自己紹介

自分の写真
オンラインで英語個別指導します https://yokawayuki.com/service

2016/12/28

国語ってどうすりゃいいの

私が働く塾では今,冬期講習開講中だ。入試が迫るこの時期,多くの受験生は1日に複数の教科を受講する。その一方,大学が長期休暇に入るため,帰省したり出かけたりで稼働可能な講師の数が減る。そんなわけで冬期講習の期間中,通常授業でみている英語に加え,国語(現代文)をみることになった。それで,国語ってどうやって教えるのがいいんだ!?となっている。

英語は,文法知識と単語の暗記量が点数を上げるための必須条件である。程度の如何の問題はあるものの,それらさえあれば受験英語は対処できる。問題を解くときに,持っている知識を出したりひっこめたり,組み合わせたりして使いまわせばいいからだ。だからとにかく,文法の問題演習と単語の練習を徹底的にやらせる。長文問題でも,文法力と単語力で長文と設問の選択肢の意味が分かれば恐れることは何もない。長文問題の多くは,本文中に明記されていることしか問われない。言い換えれば,その答えが正解となる根拠が明らかなのである。

では国語はどうだろうか。英語のように文法と語彙はもちろん必要である。さらに漢字も覚えておかなければならない。文法は日本語話者であれば日常的に使っているし,語彙だって文章に出てくるものの多くは分かるだろう。漢字だって普通に生きていればそれなりに書ける。だが,問題はそう易々と解けない。それは,その答えが正解となる根拠が,本文中に明記されているといえないからではないだろうか。

英語と国語の読解問題の違いは,求められている文章の内容理解の深度に由来するのではないかと思っている。英語の長文問題は,表層的な理解でもけっこう解ける。これは文章に書いてあった/書いていないのレベルで大丈夫なものが多い。しかし国語の問題となると,表層的な理解だけで解くとひっかけ選択肢に見事にひっかっかったりする。そこに書いてあることから,こういうことが言えるし,これはこう解釈できる,だからこれが正解だ,ともっていかないと正しい答えにたどり着けないことが多い。

そういうわけで,国語をどう教えたらいいか困っている。何回か国語の授業をやって,つくづく国語は英語と同じように教えられないと思った。国語では,英語のように細かく文を分解したところで解決しない。分解するよりもむしろ,文同士や段落同士がどういう関係を持っているかを汲みつつ読まないと,深いレベルの内容理解には達することができない。さらには,その文章(論説文)は筆者の主張と,それを主張するための材料から成っている,と考えて読み進めることが肝要である。そういうふうな文章の読み方をできるようにさせるにはどうしたいいものか。試行錯誤が続きそうだ。

2016/12/27

本レビュー 上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」

ここ数日,上野千鶴子の「女ぎらい――ニッポンのミソジニー」を読んでいた。遥洋子のエッセイ「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」に書かれている上野千鶴子に私は衝撃を受けたので,彼女の著作を読んでみたいと思っていた。上野千鶴子といえばフェミニズム,ジェンダー論だ。それに,以前ブログにも書いたが(http://yukiron.blogspot.jp/2016/09/blog-post.html),私は女としての自分を長いこと持て余しいた。そんなわけで興味を持ち,この本を手に取ってみた。

この本は,ミソジニーを軸に,日本社会のあちこちで起こっている現象を分析していくものである。ミソジニーとは「女性蔑視」と訳すことができる。男と女の2つの性別で秩序だっている社会において,ミソジニーは男性から女性への女性蔑視と,女性から女性自身への女性蔑視つまりは自己嫌悪と称することができる。この本についての説明は,私にとってここまでが限界だ。なぜなら,この本は私には難しい。巻末の参考文献の量からも推測できるが,この本を読みこなすには知識量が不足しており,上野氏の文献解釈・文献批判は私の思考レベルを圧倒的に超えており,息を呑むのが関の山。彼女の解釈や意見についてどう考えるかは,ほとんど言えることがない。ただ,そんな状態でもなんとなく共感するポイントはある。それは,女による女へのミソジニーと,女にとっての2つの価値であった。

女にとっての2つの価値とは,「自分で達成する価値」と「他人つまり男から与えられる価値」である。そして,女性にとって現代は,これら両方がないと十分ではない時代(p.205-206)としている。なんというか,これを読んだとき私は理屈抜きで納得した。それは多分,私が欲しているものを言語化してくれたからだ。冒頭で述べた以前の記事にも似たようなことを書いたが,「自分で達成する価値」をいくら得たとしても私は多分どこか欠落感を感じ,「男から与えられる価値」を得て初めて私の中の「女」が満たされるのではないかと思っている。

この2つの価値に関連して,数年前の私の鬱屈を振り返ると,私の中にミソジニーが内在していることが感じられる。私は,「男から与えられる価値」を手にしている女友達(つまり既婚者および彼氏持ち)を妬みを持って眺めたし,彼女たちと一緒に過ごすのを苦痛に感じて避けた。また,「私は彼女たちとは違うんだ」といった特別感を持つ一方で,「男から与えられる価値」を本当は欲していることに気づいてげんなりもした。「自分で達成する価値」の獲得には力を尽くしているはずなのに,「男から与えられる価値」は遠ざかっている気がして仕方がない。そんな感じであった。年齢のせいなのか,経験が増えたからなのか,これらの気持ちは,「自分で達成する価値」に重きを置き,「男から与えられる価値」は「自分で達成する価値」を得るプロセスで得ることができたら・・・というささやかな希望を保つということに今は変換されており,当時よりも若干収束した感はあるが,結局2つを欲していることには変わりない。

自意識に訴えてくるような話は,読むたびに心がえぐられて痛い。だが最低でもそれぐらいのことをしないと,自分のことなんてきっと分からないのだろう。

2016/12/26

自己紹介と見られたい自分像

ドイツ語の授業で,自己紹介を書きましょうという課題が出た。自己紹介を書くという以外に条件はなく,好きなことを好きなだけ書いていいとのことだった。それで早速書き始めたのが,自己紹介を書くって意外に難しい。ドイツ語だから難しいということではなくて,そもそも自己紹介として何を相手に伝えるかを決めるのが難しい。

自己紹介とは,自分はこういう人間です,というのを他者に伝えることである。では何を伝えたら自分がどういう人間かを相手に伝えられるのだろう。まず自己紹介で真っ先に書くことといえば,名前だろう。で,名前を書いたあと早速,次何を書こうか?となった。思いついたこといえば,住んでいるところ,出身地,年齢,専攻,仕事,趣味,性格である。それ,それらについて書く内容を考えてみた。茨城県出身です。心理学を学んでいます。英語講師をしています。日本語にするとこんな具合である。

一通り考えた後,いくつかのことを思った。1つ目は,年齢を書くのはやめようということ。私はアラサー大学生であり,年齢を書けば必ず,なんでアラサーで大学に?という話になる。説明するのが面倒であるゆえ,書くのをやめることにした。そして2つ目は,私の性格ってどんなだかよく分からんなということだった。性格を表す言葉はたくさんある。明るい,責任感がある,人見知り,裏表がない,マイペースなどなど。それでこれまでの自分の経験を振り返りつつ,どんな表現に収束できるかを考えていったのだが,ぴったりはまるものが見つからない。自分のこれまでの行動や考え方を振り返って,これだと感じる性格の表現があっても,「でもこういうエピソードのあったからそうは言えないかも・・・」みたいなことを気にし始めて,自信を持って言えないのである。かといって,暗い,自分勝手などのネガティブな性格表現を進んで使う気にもならない。授業でしか関わりのない先生に,あえてそんなことを言う必要もないであろう。ということで,性格を組み込むのもやめにした。そして3つ目は,私の自己紹介つまらない・・・ということであった。自分が誰かの自己紹介を聞くときに,相手の住んでいるところや出身,専攻,仕事,趣味などが何かを聞いたところで,正直どうでもいいことではないか。相手が言ったことの中に自分との共通点が見つかれば,それは興味を持つきっかけとなるかもしれない。でもそれがなかったら,聞いたところで「へーそれで?」って感じである。客観的な事実だけを羅列した自己紹介はつまらなく,その人らしさがあまり出てこない。そこで,主観的な話を盛り込むことにした。例えば仕事についてだったら,なんで英語講師をしているのかや仕事についてどう思っているかなど。例えば趣味についてだったら,その趣味にまつわる具体的な思い出やそこで感じたことなど。そんな調子で書き進めていき,最後は今後やってみたいこととその理由を書いて一通り書き終えた。主観的な話をいろいろ書いたので,私がどういう人間かがそこから垣間見ることができると思うし,事実を羅列しただけの一本調子の自己紹介よりも私という人間を多く紹介できたと思う。

冒頭で,自己紹介って意外と難しいと述べた。上述した自己紹介完成までのプロセスが示している通り,その難しさは,相手に伝えたい自分像と伝えたくない自分像,相手に思ってほしい自分像と思ってほしくない自分像を考慮しながら,伝えることと伝えないことを選別し,伝えることについてはどう伝えるかまで気にかける,ということから生まれて来るのだと思った。自己紹介は自分で何を伝えるか選ぶことができる。それゆえ,自己紹介を聞いたり読んだりして相手が受けるであろう自分の印象をある程度操作することができる。そのメリットを最大限生かそうとするからこそ,難しくなるんだろう。

2016/12/25

クリスマスと恋愛と

オンライン英会話のときに,この記事(https://goo.gl/FFIc94)が話題になった。あるウェディング関連のポータルサイトが,「クリスマスイブだけの相手」について20-39歳の女性253人に調査したところ,39.5%の人が,たとえその人とはもう二度とデートしないと思っていても,誘いがあればその人とのクリスマスイブデートに応じるということであった。調査をしたところが結婚関連のポータルサイトだから,きっと恋愛に積極的な女性が集まっていることと推測する。私だったらどうするだろうか。

そんなことを考えていたら,ふと記憶がよみがえってきた。数年前,大学の友人たちとの飲みの席で頻繁に話題になっていた,「明確な好意を感じていない相手とデートするか」問題である。友人たちは,明確な好意を感じていなくてもデートする派で,私は明確な好意を感じていなかったらあまりデートしたくない派であった。デートする派の理由としては,デートしたら相手のことをもっと知れるし,それでもしかしたら好きになるかもしれない。相手のことをよく知らない状態でこの人はダメとしてしまうのはもったいない。そんな感じであった。あまりデートしたくない派の私の理由は,好意を感じていない人と楽しく過ごせるのかという不安,であれば他のことに時間使ったほうがいいよな,という気持ち,さらには,一緒に過ごしてもあまり好きになれなくて,でも相手は好いてくれているとき,私は流されずにいられるのか?(これは過去の恋愛経験に由来する)といったことであった。当時の私が考えていたことをこうやって書いてみると,なんというか,独りよがりで恥ずかしい。デートの現実を無視しているし,相手の視点が抜けている。今思えば,当時の私は,デートと付き合うことを同じととらえていた。なんというか,デートするから付き合うし,付き合っているからデートする,みたいな感覚である。下手に真面目というか,警戒しすぎというか,余計なことを思い込みすぎというか。それじゃ彼氏できないよとさんざん批判されたが,まぁ,それもそうだろうと思う。機会損失になるのだから。とはいえ,私のようにデートしない派でシングルでない人もいることを思えば,つまるところどっちであってもあまり関係ないのだろう。決まるときは決まるということなんだと思う。ちなみに今は,デートすることは互いのことを知っていくプロセスだととらえている。私がその人に好意を持とうが,その人が私に好意を持ってくれていようが,そのプロセスの中でどちらかが合わないと感じればさよならする。それは付き合っていてもいなくても変わらない。

で,最初の問いに戻って結局私だったらどうするのか。やっぱりしないだろうなと思う。そもそも二度目のデートはないと思っているということは,その人に関心がなく,自分が求めているものを持っていないと判断した状態であろう。確かにデートして新たな発見があったり好意をもったり,ということはあるかもしれない。でも,自分の中で終了している気持ちをあえて呼び起こすこともないよな・・・と私は思うほうだ。

この調査は,クリスマスイブのデートに限定しているが,クリスマスイブでなかったら,YESと回答した40%弱の人はデートの誘いには応じるのだろうか。応じないとしたら,クリスマスマジックみたいなものなんだろうか。クリスマスと恋愛は切り離せないような雰囲気が巷にはある。私もその風潮に大いに煽りを受けて生きてきた。クリスマスといえばカップルの一大イベント,シングルの人間にとっては,それまでに相手を見つける!とか,相手のいない者は共に寂しさを分け合うとか,そんな話ばかりが耳に入ってくる。それで余計に寂しくなったり,敗北感を感じたりということのを経験してきた。にしても,どうしてこうもクリスマスと恋愛は結びついているんだろうか。

クリスマスにシングルであろうがなかろうが,年を重ねてどうでもよくなってきた。彼がいてもいなくても,楽しい時間になることもあるだろうし,つらい時間になることもあるだろう。相手がいるかいないかだけで左右されるものではないよなと思う。