リンク
リンク
この本は,ミソジニーを軸に,日本社会のあちこちで起こっている現象を分析していくものである。ミソジニーとは「女性蔑視」と訳すことができる。男と女の2つの性別で秩序だっている社会において,ミソジニーは男性から女性への女性蔑視と,女性から女性自身への女性蔑視つまりは自己嫌悪と称することができる。この本についての説明は,私にとってここまでが限界だ。なぜなら,この本は私には難しい。巻末の参考文献の量からも推測できるが,この本を読みこなすには知識量が不足しており,上野氏の文献解釈・文献批判は私の思考レベルを圧倒的に超えており,息を呑むのが関の山。彼女の解釈や意見についてどう考えるかは,ほとんど言えることがない。ただ,そんな状態でもなんとなく共感するポイントはある。それは,女による女へのミソジニーと,女にとっての2つの価値であった。
女にとっての2つの価値とは,「自分で達成する価値」と「他人つまり男から与えられる価値」である。そして,女性にとって現代は,これら両方がないと十分ではない時代(p.205-206)としている。なんというか,これを読んだとき私は理屈抜きで納得した。それは多分,私が欲しているものを言語化してくれたからだ。冒頭で述べた以前の記事にも似たようなことを書いたが,「自分で達成する価値」をいくら得たとしても私は多分どこか欠落感を感じ,「男から与えられる価値」を得て初めて私の中の「女」が満たされるのではないかと思っている。
この2つの価値に関連して,数年前の私の鬱屈を振り返ると,私の中にミソジニーが内在していることが感じられる。私は,「男から与えられる価値」を手にしている女友達(つまり既婚者および彼氏持ち)を妬みを持って眺めたし,彼女たちと一緒に過ごすのを苦痛に感じて避けた。また,「私は彼女たちとは違うんだ」といった特別感を持つ一方で,「男から与えられる価値」を本当は欲していることに気づいてげんなりもした。「自分で達成する価値」の獲得には力を尽くしているはずなのに,「男から与えられる価値」は遠ざかっている気がして仕方がない。そんな感じであった。年齢のせいなのか,経験が増えたからなのか,これらの気持ちは,「自分で達成する価値」に重きを置き,「男から与えられる価値」は「自分で達成する価値」を得るプロセスで得ることができたら・・・というささやかな希望を保つということに今は変換されており,当時よりも若干収束した感はあるが,結局2つを欲していることには変わりない。
自意識に訴えてくるような話は,読むたびに心がえぐられて痛い。だが最低でもそれぐらいのことをしないと,自分のことなんてきっと分からないのだろう。