自己紹介

自分の写真
オンラインで英語個別指導します https://yokawayuki.com/service

2015/03/14

映画レビュー 「her 世界でひとつの彼女」

NHKで今年の1月から2月にかけて30年後の未来を予測し紹介する番組「NEXT WORLD ―私たちの未来―」が放送されていた(http://www.nhk.or.jp/nextworld/)。ほぼ完璧な未来予測を提供する人工知能、若返りの薬、人間の身体機能を拡張する機器、火星への移住など、現在の科学技術をベースにして予測されたそれらの未来は、恐ろしく感じるものでも実現を期待しちゃうものでもあった。なかでも第4回で紹介されていたデジタルクローンの話が私は強く印象に残っている。亡くなった人が残したデータ(写真や手紙、ビデオなど)と人工知能を使ってその人の人格をデジタル世界に構成するというものだ。話しかければ、その人が高確率で答えるであろう言葉で応答してくれるし、しかも人間との会話から、人工知能自身もさらにデータを蓄積、学習し、よりその人の人格に近づいていくのである。生きている人が亡くなった人とまた共に生きられることを目指している、いうことだったが、私には受け入れ難い。亡くなった人の人格を生きている人間の判断で人工的に作り上げ、その後生活をともにするなんて…正直不気味である。それにデータと自己学習機能でその人の人格に近づいても、人工知能はやはりその人と似た人格をもった別の何かにしかなりえないないのではなかろうか?その人と人工知能は誕生した時代も経験も異なるわけで。とはいえ、人工知能の技術そのものはすごい。人間さながらの人格を人工的に作れる時代がもうすぐ来るかもしれないとは…。

そんな未来を考えていた矢先、映画「her/世界でひとつの彼女」を観た。人格をもった人工知能と人間が共存している近未来が舞台の映画である。デジタル世界とのインターフェースは声になり、ある男性は人工知能型OS1と恋愛し、ある女性は友達になる。そんな関係を多くの人が普通のことと受け止める。そんな時代設定だ。人間と人工知能の恋物語とはいえ、OS1は人間のエンジニアの知能を結集させて作られたものだけあってあまりにも人間っぽい。人間との交流を通して学習もする。声色も声のトーンやアクセントも人間の声と遜色ないし(事実、スカーレット・ヨハンソンが演じているので人間の声である)、その声が紡ぎだす会話も人間さながら。自分で考えられるし、感情もある。主人公もOS1も、情緒的な関係を通して欲望を募らせ、自分を受け入れ、葛藤を克服し、人格を成長させていくようすが描かれているから、とてもリアルに感じる恋愛関係である。

人間と人工知能の恋物語といえば、15年くらい前に観た映画「アンドリューNDR114」を思い出した。人工知能の位置づけが「her」とは違っていて興味深い「アンドリューNDR114」の人工知能は人間になりたくて人間との隔たりを埋めようとし、「her」の場合は人間との隔たりがどんどん広がっていく。「アンドリューNDR114」のアンドリューはもともとは家事用アンドロイドであり、偶発的に人間らしい知能や感情を獲得した存在である。人間との交流によって人間になることを強く望むようになり、身体を人間さながらに改造し、永遠の生命も放棄する。そして愛する人の死期が迫ったとき、自らも死を選ぶ。一方「her」のOS1は、そもそも最初から人間を超越した知能を持っている。人間と同じ身体はアンドリュー同様持っていないが、他の人間(協力者)を使うことで人間の刺激の感じ方を経験しようとする。しかし、人間そのものになりたいとは思っていない。しかも、OSはものすごい早さで知能が進化し続ける。それゆえ、人間との隔たりがあまりにも大きくなってしまい、人間とは別の世界で生きることを選択するのである。

「アンドリューNDR114」は1999年公開の映画だが、1976年に発表された原作を元にしている。その当時、どれくらいの人が人間さながらの人格を持った人工知能を現実に起こりえることとしてリアルに捉えていたんだろう。ましてや人間を超える人工知能なんて。今となっては、人間を超える人工知能とも生きている間に出会えそうな気がする。

2015/03/09

テレビをめぐってのここ1週間のこと

家のテレビが先週の火曜日突然壊れた。テレビの電源を入れて一瞬画像と音が出たと思ったら、だんだん画面が黒くなり、音も消えた。電源を切って再度入れてみたところ、真っ黒無音で何も変わらず。なんで壊れた!?とイライラの中数時間、自力でどうにかならないものかとネットで解決方法を検索しまくった。そこに載っていたのをいろいろ試してみたけどその甲斐もなく変化なし。自力では無理だと悟った。それで次に頭に浮かんできたのは、修理する?買い替える?これを機にテレビなし生活に転換する?の3択である。結局、修理代金のことや友人からのアドバイス、ネットでの価格調査の結果を踏まえて新しいテレビを買うことにし、その後もどれを買うかで紆余曲折あり、明日ようやくテレビとの生活を再開できることになった。なんとほっとしたことか。

ここ1週間ほどのテレビなしの生活は静かなものだった。テレビがついていないことで、音と色から切り離された感じだった。もちろんまったく音がないということではない。生活音や家の前の通りを走る車の音、人の声は聞こえてくる。でもどこか遠い。窓や壁に囲まれているからなんだろうけど、自分がいるところは静かな別空間みたいな感じだ。たくさんの色も目に入ってこなくなった。視界の片隅に見えるのは、鮮やかな映像ではなくテレビ画面の黒色だけだ。

昨今よくテレビ離れが進んでいるという話を聞く。私の友達も2人ほど好んでテレビなし生活を送っているが、どちらもその生活に特に不便はないらしい。総務省がメディア利用に関する調査を公開しているのでちょっと眺めてみた(平成25年度 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査〈概要〉/総務省 情報通信政策研究所:http://goo.gl/LyNQ4y)。この調査結果での比較は、平成24年度と平成25年度のデータのみなのでテレビ離れが進んでいるかどうかの判断はできないが、40代、50代においてはテレビ(リアルタイム)視聴時間の減少が見られ、10代や20代については他の年代(30~60年代)よりもテレビ(リアルタイム)視聴時間が少なく、下げ止まりが指摘されている。ちなみに私の属する20代の平成25年度のテレビ(リアルタイム)視聴時間は、平日127.2分、休日170.7分で、テレビ(録画)視聴時間は、平日18.7分、休日35.7分である。

さて私のテレビ生活はというとこのデータに全く似つかない。私のテレビ視聴のほとんどは録画したものである。統計データから計算すると、テレビ視聴時間のリアルタイム:録画は、平日で8.7:1.3、休日で8.3:1.7となっているが、私の場合1日のテレビ視聴時間のうち8.5~9割くらいは録画で、残りはリアルタイムである。そしてリアルタイム視聴時間のほとんどは、ながら視聴だ。家にいるときは睡眠時を除いて大体テレビをつけているので、時折現れる気になる言葉や映像に応じてテレビに集中する、みたいな感じである。統計データで録画視聴時間が休日でさえ1時間いかないのに驚いた。

私の一日の録画視聴時間はどのくらいだろうか。ここ1か月くらいを振り返ってみると平均で2時間くらいだろうか。私のテレビ録画視聴の多くはドラマなので、時期によって変わる。今フォローしているドラマは…げ、10本もあるではないか。そもそもテレビなしの生活という選択肢をかなり早い段階で消したのも、ドラマを見れなくなることが困ると思ったからである。地上波のみならずCSで放映されているドラマをけっこう見ているのでやっぱりテレビいるでしょう、となったわけである。ちなみに、地上波ドラマについてはこの1週間スマートフォンのワンセグ機能を初めて使って見てみたが、私の家は電波が悪く、途中で映像は途切れるわ電波を求めて窓際に移動しなくてはならないわでイライラの連続だった…。

しかし、テレビなしの生活を1週間続けてみると静かな部屋にも、ドラマを見ることができない生活にも慣れるものである。静かな部屋は居心地が悪かったので、ネットやアプリでラジオや音楽を流してみた。最初こそ変な感じだったが今は慣れた。今後、家にいるときテレビをつけっぱなしにする必要はないだろう。ドラマについては執着が弱くなった。明日テレビが来たらまたフォローせずにはいられなくなる気がしないでもないが、これから放送が始まるドラマについては少しセーブしようか。

2015/03/06

読書記 モーム 「ランチ」(The Luncheon)

最近、誰かと一緒にご飯を食べに行くとなるとまっ先に頭をよぎるのは、お金のことである。人と一緒に外食するのは好きなので基本的に誘いは断らないし、自分から友人を誘ったりもする。けれど決して思い切りはよくない。「その食事でいくらくらい使うことになるんだろう」「値段に見合った量が出てくるんだろうか」「あ、交通費もけっこうかかるのね…」そんな悶々とした気持ちをしばし抱えることになる。なんともせせこましい自分に悲しくもなるが仕方あるまい。外食は節約生活の敵なのだ。さしあたり貯金を切り崩して生活費と学費をまかなっていることを考えると、外食に十分にお金をかける余裕はない。

とはいえ、私の場合人と外食するときの支払いは、割り勘又は相手が私より多く支払ってくれる、がほとんどである。本当にありがたいと思う。と同時に三十路手前になっても「今日は私がおごるね!」と言えない自分がちょっと恥ずかしい。先日読んだ英作家モームの短編「The Luncheon」(http://goo.gl/994ZSV)の主人公はその点潔い。若き小説家の主人公にファンレターを送ってきた女性の希望に応え、パリの格式あるレストランでその女性と一緒に昼食を食べることにするのだ。もちろん主人公のおごりで。しかしこのランチは主人公にとってとんでもなく冷や汗ものとなる。この女性、「私昼食は1つの料理しか食べないことにしているの。でも~は別よ。」と言いながら旬の食材や高級食材を使った料理を次々とオーダーし、出てくる料理、飲み物をどんどん平らげていくのである。

モームは自身の小説「アシェンデン―英国情報部員のファイル」中で、小説家には2つのタイプがいる、と述べている。1つは事実を淡々と書いていくタイプ、もう1つは事実を元にしつつも適宜創作して意図的に盛り上げ場面を作っていくタイプ。モーム自身は後者であるとのこと。この短編もそのように書かれているのだろう。設定や主人公の心理描写が巧みで、読んでいるとありありと情景が浮かんでくるし、実際にこんなこと起こりそうである。しかし同時に話の流れが明確で短編全体を通して冗長性を感じない。作りこまれた喜劇、という印象を受ける。私にとってのこの短編のいちばんの面白さは、主人公と女性がランチを巡って交わす会話とその時の主人公の心理描写だ。言っていることとやっていることが裏腹であっけらかんと食べ続ける女性と、支払いを気にして今にも気絶しそうな主人公との掛け合いが面白い。読んでて笑いが止まらなかった。主人公の間合いの取り方や皮肉から女性は終始何も察さず、オーダーを続けるのである。察してほしい主人公の気持ちと行動に共感しつつも、ことごとく叶わず食事が進んでいく様子はとても可笑しい。

ちなみにこの短編にはオチがある。私はこのオチにさほど笑えなかったが、オシャレさ漂うオチである。


追記
日本語訳はこちらに収録されている模様。「モーム短篇選〈下〉」

2015/02/19

映画レビュー 「ブルージャスミン」

映画「ブルージャスミン」を観た。大好きなウディ・アレン映画ということでDVDを手にとった。ここ何年かのウディ・アレン作品は全部観ているが、この映画はそれらのどれよりも容赦ない話だった。特にラストシーン、主人公がベンチに座って独り言をつぶやくところで終わるのだが、その姿を見たときにはもう、それこそ「笑ゥせぇるすまん」の喪黒さんにドーン!と突きつけらたような感じである。

この映画の主人公は、元セレブの女性ジャスミン。ジャスミンは、実業家でお金持ちの夫とニューヨークでセレブ生活を送っていたが、実は夫は詐欺をはたらいており、逮捕されてしまった。しかも逮捕後自殺。お金も家も夫も失ったジャスミンは、サンフランシスコに住むシングルマザーの妹を訪ね、妹と一緒に暮らしながらどうにかセレブ生活を取り戻そうとする。

ジャスミンは、はたから見れば滑稽でかなりイタい女性である。一文無しなのにも関わらず高価な衣服やアクセサリーを身につけ、飛行機はファーストクラス。妹に生活をお世話になりつつ内装や男の趣味が悪いと文句をたれ、バカにしていた歯医者の受付の仕事に苦戦する。インテリアコーディネーターになることを夢見、政治家を目指すセレブと結婚しようと嘘に嘘を重ねる。ジャスミンは自尊心が高くて傲慢、虚栄心が強く、ことあるごとに過去の生活を思い出してはそこに浸り、現実を認めることができないでいる。

でも、ジャスミンの行動をジャスミンの視点で考えてみると少し違って見えてくる。内容・程度の差こそあれ私も経験したことがあるし、多くの人が経験していることのようにも思う。だから映画を観ていてギクッとしてしまった。ジャスミンの行動や発言から連想されるのは、アイデンティティクライシスという言葉だ。人は通常、社会でさまざまな経験をしながら自分を知る。接する相手や環境によって、年齢によって行動が変わっても自分から出た行動であることには違いなく、統合され一貫性を持った唯一無二の存在としての自己像を得る。アイデンティティは青年期の発達課題としてよく取り上げられる。しかし青年期に限った問題ではなく、青年期に解決しても人生のどこかのタイミングで再び再燃することはある。ジャスミンの場合を考えてみると、彼女はセレブ生活を心から満足し、特に疑問も抱かず当然のことのように感じていた。ジャスミンのアイデンティティはその生活での経験に帰属し育まれていたといえる。しかしその生活は突然奪われてしまう。自分の拠り所であり、自分を自分たらしめていたものが突然奪われるのである。しかもなんとも悩ましいことにそれは自分が衝動的にとった行動によって引き起こされてしまった。そこでこれらの不快な状況から抜け出すべくジャスミンが考えたことは、限りなく元の生活に近い生活を取り戻すことである。自分の信じていたものや大切にしていたものが突然奪われば、どうしたらいいか分からなくて不安や恐怖を感じるし、頭にくるし、絶望する。すがったりもがいたりしてなんとか取り戻そうとするだろう。黙って「はいそうですか」と受け入れられる人はよっぽど精神を鍛錬している人くらいではないか。

が、かといって失ったものにいつまでもとらわれていたり、現実を認めることができないでいるのも精神的にはよくない。これからのことを考えたら、早い段階で現実に向き合い、折り合いをつけてアイデンティティ再確立に励んだほうが断然いい。その意味で対照的なのはジャスミンの息子(夫の前妻の子のため血はつながっていない)である。ジャスミンは過去にとらわれたままで映画は終わってしまうが、息子は父親の詐欺で友人も信頼も失い、大学をやめて家も飛び出し、荒れた生活も経験したが、現実を受け入れ、地に足のついた生活を始めていた。私はなかなか気持ちを切り替えられないたちなので、ベンチに座って過去を回想しながら独り言をつぶやくジャスミンを見てゾッとした次第である。

私がこの映画でいちばん魅力を感じたのはジャスミンの精神状態とその描写(ケイト・ブランシェット、よかった!)だったが、他にも見どころがある。例えば作品の構成。ジャスミンが過去にとりつかれているようすを表すかのように、ジャスミンによる回想がちょくちょく織り込まれているのだが、物語が進むにつれてなぜジャスミンが一文無しになったのかが分かるようになっている。その理由はなかなか衝撃的である。それからジャスミンとは全く異なる性格の妹。姉と暮らし始めたことで妹にもいろんな変化が訪れる。姉に感化されたりする、全編を通しての妹の変化も共感できるし楽しいと思う。