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2015/10/04

記憶の失敗を考える

※このテキストは、大学の「認知心理学」の講義(2015年度前期)に最終レポートとして提出したものをリライトしたものである。

「ちゃんと覚えたはずなのに思い出せない」「相手に話したと思っていたのに実は話していなかった」など、記憶のあいまいさが露呈する出来事は日常生活でよく起こる。先日映画を見たときもそのような出来事が起こった。映画「ブレードランナー」を見ていたのだが、この映画には折り紙で折られた動物が登場する。登場人物の1人が訪れた場所で折り紙を折り、作ったものを置いていくのである。私は映画を見終わったあと、前にその映画を見たことがある友人と、折り紙の動物について話をした。映画のラストシーンで登場した折り紙の動物は何だったか。私は、それは確か鶴じゃなかったかな…と思った。しかし友人は、鶴じゃなかったはずと言いつつ思い出せない様子。実際にラストシーンをもう一度見てみると、四足で額に角の生えた動物、ユニコーンだった。私たちはラストシーンで折り紙の動物が登場したことを認識しており、しかも動物は画面に数秒間映っていたから、覚えるには十分な時間だったはずである。さらに、その動物は明らかにユニコーンだと分かる形態をしていた。それなのに私たちは2人とも正確に記憶していなかった。記憶の過程で何らかの失敗が起こったのである。そこで、これまで認知心理学で提唱されてきた理論を元に、記憶の失敗について考えていきたい。


記憶の2つの考え方
まず、記憶の失敗を考えるうえで指針となる考え方を2つおさえておく。1つは記憶の3つの段階である。記憶とは、刺激を取り入れて記憶痕跡に変換、貯蔵し、その記憶痕跡から情報を取り出す一連の過程を指す。それぞれの段階は、符号化、貯蔵、検索と呼ばれている。記憶過程の3つの段階に沿って上記の出来事を分解すると、折り紙の動物が登場するラストシーンを見て記憶するのが符号化の段階、見終わったあとに折り紙の動物が何だったかを話すまで記憶を保持していたのが貯蔵の段階、記憶をたどって情報を取り出し、何の動物だったかについて話すのが検索の段階といえる。
記憶についての基本的な考え方のもう1つは、AtkinsonとShiffrinが提唱した記憶の三重貯蔵庫モデルである。どのくらいの時間記憶を保持しておくことができるかという点から記憶を分類したもので、1秒以内のごく短い時間保持する感覚記憶、数秒間記憶を保持する短期記憶、数分から数年にわたっての長い時間記憶を保持する長期記憶の3つに分けられる。感覚記憶は、環境から感覚器官を通じて取り入れたすべての刺激を貯蔵する場所と考えられている。一時的に保持された感覚記憶のうち、注意が向けられた情報のみ短期記憶に移行する。つまり、意識が向いている情報が短期記憶に貯蔵されるということである。さらに、短期記憶でリハーサルされた記憶や、何らかの意味を持たせる、視覚的表象と対応させるなどして精緻化された記憶は、長期記憶へと移行する。長期記憶の容量はいくらでも増やすことが可能である。記憶の三重貯蔵庫モデルを使って上記の出来事を解釈すると、まず感覚記憶においては、見た映画のラストシーンの情報がすべて符号化、保持されている。そして保持された感覚記憶のうち、注意を向けていた情報のみが短期記憶へと送られ、そこで符号化され保持される。そして保持された短期記憶のうち、特に印象的だった情報や何度も思い返したりした情報、思考対象となった情報が長期記憶へと送られ、符号化、保持される。短期記憶、長期記憶へと送られる情報は、登場した人物やもの、背景、流れていた音楽など、映画のラストシーンに関するあらゆるものが考えられる。そして、何の動物だったかの話をしているとき、長期記憶に保持されている情報が検索されるのである。
私も友人も、何の動物だったかの正確な記憶を持ちあわせていなかったわけだが、これは短期記憶や長期記憶において、符号化、保持、検索のどこかの段階で何らかの失敗が起こったからだと考えられる。言い換えれば、感覚記憶から短期記憶、長期記憶へと移行し、情報が言語化されて取り出される過程で、そもそも正確に符号化されていなかった、符号化された記憶を忘却してしまった、貯蔵されていた記憶を適切に取り出すことができなかったなどの失敗が起こっていたということである。これらについて詳しく見ていこうと思う。


符号化段階における失敗
まず短期記憶における符号化の段階では、そもそもその情報に注意が向けられていたかどうかが重要である。注意を誤ると符号化される情報が異なり、思い出したい記憶を思い出せないということになるからである。注意の機能的特徴は選択性と有限性である。私たちは常にたくさんの情報の中から認知する情報を取捨選択し、限られた注意資源を、認知した情報に対して必要に応じて分配しながら生きている。どのような情報を選択し、どのように注意資源を分配するかについては個々人によって異なるものの、私たちは環境からの刺激に対して能動的に関わっている。このことは、Baddeleyによってワーキングメモリという概念を使ったモデルでも示されている。ワーキングメモリとは短期記憶における情報処理の側面を強調するニュアンスが含まれた構成概念である。ワーキングメモリは、言語情報を保持したり操作したりする音韻ループと、視空間情報を保持したり操作したりする視空間スケッチパッド、さらに音韻ループと視空間スケッチパッドでの情報処理を互いに関連付けるエピソードバッファー、そしてこれらの下位機構の情報処理の制御に関わる中央実行系から成るとしている。これらのことから、適切な情報に対して適切な処理資源の配分、および適切な貯蔵や操作がなされないとき、記憶の失敗が起こりやすくなるといえる。
符号化における失敗としてもう1つ考えられるのは、符号化する際にどのような解釈が加えられたかということである。これにはスキーマが関わっている。スキーマとは、事物を認知したり理解したりするうえでの枠組みのようなもので、これまでに経験してきた出来事や事物の一般的な展開や状態に関する知識などから構成される。外部からの情報を認知し記憶する際、このスキーマから逃れることは不可能である。出来事がスキーマに基づいて解釈されるとき、事実とかけ離れた内容で符号化されてしまうと記憶の失敗が起こることになる。
スキーマは符号化の段階だけでなく、貯蔵、検索の段階でも記憶に影響をおよぼすことが知られている。いくつかの実験で、経験した出来事がスキーマと一致しているか、逸脱しているかによって記憶が影響を受けることが明らかになっている。AlbaとHasherは、選択(事実に含まれるあらゆる情報の中からスキーマに沿った情報を選び記憶痕跡を形成する)、抽象化(経験した出来事の詳細が失われ、一般的なスキーマに含まれている情報が保持される)、解釈(スキーマに基づいて事実が解釈されることで、不明瞭な部分の明確化、欠落部分の補完、複雑な部分の簡略化が起こる)、統合化(事実とスキーマ、解釈が統合され、それぞれの区別がつきにくくなる)、検索(スキーマに沿った情報が検索されやすくなる)の5つをスキーマの記憶への影響として挙げている。
感情も符号化の段階で記憶過程に影響を及ぼすことが知られている。Christiansonが提唱した、注意集中効果と呼ばれるものがその1つで、感情を喚起するような衝撃的な出来事、重大な出来事を目撃したとき、感情を喚起させた中心情報の記憶は促進されるが、それ以外の周辺情報の記憶は抑制されるというものだ。これは注意資源が感情を喚起させた中心情報により配分されることによって生じるとされている。つまり、記憶の失敗が起こった場合、その記憶へと変換される前の元の刺激は、強い感情を喚起するものではなかった可能性がある。


貯蔵段階における失敗
貯蔵段階では忘却による記憶の失敗が主である。まず短期記憶においては貯蔵できる記憶の容量は限られている。記憶範囲はチャンク数で7±2個が短期記憶の限度とされている。そして、短期記憶に貯蔵された情報は後続処理(リハーサル)が行われなければ忘却してしまう。忘却は、時間の経過とともに記憶痕跡が消失すること、短期記憶に新しく入ってくる情報によって先に貯蔵されていた情報が置き換わることによって起こる。一方、長期記憶においては貯蔵できる記憶の容量に制限がない。よって私たちが忘却とみなしているほとんどは、適切な情報を検索し損なうことによるものだと考えられている。


検索段階における失敗
検索段階における失敗は、主に長期記憶に貯蔵されている記憶に対して起こる。失敗の要因は、適切な検索の手がかりが見つけられないことと、思い出そうとする記憶に、検索の際にはたらく前後の記憶や感情、検索手がかりなどの要素が干渉することである。適切な検索の手がかりの有無による検索の影響については、被験者に単語を記憶してもらう実験で、再生テストの際に適切な検索手がかりが与えられたグループは、与えられなかったグループよりも多くの項目を再生したという結果がTulvingの行った実験によって示されている。このことから、記憶実験において再生検査よりも再認検査のほうが良い成績になりやすいのは、被験者に検索の手がかりが与えられるからだといえる。
検索の手がかりは、検索しようとする記憶と関わりのある事物だけではない。検索しようとする記憶が符号化されたときの状況や状態などの文脈も手がかりとなることが実験で明らかになっている。GoddenとBaddeleyは、単語の記憶実験で被験者を2つのグループに分け、片方には海岸で、もう片方には海中で単語学習をさせた。その後それぞれのグループをさらに2つの小グループに分け、片方には海岸で、もう片方には海中で再生検査をした結果、単語学習をした場所と再生検査をした場所が一致していたグループは、そうでないグループよりも多く再生できたという。また、Eichは、マリファナの影響下にある被験者とない被験者に単語を学習させた後、それぞれの被験者にマリファナの影響下にある状態、ない状態で学習した単語の再生検査を実施した。この実験でも、学習時と再生時に同様の状態にあるほうが同様の状態にないほうよりも単語の再生量が多くなったという。
検索段階の干渉にはいくつかの種類がある。1つは、記憶間で干渉が起こるパターンである。検索しようとする記憶に対して、その記憶よりも後に符号化された記憶が干渉することを逆向干渉、その記憶よりも前に符号化された記憶が干渉することを順向干渉という。先の出来事を例に挙げれば、ラストシーンより後の刺激(例えばエンドクレジット、友人と感想を言い合ったことなど)によってラストシーンの記憶が干渉されていたなら逆向干渉、ラストシーンの前の刺激(例えば折り紙の動物を残していった人物が、それ以前のシーンで折っていたもの、ラストシーンに至るまでのストーリー展開など)によって干渉がおこっていたなら順向干渉ということになる。
感情も記憶の検索に干渉する。Holmesによれば、不安や恐怖などの否定的な感情によって検索しようとすることとは無関係な考えが喚起され、その考えが検索に干渉し、記憶の失敗が起こるのである。

以上、記憶過程において何が記憶の失敗をもたらしうるかについて見てきた。記憶の失敗は、記憶の符号化、貯蔵、検索の段階で、注意の選択性と有限性、スキーマに基づいた解釈、不十分なリハーサルによる忘却、適切な検索手がかりの欠如、他の記憶や感情による干渉によって生じる。
これらをふまえて先に述べた出来事についてもう一度考えてみたい。私と友人は、記憶のどの段階でどんな失敗を犯したのだろうか。私はこの問いに対して明確な答えを出すことができない。なぜなら私が今はっきり自覚しているのは、折り紙の動物が何だったか2人とも覚えていなかったという事実だけだからだ。その時のことをある程度覚えているにしても、記憶の不安定さを知った今となっては、内容が不確かのように感じる。しかもこの出来事は日常の一コマであり、記憶に関する実験のような統制が全く行われていない。この状態でどんな失敗かを明確にするのは不可能と思われる。
しかしあえて私がどんな失敗を犯したのか推測するならば、鶴だと記憶していた私は、符号化の段階で失敗した可能性が高い。折り鶴は、日本人のほとんどが最初に思いつくだろう折り紙で折られる動物である。私がラストシーンで折り紙の動物を見たとき、その動物にあまり注意が向いていなかったためスキーマによって誤った解釈を行い、そのまま保持された、もしくは見た瞬間にスキーマによる解釈が働いてしまったために、折り紙の動物に十分な注意が向かず、誤って符号化、保持されたのかもしれない。感情による干渉という点から考えれば、折り紙の動物は日本の文化になじんでいる私にとっては見慣れたものである。だから折り紙の動物を見たとき、強い感情は特に喚起されず、符号化に失敗したのかもしれない。また、ブレードランナーのストーリーは単純明快ではなく、映画の冒頭から話の展開についていくのに必死だったため、ラストシーンでは利用できる注意資源がほとんどなかったからなのかもしれない。さらには、逆向干渉による記憶の失敗も考えられる。映画を見終わった後、友人と映画のストーリーや印象に残ったシーンなどを話した後、折り紙の動物の話になった。友人との会話の記憶が干渉し、折り紙の動物が正しく検索されるのを妨げたのかもしれない。

起きてしまった記憶の失敗を検証することは困難であるが、記憶の不安定さや、どのようにして記憶の失敗が起こるのかを理解しておくことは、日々生活していくうえで役に立つと感じている。


参考資料
中島義明ら編「心理学辞典」 渡部保夫監修「目撃証言の研究―法と心理学の架け橋をもとめて」 福田由紀編「心理学要論―こころの世界を探る」 Susan Nolen-Hoeksema, Barbara L. Fredrickson, Geoff R. Loftus, Willem A. Wagenaar,内田一成監訳「ヒルガードの心理学」

2015/09/28

読書記 福島智「ぼくの命は言葉とともにある」

ここ最近この本が平積みされているのを目にしていた。表紙のインパクトが強く、印象に残ったのを憶えている。しかし私はこの本を手に取らなかった。というのも、私はこの手の本が好きではないからだ。本のタイトルや表紙から、中に書かれているのはきっと美談であること、感動間違いなしであることを彷彿とさせる本、そういう本が私は苦手である。本に限らず映画でもそういうのは避ける。友人に言わせればそれは、そういう話を読んだり見たりすると、自分の汚い部分や醜い部分を見ざるを得なくなるからだとのこと。…そうかもしれない。だが一昨日、ちょっとしたいきさつからこの本を読むことになった。一気読みできるほどの軽い文章ではなく読むのに時間がかかった。そして、他者とのコミュニケーションや言葉について考えさせられた。

「自己の存在を実感するのに他者の存在が必要」。福島氏が、実感をともなって気づいたことの1つである。他者の存在がなければ自己の存在を実感できないなんてこと、今まで私にあっただろうか。私にとって自己の存在はむしろ、1人のときに実感することが多い。例えばご飯を食べているとき、どこかへ出かけようとしているとき、眠いなと感じているとき、何か書き物をしているとき、これから私はどう生きていこうと悶々としているときなど、自分が1人のときに何かを感じたり、考えたり、行動したりするとき、自己の存在を実感する。他者といるときにも自己の存在を実感することはある。その場合の多くは、他者と意見や好みが食い違ってけんかになったり、誰かと一緒にいるのに、その空気に入ることができずぽつんと取り残されたような感覚を感じるときなど、他者と自分との間に距離を感じるときである。これもある意味、自分が1人のときなのかもしれない。他者との関係から離されたときに感じているからだ。この違いはどこにあるのかを考えると、福島氏と私の置かれている状況が大きく異なるということが理由の1つだろう。目や耳を不自由なく使えている私には、外部から何らかの刺激を受けてそれに反応する生活がデフォルトである。だからそれから少し距離をおいたときに初めて自己を実感することとなる。しかしそれ以上に、「人は1人で生きているわけではない」という当たり前すぎるくらいの事実が、日常生活で私の意識からすっぽり抜けてしまっていることも理由の1つだろう。私はこの事実を誰かに言われたときにはっと思い出す。お金を稼いで生計を立て、一通り家事をこなし、したいことをする生活は、私は1人でもいろいろなことができる、という錯覚を起こさせる。でも実際は、1人でもいろいろなことができるなんてことはないのだ。お金を稼ぐことは、誰かが私の能力を買ってくれなければ成り立たない。家事だって料理1つとっても誰かが野菜や肉を生産し、調理道具を作り、店でそれらを販売してくれなければ成り立たない。したいことをすることだって、誰かがそれをするのに必要なものを用意しているから成り立つのである。自分のしていることやその行為に必要なものの奥行きを見ようとすればするほど、誰かとのつながりの中で生きていることを感じざるを得ない。常に何らかの形で他者とコミュニケーションしながら生きていると感じざるを得ない。そのことを実感を持っていつも意識のどこかにとどめておくことができたらと思う。

彼の文章を読んでいると、1つ1つ彼の内から丁寧に紡ぎ出された言葉だということが伝わってくる。1つ1つに彼の実感が込もっており、深く温かい。そして、感じたことや考えたことを誠実に表現していると感じる。私も言葉をこういうふうに使いたい。私は誰かと話をしているとき、自分のことを表現するのに難しさを感じたり嫌になるときがある。伝えるのに適した言葉が見つからなくて困ることがある。はっきりと言いづらくてお茶を濁すような言い方をしたり、だんまりしてしまうこともある。このままじゃいかん、たとえ時間がかかっても自分の内から言葉を紡いでいきたい。この本を読んで強く思った。


この本で引用されていた、吉野弘氏の詩「生命は」に心がギュッとしめつけられた。このブログにも引用しておこうと思う。

「生命は」 吉野弘

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

2015/09/22

本レビュー ミック・クーパー「エビデンスにもとづくカウンセリング効果の研究 クライアントにとって何が最も役に立つのか」

心理臨床家のミック・クーパーによる著書、「エビデンスにもとづくカウンセリング効果の研究―クライアントにとって何が最も役に立つのか」を読んだ。現在心理臨床の領域では、サイコセラピーがいくつも存在し、カウンセリングもセラピストにごとにいろいろなやり方でなされている。それらは実際、精神疾患を抱えたクライアントの治療に役に立っているのか、役に立っているならば、それは何の/誰の何に起因するのか。これまでに公にされてきたセラピー・カウンセリング関連の大量の論文に掲載されているデータをメタ分析することでこれらの問いに答えていこうという本である。

カウンセリング、サイコセラピーはクライアントに対して役に立っているのか?私もこの問いについて考えてみた。私はカウンセリングやセラピーを受けたことがないから、あくまでも自分が何らかの精神疾患を抱えてカウンセリングやセラピーと受けることを想像して考えているにすぎないのだが、自分の話を聞いてくれる人がいて、症状改善へと進むのをサポートしてくれたなら、私は安心感をおぼえいくらか安定するだろう。家族や友人、恋人など、自分との距離が近い人には言いづらいことでも、自分と距離のあるカウンセラーやセラピストには、言いやすいというのもあるかもしれない。しかもカウンセリングやセラピーにお金を支払っているわけだから、なおさらである。しかしここには、私がカウンセリングやセラピーによって自分の症状を改善することを望んでおり、担当のカウンセラーやセラピストとの相性がよい、という前提が横たわっている。もし、私が自分の症状について特に不満がなかったり、症状があることにもあまり気づいていないときはどうだろう。カウンセラーやセラピストの介入は迷惑に感じるだけで、新たな問題を起こすきっかけになるのではないか。カウンセラーやセラピストとの相性が合わない場合も同様であろう。そう考えると、クライアント自身の症状に対する理解と今後どうなりたいかという意思、カウンセラーやセラピストとの人間関係は、カウンセリングやサイコセラピーがクライアントにとって役に立つかどうかの鍵を握っているように思える。また、カウンセリングやサイコセラピーの効果は、クライアントが実際にカウンセリングやサイコセラピーを受けているときにのみ測られるものではないと思う。たとえカウンセリングやサイコセラピーによって精神の安定を得たとしても、その状態がカウンセリングやサイコセラピーを終了したあとも続かなければ、クライアントの役に立ったとは言えないだろう。なぜなら、カウンセラーやセラピストに頼り続けることは、たいてい不可能だからだ。カウンセリングサイコセラピーを受けている間に、自分で自分を立たせ持ち直す力を養っていくことができるのか、それによってもカウンセリングやサイコセラピーの効果が測られなくてはならないだろう。

では、著者はこの本でどのような結論を提示しているのだろうか。カウンセリングやサイコセラピーの効果に関するこれまでの研究は、大きく分けると、カウンセリングやセラピー全般に関わるもの(セラピーでどのくらいのクライアントが良くなるのか、セラピーの費用対効果、セラピー効果の持続性など)と、考えられる特定の要因に焦点をあてたもの(クライアントの属性や特徴、クライアントのセラピーに対する期待、セラピストのパーソナリティ、クライアントに対するセラピストの関わり方、セラピストとクライアントの関係の質、特定のセラピーの技法の効果など)がある。これらの研究をメタ分析した著者によれば、「カウンセリングは有効」だそうである。これは、カウンセリングやセラピーを受けた人は、そうでない人に比べて最終的に苦悩が少なくなっていること、さまざまな心理的苦悩に対して、カウンセリングやサイコセラピーは薬物と同等に効果的であり、長期的に見れは薬物よりも効果的であることを意味している。

先に私が述べた、クライアントの意思やセラピストとの相性、セラピーによる自助効果に関係のありそうな研究もこの本でいくつか紹介されている。これまでの研究で、クライアントのセラピーへの積極的な参加の度合いは結果を予測するうえでの最も重要な決定因の1つであることや、クライアントのセラピーに対する内発的/自律的な動機付けの水準とセラピーの結果とは特に関連が高いとされている。また、クライアントとセラピストの治療同盟(治療同盟:セラピストとクライアントの間に生じる以下の要素の質や強さ:セラピーの目標の合意、セラピーにおける行動やプロセスについての合意、肯定的で情緒的な絆の存在)によって、全セラピー結果における肯定的な変化の約5%が説明できることが示唆されているという。一方、私はとても興味深いと思ったのだが、適正処遇交互作用(ある性質や特徴をもつクライアントは、ある様態のセラピーにおいて、その他のセラピーよりも成果を上げるという考え方、p.73)を裏付ける結果となった研究はあまりないようである。さらに、セラピー後のクライアントの状態については、セラピー終了時に良い成果をあげていたクライアントはセラピー終了後6ヶ月、1年時の再調査時に良い状態にいる傾向にあり、セラピー中少ししか改善しなかったクライアントは再調査時にもあまり改善が見られない、という結果が出ている。

この本を読んでいて新しく知った概念の1つに、「ドードー鳥の判定」というものがあった。これは、「さまざまなセラピーが、効力や実効性においてほぼ同等であるという主張」(p.66)である。一口にセラピーといっても、異なる技法や理論に基づいたさまざまなセラピーがある。複数の研究を俯瞰してみたとき、相対的にはどのセラピーを施しても特定の精神疾患への効果に大差はないというエビデンスがこれまでに多く示されているようだ。この「ドードー鳥の判定」には反対派も存在し、決着はついていない。

2015/09/16

田舎と私と東京と

ここ1年くらい、田舎に帰りたいなと思うようになった。自分の生まれ育った茨城県、実家に帰ってそこで暮らすのもいいかもしれない、そんなことも考える。周りは田んぼだらけ、ちょっとした買い物に行くにも車が必要不可欠、刺激的なものは特にないし、イベントといえば夏のお祭りくらいか、というところだが、そういうのを心地よく感じる私がいる。東京を基盤とする生活を続けて11年半、田舎を愛おしむことなんて今までなかったから、自分の変化に少し驚いている。

そもそも私は、田舎の窮屈さと何もなさが嫌で、また親から離れたくて東京に出てきたクチである。高校を卒業するとき、もうこんなところにいたくないと思って東京の大学を受験し、一人暮らしをしたいと親に言い続けた。親は最初反対したが、そのころの私は今より頑固で我を押し通すきらいがあったから、最終的には親が折れて私を東京に行かせ、経済面でも支えてくれた。私が東京で生活を始めたのは、2004年の春である。

先日友人と話をしていたとき、話の流れで「田舎から東京に出てきてすぐのとき、どんな感じだった?」と聞かれた。私はこれまで多くの人にこの質問を聞かれ、何度も答えたことがある。そのときに決まって思い出すのは、初めて大学に行った日に感じたことである。大学は幹線道路の近くにあり、その日人で溢れかえっていた。私は「人の多さと排気ガスの匂いが不快だった」といつものように答えた。しかし答えたあと、「不快だっただけじゃない。私はそれに圧倒され、恐怖を感じたんだ」と思い至った。自分の中の不安な気持ちや満たされない気持ちはここから来ているのかもしれないと思った。そして今までの自分を振り返り、「東京に圧倒され、恐怖を感じた私」はこれまで、それに負けまいと不自然に力みすぎ、そういう態度が癖になってしまったところがあるのかも、と感じ始めた。東京のみんなについていかなくちゃ…東京で何かを成し遂げなくちゃ…ばかにされたくない…そんなことを心のどこかで感じながら、意地を張ったり、余計な気を回したり、ムダに頑張ったりしていたところがあるかもしれない。自分の弱さや足りなさを埋めるよりも、取り繕うことに執心していたのかもしれないと思った。

最近、親に対する感情も変化している。親から離れたくて東京に出てきたと先に述べたが、あのころの私は親からの心配、干渉、保護がうざったいと思っていた。何かといえば電話してきたり私の家に来たりする親に疲れていた。だから正直帰省もしたいとあまり思わなかった。でも今は、帰省する時間を確保し、親に会いたいと思う。そして帰省したら、親と一緒にするささいなことを大切にしようとする自分がいる。買い物に行ったり、散歩をしたり、家の手伝いをしたり。それは、親が老いていくのを帰る度に感じるようになったことが大きい。体の調子が悪いと訴えてきたり、昔よりも反応が鈍くなっていたり、親が死んだ後私が困らないようにと、家の中を整理し始めたり。顔や髪にも老いが表れている。そんな親を見ていると私は切なくやるせない気持ちになる。時間が止まってほしいと思う。だけど時間は止められない。老いを受け入れていくしかない。だから親といられる時間を大切にしたい。

田舎を愛おしむ気持ちは、フツフツと湧いてきたのか、前からあったけれど隠されていて見えなかったものなのかは定かではない。でも、アラサーになり、学生生活に舞い戻り、時間的にも精神的にも、自分の気持ちを棚卸しする余裕が生まれたから、田舎への愛情を感じれるようになったのだろう。田舎を愛おしく思いながら、私はもう少し東京で生活していくつもりだ。

2015/09/08

もっと知りたいクラシック!

クラシックを聴くのが好きだ。初めて自分からクラシック音楽に手を伸ばしたのは高校生のときだった。岩井俊二監督の「リリイ・シュシュのすべて」の影響でドビュッシーの「アラベスク第1番」(https://youtu.be/mPpdwdOFkRI)にはまり何度もCDを聴いた。数年経ってすっかりドビュッシーから心が離れたころ、ドラマ「のだめカンタービレ」の影響でまたクラシック音楽に近づいた。ドラマで流れていた曲、コミックで紹介されていた曲をネットでたくさん聴いたから、口ずさめるクラシック曲が少しだけ増えた。それからはよくクラシック音楽を聴くようになった。年に何回かコンサートに出かけたり、部屋での作業中にネットラジオのクラシックチャンネル(http://www.accuradio.com/)を聴いたり。年末には、テレ東のジルベスターコンサートとEテレで放送されるベートーヴェンの第九を聞くことがここ数年習慣になっている。

ランダムにいろいろな曲を聴いているから、知っている曲、知っている作曲家の名前は年々増えているけれど、クラシックについて知らないことばかりである。バロック、ロマン派、印象派…曲調がなんか違うのは分かるんだけど、うまく言葉にできないなぁ。ラフマニノフの曲が好きだけど、ラフマニノフってどんな人だったんだろ?対位法って何?などなど、曲を聴くにつれて、曲の解説を読むにつれて?が増えていく。ということで、岡田暁生「西洋音楽史―「クラシック」の黄昏」を読んでみた。

この本、とてもおもしろい。ヨーロッパにおいてどのような経緯でクラシックは生まれ、どのように変化していったのか、とても分かりやすく書いてある。その時代にヨーロッパで起こった出来事と絡めてあり、西洋音楽の変遷を細部にとらわれることなく紹介しているから頭の中でも整理しやすい。出来事は、その出来事が生まれるための土壌が整っていたからこそ生まれることができた、ということを感じれる。例えば、オペラはバロック時代(1600年前後-1750年前後)に誕生した。音楽的には希望や悲しみ、勇気、怒りなどの典型的な情動に対応した、典型的な音楽表現が曲に組み込まれるようになった。時代的には、カトリック圏の王侯貴族たちが豪華絢爛な生活を営んでいたころである。彼らが毎夜のように開く祝祭に音楽は彩りを添えており、そのような環境のもとでオペラは生まれたのである。

音楽の変遷も然りだ。グレゴリオ聖歌のアレンジはその例である。著者によれば、今日でいうところのクラシック音楽は元をたどれば「グレゴリオ聖歌」に行き着く(「怒りの日」は有名なグレゴリオ聖歌の1つ。https://youtu.be/Dlr90NLDp-0)。グレゴリオ聖歌とは、「単旋律によって歌われる、ローマ・カトリック教会の、ラテン語による聖歌」(p.7)だが、この聖歌を人々がアレンジし始め、そのアレンジが人々に受け入れられたことによって様々な音楽が生まれていった。もとの旋律に新しい旋律を加えて歌う、別の言語に翻訳した歌詞を元の旋律に加えて歌う、歌詞を変えてもとの旋律に加えて歌うなどだ。いつしかこのアレンジした旋律や歌詞が主流となり、「楽しむ」という新たな機能が音楽に付加されていくのである。ここから読み取れるのは、音楽に含まれるある要素(例えば、旋律、歌詞、旋律のある一部分など)にアレンジを加えることで新たな音楽が生まれていくということである。このことはグレゴリオ聖歌にとどまらない。先に述べたバロック時代の音楽で感情を表現する行為もそうと言える。時代が下っていくにつれて豊かな感情を豊かな音によって表現するようになっていく。変化していった要素は他にもいろいろある。和音の効果、曲の形式、演奏技法や技巧など、時が移り変わる中でときにそれは精緻化され、時にその性質は消されて反対の性質のものが生み出される。特に、20世紀の前後の音楽家、シュトラウスとマーラー、シェーンベルグとストラヴィンスキーが反対の方向に進んでいくのが興味深い。前の2人はロマン派の名残を引き継ぎ自らの音楽を生み出しだが、後者2人は破壊することで自らの音楽を作っていった。当時の音楽家がそれまでの音楽をどのように感じ、それを踏まえて自分のオリジナルをどう作っていったのか…そんなことに思いを馳せながら曲を聞くのもまた、感慨深いものだ。

2015/09/04

パターン化する人間関係

10年近く付き合いのある友達と、先日ちょっとした揉め事があった。そのとき彼女は自分の結婚式&披露宴を近くに控えていて、それに参加する際の私の服装について指示めいたことをしてきた。私はそれに呆れかえって参加を断り、その後何度も催促されたが結局参加しなかった。揉め事が起きてから数ヶ月が経った今も、私の行動はあれでよかったのかな、というもやもやが少し残っている。

今回の揉め事の直接的な原因は、結婚式に参加する際の服装について彼女からあれこれ指示を受け、それを私が拒否したことによるのだが、実際はこれまでの私たちの関係で起きたあれこれも大いに関係している。詳細を書くことは避けるが、私は以前から彼女の私に対する発言にイライラすることがたびたびあった。その多くは、私をコントロールするような、上からの物言いだ。彼女が実際私に対してコントロールしようとしていたのか、優越感を感じていたのか、はたまた全くそういう意識はなかったのかは定かではない。ただ、私自身はそう感じた、だけである。でも私は気持ちを彼女に打ち明けることはなかった。なぜかと問われれば理由はいくつか挙げられるが、どれもこれも今となっては後付けのような気がしてくる。1つは、私が彼女に対して文句を言うことで彼女が嫌な気分になるだろうと思ったこと、もう1つは、人間関係がこじれるのは面倒であり、こじれた後収拾する自信がなかったこと、さらにもう1つ、長年の付き合いだからまぁいいかと思ったこと、である。しかし、この状態を何年も続けてきたつけが回ってきた。私はこの状態に耐えられなくなって、彼女の人生の思い出である結婚式への参加を拒否したのだ。

これらのことを振り返ってみると、私と彼女の関係にはあるサイクルができていたように感じる。彼女が私に上からの物言いをする→私はイライラしているのにも関わらずそれを受け流す→彼女は私の気持ちを知らないから上からの物言いを繰り返す/エスカレートする、というサイクルである。このサイクルでは、私の事なかれ主義的態度は彼女の私への上からの物言いを助長させるように働くと考えられる。強化学習のようなものだ。私はこのサイクルを意図的に引き起こしたわけではないし、おそらく彼女も同様にそんなつもりはないと思う。ただ、お互いのそれぞれの意図による振る舞いが組み合わさり、結果としてそうなっただけだ。

このような、人間関係のパターンは先日帰郷した時に親の会話にも感じた。両親は、普通に2人で会話していたと思ったらいつのまにか口論になっていることがよくあるのだが、聞いていると大体いつも本質的には同じようなところで口論が生じ、母がしゅんとなって終わる。口論が生じるのは、どちらかが相手の汚点(汚点といってもたいしたことはない。いびきが大きいとかそのくらいの話だ…)をなんかの拍子に指摘するか、相手が自分の思い通りに動かないとき、それにちょっとケチをつけるかのいずれかである。しかしその発端が一旦生じるとあとはエスカレートしていくばかりだ。おそらくどちらも最初から口論するつもりなんてないし、相手が自分の言った何かに対して過剰反応するとも思っていない。だからいつも同じパターンを繰り返すのだろう。

今回私が彼女にした「結婚式に行かない」という行為は、繰り返し続けるサイクルに一石を投じたと考えることができる。受け流すから拒否へと転換したからだ。これから私たちの関係がどうなっていくかは分からない。ただ、私はこのことでけっこうなエネルギーを消費した。慣れないことをしたからか、揉め事を起こしてからしばらくは気が気じゃなかった。未だに後味が悪い。そして火種を大きくする前に手を打っとけばよかったと思った。