/30

近代ヨーロッパを探る④ 社会主義思想と国民国家

近代においてヨーロッパの国々は、貿易によって富を得、経済力を高めてきた。なかでもイギリスは群を抜いていた。商人や生産者が国家からの干渉を受けずに自由に貿易をすることができる自由貿易の推進、海軍力によって経済活動は保護され、イギリスは世界経済の中心になっていた。産業革命もイギリスの発展に大きく貢献した。産業革命はフランスやドイツ、アメリカ、日本などにも波及、工業技術によって新たな産業も生まれ、国は豊かになり、人々の生活が向上した。その結果、ヨーロッパでは人口が増加した。

このころイギリスで主流だった政治思想は、功利主義である。功利主義は、「最大多数の最大幸福」という言葉に象徴される。自らの幸福を求めつつ、社会全体の幸福を求めることを道徳原理とする思想である。カントが、理性がもつ普遍的な道徳原理に従って行動することを支持したのに対し、功利主義者は、幸福(快楽を増やし、苦痛をなくす)のための行動を正しい行為と据える。その幸福は個人だけでなく関係者全体の幸福である。功利主義の祖とされるベンサムと、ベンサムの理論を修正、拡張したジョン・スチュアート・ミルの理論を踏まえて、ヘンリー・シジウィックは、社会全体の幸福は個人が幸福を追求することから成るものの、個人の幸福と社会全体の幸福が対立する場合には、政府による介入が望ましいとしている。

一方で、資本主義が確立し経済がどんどん繁栄する中、富を得て投資しさらに富を築く人々と、彼らに雇われて厳しい労働条件の下働く人々の間の格差が明らかになっていった。景気が循環するようになり、失業も発生するようになった。そのような中次第に力を得て行ったのが、社会主義思想である。社会主義思想は、資本主義の自由競争や私的所有権の制限や禁止を訴え、平等で公正な社会の実現を目指す。社会主義思想の拡大に大きな影響を及ぼしたのが、ドイツのカール・マルクスである。マルクスは1848年、エンゲルスとともに「共産党宣言」を発表する。「幽霊がヨーロッパをさまよう―共産主義という名の幽霊が…」で始まり、「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」で終わる共産主義の綱領である。マルクスは、社会を貫く発展法則や社会のあらゆる側面の相互作用を、自然史の過程としてとらえて認識、分析し、その後の発展方向を予測する唯物史観の哲学をもつ。「共産党宣言」を流れているのは、①生産活動から生まれる社会組織がその時期の歴史の基礎をなしている、②よって、社会の発展のさまざまな段階における、支配する階級と支配される階級闘争の歴史が全歴史である、③今支配される階級(プロレタリア)を支配階級(ブルジョア)から開放するためには、社会全体を階級闘争から解放せねばならない、という根本思想である。ヨーロッパのこれまでの経済発展や社会の変化を歴史の必然性の中でとらえて展開し、労働者の団結、革命、現社会秩序の転覆を鼓舞している。マルクスはその後、資本主義の構造を分析した「資本論」を発表する。マルクス主義は19世紀後半~20世紀にかけて全世界に広まり、多くの革命を生んだ。そして共産党政党が生まれ、社会主義国家、共産主義国家が建国されることとなる。

また、18世紀~19世紀にかけて、ヨーロッパでは「国民国家」が次々と誕生した。「国民国家」とは血縁や宗教、言語、伝統などによって結ばれた共同体から成る国家である。近代ヨーロッパにおいて国家は、王の元で王を主権として形成されてきた。しかしフランス革命が起き、人権宣言で人権の保護や国民主権の思想が提唱されると、ヨーロッパのあちこちで国家の構成員が立ち上がり始め、政府への抗議運動や革命を起こしていく。国の代表者たちは、革命を抑え秩序を取り戻そうとするも、失敗に終わる。この間ヨーロッパではベルギーやギリシア、ルーマニアが独立し、イタリア、ドイツも統一を果たす。しかしこの「国民国家」は、争いの火種になり続ける。

東ヨーロッパのバルカン半島でも20世紀初頭に複数の国家が生まれた。しかしもともと東ヨーロッパを統治していたオスマン帝国が衰退していたことやバルカン半島は多くの民族が混在する地域だったことから、隣国である他のヨーロッパ諸国およびロシアの勢力争いがからみ合って、第一次世界大戦が勃発する。1914年の、セルビア人の青年によるオーストリア皇位継承者夫妻の暗殺を期に、オーストリアはドイツの支持を得てセルビアに宣戦する。セルビアを支持するロシアはこれに応じ、ドイツはロシアとその同盟国フランスに宣戦、イギリスもドイツが中立国であるベルギーに侵攻したのを期に参戦した。殺傷能力の高い新型兵器が使われ、膠着状態が続く塹壕戦となり、戦争は長期化、国民の間では厭戦感情が高まっていった。1917年にはアメリカがドイツに宣戦する。一方ロシアでは、戦争で疲弊した民衆や兵士が反乱を起こし、ロシア革命が起きて帝国は崩壊、社会主義国家が誕生して戦争から離脱する。1918年にはドイツでも革命が起こって帝政が崩壊し、第一次世界大戦は終結することとなった。


参考文献
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈8〉帝国の時代」創元社 2003
ミル『功利主義論』を解読する(http://www.philosophyguides.org/decoding-of-mill-utilitarianism/
中井大介「功利主義と経済学―シジウィックの実践哲学の射程」晃洋書房 2009
マルクス、エンゲルス「共産党宣言」岩波書店 2009
ブリタニカ国際大百科事典

2014/12/26

近代ヨーロッパを探る③ 革命のとき

17世紀の後半ごろから18世紀にかけて、ヨーロッパでは啓蒙思想が普及していた。キリスト教の教義、思想による社会基盤が崩れ、商業が発達して都市化が進み、実験や論理を用いる科学技術が進歩しつつあったこのころ、人間の理性や合理的精神、批判的精神が新しい社会を作っていくためのカギになる、と多くの思想家が思っていた。彼らは人間の理性、知性の持つ力を信頼していたのである。前回記述した、社会契約を基にした政治哲学を発表したロックも啓蒙思想家の1人である。啓蒙思想は海を越えて、フランスやドイツでもさかんになった。フランスでは、ロックの政治思想の影響を受けたモンテスキューが、立法権・行政権・司法権の分立を唱え、ディドロとダランベールは、同時代の哲学・芸術・科学・技術・産業などの諸部門の知をまとめた「百科全書」の編さんにあたった。ドイツでは、インマヌエル・カントが認識についての新たな見解を示し、理性について論じた。カントは、理性は生まれつき全ての人間に備わっており、善悪の法則をも持ち合わせているとしている。人々が理性を利用できる社会を求め、理性を用いた自律こそが自由であるとした。

一方、ヨーロッパの強国が植民地支配を続けていたアメリカ大陸では、18世紀後半に転機を迎える。当時アメリカ大陸では、先住民、奴隷としてアフリカから連れて来られた人ほか、ヨーロッパから移住した人も多く住んでいた。先住民たちの入植者に対する反乱や、本国からの植民地への一方的な課税法律への抗議および対抗措置などをきっかけに独立の気運が高まり、1776年、植民地は独立を宣言する。アメリカ合衆国の誕生である。

アメリカが独立を勝ち取ったころ、ヨーロッパ大陸ではフランスに革命が起こった。政治と経済の行き詰まりが原因だ。当時フランスは、イギリスとの戦争で出費がかさみ国の財政が悪化していた。富裕層から徴税を行おうとしたものの、特権や慣習による既得権益で守られている貴族は反発。しかも、増加する人口に食料生産が追いつかず、食料価格は高騰し、農作物の不作や家畜の病気などのあおりを受けて農民たちの生活は苦しくなっていた。民衆は、王や貴族への怒りを募らせ、1789年、バスティーユ牢獄を襲撃する。フランス革命は、ルソーの思想が影響したと言われている。ルソーは、封建的な隷属関係を批判した。各個人が自由・平等であるために互いに契約を結び(社会契約)、各個人に共通する利益を目指す国家を主張した。1791年議会は、国民主権、法の下での平等や個人の権利の法的保護などを提唱した「人権宣言」を前文に、憲法を制定する。フランス革命に象徴される民主主義や自由主義、ナショナリズムの思想は、ヨーロッパ諸国に影響を与え、その後のフランスを含めヨーロッパ各地で反政府運動が勃発していく。

18世紀後半に見られる革命は、アメリカ独立宣言やフランス革命のような、民衆の国家に対する抗議だけではなかった。イギリスでは産業革命が始まっていた。イギリスは毛織物などの工芸製品の生産が進んでおり、工場で人を雇う資本家が出現していた国だ。さらに、農業技術や生産率の向上で収益を得た地主たちが土地の売買を行った結果、仕事を失った農民が現れ、彼らは工場での労働力となった。また、工業の原料や燃料となる石炭や鉄鉱石などの資源が豊富にあり、自然科学の発達が技術の進歩を後押しした。紡績機によって繊維産業の生産性が一気に増し、蒸気機関が新しい動力となり、鉄道や汽船が現れる。鉄道や汽船は原料や生産物の遠距離輸送を可能にした。そして工場が建設され、労働者が集まるようになり、都市ができる。イギリスは工業国として名を馳せ、資本主義社会が確立する。しかし一方で、低賃金労働や児童労働、資本家の力の拡大、公害や犯罪の増加などの問題が浮上していた。



参考文献
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈7〉革命の時代」創元社 2003
ルソー『社会契約論』を解読する (http://www.philosophyguides.org/decoding-of-rousseau-contrat-social/

2014/12/22

近代ヨーロッパを探る② 革命前夜

前回、近代ヨーロッパの幕開けを、経済システムと社会システムの変化(商業および市場経済の発達、中央集権国家の確立)、そして人々の考え方や生き方の変化(合理的精神、現世的な世界観)の始まり、とまとめた。その後のヨーロッパにおいて、経済は資本主義経済へ、社会システムは民主主義へと進んでいく。そして、対外的には植民地化を進め、覇権争いを繰り広げる。一方、中世時代のヨーロッパ精神の根幹ともなっていたキリスト教は、宗教改革を経てカトリックとプロテスタントに分裂、政治ともからみ合ってあちこちで紛争の火種になっていた。

15世紀にポルトガルやスペインが交易海路を開拓し、アメリカ大陸にあった国々支配していったのに続き、オランダやイギリス、フランスもアジアとの交易、アメリカ大陸の植民地化に乗り出していた。ヨーロッパでは貿易会社や銀行が設立され、アントワープやアムステルダム、ロンドンなどの大西洋の都市が商業都市として栄えた。ヨーロッパの商人たちは砂糖や綿花、タバコなどをアメリカ大陸から輸入し、代わりに毛織物などを輸出した。しかし、アジアとの地中海貿易によってもたらされたコーヒーや茶がヨーロッパで普及するにつれて砂糖の需要が高まり、アフリカ大陸から現地民を、奴隷としてアメリカ大陸に連れてきて働かせ、生産物を輸入するようになる。このころイギリスやフランスでは貿易によって国力の増強を図る重商主義政策が行われており、輸出先の拡大や領地拡大のためしばしば戦争が勃発し、覇権争いを繰り広げていた。

大陸内では、それぞれの国で王の権力が強大化していた。王は軍事力を高めて反抗勢力を抑え、役人を雇って政治を行っていった。また、軍事力と官僚組織の維持のために民に徴税を課し、中央への権力の集中を図った。王への権力の集中は、経済圏の拡大を図りたい商人たちにとっても都合のよいことだったので、王権強化に協力した。近代初頭のヨーロッパでは、農業に従事する人たちが大多数を占めていたが、商品経済の発展により工業製品の需要が高まり、工場で人を雇って商品の生産を始める資本家が出現、商品を運搬する道路や運河などのインフラ整備も進められた。そして、農業や酪農の進歩によって栄養状態がよくなったことや飢餓による死亡者の現象、医学の発展などにより、人口も増加していくのである。

続いて思想についてである。17世紀の初頭は、科学革命の時代と言われている。科学革命を後押ししたことの1つは、宗教改革を後押しすることにもなった、印刷技術だ。印刷技術の普及により、人が入手できる情報量が圧倒的に増えた。出版物を通していろいろな知識が行き交うようになり、これまでの通念や権威が力を失い始めた。さらに、貿易海路の開拓で天文学や地理学の知見が増えたことや技術革新により、造船術や農業生産率が向上したことなども科学精神の萌芽に関係していると思われる。そして、実験によって得た事実を元にして、理論を構築していくという試みが始まっていく。科学革命の代表的人物は、天文学のヨハネス・ケプラーやガリレオ・ガリレイ、力学のアイザック・ニュートンである。ケプラーは、ティコ・ブラーエが得た膨大な天体観察記録を使って天体の運動に関する理論を構築し、ガリレオは天体の動きを観察して得たデータを数学を使って分析し、地動説を証明した。ニュートンは、ケプラーやガリレオの説からヒントを得つつ、万有引力の理論を構築した。科学はしばしばキリスト教と対立するものとして描かれる。カトリック教会や聖職者は、科学による新しい発見をキリスト教への脅威とみなしていた。しかしむしろこれは、キリスト教が衰退することへの危惧というよりは、キリスト教という基盤によって成り立っていた社会が崩れることへの危惧といえる。しかし実際には、キリスト教への信仰をほとんどの人たちはやめていない。科学の発展に寄与したガリレオやニュートンも神を否定しなかった。

この時代には、近代を代表する哲学者が2人現れる。デカルト(フランス)とロック(イギリス)だ。デカルトは多彩であった、数学の分野では代数学と幾何学を融合させて座標を発明した。また、疑うことを基礎におき、その著書「方法序説」にて真理を導くための思考のルールを発表する。一方ロックは、政治思想に影響を与えることとなる、社会契約の説を唱える。政治思想においてもキリスト教基盤の理論が崩れたことから、それに代わる新しい理論が必要になっていた。そこに登場するのが自然法と社会契約の考え方である。自然法とは、自然に由来する、あらゆる世界にあてはまるとされている法である。自然法が支配する自然状態において人間は、自由かつ平等である。そこでは他人の生命や自由、健康、所有物を侵害してはならない。しかし、この自然状態は、犯罪や暴行などの侵害行為が起こる可能性を秘めた不安定な状態でもある。もし侵害行為が起これば、そのとき人間は侵害者を自然法に基いて罰することができる。しかし、それぞれの人間が持っている罰する権威をある1つの共同社会に譲れば、その共同社会は大きな力を持つことができる。この共同社会が人間間の仲裁人となり、不安定な自然状態を安定へと導くことができる。人間の同意、契約によって成り立つ共同社会は、人間の私有財産の保護を最大の目的とする。共同社会が自然法を侵害したならば、それに反抗してもよい、といった考え方である。ロックのこの思想には、自由と平等の思想が織り込まれている。そして、共同社会への反抗の権利を条件つきで認めていたことから、のちの市民革命に根拠を与えるのである。


参考文献
ウィリアム・H・マクニール「世界史 下」中公文庫 2008
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部「成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈6〉 近代ヨーロッパ文明の成立」

2014/12/14

近代ヨーロッパを探る① 黎明期

アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルが書いた本「これからの「正義」の話をしよう」は、数年前ちょっとしたブームになった。テレビでも、サンデル教授のハーバード大学や東京大学の学生に向けた講義のようすが放映され、何が正しいことなのか、これから私たちはどう生きていくのか、などが議論された。これから数回に分けて、1500年ごろから現代までのヨーロッパの歴史、思想を振り返り、なぜ今「正義論」が議論されるのかを考えていきたいと思う。

1500年ごろのヨーロッパはどのような様子だったのだろうか。1500年頃のヨーロッパは、近代ヨーロッパの黎明期と捉えられる。中世、長きにわたって人びとの上にのしかかっていた封建制度やキリスト教絶対視の思想が衰退し、人びとは新たな世界観を獲得し始めた。そしてそれは、市場経済の発達が関係しているといえる。

このころのヨーロッパを捉える1つのキーワードは「ルネサンス」だ。14世紀中ごろから現在のイタリアで始まり、1500年ごろに頂点を迎えていた。ルネサンスは、古代ギリシャ・ローマ時代の学問や世界観の復興を意味する文化運動を意味する。人間の権威の主張や個人の独立と自由、学問や芸術の宗教からの開放、思想や信仰の自由をベースに、さまざまな作品、活動が生まれた。ルネサンスの勃興にはいくつもの要因が絡み合っているが、商業の発展が果たした役割は大きい。そもそもイスラム圏からの文化の流入は、対イスラム勢力の名目で十字軍が派遣されていた中世から起こっており、13世紀ごろにはイタリアを拠点に地中海諸国とさかんに交易が行われていた。イタリア商人はアラビアやビザンツなど西アジアの商人からコショウや香料、宝石などを輸入し、銀や銅、毛織物、武器などを輸出する。調味料などほとんどなかった当時のヨーロッパでは、商人はコショウを高額で売ることができた。金を得た商人たちは力を持つようになる。商売で成功するには、的確な需給予測や決断力、不屈の精神などが要求される。つまり、個人としての能力が要求され、能力ある者が勝者となる。さらに交易を通じて、イスラム圏の技術や知識、人も物品とともに流入してきていた。ルネサンスは、このような状況のもと、イタリアの新興商人に支援、保護された学者や芸術家などの少数のエリートたちの間で起こるのである。美術や自然科学、工学に長けたレオナルド・ダ・ヴィンチ、地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノ、小国分立状態のイタリアで君主はどうあるべきか、いかに人びとを統治すべきかを説いたマキャベリなどがこの時期の代表者だ。

続いてのキーワードは「大航海時代」である。この時代、ヨーロッパとアジア、アメリカ大陸、アフリカ大陸をつなぐ海路が開拓された。このころの主役はスペインやポルトガルで、当時高値で売れた香辛料を手に入れるために、また領土を拡大するために、王からの命を受けた航海士たちは次々と航海に出た。そしてアメリカ大陸やアフリカ大陸を植民地化していった。大航海時代を可能にしたのは、天文学や地理学の発達と、実用化された羅針盤、造船術の進歩だ。ヨーロッパでは冶金産業が発達していたことから、火薬を使った武器を備えた大型の丈夫な船を作ることができたのである。航海士たちは植民地から、金や銀、作物を持ち帰った。持ち帰った銀はヨーロッパで一波乱を巻き起こす。銀の供給が増えたことで貨幣がたくさん作られるようになり、インフレが起きたのである。貨幣は価値を失い、人びとの購買力は低下した。儲けられる者と儲けられない者が現れた。

さらにこのころのヨーロッパでは封建制度が衰退していく。封建制度とは、中世ヨーロッパで長く、広く成立していた社会システムだ。王―領主―家臣・農民の間の主従関係を基盤とし、上位者が下位者を支配する。下位者は上位者に仕えて働くことで土地や生活が補償される。教会は、王や領主から土地や財産の寄進を受けており、封建制度擁護の立場をとっていた。しかし、この封建制度は崩壊に向けて歩み始める。その背景は、農業の発展と貨幣経済の浸透だ。農地を3つの期間で区分して使用する三圃制や金属農具の普及などで12世紀ごろから農業生産率が向上する。農作物がたくさん取れると余った分を売ろう、ということになる。市場がにぎわい、貨幣経済が発展し、農民は豊かになる。そしてそこに都市ができ、農産物だけではなく物を製造して売ろうとする人間も現れる。交通網が整備され、都市と都市は交流をもつようになり、市場経済・貨幣経済はどんどん広がっていく。農民たちがこうして力をつける一方、農民たちを直接支配していたその土地の領主(中間層)は力を弱めていった。それは王(上位層)の力が強まったからである。王たちは火器を武器を用いて、強大な軍隊を作った。中世時のような鎧や槍、盾ではもはや太刀打ちできない。こうして中央集権国家が誕生し、領主―家臣・農民の個人的な支配関係は、王―国民の図式に変化し、封建制度は徐々に衰退していった。そして国民国家の成立へとつながっていく。

そして1517年には宗教改革が起こった。ドイツの神学者マルティン・ルターは、ローマ教皇の販売した免罪符に異議を唱え「95カ条の論題」を発表する。この、既存の教会(カトリック教会)に反発するプロテスタントの動きはヨーロッパ各地に飛び火していくが、それに一役買ったのは印刷技術である。このころ誕生した活版印刷はルターの思想や、聖書、キリスト教のさまざまな解釈を普及させた。

これらを踏まえてまとめると、経済システムの変化とともに社会システムが変化し、人間が個としての存在を確立し、社会にその存在を表し始めたのが1500年ごろのヨーロッパといえる。そして市場経済の発達、農業生産率の向上、技術の進歩を背景に人びとの生活は合理的になり、合理的精神が宿り始めた。神中心の階級にしばられた世界観は、人間の個としての自覚、現世的な世界観へとシフトし始め、近代ヨーロッパの土台ができ始めたのである。


参考文献
会田雄次>「ルネサンス」講談社現代新書 1973
ウィリアム・H・マクニール「世界史 下」中公文庫 2008
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史 〈5〉東アジアと中世ヨーロッパ」創元社 2003
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006

2014/08/24

心理学はどこへ行くのか

心理学の全体を俯瞰するのに始めたエントリーもいよいよ終盤。ここまで心理学の起源と心理学における研究領域をいくつか紹介してきたが、最後に最近の心理学についてまとめておこうと思う。
まず今更ながら一つ付け加えておくと、心理学は大分類として基礎心理学と応用心理学に分けることができる。基礎心理学は主に人間の心理について、一般的な法則を見つけようとする分野である。前回記載した、臨床心理学を除く○○心理学(発達、人格、社会、認知)は基礎心理学に位置づけられている。応用心理学は、基礎心理学で明らかになった知見をもとに実際の現場、社会に活かしていこうとする領域である。その代表的なものが臨床心理学だ。臨床心理学は主に、精神に不健康をきたしている人たちの精神を理解し、必要とあらば治療して望ましい方向へ持っていく、ということをしている。現在も引き続きさかんに研究がなされているが、ここ数十年間で、不健康な人以外をもターゲットとする、健康増進のための、より精神的に充実した生活を送るための心理学が登場した。健康心理学とポジティブ心理学である。

健康心理学は1978年頃、アメリカでスタートした。精神の不健康だけでなく、身体の健康や疾病に関わる心理を研究する分野だ。例えばフリードマンの「タイプA」理論。心臓疾患を患った人を調べると性格や行動に一定の傾向が導き出せたことから、この傾向をタイプAとし、心臓疾患にかかりやすい人たちの特徴的な傾向とした。タイプAには競争的、野心家、攻撃的、いらつきやすいなどの傾向が含まれる。また、ストレスもこの分野でメジャーな研究テーマの1つである。ストレスがたまる=病気になりやすい、は長年言われ続けてきたことだ。しかし健康心理学者のマクゴニガルは、ストレスの捉え方を変えればストレスは健康のための味方になると主張する。人間は普通、ストレスを感じると、心臓が高鳴り、血管が収縮(心臓病の原因とされているものの1つ)し、呼吸が早くなり、汗が出るなどの身体症状が現れる。しかし実験によって、ストレスを有用なものと捉えた人は、心臓が高なるものの、血管の収縮は起きなかったという。そしてこれは、喜びや勇気を感じているときの身体の状態と同じだそうである。また、ストレスを有効なものと捉えるための根拠としてオキシトシンを提示する。人間はストレスを感じるとオキシトシンを分泌する。オキシトシンは他の人と親密な関係を求めるようになるほか、血管を弛緩状態に保ったり、心臓細胞の再生を促したりと、ストレスから回復するための機能も持ち合わせているという。

ポジティブ心理学もやはりアメリカで、1998年頃からスタートした。一言でいうと、どうしたらより幸福な生活を送ることができるかを研究する分野である。この分野の代表的な心理学者はチクセントミハイである。彼は様々な職業や民族の人にインタビューし、彼ら、彼女らがどういうときに幸せを感じるか、そしてそのとき彼ら、彼女らはどんな状態なのかを調べた。チクセントミハイは、人はフロー状態にいるとき、幸せを感じているとした。フロー状態にはいくつかの要素がある。それは「、達成できる見通しのある課題に取り組んでいる、自分のしていることに集中している、行われている作業には明瞭な目標があり、フィードバックされる、意識から日々の生活の気苦労や欲求不満を取り除く、無理のない没入状態で行為が行われている、自分の行為を統制しているという感覚、フロー後、自己感覚はより強く現れる、時間の経過の感覚の変化、である。(一部引用:http://goo.gl/UgM81e)この他、フローに入りやすい/入りにくい性格傾向、環境なども指摘している。

最近の心理学でにおけるもう1つの潮流は進化心理学である。人間の心の働きの基本を、進化によって環境に適応的に形成された情報処理、意志決定システムから成り立つものとして捉える立場だ。つまり、人間の心や行動、そしてそれを生み出す脳を進化の産物とし、状態や変化の動因を適応に帰結する。動物において研究がなされている性淘汰理論(異性獲得競争を通じておきる進化)や互恵的利他行動(即座の見返りがなくとも、あとの見返りを期待して他の利益になることを行うこと)などを人間の行動や心理にもあてはめて考えていく。

数回に分けて心理学の歩みをざっくり振り返ってきた。ではこれから心理学はどこへ向かっていくのか。これまでの心理学は、人間の心的過程はどうなっているのか、何が起こっているのかという、現象を解くということが多くなされてきたと思う。ヴントの内観法や行動主義、認知心理学、社会心理学、発達心理学でなされてきた実験やモデルづくりに見ることができると思う。その一方で、なぜその現象や行動が起こっているのか、という議論もなされてきた。これは精神分析からの潮流に顕著に見ることができる。これらの、これまでなされてきた理由付けは、思弁的なものが中心だった。つまり、心理学者が現象や実験結果を元に、なぜそれが起こるのかを論理的な形で考えていった結果としての説、ということだ。しかし、昨今の心理学はより実証ベースでの理由づけをしていく傾向があるように感じる。なぜそうなるのかを、目に見えるものを使って1つ1つ裏付けしていくということだ。それは、神経科学や生物学の知見がどんどん明らかになってきていることが大きく影響している。デカルトが提唱した心身二元論は今では廃れ気味で、精神を脳の活動と捉える見方が優勢だ。しかし、脳、神経ネットワークの仕組みや遺伝子の仕組みの解明はまだ始まったばかりである。しかもどちらも複雑な仕組みであり、完全な解明ができるのかも分からない。しかし、解明作業は進められており、心理学に神経科学や生物学の知見を取り入れ、現象を説明することは今後も続いていくと思う。心理学は自然科学の系譜を受け継いでおり、精神と脳は切り離せなくなっているからである。

2014/08/21

○○心理学の台頭


前回のエントリで初期の心理学についてまとめたが、今日でも心理学のメジャー分野として名を馳せているいくつかの分野が20世紀に次々と起こる。

まずは発達心理学。発達心理学はその名の通り、人間の、生まれてから死ぬまでの発達をテーマとする。学校教育の普及や教育哲学からの流れで児童に興味が持たれるようになったのを背景に、発達心理学は児童心理学からスタートした。例えば1930年代ごろから活躍したピアジェは、「私たちはどのようにして身の回りの世界に対する認識や理解を獲得するのか?」という問題提起から実験を行い、子供の認知の発達には段階(感覚運動―前操作―具体的操作―形式的操作)があることを示す。行われた実験には例えば、保存課題(容器に入った液体を異なる形の容器に移し、見た目が変わっても量が等しいことを判断できるかを調べる)などがある。認知の発達は子供と環境の相互作用によってなされるとし、子供は自己中心性→社会性を得る、という社会化のプロセスを発達とみた。一方、ヴィゴツキーは別の発達理論を提唱した。ヴィゴツキーの考えはピアジェとは逆で、自己の発達は、人びととの関係の中に自己が現れることから始まり、のちに自分自身の心理内に自己が組織化されるとした。
ボウルヴィーが展開した愛着理論(1958-60ごろ)も有名である。母と子の結びつきの強さは母が子の生理的欲求に応える機会が多いから、という従来の説を覆し、母と子の間には情緒的な結びつきがあるとした。ハーローによるサルを使った代理母実験(ミルクを与える針金の母とミルクの出ない布でできた母のどちらと子ザルはいたがるか)でも母親が愛着の対象であり、安全基地として機能しているという結果が見られる。前述した、人間の発達理論を作ったエリクソンも発達心理学領域で活躍した人である。

続いて人間の個人差を測ることに関わる差異心理学。ここには知能検査などの開発や研究、人間の性格について研究する人格心理学が含まれる。例えばフランスのビネは自分の子を観察し、シモンと、子供の知的活動を総合的に測るためのビネ―シモン式知能検査を1905年に開発した。知能検査はウェクスラーによって成人版(ウェクスラー成人知能検査WAIS)も1955年に開発された。人格にまつわる説は古代ギリシャの頃からあった。例えばガレノスは、ヒポクラテスの唱えた4つの体液(血液、粘液、黄胆液、黒胆液)が気質を支配しているとした。19世紀になると、クレッチマーが体格ごとに特徴的な気質(躁うつ気質、分裂気質、粘着気質)があるという理論を唱えた。また前述したユングは、人間の態度を関心が自分に向く内向と、関心が外界に向く外向に分け、さらに自分と環境を関係づける方法として思考―感情、感覚―直観の4つの心理機能を提示した。これらは「類型論」と呼ばれている。つまり、型が存在しており、そこに人間をあてはめていくやり方だ。そんな類型論に異議を唱えたオルポートは「特性論」を元に人間の性格を定義しようとした。個人を、様々な特性が結合した状態ととらえる見方だ。
ちなみにアメリカでは戦争中、知能検査や性格検査が軍隊で取り入れられ、軍人の戦闘、軍生活に対する態度や行動、リーダーシップ、神経症症状等の傾向を調べるのに使われたようだ。

次は社会心理学。扱うテーマは幅広い。ざっくりまとめると、社会における個人の行動や相互作用、集団の行動、心理がメインである。実験を行うことも多い。社会心理学は、フランスで当時行われていた群衆や模倣の研究(社会学)や、19世紀末~20世紀前後にかけて展開されていた2つの自己の考え(主体性の根拠となる自我、他者の態度や役割によって社会化された客我)の影響を受け、1930年頃から始まった。レヴィンは1940年頃、「グループ・ダイナミクス」という考えを提唱する。これは、集団内における個人は、その集団のもつ性質やどんな成員がいるかによって影響を受ける、というものだ。第二次世界大戦後には前述した行動主義も廃れてきており、社会環境が個人に影響をもたらすという考えが行動主義に変わるアプローチとされ支持を得た。アッシュの印象形成における初頭効果(最初の印象が残る)、ハイダーやケリーの帰属理論(身の回りに起こった出来事や、自己/他者の行動に対して、どこに原因があると推察するか)などがある。また、1960年代になると、権威に対して人は自身の道徳観を無視するということがわかったミルグラムの実験や、一般の人が看守役と囚人役に無作為に分れられて刑務所内で生活するうちに互いにどんな変化が現れるのかを実験した、ジンバルドーのスタンフォード監獄実験(http://www.prisonexp.org/)が行われた。スタンフォード監獄実験は、映画「es」の題材にもなっている。

認知心理学も忘れてはならない。認知心理学が扱うのは、注意や知覚、記憶、忘却、言語の産出、問題解決や意思決定などの仕組み、意識などである。コンピュータや人工知能の技術が発展したことに影響を受けて1950年代からスタートした。脳を情報処理装置とみなし、コンピュータの情報処理過程のモデルを適用するなどして人間の認知過程を明らかにしていく。初期の認知心理学の代表的な人物は、人間が一度に記憶できるのは7つまでの情報の塊であると発表したミラーや、人間の知覚に及ぼす人格要因や社会的要因の影響も示したブルーナーなどである。目撃証言記憶の曖昧さを明らかにしたロフタスも認知心理学者である。ロフタスはいくつかの実験を行った。例えば、模擬事故の現場を被験者に見せ、そのあとで、2台の車が衝突している/どんと突き当たった/接触した/ぶつかった/ときどれくらいのスピードで走ってましたか?と聞くと被験者は、衝突したときと質問された時に、より速いスピードで走っていたと答えた。また、事故で窓ガラスは割れていなかったのにもかかわらず、衝突したときと質問されると割れていると答える人が増えたという。
ヒューリスティック、バイアスの概念も認知心理学の分野である。ヒューリスティックとは簡単にいえば経験則のことで、人が問題解決や何らか意志決定を行う際に時間や手間を省けるような手続き・方法である。しかし経験則はいつも有効であるとは限らず、経験則のせいで物事を偏って認識する(認知バイアス)という事態が生じることもある。ある側面で望ましい特徴のある人間に対して、全体評価を高くする傾向があることも、ハーロー効果と呼ばれるバイアスの1つである。

最後に臨床心理学をちょこっと。臨床心理学は、精神に不健康をきたしている人間を対象とし、カウンセリングや心理療法などの治療行為もこの領域に含まれる。臨床心理学分野では1960年代、人間性心理学とよばれる心理学が起こった。行動主義や精神分析に対するアンチテーゼとして、このころの哲学の実存主義(個別、主体的な存在として人間を捉える)からの影響を受けた。マズローは、自己実現を目指す5段階の欲求階層説を唱えた。またロジャースは、人間には外部から自由になり自律性に向かう傾向が内在しているとし、指示的・分析的な精神分析とは対をなす、クライアント中心療法(指示を与えず、患者の体験に心を寄せて尊重し、患者の本来の力を発揮させて問題の解決を促す)を始めた。また認知心理学を治療に応用した認知行動療法(物事の捉え方を修正していき、行動を変容させる)も、1967年、ベックによって提示された。

2014/08/20

心理学はどこから来たのか 続き

心理学が成立したころ、ドイツではヴントによる生理学から派生した心理学が、アメリカでは、ジェームズの機能的心理学やワトソンに象徴される行動主義が、オーストリアではフロイトによる精神分析が勃興していた。

ヴントの心理学はティチナーの唱えた構成心理学へと受け継がれた。ティチナーは要素還元主義の立場だ。意識(つまり、私たちが心の現象として経験していること、私たちが私たちの経験だと感じることのできるもの)を最も単純な要素に還元し、その要素が互いに連合する法則を見つける、そしてその意識過程と神経過程の相関を見つけて、意識が起こる原因を探ろうと、というものだ。しかし1910年頃、要素還元の立場に異を唱えたゲシュタルト心理学が起こる。要素に還元せず、統合された全体をそのまま捉える、というアプローチだ。ゲシュタルト心理学は人間の知覚研究から始まった。実際には動いていないのに動いて見える仮現運動の現象など、刺激と感覚の一対一対応では説明がつかないことが起こっていたからだ。その後、人には視覚刺激を単純明快な方向に向かって知覚する傾向がある、視野の中で近くに配置されているもの同士はひとまとまりとして知覚されやすい、性質の違う刺激があるとき、他の条件が等しければ、似ている性質のものがまとまって知覚されやすい、といった近くの諸理論も生まれる。

ワトソンの呈示した行動主義は1930年代になると新行動主義へと変化する。手続きや設定を詳細にした実験を行い、心的過程の理論を作る動きが生まれた。例えば、トールマンはラットを使った迷路箱実験を行い、ラットが経験から学習することを提示、体験―行動間に期待や仮説、信念、認知地図などといった媒介変数を導入して、心的過程の理論化を試みた。スキナーはラットを使った実験を通して、学習には「強化」が必要(強化随伴性)だと述べた。スキナーは、状況、行動、その結果が次の行動の生起にどう関係しているか、に注目、状況を変えれば行動は変化するとし、環境主義の立場をとった。

フロイトの理論は形を変えてユングやアドラー、娘のアンナ・フロイトなどに受け継がれていった。フロイトの、人間の心を無意識の中の性的欲動を中心に考える論理に賛同しなかったのはユングは、独自に分析心理学を打ち立てた。心の構造を意識―無意識とし、無意識には個人的無意識と集合的無意識があるとした。個人的無意識には、かつては意識化されていたものが抑圧、忘却されたものやコンプレックス(自我をおびやかす心的内容が一定の情動を中心に絡み合っているもの)を含む。集合的無意識には人類共通の心の基盤となっているもの(大母、老賢人、影など)が含まれる。集合的無意識は夢や神話、幻覚などに現れる。
アドラーは個人心理学を打ちたて、劣等感の概念を中心に人間の心理や行動を解こうとした。人はそれぞれ他人より劣ったものをもち、その弱さ、劣等感を補償するためにより強く完全になろうとする意志(権力への意志)をもつという。
アンナ・フロイトは自我心理学を展開した。自我を、エスにおける心的葛藤を統制するだけでなく自律性や適応機能を備えたものとし、自我を育てることを提示した。人間の発達には段階があり、各段階ごとに提示される課題を解決しながら人間は発達していくとしたエリクソンも自我の重要性を強調した新フロイト派の1人である。

2014/08/17

心理学はどこから来たのか

心理学は守備範囲が広い。世の中にたくさんある「○○心理学」は、それぞれ似ているようでちょっとずつ違う。数年間心理学を学んできたが、私の中ではどうも「○○心理学」の諸理論が断片的に入っているだけで体系だっていない。そこで、心理学はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、を何回かに分けてちょっとまとめておこうと思う。

心理学とは、心(精神)の営みとそれに基づく行動を研究する学問である。心理学の成立は1879年と言われている。場所はドイツ。医学と生理学を学んだヴントは、自身が教鞭をとるライプツィヒ大学に「心理学実験室」をつくり、ゼミナールを始めたときだ。ヴントが興味を持ったのは、「人間は外部からの刺激をどう認識するのか」ということ。ヴントはそれを実験によって観察し、分析しようとした。人間に外部から刺激を与え、外に出る反応を計測し、そのとき被験者がどんなことを感じたかを語ってもらう「内観法」という手法で解こうとした。ヴントは、刺激―反応という認知体系を統括するものとして、「統覚」という心的過程(つまり意識)を考えていた。
ヴントの始めた心理学は生理学から派生したものだ。ルネサンス以降、人間や動物の解剖が行われるようになり、生物学や医学が発達した。ドイツでは19世紀、医学・生理学の研究がさかんに行われていたという背景がある。

一方で心理学は哲学の土壌で育ってきたものでもある。医学・生理学分野からよりも、哲学からの系譜のほうが歴史が長い。古代ギリシアでは、アリストテレスが「霊魂論」の中で霊魂の性質や機能を明らかにしようとし、中世時代にはデカルトを始めとして、「認識」についてさかんに議論されるようになる。哲学において投げかけられた心に関する問いや説は、未だにはっきりと解明されていないものが多々ある。例えば「心とはなにか」「心はどこにあるのか」などの、心そのものに関する問い。現在でも心の哲学とよばれる哲学分野で議論されている。また、17世紀頃から西洋哲学で起こった、合理主義VS経験主義は心理学でも展開され、生まれか育ちか論争(人間の性格は生得的なものなのか、経験によるものなのか)も未だに続いている。

心理学に話を戻そう。ドイツで心理学が始まったころ、アメリカでも人間の意識に関する研究が始まっていた。ジェームズは、1890年に「心理学原理」を発表、意識を環境に適応する手段の一つと捉え、その目的や効用を明らかにする機能的心理学を提唱した。扱うのは、習慣や注意、記憶などの現象。機能的心理学は、ダーウィンの進化論の影響を受けている。アメリカでは、ドイツで見られるような実験を使ったアプローチではなく、理論的アプローチがとられていた。
機能的心理学はワトソンによって、行動主義へと移行する。ワトソンは意識とそれに伴う主観的言語を排除して、行動から心理学を研究する立場をうちたてる。ワトソンの提示した行動主義の代表的な特徴は、S-R主義、環境主義である。人間の内部で行われる心的過程を排除し、刺激と反応の結びつきにすべてを還元する。また、生後11ヵ月のアルバート坊やに実験によって恐怖反応の条件付けを行い、本能でさえも後天的に条件付けられた反応であるとした。

初期の心理学でもう1つ忘れてはならないのが精神分析の系譜である。19世紀末~20世紀にかけて、オーストリアの医師フロイトが始めた。フロイトによって「無意識」の概念が生み出される。自身によって意識されない領域にこそ、神経症患者の行動のキーがあると考えた フロイトは患者に自由に話してもらう自由連想法を通じて患者の無意識に近づき、無意識に抑圧された記憶(性的幻想を含む)を患者が自覚し、言語化されることで病気が改善すると考えた。フロイトは心は、超自我(良心、道徳的禁止機能)―自我(心的葛藤の統制)―エス(本能的欲望)から成るとした。

生理学からの、刺激に対する反応とその心的過程を捉えるというアプローチ、客観性を重視した行動主義、心を病んだ人を治療することから始まり、心の構造を理論化した精神分析、これらが心理学成立期における心理学の潮流である。

2014/08/06

微分の歴史

「オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ」(吉田武著、東海大学出版会、2010)という本を使うゼミに参加した。本の内容を紹介すると、オイラーの公式「ecosθisinθ」を導くことを目標に、関連する数学を解説していくというもの。参加者は、本の章立て(微分、積分、三角関数などの数学の分野名になっている)に沿って発表をしていく。

私は微分を担当した。微分は高校時代に得意だったから選択した。微分ってどういうことだろう?といろいろ調べていくうちに、微分っていつできたんだ?と歴史が気になってきた。

微分は、アイザック・ニュートンとゴットフリート・ライプニッツによって成立した。彼らは同時期にそれぞれ別のアプローチで接線問題や求積問題に取り組み、微積分学の基本定理(微分と積分は逆の関係にある)を発見した。ニュートンは微積分学の基本定理を1666年に発見、1704年に発表し、ライプニッツは1684年に発表した。
時系列で見ると、ニュートンによる微分の発見と発表の間にライプニッツの発表が入っているため、どちらが微分を先に発見したのかで一悶着あったようである…

微分の概念は「接線」の概念から生まれたものだ。古代ギリシャの時代には既に接線の概念が存在していた。ユークリッドの幾何学を中心とした当時の数学において接線は、「円と1点のみを共有する直線」と定義された。しかし、接線についての本格的な議論は長い間なされず、時代は中世に。
数学において中世の最大の出来事の1つは、デカルトによる座標の発明だ。座標によって幾何学と代数学が結びついた。定規やコンパスで書かれていた直線や曲線は、座標や代数の概念を使ってより厳密かつ正確に示すことができるようになった。そして、接線は注目を集めるようになる。
デカルトやフェルマーなどの数学者が、曲線に接線を引く方法(「接線問題」)の解決を目指した。デカルトは、方程式を使って楕円上の1点における法線を導き、接線を求めた(1637年)。フェルマーは矩形の面積を題材に、無限小の概念(無限小数e)を取り入れた極値決定法を考え、その方法を利用して接線を引いた(1638年)。しかしどちらも、平面上のどんな曲線にも接線が引ける方法とは言えなかった。

接線問題を解決に導いたのはニュートンだ。ニュートンは、曲線や直線は小さな点が時間の経過とともに動いた軌跡である、という考えのもと、動点の進行方向である接線の傾きを計算する方法を考案した。無限小の時間を表すο(オミクロン)という記を取り入れ、動点がx軸方向に進む距離をxο、y軸方向に進む距離をyοとし、これらの値を曲線の式に代入して、最後にοを含む項を捨てる。この方法は「流率法」と呼ばれている。
一方ライプニッツは、今日の微分で使用されている、dxdyなどの記号を生み、曲線と曲線上のある点における接線と垂線、軸で作られる三角形の辺の比を、微小な三角形の辺の比と等しくなるようにする、という考えから傾きを求めた。また、定数の微分や加減乗除の公式を発表した。

ニュートンとライプニッツによって提示された微分は、「無限小」の概念が十分に論理付けされていなかったため、今日のような厳密さが欠けていた。しかし、微分の概念は、力学や天文学など数学を用いる諸科学分野で応用可能、かつ実用的であったため、複数の科学者によって普及していった。微分概念の普及や発展に貢献した数学者は、ベルヌーイやロピタル、オイラー、ラグランジュ、ラプラスなどである。

微分学が厳密性を伴うようになったのは、19世紀に入ってからだ。仏の数学者コーシーは、1821年に発表した「解析教程」で「極限」や「無限小」、「連続関数」の概念を定義し、解析学の基礎を刷新し、その後デーデキントやカントールによる実数論などを経て、今日の微分の基礎が完成した。

正直、上記した各数学者の考えた理論を完全に理解したとは言えないのだが、微分成立の歴史をざっくりまとめるとこんな感じになる。時の中で1つ1つ論理性に欠けるところをつぶし、普遍的に成り立つものへと発展していく過程が見て取れる。
今あるものは、たくさんの人の積み重ねによって出来上がったもの。数学に限った話ではない。他の学問だって、お店に売ってる商品だって、人間だってそう。