この展示会は大きく2つに分けられる。1つは,入り口から入ってすぐの音と映像を用いたインスタレーションで谷川俊太郎の詩を紹介する展示。その空間を抜けたところにあるもう1つは,谷川俊太郎の作品と日常を様々なモノを使って紹介する展示だ。1つめのインスタレーションもけっこう衝撃的だったのだが,そこを抜けて次の展示会場に入った瞬間,これはすごい,やばい,こう来るのか…と度肝を抜かれた。展示会場内のキュレーションがものすごくステキだったのだ。
ステキなキュレーション |
「自己紹介」 |
詩を紡いでいます |
「ばか」音で遊んでいるよう |
1つは,谷川俊太郎が即興で詩を作っている様子が映し出されたワード。一文字一文字ゆっくりゆっくりタイピングされるていく。途中,タイプミスをけっこう犯し,一度入力した言葉を思い直して消去し,別の言葉を紡いでいく…。そのプロセスを観ていたら,妙に人間くさくて愛おしくなった。彼は何を思って言葉を変えたのかな。もう1つは,言葉の促音と韻で遊んでいる詩の制作過程の自筆メモ。アイウエオを縦横に一字ずつ書いた表を使って,使える言葉を探しているように見えた。そういうのの結晶が,インスタレーションで発表されていた詩や「ばか」につながっているんだろう。耳になじんで心地いい。
「朝のリレー」 |
バカボンのパパの詩 |
私は誰 |
「見る」というところに展示してあった作品は,何度も見返した作品の1つ。自分からみる自分と他者から見る自分が違うということを,これほど分かりやすく表現したものはこれまであっただろうかと思った。私は私。でも他者から見た私は,あくまでもその人の世界のどこかに布置される。その人の視点が反映される。「ジョハリの窓」よりも,もっと具体的に直感的に理解できるし,絵付きということもあって想像しやすい。
彼の作品を全部理解することは叶わなかった。日本語だから読めはする。でも,自分の中にストンと入ってこない谷川俊太郎の感性,思想,言葉があった。けれどそれでも,それぞれの作品に,訴えてくる何かはあって,何も感じないとかつまらないと感じるものは1つもなかった。
そういえば展覧会中,日本語の文字が放つニュアンスの多様さ,豊かさを感じていた。日本語ではひらがな,カタカナ,漢字を使う。ある言葉を詩の中で用いるとき,ひらがな,カタカナ,漢字のどの表記を使うか,これはけっこう重要じゃないか。例えば先に紹介した「ばか」の詩。この詩は全てひらがなで書かれているが,もし漢字が使える言葉を漢字にしたら,この詩のリズム感や遊び心みたいなものはひらがなのときに比べて伝わりにくいんじゃないだろうか。また,バカボンのパパの詩はカタカナと漢字のみで書かれている。もしカタカナの部分がひらがなに変わったら,バカボンのパパっぽくないよなぁ…。音で聴く分にはどんな表記でも気にならない。でも紙に文字として書くと,その文字のもつ雰囲気も読む人に伝わっていく。表記によって内容に色付けができるのだ。その分,表記の選定に気をつかうことにはなるが。緻密な計算,センスがいるだろう。
谷川俊太郎のひとこと |
最後に…
先に紹介した「春に」は合唱曲の歌詞としても知られている。うろ覚えだった「春に」の合唱を家に帰ってから聴いてみた。うん,いい…(泣)また震えた。
それから,展示の軸になっていた詩の一行一行が書かれていた棚。裏側には谷川俊太郎の直筆ひとことが貼ってあった。その中で一番いいなと思ったのがこれ。
3/25まで新宿オペラシティで開催中です。ぜひ足を運んでみてくださーい!