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2017/12/26

年の瀬企画-第ニ夜- 2017年心にひっかかった本

こちらの4冊
さてさて2017年もあと1週間…年の瀬企画ー第ニ夜ーの開催です。
今回は,今年心にひっかかった本について。今年は多分50冊くらいは読んだのではなかろうか(漫画は除く)?その中でなんか心にひっかかった本を4冊ピックアップしてみた。写真左端を除く3冊は,本を読みながら自分はどうかと考えたときに生まれたひっかかり。左端は,純粋に書いてあることが理解できないことでのひっかかり。これらの本の内容とひっかかりは,このまま心に留めておいて来年も考えたり読み返したりしていきたい。

・ティナ・シーリング「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義」
 理由:無駄遣い禁止!解放!解放!
再読本。読んだのは今回で3回め。以前読んだときはほとんど気にも留めずにすーっと通り過ぎていってばかりだったが,年をとって,状況も変わって,今になって心にビンビンひびいてきた。
この本を読んで実践していくことに決めたのは「自分に許可を与える」ということ。これに尽きる。結局,いろんな制限を自分に課しているのは自分なのだとつくづく思った。この本には,どこにでもありそうな身近なものを使って新しい何かを生み出したり,ちょっと思いついたアイディアを試したり,常識的に考えるとするのをためらうことをすることで,自分の夢をつかんだり,より充実した人生を送ることになった人の事例がたくさん登場する。彼らのはじめの一歩は,本当に些細なことで,多くの人にとってやろうと思えば簡単にできることだ。ただ,「やってみたらいいんじゃない?」と自分に許可を与えてやればよい。
この本を読んでいたら,なんだか自分を無駄遣いしているなとつくづく思った。私にはできたかもしれないことがたくさんあっただろう。でもそうしなかった。そう考えるとなんかイライラしてきた。だからもうこれ以上の無駄遣いは禁止なのである。

・山田ズーニー「あなたの話はなぜ「通じない」のか」
 理由:相手に何かを伝えるのって,相手のことを知ることって難度高っ!
彼女の文章は本当に分かりやすくて,心地よいリズムがあって,丁寧で…。困っている読者に寄り添ってくれる,とても練られた文章,構成になっている。しかも,「考えることを通して自分の意見をはっきりさせる」,「自分の根っこにある気持ちに嘘はつかない」,「相手の話を正確に理解し,それを表明する」など,自分も相手も消さずに,「分かり合う」ことを目標として話が展開されていく。小手先のテクニックは全くなしだ。
この本は「問い」の重要性を推している。相手と「意見」はくい違っても「問い」は共有できる,と。また,相手の主張や意見を聞いたら,それがどんな問いに対する主張・意見なのかを考えてみるのがよい,と。問いを考えることは実際にやってみている。さすがに毎度毎度は出来ていないが,思い出した時や書かれた文章についてはやるように努めている。それで気づいたのは,「問い」のほうに視点を移すと,主張や意見に目を向けていたときよりも,その主張や意見を一歩引いたところから眺めることができるのだ。「問い」という大元の存在がクッションとなり,その主張や意見に対するとっさの反応は抑制される。最近は,その主張や意見の根拠となっているデータやワラントも考えるように意識を向けている。
それから著者のいう,「根本思想」のくだりも心に留め置きたいこと。「根本思想」とは,自分の言葉の根っこにあるその人の生き方や価値観のことである。
根本思想は,言葉の製造元。だから,短い発言でもごまかしようなく,にじみ出て,相手にわかってしまう。… 逆に言うと,根本思想はそれだけ強いものだからこそ,根本思想と言葉が一致したとき,非常に強く人の心を打つ。(p.15)
 根本思想と一致した言葉を,私はどれだけ発しているのだろう?調子に乗って都合のよいことを口走ったり,思慮浅で適当に,その場しのぎで発言していることがよくある…。これではいかんね…。人にとっての私の価値も私にとっての私の価値も貶めることになるだろう。

・エーリッヒ・フロム「愛するということ」
 理由:正直,愛するよりも愛されたい…
こちらも再読本。一番最初に読んだのは8年くらい前だった。8年前,やはり私はこの本の内容を十分に咀嚼できていなかった。
フロムは「愛すること」を技術だと考えている。技術だから,才能大アリでもない限り,学んで練習して身につけていくことが必要。それが愛するという行為である。
さてフロムが言うには,愛することができるのは,「性格が生産的な段階に達している人間」だ。少し引用しよう。
”生産的な性格の人にとっては,与えることはまったくちがった意味をもつ。与えることは,自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて,私は自分の力,富,権力を実感する。… 与えることはもらうよりも喜ばしい。それは,剥ぎ取られるからではなく,与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。”(p.44)
” 愛するためには,性格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は,依存心,ナルシシズム的な全能感,他人を利用しようとかなんでも貯め込もうという欲求をすでに克服し,自分のなかにある人間的な力を信じ,目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。これらの性質が欠けていると,自分自身を与えるのが怖く,したがって愛する勇気もない。(p.48)” 
「与えることが自分の生命力の表現」だなんて考えたこともなかった。与えることそれ自体を通して自分を見出す…。「与えることはもらうよりも喜ばしい」か…。どうだろう,「与える→相手が喜んでくれる→嬉しい」はある。だが「与える→相手が喜んでくれない→嬉しい」と私は思うのか…?…生産的な段階には全然達していないんだな私は…。だって正直,与えるよりももらうことのほうが嬉しいよ…そんなことを思いつつ読んでいた。

・ジャック・ラカン「テレヴィジオン」
 理由:私はラカンが分からない
今年の春から夏にかけて,ラカン関連の本を読み散らかしていた。ラカンは,20世紀後半に活躍したフランスの精神科医・精神分析家。私は昨年末辺りから無意識についての文献をいろいろ読んでいたのだが,ラカンに手をつけていなかったことをある人に指摘され,それじゃあ読んでみるか,となったのだ。
実はラカンの思想には2年くらい前にとった現代思想の講義で触れていた。そのとき感じたラカンの印象は,「何やら初めて聞く言葉がいっぱいありますが…?」だった。ラカンは自分の思想を表現するために新しい言葉や概念を作っていたから,講義ではその言葉の解説がメインだったのだけれど,解説を聞いても分かるような分からないようなという感じ。そのときの先生も先生で,「ラカンは難解ですから…」みたいな感じでいろいろ濁された…。その時,ラカン解説本も数冊目を通したのだけど,やっぱりよく分からなかった。
こんな感じでラカンにマイナスイメージがついていたものの,今回こそはラカンの思想を理解したい!と思って読み始めたのも事実。それで読んだ最初の1冊目がこれ。フランスの一般向けのテレビ放送でラカンが話したことをまとめた薄い本だから,論文集「エクリ」よりはとっつきやすいかなと思って読み始めてみたら…甘かった。というか甘すぎました。最後まで読み通したし,部分的にはいろいろ調べながら丁寧に読んでいたのだけれど,はっきり分かったことは,「ラカンが何を言っているのか私は分からない」ということくらい…。その後ラカン解説本を数冊読んだものの,せいぜい分かったような気になるのが関の山…。

以上,2017年心にひっかかった本を紹介した。ちなみに私は小説をほとんど読まない。物語系の場合,小説よりも大体漫画に手が行く。今年最後まで読んだのは,司馬遼太郎の「国盗り物語」だけではなかろうか。お万阿さまのいい女っぷりに惚れ惚れし,光秀さん余計なことを…という読後感だった。ハイ。

2017/12/08

年の瀬企画-第一夜- 2017年が初めて記念年

2017年もそろそろおしまい。ついこの前まで半袖で暑い暑いと騒いでたのに,いつの間にやらもう12月…。なんてあっという間に1年過ぎるんだと,もやもやし出した今日この頃…。そんな気分を少しでも変えるべく,また,来年に向けて今年を総括しようとの意も込めて,今月は2017年の振り返りを行おうと思う。

第1夜の今夜は,2017年に初めてやったことについて。思い出してみると,いろんな初めてがあるもので。現在も継続していることと,個人的にインパクト大だったものをピックアップ!
信号機描きました

・日常的に絵を描く
3月から絵を描き始め,これまでに650枚ほど描いた。”見て描く”が中心で,部屋の中にあるもの,風景,既存のイラスト,ネットや雑誌に載っている写真などを対象として描いている。たまに色も塗るが,主に鉛筆だけで線画を描いている。対象そっくりに描ける技術が欲しいし,私らしさがにじみ出る絵が描きたい。最近描く量が減ってきているが,今後も継続予定。
http://yukiron.blogspot.jp/2017/04/blog-post_22.html


(通称)ヴィクトル・尻フォロフ
・アニメグッズ(ユーリ!!! on ICEのみ)を買い始め,ついに私はフィギュアを手に入れた!
4月にアニメ「ユーリ!!! on ICE」を初めて見て以来、どハマりしている。去年の私は,今年の私がアニメグッズを買うなんてまるで想像していなかったであろう…。ましてや,グッズを買うために3時間超も並ぶなど,去年の私ならありえない!と思っていただろう…。グッズ厨の方々の足元にも及ばない量しか買っていないが,それでもグッズを買うとそれなりにお金がなくなっていくので,また稼がねばならない。フィギュアを買ったのも初めての経験であった。今手元にあるのは小さいの1体と,中くらいの1体と(どっちもデフォルメされたやつ),原寸1/8スケール1体の計3体。1/8スケールのは,あまりの美しさに造形師さんに感謝!である。ずっと見ていられる美しさ…。だがしかし,1つ問題が発生。飾る場所がない。ゆえに商品が届いてから一月以上経った今もまだ箱に入ったままである…(無念)。然るべき場所を早急に用意せねばならない。
自作チリコンカン
http://yukiron.blogspot.jp/2017/05/on-ice.html

・チリコンカンを作った
昨年よく読んでいたブログの主さんが,チリコンカンをよく作っているらしく,写真をいろいろ載せていた。それを見たら,昔よくWendy'sで食べていたチリの味が恋しくなり,自分で作るか!となった。Google先生頼みのレシピで,友人とのお花見会のときに作ったものを披露。もぐもぐ食べてくれていたので,味は美味しかったはず。個人的には大満足の味。すばらしい味になったのは,隠し味に入れた辛い調味料(地元の肉屋さん特製)のおかげのような気がするので,今度隠し味なしで作ってみようと思う。どんな味になるかな。

・テーマパークのプールで遊ぶ,しかもウォータースライダーで急降下
私の地元には市民プールがある。小さい頃,夏になるとよく親に市民プール行きたい!と言っていたが,いつもダメと反対されていた。そういうわけで,テーマパークにあるような娯楽用の共用プールで遊んだのは今年が初めて。流れるプールに,波が来るプール…いろいろ遊べて楽しいじゃないか!ウォータースライダーもあったので初挑戦。ジェットコースターとかの絶叫系は苦手なので,心臓バクバクさせながら順番待ちをし,さぁ急降下。めっちゃ怖かったです。しかも滑り方のお作法がよく分かっていなかったからなのか,鼻に水が入って痛くなるし,水着も少しずれるし…。でももう1度挑戦。2回めもめっちゃ怖かったです。でも1回めよりは上手に滑れたかな…(汗)

・リンゴ飴を食べる
リンゴ飴,お祭りでよく目にしていたけれどこの歳になるまで食べたことがなかったという…。でもつい先日初めて食べて,あまりの美味しさに大好きになりました。歯でカツカツやっても飴の部分がなかなか割れず,食べるの難しかったのだが,来年はいっぱい食べたい!

・新聞の社説読むのを習慣化
もう3ヶ月くらいになるだろうか,新聞の社説を読み始めた。社説のまとめサイトでその日に気になったものを2本読む,というのをやっているが,なかなか論旨がつかめない。で,結局あなたは何が言いたいの?がつかめない。人の話を,人の意見を,その人の意図に沿って理解するって本当に難しくないか…。

・やってよかったデュアルモニター
年明けに,家で使うデスクトップパソコンを買った。これを機に2台のモニターを縦型と横型に設置した。2台モニターあるって便利だぁ~!PDFとか長めの文章は縦モニターのが断然読みやすい。それに,レポートとかまとめるとき,片方の画面に参考資料とかを出しておいてもう片方の画面で文章打っていく,というのも快適。いちいちウィンドウを切り替えなくて済むし,表示も大きいままで済むし!

・ひとり居酒屋でそわそわ…
長浜ラーメン
「ひとりで外食」に抵抗があるという話をよく耳にするが,私の場合は,時間帯(朝・昼・夜)とどういう店か(カフェ,レストラン,ファーストフード系など…)によって抵抗感が変動する。朝と昼はこれまでの経験と想像上,おそらくどういう店でも大丈夫と思われる。だが夜となるとちと話は違ってくる。カフェやファーストフード系など,一人客が多い店はあまり抵抗はない。だが,一人客がそれほど多くないレストランや居酒屋となると抵抗感がアップする…。だが,今年はひとり居酒屋をしてきた。どうしてもそこの居酒屋にある長浜ラーメンが食べたくて,入った次第である。盛り上がっているお客様が多くてうるさい店内。そして隣も盛り上がってるお客様。テーブルに座るとき,そのお客様と目があったが,ちょっと気まずかったのでささっとそらし,早速ラーメンをオーダー。ラーメンが来るのを待ってるときも,食べているときも,なんだかそわそわして落ち着かず,心なしかいつもより食べるペースも早く,でも替え玉はしっかりいただいて,お会計へ。落ち着いてひとり居酒屋する日は来るんだろうか。

・BLマンガの魅力発見
ひょんなことからBL漫画の世界に足を踏み入れました。これまでに読んだのは10タイトルくらいだろうか?好きになった作品もあればどうも苦手な作品もあったのだが,登場人物たちの心の動きを丁寧に描いた作品や,そのカップル間に生じているソウルメイト的な関係性を描いた作品に魅力を感じる。同じ恋愛ものでも,少女マンガや女性向けマンガを読んでいるときとはどこか違う魅力を感じている。そして,心理学本読むよりこっち読んだほうが人の気持ちや心をよく知れるんでは?と思ったこともしばしば…。来年もきっと読むだろう。
http://yukiron.blogspot.jp/2017/07/blog-post.html

来年も新しいことに取り組んでいく1年にしたい。第一夜はこのへんで。

2017/09/29

一に書いて,二に書いて,三四も書いて,五も書いて

最近,”書くこと”を結構意識してやっている。なんでも書いていい用のノートは机に常に開いておき,出かけるときもなんでもノートと筆記具を持ち歩き,なんか思いついたら書く。もちろんスマホやPCも使う。ネットを開けばピンからキリまでいろんな情報飛び込んでくるし,自分の体験以外にも,これは誰かと共有したいなと思ったら,twitterやfacebookで書く。Blogは即時性よりもある程度まとまった内容でいきたいので,時間がとれるときに書く。そんな感じで書くことを続けるようにしている。

なんでこんなことをしているのかというと,書くことで思考が進むということを感じ始めたからである。そもそも書くことは私にとっては面倒くさい。これでも昔は記者をやっていた人間だが,書くのはやはり面倒なのである。というか,時間かかるし効率が悪いように感じる。でも,書くことで思考が進むため,書かないときよりも生産性は高い。最近,何かしらのテーマについてプレゼンする,ということを毎週やっているのだが,その過程でそう感じた。

いちいち書かなくても考えることはできる,と思っていたのだが,それは私の思い込みだったらしい。書いて考えるのと頭の中でだけで考えているのでは,思考の広がりが随分違う。書きながら考えてもまだ十分考えているとは言えないが,書かないで考えていたときよりもアイディアが浮かんだり,着想したことから展開していけたり,ストーリー性をもった説明を考えられるようになったりする。というより,書かないときのはただ考えているつもりに過ぎなかったのかもしれない。だから,書くという行為に向かいやすい環境を作り,自分に書くことを促している。なんせ書くことが面倒なので,とりあえず目につくところに書く道具を用意しておかないと,すぐ書かないというほうに流れてしまう。人間生きていれば常に何かしら思ったり感じたりしているが,その多くは瞬間的なもので,その瞬間が過ぎればその思ったことや感じたことはたいていどこかに行ってしまう。あとで振り返ることができたとしても,そのときに思ったことや感じたことの断片か,微妙に違う何かが出て来るにすぎない。だから書いて残しておこう!と,いかにそのとき思ったことや感じたことが貴重か?を考えてみても,やはり面倒なことはしたくないのである。なので,書くことに対するハードルを物理的に,心理的に下げるべく,鋭意努力中というわけである。

書くことと思考の関係はいろんなところでいろんな人が述べている。よく,書くことによって思考が整理されるという話を聞く。たしかにそれはそうかもしれない。書くとそこには書かれたものがあり,自分はそれを見て,その書いたものに反応する。そうそう,そういうことなんだとか,いやいやそうじゃないとか,ホントにそうなんだっけとか,いろんな反応が出るだろう。だから,そのプロセスが繰り返されれば,整理もされるだろう。個人的に思うのは,人間の特性とアイディアの特性をふまえると書くことは実は合理的ということだ。ほとんどの人間は,1つのことに長く集中できないし,ワーキングメモリには限界がある。しかもすぐ忘れる。それに加えて,アイディアの発現のタイミングはコントロールできない。であるなら,とりあえず書き留めて,それを見れる状態にしておくことが思考を進めるうえで役に立つといえる。

そんなわけで,面倒くささと日々戦い,習慣化までもっていきたい。

2017/08/17

素描せよ,時間を無駄にしてはならない ―レオナルド×ミケランジェロ展

自分で絵を描き始めてから,人の描いた絵を観る時間が今まで以上に多くなった。特に,素描や原画は本当によく観るようになった。観るというよりも観察するといったほうが近いかもしれない。線の太さ,傾き,影の濃さ,パーツの形や位置,全体におけるバランス,リアルさ,それらをじっくりじっとり見まくる。そして自分の描く絵に反映させたい。うまくいっているかどうかは微妙なとこだが,少なくとも自分の絵との違いは分かる。そもそも描く線が違うのだ。線の太さ,傾き,繊細さ,他の線とのバランス,全体における統合感…線が美しい絵は美しい。私は線が美しい絵が大好きだ。美しい絵はずーっと見ていられる。心を引きつける。

レオナルド・ダ・ヴィンチ
「少女の頭部/《岩窟の聖母》の天使のための習作」
そんなわけで,三菱一号館美術館で現在開催されている「レオナルド×ミケランジェロ展」に行ってきた(http://mimt.jp/lemi/)。レオナルド・ダ・ヴィンチにミケランジェロ!ルネサンス期の代名詞ともいえる芸術家。彼らの遺した作品,特に素描作品を展示する作品展ときたら,線好きの私には行かないという選択肢はない!

美術館に入り,いざ展示へ…。最初に出迎えてくれたのは,彼らの肖像画と,彼らの素描の代表作とされている顔貌作品である。ここにある写真は,美術館内にフォトスポットとして用意されていた,元の絵を拡大したパネルだが,展示ではもちろん原画が迎えてくれる。どちらも本当に本当に美しい。かれこれ30分以上もこのセクションに滞在してしまった。

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品は,金属尖筆で描かれている。細く繊細な線がいくつも組み合わさり,柔らかい女性の表情を作り出す。まぶたの丸みとか,唇のぽてっとした感じとか,絶妙な陰影具合とか,金属尖筆1本でどうやって生み出してるんだ!という感じ。まぶたや鼻や頬骨のところには鉛白によるハイライトがついているが,そのハイライトでさえあるべきところにあるべき分量で載せてあり,今にもこの女性が絵から飛び出してきそうなくらいリアル…。
ミケランジェロ
「《レダと白鳥》の頭部のための習作」
一方,ミケランジェロの作品。こちらは赤チョークで描かれている。レオナルド・ダ・ヴィンチの線に比べ,ミケランジェロの線からは力強さや生き生きとした感じを受けた。それから漂ってくる温かさ。レオナルド・ダ・ヴィンチの上の絵からは,繊細なのにどこか冷たい感じを受けた。これは描いている道具から来る違いなのかもしれないが…。私はこの絵の,鼻の頭や目元,耳のフォルム,陰影の感じ,布の感じ,左下の絵に描かれたまつげにとても惹かれる。顔周りや頭部周りに,試行錯誤した跡のようなものがあるのもなんかいい。

ミケランジェロ
「背を向けた男性裸体像」
展示してあったのは顔貌だけではない。解剖学にたしなみ,人の身体に精通していた彼ら。彼らが生み出した素描の人体は恐ろしいほどよくよく観察されたものである。なぜそこまで見えるのか,そして正確に描写できるのか,知りたくてたまらない。リアルな描写に彼らの考える美が足された素描は本当に本当に美しい。なかでも私が気に入ったのがこの1枚(原画はすべて撮影不可のため,図録の絵を撮影)。筋肉,骨格,身体のしなり,おしりのフォルム…男性の身体美があますところなく描かれ,惚れ惚れする。もはや感嘆のため息しか出ない。

素描以外にも印象に残ったものがある。それは,レオナルド・ダ・ヴィンチの鏡文字満載の手稿と,ミケランジェロ―カヴァリエーリ間でなされた愛情あふれるお手紙。イタリア語はさっぱりなので何が書いてあるかは解説・翻訳に頼るしかなかったのだが,レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿からは,彼の細かさというか緻密さ,それから探究心がにじみ出ている。というのも,天体や武器,馬の鋳型の作り方など多岐にわたって細かく絵入りで書き留めているからである。お手紙のほうは,なんともほほえましいものであった。なかなか返事をくれないミケランジェロにカヴァリエーリが小言を言って…という前置きの元,ミケランジェロがカヴァリエーリに送った手紙とそれに対するカヴァリエーリからの返事が展示されていた。ミケランジェロのちょっと必死になっている感じ,焦っている感じが内容に表れていたように思う。カヴァリエーリはそんなミケランジェロの言葉をおおらかに受け止め慕う,という感じだろうか。こんなふうに言葉を尽くして愛を伝え合える関係はいいなと思う。

ところで,本記事のタイトルの「素描せよ,時間を無駄にしてはならない」は,ミケランジェロが弟子のアントニオに言った言葉として残っている。レオナルド・ダ・ヴィンチもまた,素描を大事にしていた。「画家はまず,優れた師匠の手による素描の模写に習熟しなければならない」といった言葉を残している。私自身絵を描き始めて感じたことだが,デッサンは本当に難しい。モティーフのデッサンや写真や絵の模写など鉛筆と消しゴムだけで600枚近く小さい絵を描いているが,自分の気に入る線を引けていない。ミケランジェロも「素描せよ」と言っている。素描を続け,いつか自分の納得のいく線を引けるようになることに期待したい。

2017/07/31

漫画記 水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

なんともすごい漫画だった。圧倒されてしまった。読み終わってから数日経っても,この漫画の内容とか恋愛に関する諸々とかがずっと頭の中をぐるぐるしていて,その後少し落ち着いたところで改めて読み返してみたのだが,またもや圧倒されてしまった。さらにまた,懲りもせずにところどころ読み返した。とりあえず,今は冷静にこの漫画を捉えられるようになったし,内容も,この漫画によってもたらされたいろんな感情も消化しつつあるのでこの記事を書き始めている。

「窮鼠はチーズの夢を見る 」「俎上の鯉は二度跳ねる」は,男性間の恋愛を描いている。同性愛者の今ヶ瀬は,大学時代の先輩の恭一(異性愛者)に,もう長いこと恋をしている。で,ひょんなことから2人は数年ぶりに再会を果たすのだが,それを機に2人の関係がじりじりと変わっていく。彼らの関係の変化を丹念に描いたのがこの2冊である。どちらも短編集の体裁だが,「窮鼠~」「俎上~」の順で2人の間の時間の流れが描かれる。

この2冊はいわゆるBL漫画なのだが,この記事を読んでくれている皆さんは,BL漫画にどんな印象を持っているのだろう。BLと聞いて引く人もいるかもしれない。私自身も言われたくないから,人の嗜好をとやかく言う気は全くないが,もし偏見だけでこの漫画を手にとることをやめてしまうとしたら,それはもったいないことかもしれない。私が思うにこの漫画の見せ場は,主人公2人の心情描写だからだ。つくづく思う。相手が同性だろうが異性だろうが,恋愛は恋愛。恋愛によって当事者たちにもたらされる感覚や感情,さまざまな変化は,多くの人が共有できる普遍的なものではないかと。
セリフがものすごく多い漫画なのだが,よくぞここまで…と思うくらいの心情描写力である。卓越してる。2人の間でなされる会話に耳を澄ませ,そのときの2人の表情やしぐさを注視し,ときおり入る互いのモノローグに読みいっていると,恋愛しているときの幸せな気持ち,ヒリヒリ感,混乱がどんどん伝わってきて,共感するしかない。でも同時に,恋愛によって表出する人間の奥底に眠っているどろっとしたもの,欲望,ずるさ,愚かさ,生々しさ,真剣さ,性,も心に身体にがしがしつきつけてくるもんだから,たった2冊の漫画を読んだだけでだいぶ疲弊してしまった。

私はこの漫画を読みながら,思い込みや固定観念を取っ払った先にある現実はどんな景色になるのかとか,素直に生きることへの葛藤とかを考えていた。私には,主人公の1人である今ヶ瀬が,表向きは大胆で策士なのに,その実臆病で,思い込みと固定観念の中で生きているように見えた。今ヶ瀬は,恭一を振り向かせるためにいろんなことを仕掛けるのだけど,最後まで踏み込むことは決してしない。しないというよりできないのだと思う。恭一に対して素直な気持ちを打ち明けても,最後の最後でごまかしてしまう。最後まで踏み込まないのは,恭一を落とすためにあえてそうしているわけではなくて,今ヶ瀬がそうだと思い込んでいる,恭一の心理状態や今ヶ瀬に対する気持ちから自らを守るためであり,異性愛者と同性愛者は違うという強固な固定観念のせいでもあり,また,恭一を同性愛の世界に引っ張り込んではいけないという今ヶ瀬の気遣い?のせいだと思われる。だから今ヶ瀬は,恭一の今ヶ瀬に対する言葉や態度を素直に受け取ることができない。もう1人の主人公である恭一は,そんな今ヶ瀬に最初から最後まで振り回される。彼の場合,今ヶ瀬の態度や言葉を素直に受け取るがゆえに振り回されているのかもしれない。恭一は,最初は異性愛者である自分が同性愛者に迫られている現実が受け止めきれずにもがく。でも,今ヶ瀬と時を重ねるにつれて,生来の流されやすい性格も相まって?,彼を受け入れるようになっていく。でもその一方で,今ヶ瀬の恭一を試すような態度とか,今ヶ瀬から伝わってくる異性愛者と同性愛者は違うんだという観念が影響し,今ヶ瀬に対する自分の気持ちに確信がもてないし,どう扱ったらいいかも分からなくなっていく。危ういバランスでつながっている2人は,互いを傷つけ合っている。物語の終着点は,カッコつきのハッピーエンドである。作者の言葉を借りれば,恭一が今ヶ瀬に対して「漢(オトコ)」を示したからである。ただ,互いに思い込みと固定観念から抜け出し,現実を受け入れ,素直に生きる勇気を持っていないのなら,また傷つけ合うしかない。そういう意味でカッコつきだと表現している。

そんなことを思えば,この2人の話はずいぶん身につまされる。思い込みや固定観念にとらわれることで,多分私は多くのことを逃してきたし,人を傷つけたこともあっただろう。私自身,他人からそう扱われることで嫌な思いをしたこともあった。素直に生きることの難しさもまたしかり。「私はあなたが好き」とか「私はこうしたい」とか,心から湧いてくるシンプルな気持ちと行動にいつの間にか余計なものがどんどんくっつき,気づくといろいろなことがたいそうややこしくなっていたりする。素直にならなかったことでどれだけ損をしただろう。そして,不快な思いを人にさせたこともあったのだろう。思い込みや固定観念はどこまで排除できるのか…,その先に現れる現実をどこまでつかみ受け止めることができるのか…,その現実でどこまで素直に生きることができるのか…,今はそんなことが頭の中を漂っている。

今ヶ瀬と恭一の恋愛物語を読んでいてもう一つ思ったことがある。もしこの話が男性同士の恋愛ではなく,男性女性のカップル間での話だったら,私は同じようにゆさぶられたり,感情移入したり,何度も読み返したりしたのだろうか?ということだ。今ヶ瀬がもし女性だったらと考えると,私は今ヶ瀬をただのうざい女性として処理し,愛しさみたいなものを感じることはなかったのではないかと思う。この漫画を読むのと前後して他のBL漫画もいくつか読んでいるのだが,少女漫画や女性向け漫画を読んでいるときとは異なる感情が流れてくるのを感じている。それがなんなのかまだうまく説明できないのだが,整理ができたらブログに書くかもしれない。

というわけで,今ヶ瀬と恭一の恋愛物語,とてもとてもおすすめである。

2017/06/30

「言葉」という便利で不都合な存在

先日このブログで「ユーリ!!! on ICE」が大好きだという話を書いた(http://yukiron.blogspot.jp/2017/05/on-ice.html)。あれから数ヶ月経った今もどはまりしている状態は続いていて,ユーリ関連の品々や情報,特にヴィクトルのもろもろは日に日に増えていくばかり。好きなものを愛でることがこんなにも楽しいとは…!それだけでこんなにハッピーな気分になれるとは…!アニメを見返したり,グッズを眺めたり,ユーリに関する情報を得たりする度に自分の中でいろいろな感情が喚起されるうえ,物語やキャラクターたち,はたまた自分の価値観や欲に対してまでも確認作業や発見,新しい視点の獲得が起こる。そしてそれによってまた感情が喚起される。その波みたいなものが心地よい。こういうの,今まで味わった記憶がないのですごく新鮮に感じている。

さて,そろそろ本題に話を戻そう。ユーリの話になるとつい長くなってしまうが,今日のテーマはユーリがメインではない(汗)。ではなぜこんな話をしているかというと,「ユーリ!!! on ICE」の監督である山本沙代さんが「「ユーリ!!! on ICE」公式ガイドブック『ユーリ!!! on Life』」という雑誌でこんなことを話していたからだ。以下引用。
”…いつも自分の作品では「家族」とか「恋人」のような名前がついている関係性に縛られない「絆」みたいなものをすごく大事にしていて,それを描こうと思っていたんですよね。”
この記事を読んだとき,自分と同じようなことを考えている人がいる!と思ってすごく共感した。しかも私がユーリを好きな最大の理由の1つはまさしくそれなので,こりゃ好きになって当然だなと思った。

人との関係を言葉で規定することの不都合さを感じることが私にはしばしばある。ある人が私にとってどういう存在なのかをとらえようとするとき,あるいは,その人との関係を別の誰かに伝えようとするとき,適切な言葉を見つけることが難しいのだ。たしかに社会には人と人との関係を表す言葉があふれている。「家族」,「親子」,「兄弟」,「友人」,「恋人」,「同僚」,「上司/部下」,「知り合い」,「先生」など,関係全体を表す言葉から社会的な属性を示す言葉を用いて関係を表現しようとするものまで,バリエーション豊かだ。私たちはこれらの言葉に十分なじみ,意味を理解している。だから関係をとらえるにはこれらの言葉を使えばよい。しかし私は,これらの端的で理解しやすい言葉を使うことでとりこぼされてしまうものが惜しくて仕方がない。だからいつも言葉に迷う。

言葉にすることでとりこぼされてしまうものとは何なのか。それは私の場合,相手との間にある距離感とか,相手やその関係に対するさまざまな感情とか,そういう極めてパーソナルなものである。例えば一口に「友人」といっても,どの友人とも同じ関係を築いているわけではなく,その友人ごとに歴史もあれば距離感もあるし,抱いている気持ちや期待していることも違う。「友人」という言葉でくくってしまうと,「友人」という言葉にまとわりついているイメージ・意味のせいで,パーソナルなものが全部捨象されてしまい,その人との関係が何か別のもののようになってしまう気がするのである。そして,その言葉を使って別の誰かにその人との関係を伝えようとするとき,伝えようとする相手に自分の本意を誤解されるのではないかと感じるのである。そもそも上に挙げたような関係性を表す言葉は,対社会の機能が強いように思う。だから,それらにパーソナルなことまで包含しようとすること自体,無理があるように思えないこともないのだが。

この現象はつまるところ,言葉とは何なのかということに関わっている。言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールは,言葉をシニフィアンとシニフィエという2側面から成るものだと考えた。シニフィアンとは,言葉の記の側面だ。具体的には音とか文字とか。知覚を通してとらえられる側面ともいえる。一方,シニフィエとは言葉の意味の側面である。例えば,ブログいう言葉を読めばブログの概念やイメージが,おにぎりという言葉を聞けばおにぎりの概念やイメージが頭の中に浮かんでくるだろう。そういうのがシニフィエである。まとめると,音や文字(シニフィアン)を使って意味(シニフィエ)を表す,それが「言葉」というものである。

以上の言葉の特性を元に整理してみると,私が感じている不都合さは,シニフィアンを介して伝わるシニフィエの限界というところに行き着くと思われる。具体的には,ある言葉を使って関係性(事象)をとらえよう→その言葉のシニフィアンによってその言葉のシニフィエが喚起される→このシニフィエによって関係性(事象)の捉え直しが起こる→本来の事象とずれている,となって違和感が生じるわけである。シニフィアンはシニフィエを喚起する。だから,シニフィエを喚起されたら,そのシニフィエを通して事象は解釈される。このとき喚起されたシニフィエは,フィルターのような役割を果たしているんじゃないかと思う。とはいえ,喚起されるシニフィエも結局はシニフィアンを用いている。そうすると,またそのシニフィアンがシニフィエを喚起して…となり,結局は無限に続ていく。ジャック・ラカンのいうところの「シニフィエに対するシニフィアンの優位」とはこういうことなのではないかと思っている。

こんな話を考えていた矢先,私がもうかれこれ10年以上大好きな漫画「きみはペット」を思い出した。主人公のスミレちゃん(アラサー)は,家の前に置かれていた段ボール箱に入っていた男性(20代前半)を拾う。そして行く当てのなかった彼をペットとして飼うことにし,彼を昔飼っていた犬の名前である「モモ」と名付ける。そこから2人のご主人様―ペット関係が始まる。ご主人様―ペットの関係というと,どんなシニフィエが喚起されるだろうか。スミレちゃんとモモは,そのくくりを外してみると普通の恋人同士のように見える。でもお互いの間では,私はご主人様,僕はペットという自覚があるため,互いを恋人とは認識していないし(スミレちゃんには彼氏がいる),その自覚が足かせのようになっていたりもする。特にモモは,スミレちゃんに対して恋心のようなものを抱き始めるのだが,ペットであるということがモモのスミレちゃんに対する気持ちや行動を縛る。スミレちゃんにしても,モモの存在がスミレちゃんの中でだんだん大きくなっていくのだが,モモはペットであるという認識がスミレちゃんの気持ちや行動を縛る。そのあたりの葛藤は,読んでいるこっちをイライラさせたり切なくさせたりする。でも,2人の間には互いが互いを必要としている絶対的なつながりみたいなものが生まれていて,もはや,ご主人様ーペットというのとも,恋人というのとも,家族というのとも何か違うように私には見える。

先に山本沙代さんの発言を引用したが,私が心打たれたのは「関係性に縛られない絆」という箇所である。「ユーリ!!! on ICE」も「きみはペット」も,作品の中でそのあたりを十分に描いてくれている。私はそれが大好きだし,それは私が求めているものでもあるのだろうと思った。関係性を示す「言葉」にとらわれることなく,その人との間に感じているさまざまな気持ち,距離感,つながり,そういったものを大切にしていきたい,そんなことを思う日々である。