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2014/12/19

「ガリバー旅行記」と国家論

ジョナサン・スウィフトの書いた小説「ガリバー旅行記」は風刺文学と言われている。スウィフトは小説内で、ガリバーが漂流先で体験するあれこれをユーモアたっぷりに描くと同時に、当時のイギリス(イングランド)や人間を糾弾している。スウィフトは「ガリバー旅行記」を出版する際、自分が書いたことが公にならないようにした。タイトルに記載した著者名は、レミュエル・ガリバーとし、ガリバー本人による体験記という形をとった。さらに、自分が書いた原稿を第三者に写させて、その写した原稿を本屋においた、とも言われている。スウィフトは当時の政治への痛烈な批判を意図的に書き、トラブルが生じることも折り込み済みで出版したといえる。スウィフトは「ガリバー旅行記」の中でどのような国家を描き、批判し、どのような国家を理想としたのかを考えていこうと思う。

スウィフトは「ガリバー旅行記」でいくつかの国家を描いている。ガリバーが最初に漂流したのは小人の国リリパッドである。リリパッドは皇帝によって統治されている法治国家だ。軍隊を保有し、宮廷では高官たちが勢力争いや私利私欲の絡みあった陰謀を企てている。隣国との交易が国を支えており、また別の隣国とは戦争状態にある。2番目に訪れたのは、巨人の国ブロブディンナグだ。ここでは王が国を治めている。宮廷は平和で仲睦まじく、外で戦争も起こっていない。登場する人たちはガリバーに親切に対応する。農業がこの国の主要産業だ。大人国を離れたガリバーは5つの島に短期間滞在する。5つの島のうち、ラピュタとバルニバービは主従関係にあり、ラピュタの王による君主制がひかれている。両者は緊張状態にあり、数年前にはバルニバービの住民による反乱が起きた。学問に力を入れていて、天文学が発達しており、科学や政治、医学に関するとんちんかんな研究を行う機関がある。そして最後に訪れるのは、馬の国フウイヌタムである。礼儀正しく、理性を身につけた馬たちによる議会制の国であり、人間(ヤフー)は理性を持たない野蛮な動物として扱われている。

「ガリバー旅行記」で当時のイギリス政界のようすを端的に描写しているのは小人の国リリパッドである。先に挙げたリリパッド国の特徴には、当時のイギリスの政界と重なるところが多々あり、登場人物を政界の誰をモデルにして描いたかを突き止めることが可能という。例えば、リリパッド国に登場する大蔵大臣フリムナップは、当時のイギリスの政治家ロバート・ウォルポール(ホイッグ党)だとの解釈が定説である。「ガリバー旅行記」が出版されたのは1726年だが、イギリスではこの頃、国内では政治の混乱が生じており、対外的にはアメリカ大陸の植民地化と貿易による富の蓄積に励み、フランスやアイルランドなどの隣国との間には争いが起きていた。政治の混乱は、政党の勢力争いとキリスト教の宗派間をめぐる対立に起因する。そもそもイギリスでは、ピューリタン革命(1642-49)で絶対王政が転覆したものの、ピューリタンが独裁政治を始めたため、王政政治が復活、チャールズ2世が王座についた。しかしチャールズ2世は、イギリスの王たちが支持してきたイギリス国教会でも、ピューリタン革命で活躍したイギリス国教会改革派のピューリタンでもなく、フランスやスペインと近づいてカトリックを擁護する。さらにチャールズ2世の後を継いだ弟のジェームズ2世も、カトリックに親和的な政治を行い、絶対王政の復活を目指したことから議会は反発、ジェームズ2世の娘メアリと、プロテスタント国オランダを治めていた夫ウィリアムに武装援助を要請する。オランダからの援助により、ジェームズ2世はカトリック国のアイルランドに亡命、ウィリアム(ウィリアム3世に)とメアリは王位につく。これが名誉革命(1688)である。ジェームズ2世の即位をめぐって、議会には2つの政党ができていた。ホイッグ党とトーリー党である。ホイッグ党は王権の制限、植民地戦争や保護貿易の推進、宗教に対しては寛容な態度を掲げ、トーリー党は王権の擁護、戦争や保護貿易の反対、イギリス国教会支持を掲げていた。ウィリアム3世はホイッグ党を優遇したが、彼の死後王位についたジェームズ2世の娘(メアリの妹)アン女王は、トーリー党を優遇して組閣した。しかしアン上女王の死後は、17世紀前半に即位していたジェームズ1世の曾孫にあたるドイツの諸侯、ゲオルクが、ホイッグ党から多数の支持を受けジョージ1世として即位する。しかしジョージ1世はイギリスを嫌っていた。イギリスの言葉も話せず、議会政治を嫌っていたため、議会が内閣を組織し政治を行うようになった。そこでホイッグ党が政権をにぎり、トーリー党は力を失っていくのである。

スウィフトはトーリー党の支持者である。もともとはホイッグ党を支持していたが、自身の信仰するイギリス国教会に対しての、それぞれの政党の立ち位置が変化していったことから、支持政党を変えている。スウィフトの政治への強い関心は、経歴からうかがうことができる。1667年、イングランドからの移民である両親のもとアイルランドで生まれたスウィフトは、ダブリン大学を卒業後、イギリスで活躍していた外交官テンプルの秘書としてイギリスに渡る。スウィフトはそこでテンプル家にあった書物を読みあさり、イギリスの政治家たちと関わった。健康上の都合でアイルランドに戻って国教会の聖職者となってからもイギリス政界とのつながりを維持し続け、トーリー党のスポークスマンのような役割を果たすなど、政治活動を精力的に行っていた。しかし、支持していたアン女王は亡くなり、外国から連れて来られたイギリス統治に興味のない人間が王になり、ホイッグ党が独占的に政治をすすめ、トーリー党は失墜、スウィフト自身の出世の道も断たれた。このような状況下で「ガリバー旅行記」は書かれた。

ガリバーが2番目に訪れた巨人の国ブロブディンナグの王との会話には、スウィフトの辛辣な批判が現れている。ブロブディンナグの王はガリバーに、ヨーロッパの風俗習慣や法律、政治、学問、宗教になどついて尋ね、ガリバーは祖国の政治や政党間の抗争、貿易、戦争、宗派間の対立など(当時のヨーロッパ、イギリスの事情)を詳しく説明する。ガリバーは、ヨーロッパおよび祖国の社会を褒め称えつつ詳細に説明しているが、王はガリバーの言うところのすばらしさを全く理解しない。むしろ、「おまえの話からはっきりとわかったのは、ときとして無知、怠惰、悪徳のみが立法府の議員たる資格となること、そこで作られた法律は、それをねじ曲げ、混乱させ、すり抜けることに長けている連中によって、説明され、解釈され、適用されるのだということだ。…おまえの国ではどんな地位をめざすにせよ、美徳は何ひとつ必要ではないらしい。人徳が厚いものが貴族になる、敬虔で学識豊かなものが主教になる、勇猛果敢なものが軍人になる、高潔なものが裁判官になる、国を深く愛しているものが議員になる、賢明なものが顧問官になるというわけではないのだな。」(「ガリバー旅行記」p.193)とガリバーが伝えた内容に軽蔑を示す。そしてガリバーは王の才能を賞賛しながらも、視野が狭いと感じている。スウィフトが当時のイギリス政治に並々ならぬ怒りや、嫌悪感を持っていたことを踏まえて読むならば、王の返答のほうがスウィフトの本心で、ガリバーの価値観を嘲笑の対象としている、と解釈できる。ガリバーがヨーロッパやイングランドについて詳細を話すシーンは、ガリバーが最後に訪れる馬の国フウイヌタムにも描かれている。なぜ戦争が起きるのか、政界で高い地位につく方法、医者や法律家、貴族など身分の高い人びとの生活について馬の国の主君に説明するが、ブロブディンナグ国王と同様、主君はヨーロッパやイギリスで起こっていることが全く解せず、「おまえたちが本当に理性の備わった動物ならば、何をすべきか、何をしてはならないかは、自然や理性がはっきりと示してくれるものだと思うのだが」(同p.374)などと言う。馬の君主の理路整然とした返答は、イングランドの、欲にまみれ、争いの絶えない政府や高官たちの実情をさらに浮き上がらせている。

ガリバーが馬の国フウイヌタムに辿り着く前に訪れた、グラブダブドリブ島での体験には、批判とともにスウィフトの怒りと嘆きが反映されている。グラブダブドリブ島には降霊術を使って死者を呼び出し、命令できる族長がいるのだが、ガリバーはその人に古代の哲学者やヨーロッパで活躍した皇帝、名高い貴族を呼び出してもらう。彼らの姿を見てガリバーは、「戦で輝かしい殊勲を挙げたと臆病ものが讃えられ、思慮深い助言をしたと愚かものが称えられ、誠実だったとおべっか使いが称えられ、ローマ的高潔さの持ち主だと売国奴が称えられ、敬虔だと無神論者が称えられ、純潔だと獣姦者が称えられ、正直だと密告者が訴えられる」(同p.299)と語る。国王が次々と変わり、それによって高官や政策も変化する、国内外で反乱や戦争が頻発する、そのような時代にはガリバーが発言したことが実際に起こっていたと判断できる。さらにガリバーは、昔ながらの自作農を族長に呼び出してもらい、彼らを見て「飾り気のない態度、質素な衣食、公明正大な取引、自由を愛する精神、祖国愛あふれる勇敢な行動により、かつては名高かった人びとだ。…この自作農たちが持って生まれた汚れなき美徳も、自らの一票を金に換え、選挙運動に奔走し、宮廷でさまざまな悪徳や腐敗に染まった孫たちの手により、目先の金のために踏みにじられてしまうのだ。それを思うと、とうてい冷静ではいられなかった」(同p.304)と話す。当時イングランドでは既に選挙が行われていた。昔生きた人びとと今生きている人びとを比べ、今の人びとの振る舞いに心を大きく揺さぶられているスウィフトの姿を感じる。

イングランドが当時進めていた植民地政策への言及とみられる箇所もある。馬の国フウイヌタムから帰国したガリバーは、自身が発見した土地がイングランドの植民地とされることを危惧し、航海記録をすぐに国務大臣に提出しなかった、とある。そして続けて入植者の植民地での振る舞いを明確に描写し、「ひとつ断っておくが、こんなことを書いたからといって、わたしはけっして英国を非難するつもりはない。植民地経営の知識、配慮、正義において、英国は全世界の手本となるべき存在なのだから。」(同p.449)と自己弁護する。スウィフトは、ガリバーに語らせている植民地支配の実情が政府への誹謗に当たると自覚していたからこそ、ガリバーに弁明させているのである。よって、スウィフトが当時のイングランドの植民地支配を快く思っていなかったと判断できる。

ではスウィフトは、どのような国家を理想としたのだろうか。スウィフトが考えていた政府は、王、貴族、庶民の3形態から成る政府である。この3つの権力の均衡が保たれている状態が理想という。このことは、スウィフトが1701年に発表した、古代ギリシャやローマにおける統治体制や抗争を分析し、政府のあり方を提言した文書、「アテネとローマにおける貴族・平民間の不和抗争およびそれがこれら両国に及ぼした影響について」内の、「要するに、すべての自由な国家で回避すべき悪は圧政、換言すれば一人もしくは多数者が揮う無制限な権力…である。」(スウィフト,1701,中野、海保訳,1989, p.35)という記述からうかがえる。「ガリバー旅行記」内でも、理想国家について言及していると判断できる箇所がある。例えばブロブディンナグ国王についての、「君主であれ、大臣であれ、密室政治や小手先の技巧、権謀術数のたぐいは徹底的に嫌悪し、唾棄すべきであると国王は信じてやまない」(「スウィフト政治宗教論集」p.199)といった記載である。スウィフトは、前述した文書にて、常軌を逸した間違った政策をすすめないための議会として、「普遍的な協調にもとづき、公共の原理に依拠して公共目的のために行動する団体、非常識な熱狂や特定の指導者や煽動家の影響を封じる討論にもとづいて結論を下す会議、その個々の構成員が自分の私見への多数工作を試みるのではなく、公平で冷静な結論であれば自分と正反対の考えも受け入れる度量の大きい会議体にほかならない。」(同p.40)と述べていることから、スウィフトの理想と捉えることが可能だと思う。さらに、ガリバーが称したブロブディンナグ国王の特徴「国民の尊敬を、敬愛を、崇拝を一身に集める人格者、才能と知恵と学識に恵まれているばかりか、めざましい政治の才を兼ねそなえ、神とも崇められるほどの君主」(「ガリバー旅行記」p.198)は、スウィフトが発表した政治文書との比較により、理想の国王像(才能、知恵、学識、政治の才)だということが証明されており、ブロブディンナグ国の軍隊についての記載(貴族や紳士が無給で指揮を取り、都市の商人や地方の農民から構成される軍隊)も、政治文書に書かれている記載と重なるという。

スウィフトは革命や争いの絶えなかった17、18世紀のヨーロッパに生き、人生を通して政治と深く関わり、辛酸を嘗めた。「ガリバー旅行記」には、航海士ガリバーの旅を通して、スウィフトの政治や国家、そしてそれを取り巻く人間への怒り、やるせなさ、嘆き、悲しみが随所に織り込まれている。


参考文献:
ジョナサン・スウィフト 山田蘭訳「ガリバー旅行記」角川文庫 2011
富山太佳夫「『ガリヴァー旅行記』を読む」岩波書店 2000
青山吉信、今井宏編「新版 概説イギリス史―伝統的理解をこえて」有斐閣 1991
ジョナサン・スウィフト 中野好之、海保真夫訳「スウィフト政治・宗教論集」法政大学出版局 1989
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006

2014/12/14

近代ヨーロッパを探る① 黎明期

アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルが書いた本「これからの「正義」の話をしよう」は、数年前ちょっとしたブームになった。テレビでも、サンデル教授のハーバード大学や東京大学の学生に向けた講義のようすが放映され、何が正しいことなのか、これから私たちはどう生きていくのか、などが議論された。これから数回に分けて、1500年ごろから現代までのヨーロッパの歴史、思想を振り返り、なぜ今「正義論」が議論されるのかを考えていきたいと思う。

1500年ごろのヨーロッパはどのような様子だったのだろうか。1500年頃のヨーロッパは、近代ヨーロッパの黎明期と捉えられる。中世、長きにわたって人びとの上にのしかかっていた封建制度やキリスト教絶対視の思想が衰退し、人びとは新たな世界観を獲得し始めた。そしてそれは、市場経済の発達が関係しているといえる。

このころのヨーロッパを捉える1つのキーワードは「ルネサンス」だ。14世紀中ごろから現在のイタリアで始まり、1500年ごろに頂点を迎えていた。ルネサンスは、古代ギリシャ・ローマ時代の学問や世界観の復興を意味する文化運動を意味する。人間の権威の主張や個人の独立と自由、学問や芸術の宗教からの開放、思想や信仰の自由をベースに、さまざまな作品、活動が生まれた。ルネサンスの勃興にはいくつもの要因が絡み合っているが、商業の発展が果たした役割は大きい。そもそもイスラム圏からの文化の流入は、対イスラム勢力の名目で十字軍が派遣されていた中世から起こっており、13世紀ごろにはイタリアを拠点に地中海諸国とさかんに交易が行われていた。イタリア商人はアラビアやビザンツなど西アジアの商人からコショウや香料、宝石などを輸入し、銀や銅、毛織物、武器などを輸出する。調味料などほとんどなかった当時のヨーロッパでは、商人はコショウを高額で売ることができた。金を得た商人たちは力を持つようになる。商売で成功するには、的確な需給予測や決断力、不屈の精神などが要求される。つまり、個人としての能力が要求され、能力ある者が勝者となる。さらに交易を通じて、イスラム圏の技術や知識、人も物品とともに流入してきていた。ルネサンスは、このような状況のもと、イタリアの新興商人に支援、保護された学者や芸術家などの少数のエリートたちの間で起こるのである。美術や自然科学、工学に長けたレオナルド・ダ・ヴィンチ、地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノ、小国分立状態のイタリアで君主はどうあるべきか、いかに人びとを統治すべきかを説いたマキャベリなどがこの時期の代表者だ。

続いてのキーワードは「大航海時代」である。この時代、ヨーロッパとアジア、アメリカ大陸、アフリカ大陸をつなぐ海路が開拓された。このころの主役はスペインやポルトガルで、当時高値で売れた香辛料を手に入れるために、また領土を拡大するために、王からの命を受けた航海士たちは次々と航海に出た。そしてアメリカ大陸やアフリカ大陸を植民地化していった。大航海時代を可能にしたのは、天文学や地理学の発達と、実用化された羅針盤、造船術の進歩だ。ヨーロッパでは冶金産業が発達していたことから、火薬を使った武器を備えた大型の丈夫な船を作ることができたのである。航海士たちは植民地から、金や銀、作物を持ち帰った。持ち帰った銀はヨーロッパで一波乱を巻き起こす。銀の供給が増えたことで貨幣がたくさん作られるようになり、インフレが起きたのである。貨幣は価値を失い、人びとの購買力は低下した。儲けられる者と儲けられない者が現れた。

さらにこのころのヨーロッパでは封建制度が衰退していく。封建制度とは、中世ヨーロッパで長く、広く成立していた社会システムだ。王―領主―家臣・農民の間の主従関係を基盤とし、上位者が下位者を支配する。下位者は上位者に仕えて働くことで土地や生活が補償される。教会は、王や領主から土地や財産の寄進を受けており、封建制度擁護の立場をとっていた。しかし、この封建制度は崩壊に向けて歩み始める。その背景は、農業の発展と貨幣経済の浸透だ。農地を3つの期間で区分して使用する三圃制や金属農具の普及などで12世紀ごろから農業生産率が向上する。農作物がたくさん取れると余った分を売ろう、ということになる。市場がにぎわい、貨幣経済が発展し、農民は豊かになる。そしてそこに都市ができ、農産物だけではなく物を製造して売ろうとする人間も現れる。交通網が整備され、都市と都市は交流をもつようになり、市場経済・貨幣経済はどんどん広がっていく。農民たちがこうして力をつける一方、農民たちを直接支配していたその土地の領主(中間層)は力を弱めていった。それは王(上位層)の力が強まったからである。王たちは火器を武器を用いて、強大な軍隊を作った。中世時のような鎧や槍、盾ではもはや太刀打ちできない。こうして中央集権国家が誕生し、領主―家臣・農民の個人的な支配関係は、王―国民の図式に変化し、封建制度は徐々に衰退していった。そして国民国家の成立へとつながっていく。

そして1517年には宗教改革が起こった。ドイツの神学者マルティン・ルターは、ローマ教皇の販売した免罪符に異議を唱え「95カ条の論題」を発表する。この、既存の教会(カトリック教会)に反発するプロテスタントの動きはヨーロッパ各地に飛び火していくが、それに一役買ったのは印刷技術である。このころ誕生した活版印刷はルターの思想や、聖書、キリスト教のさまざまな解釈を普及させた。

これらを踏まえてまとめると、経済システムの変化とともに社会システムが変化し、人間が個としての存在を確立し、社会にその存在を表し始めたのが1500年ごろのヨーロッパといえる。そして市場経済の発達、農業生産率の向上、技術の進歩を背景に人びとの生活は合理的になり、合理的精神が宿り始めた。神中心の階級にしばられた世界観は、人間の個としての自覚、現世的な世界観へとシフトし始め、近代ヨーロッパの土台ができ始めたのである。


参考文献
会田雄次>「ルネサンス」講談社現代新書 1973
ウィリアム・H・マクニール「世界史 下」中公文庫 2008
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史 〈5〉東アジアと中世ヨーロッパ」創元社 2003
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006

2014/11/26

カントからの励まし

哲学者カントが書いた短い論文「啓蒙とは何か」には、啓蒙の定義と個人・公衆への啓蒙のすすめ、理性(考える力)をいかに使い、社会を構築していくか、が書かれている。カントの生きた時代は、啓蒙思想が世の中に普及してきた時代である。中世以来ヨーロッパで勢力を伸ばしていたキリスト教は、教会の分裂や腐敗、さらにはルネッサンスの波を受けて、権威が薄れてきていた。そのような中、時代を切り開く道具として、人間の理性は注目を浴びた。そして理性を用いることで人間はよりよい生活、幸福を得ることができるという思想が広く信じられた。カントは人間の理性を信じた。そして理性は他人によって脅かされてはならず、理性によって考えたことが公の場で議論されるのをよしとした。とても印象に残った冒頭部分を引用し、「考えること」について考えてみる。

――啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

そもそも考えることというのは、人間に与えられた特権のようなものである。その昔パスカルが「人間は考える葦である」と言ったように、人間は考えるからこそ他の生物よりも強く、優位に立ち、自由であることができるのだ。しかし多くの人間はその特権をフル活用しない。大多数の人は特権を活用している少数の人間の後を追うのである。その理由をカントは、人間の怠慢と臆病としている。怠慢とはつまり、考えるより考えないほうが気楽だから考えない、ということだ。臆病とは、考えることによって躓いた人、失敗した人を見て、保身のために考えないという選択をすることだ。カントにとって、考えることをしない人たちは理性を持ち合わせていない人ではない。「理性を使わない人」である。理性はどんな人間にも与えられていて、使う/使わないはその人の理性によって決定される。そういう意味で考えないことへの責任は、理由は何であれ他の誰にでもなく自己に帰する。そしてカントは、勇気を持って考え始めよと訴える。

この論文は、現代人が読んでも全く古さを感じさせない。理性を使わない人は、現代においても決して少なくないと思う。昔よりも多くの情報が存在し、手に入れやすくなったため、考えるための素材は増えた。しかし考えることではなく、調べることや手を抜くことにエネルギーを使いがちだ。ではなぜ考えないのか。カントはその理由として論文の中で怠惰と臆病を挙げている。これらは現代でもそのまま当てはまると思う。考えることは多くの人にとって面倒なことである。考え続ければ答えが出ると分かっているものであれば、考えようという気も起こるかもしれないが、考え続けても答えが出るかどうかわからないものを考えるのには、相当根気がいる。いずれにしても時間、集中力、体力、知力、忍耐力の力を使うため、多くのエネルギーを消費して疲れる。また、考えたがゆえに非難されたり、面倒なことに巻き込まれたり、ということはよく起こる。友人が言ったことに納得していれば喧嘩になることもなかった、とか、上司にたてつかなければ左遷されることもなかった、とかはよく聞く話だ。さらに必要性も考えない理由の1つに挙げられる。考えることは疲れるし、考えて失敗しても困る。これらのマイナス面を念頭においたうえでも、考えることは必要なのか。現代は、それほど考えなくても生きることに支障はないし、それなりの満足を得ることができる時代だ。物や情報はすぐ手に入る。選り好みしなければ仕事もある程度は見つかり、お金を稼ぐことができる。戦争のような命を脅かすようなものもない。となると、特に意識して何かを考える必要はないのかもしれない。

しかし啓蒙は、つまり自身の考える力を使い始めることは、希望も含んでいる。考えても何も変わらない、望ましい状態になるとは限らない、といった反論もあろうが、結局のところ、考えることなしでは何も始まらないのである。考えることは、待ち受ける未来を自ら作っていくきっかけとなる。いわば、未来の社会や自分を構築するための出発点である。そして、ここを自覚することが最も重要だと思うのだが、考える力は既に与えられているのである。考える力がない、というのは正しい認識ではない。必要なのは、未成年状態から抜け出すという勇気を伴った決意と、希望を信じ続けることである。

2014/11/20

スター・ウォーズ鑑賞録

先週、映画「スター・ウォーズ」の全エピソードをイッキ見した。SFものはどうも苦手で、これまで見ずに過ごして来たのだが、スター・ウォーズ大好きの友人たちからの絶賛の声を聞いて観てみようと思った。観始めたらすっかりはまり、スター・ウォーズに対して持っていた先入観が打ち砕かれ、私もファンになった。ストーリーの中で描かれている人間たちにすっかり共感した。

スター・ウォーズは、普遍的な人間の感情や出来事を描いている。観る前は、スター・ウォーズはその名の通り、宇宙で起きる戦争の話かと思っていた。確かに戦いのシーンはたくさんあるが、それよりも人間ドラマ的な要素が強い。地球上で成り立っている人間社会が宇宙でもそっくり成り立っている。国ができて権力争いが行われ、登場人物たちは主義を主張して戦い、葛藤し、恋愛し、成長していく。国・地域関係なく、規模の程度こそあれ、人間誰もが日常的に経験していることである。
さらに、スター・ウォーズを通して描かれるのは、ライトサイド(ジェダイ側)とダークサイド(ダース○○側)の戦いである。愛・助け合い・自由・思いやり・信頼・正義などと結びつくのがライトサイドで、恐怖・怒り・憎しみ・疑惑などと結びつくのがダークサイドだ。ライトサイドとダークサイドはフォースから生まれ出る。これはそっくりそのまま1人の人間の感情や思考、行動に投影することができると思う。1人の人間の中には、明るい部分と暗い部分が共存している。愛にあふれた行動をすることもあれば、怒りや嫉妬に駆られて行動することもある。相手をすっかり信頼していることもあれば、不信に満ちていることもある。気分によって、状況によって、経験によって人間の感情や思考、行動は常に変わる。明るい部分と暗い部分、どちらに多くエネルギーが振り分けられるかは流動的で、明るい部分が暗い部分をより上回ることも、暗い部分が明るい部分をより上回ることも簡単に起こりうる。ジェダイの騎士からダース・ベイダーへと転向したアナキン・スカイウォーカーは、自己内のライトサイドとダークサイドに大きく揺さぶられた人間として描かれている。

また、スター・ウォーズは希望が描かれているストーリーでもある。激しい戦いが宇宙で起こるが、最終的には愛や正義と結びついたライトサイドが勝利し、恐怖や怒りと結びついたダークサイドは滅びる。そして、たとえダークサイドに囚われても、改心してそこから抜け出し、ライトサイドを強くすることができる。人間への信頼とそこから生じる希望が描かれていると思う。


P.S. その他印象に残っていること 
・C-3POのキャラクター設定。あのすっとぼけた感、空気読んでいない感が好き。
・エピソード4~6に出てくる、人間以外の生き物たち。怖さがなく、可愛く見えてしまう。
・エピソード3でアナキンがダースベーダーの弟子なり、活動し始めたときの表情。ヘイデン・クリステンセンのきれいな顔に凄みがきいていていっそう美しくなっていた。

2014/11/07

抽象化の技術

人と話をしたり本を読んだりしていると、知的な意味で「この人すごい」と思う瞬間がある。なぜそう感じるのか、それらの人たちの発言を振り返ってみると、1つの特徴が浮かんできた。抽象化の技術に長けているのだ。

ここで言う抽象化の技術とは、現象の要点を取り出し、その要点を別の表現を用いて普遍的な次元・高次元に適応させた形で処理することである。例えば、世界情勢や社会問題に関するニュースを見たとする。まずはそのニュースの内容を把握する。そしてそのニュースの主人公たち(国や団体、個人など)の思想や置かれている環境をふまえつつ構図を読み取り、そのニュースが意味していることを解く。もう1つ例を挙げると、例えば、誰かの悩み相談を受けたとする。まずは悩みを把握し、その悩みに出てくる人物や文脈などから、悩みを生み出している根幹部分を見つけ出す。1を聞いて10を知る、そんな感じだ。

現象を抽象化すると、それまで複雑極まりなく見えていたものが理解しやすくなる。さらに、さまざまな現象から抽象化した複数の概念は、互いに比べたり、組み立てたりできる。そうすることで、問題解決がしやすくなったり、他の現象を抽象化するときに適用できたりもする。

どうしてそんなことができるのか、すごいと感じた人に以前聞いてみたことがある。その人の中では全く自然になされていることなので特別なことはないという。ただ、いつも考えている、とのこと。起こったことについて、こういう場合はどうなるのか、をいろいろなパターンでシミュレーションしているらしい。そこには前提となる知識も必要だが、知識量というよりも、その知識をつないで何かを構想するほうに重きが置かれている。

理屈は分かった。が、修練である。

2014/11/04

見る+解釈する=知覚する

人は目に入ったそのままのものを知覚していない。目に入ったものになんらかの解釈が加わったものを知覚している。解釈は脳が加えているが、無意識下で行われるため、もちろん私たちに自覚はない。このことを示すよい例が錯視現象だ。錯視とは、目で見たものが実際とは違うものとして知覚されることである。だまし絵を見ると本当は絵なのに、絵に描かれているものがあたかもそこに存在するかのように感じる。だまし絵は、人間が何かを見るときに起こる、錯視の現象を逆手にとった作品だ。

知覚にはいろいろな特性がある。例えば奥行きの知覚。人は、生理的なメカニズムと経験的なメカニズムが組み合わさった状態で奥行きを知覚する。生理的なメカニズムとは、遠くを見る時と近くを見る時で水晶体の厚さを調節したり、右目と左目のそれぞれの網膜に映る像の差異を利用することなどだ。経験的なメカニズムとは、陰影や、ものの大きさ、もの同士の重なりなどを利用して奥行きを知覚することだ。トリックアートをはじめ多くの絵画は、3次元の空間を2次元上にリアルに表現するためにこれらの技法が活用されている。

20世紀前半にドイツのゲシュタルト心理学派が研究していた、「群化」とよばれる現象も知覚の特性の1つである。群化とは、まとまりを見出し知覚することだ。まとまりが作られるには条件がある。例えば近接の要因。さら地に全く同じプレハブが複数建っているところを想像してみる。3軒は南、5軒は北、4軒は西にあるとしたとき、南、北、西でプレハブがまとまりとして想像できるはずだ。つまり、物理的に近いものがまとまりとして知覚されるということである。群化の別の例は、類同の要因だ。今度はさら地に、赤、青、黄色のいずれかの色の屋根をもつ、同じ形、大きさのプレハブが散在していると想像してみる。私たちの中に屋根の色でまとまりが作られる。似ている性質のものは、まとまりとして知覚されやすい。

また、運動しているものを見たときに現れる知覚の特性もある。例えば「運動残効」。一定方向に動いているものをしばらく見ていると、動きが止まった時にそれまでの動きとは逆の運動が現れる現象である(デモはこちら→http://youtu.be/JLJ6bMSDlNE)。パラパラマンガも「仮現運動」とよばれる知覚の特性を利用している。適当な刺激強度の静止画像を、適当な時間間隔、空間間隔で連続提示すると、動画を見ているような感覚になる。

では、こうした錯視現象が起こるのはなぜだろう。脳の仕業であることは明らかだが、詳細なメカニズムはまだ分かっていないと思われる。視覚情報処理メカニズムを簡単に説明すると、眼球の瞳孔、水晶体を通じて入った視覚情報は網膜に投射され、視神経を通じて脳の後頭葉に送られる。後頭葉には、視覚情報処理に特化した視覚野が複数存在し、そこで処理される。さらに、その視覚情報は頭頂葉や側頭葉に送られ、後続する行動へと続いていく、というプロセスをたどる。また、脳内の情報処理は電気的シグナルと化学的シグナルである。眼球に投射された像は電気的シグナルに変換されて脳に送られるが、脳内でも複数の細胞、神経物質などの脳内環境の影響を受けて最終的に意識にのぼってくる(知覚される)。「見る」から「知覚する」までのプロセスは複雑だ。
また進化という視点から見れば、現在でも普遍的に見られる錯視の現象は、生存するために益となった特性だともいえる。ニワトリやハトなどの鳥類にもヒトと同じ、そして異なる錯視現象が見られるというデータもある。となると錯視の歴史は古いとも考えられる。

最後に、高尾山トリックアート美術館(http://www.trickart.jp/about.html)で見つけたお気に入りの絵を2つ。
床に落ちていた1000円札
トイレで遭遇したりんご売りの魔女さん


錯視をもっと楽しみたい方に。
北岡明佳の錯視のページ http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/