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2019/10/27

本レビュー 信田さよ子「タフラブという快刀 「関係」の息苦しさから自由になるために」

久しぶりに信田さよ子さんの本を読んだ。最近,子育てに関する新刊を出されたのだが,それについてアマゾンで見ていたとき,偶然見つけた「タフラブという快刀」。タイトルに惹かれ,むしろこっちの本が気になってしまった。手放す愛・見守る愛としての”タフラブ”を人間関係において実践していくことで,自分も相手もそれぞれが個として,適度な距離感で自分の人生を生きることを提案する。
私は信田さんの本を数冊読んだことがあり,クライアントへのアプローチの仕方や考え方に共感している。「タフラブ」でもアプローチの仕方や考え方は共通。以前,アダルトチルドレン(AC)関連の情報を漁っていたときに出会った本「母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き」は,私にとってはアイオープナーにもなり,ある意味救いにもなり,共依存について興味を持ち,考えるきっかけになったように思う。また,「カウンセラーは何を見ているか」では,臨床心理士の仕事がどんな感じなのかを知るのにお世話になり,信田さんの若い頃の精神病院での経験談には引き込まれた。

信田さんは,少なくとも私が読んだ著書では,いつも人間関係,特に家族関係や恋人・夫婦関係などの親密とされる関係における現実をこれでもかというくらい突きつけてくる。でも,フィクションの世界や世間における耳障りのいい話に慣れている私にはそれくらいがちょうどいい。じゃないと,フィクションの世界や世間における耳障りのいい話=現実におけるデフォルトと勘違いしてしまうから。世間で良いとされる「お互い分かり合える」や「あなたのためを思って」がいかに欺瞞に満ちたものか,女性がいかに,社会からの暗黙の了解によって我慢せざるを得ない状況に陥っているか,子がいかに親の欲望のために使われているか,そんなことを淡々と伝えてくれる。

家族や恋人などは,濃く深い関係になるがゆえ,互いに欲望の押しつけや理解の強要,甘えなどが生じがちだ。そして,家族だから,恋人だからなどの理由で他人には決してしないようなことでも許されたり,どれだけ傷ついてもそれが普通だと受け入れてしまったりする。信田さんは,家族を治外法権の無法地帯と書いているが,確かになと思った。よっぽどのことが起こらない限り,第三者がその関係に立ち入ることはないからだ。しかも,たとえ第三者が立ち入ったとしても,彼ら・彼女らが適切な対応を心得ていない場合,問題を余計にこじらせたりする。なんと悩ましいことか。

信田さんがこじれた関係の解決にすすめるのは,「理解の断念」と「問題の切り分け」である。「理解の断念」については,私とあなたは別の人間であり,別々の人間が分かり合う,理解し合うのは所詮無理な話。それを認め,それを前提に相手とコミュニケーションをとる。タフラブは,相手にわかってもらおう,わからせよう,わかってあげようとはしない愛,理解し合いたい,コミュニケーションをとりたいという自分勝手な欲望や思い込みを手放す愛であるという。「問題の切り分け」は,誰の問題かを明らかにして,それぞれが自分の問題と限界に向き合うことだ。そして,他者の問題は他者に返さなければならない。また,関係がこじれるときの2種類の,相手への一方的な侵入・境界侵犯を想定している。自分を傷つけた人に対して「なぜ相手は自分をこんなに傷つけなければならなかったのか」を考えているうちに,相手の世界に入っていってしまうことと,相手を自分の思い通りにしたいという支配の2つである。どちらも関係に苦しんでいる方が問題の切り分けを行うしかない。苦しんでないほうは,相手が苦しんでいるなんて思っているわけもなく,要求しても無駄だからである。また,日本では自他の区別なく相手の身になって何かをすることに価値が置かれてきた,ということにも触れている。本書には,こじれた関係を解消させていくケーススタディがいくつか紹介されているが,読みながら少し涙してしまった。関係改善のための行動は,本当に勇気がいることだ。葛藤・恐怖・不安の中で一歩を踏み出し,実際に行動した人たちに拍手したいくらいだ。

信田さんは,タフラブには寂しさが伴うという。タフに生きることは寂しさと共存することだと。そして,寂しさを分散させるために,目的別(食事に行くなら…,映画に行くなら…,愚痴を言い合うなら…など)の人間関係を複数用意しておくことを勧めている。タフラブを土台とした関係は寂しい,でも安全な関係は実現できるというわけだ。

個が個として独立を保ちながら,紙の上だけでなく実社会でいかなるときも人権を保証された状態で,自分以外の個とどう共存していくか…課題。