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2015/07/20

「Dr.倫太郎」 雑感

4~6月期、日テレで放送されていたドラマ「Dr.倫太郎」を全話見ていた。精神疾患とその治療の話はけっこう好きで、1話が始まる前の予告を見たときから絶対見ようと決めていた。全体を通しておもしろいドラマだった。1話でいきなり、ハリセンボンの近藤春菜が自殺未遂者として登場したのはかなりびっくりだったが、精神疾患の描き方とか、患者の話を聞き、共感を軸に治療をすすめていく倫太郎のスタイルと、脳の画像などの客観的データで判断し投薬メインで治療をすすめていく宮川教授のスタイルの対立とか、とてもリアルな感じがした。それに、高畑淳子と蒼井優の演技がとてもよかった。高畑淳子と蒼井優は劇中では母娘関係にあり、蒼井優は子供の頃の母親との関係によって解離性人格障害になり、高畑淳子はそんな娘を金づるにするギャンブル依存症の母親を演じていた。高畑淳子は何かが憑依したような、まさしく重度の依存症の演技で、昨年のドラマ「きょうは会社休みます。」のときの主人公の母親の演技とのギャップがすごかった。蒼井優は衝動的で世渡り上手な人格とおとなしく心優しい人格の対照的な2人の人格を明確に演じ分けていた。そして、毎回描かれた母娘のどろどろの共依存関係は痛々しいものだった。

ところで、昨今の精神科医のスタイルは、倫太郎ではなく宮川教授のスタイルが主流らしい。昨年受講していた精神医学の講義では、精神科医は的確な診断と投薬指示がメインで、患者の話を聞くことをメインとするのは、臨床心理士やカウンセラーだという話を聞いた。一方、臨床心理学の講義でも、患者の内的世界の把握よりも、症状などの客観的なエビデンスに基づく見立てと心理療法にシフトしてきているという話を聞いた。理性の時代、これは当然の流れだと思う。

薬物療法や画像診断の必要性は承知しているし、それらの発展も望んでいるが、倫太郎の、患者(相手)をまるごと受けとめ共感する姿勢は好きだった。疾患の程度や種類にもよるが、つまるところ人は、他人から認めてもらい、自分でも自分を認められるようになることによって変化しうるのだろうと感じた。そんなことを感じながらドラマを見ていた矢先、倫太郎のスタイルは、精神科医コフートの理論を元にしたものだと知った。そこで、このドラマの制作に協力していた精神科医・和田秀樹の「「自己愛」と「依存」の精神分析―コフート心理学入門」を読んでみた。

コフートの理論のベースは、人間誰でも持っている自己愛を満たしてあげましょうということである。自己愛とは、自分が自分を愛する気持ちを指す。自分はすごいんだ、立派だ、と思ったり、相手に自分のことを褒めてほしい、愛してほしいと思う、そんな気持ちをコフートは肯定する。そして自己愛が周囲の人から満たされないとき、いびつな形の自己イメージが出来上がる一方、自己愛が満たされれば、相手との関係を通じて自己が適切にまとまっていくとする。また、コフートは「共感」を重視する。自分が相手が置かれている状況にいたらどのように考え、感じているかを想像しながら相手の話を聞き、相手の内的世界を観察する、というやりかた(客観的なスタンスをとる)である。なるほど、倫太郎のは、共感でもって自己愛を満たすスタイルとでも言おうか。

余談だが、私が心理学に興味を持ったきっかけもこの手のドラマだった。小学生だったころ、日テレで放送されていた「心療内科医・涼子」を見て、「心も病気になるのか。」「心が傷つくのって目には見えないけど、大変なことなんだ…」と強い衝撃を受けたのを今でも憶えている。

2015/07/13

読書記 ケストナー「飛ぶ教室」

この話を読みながら感じていたのは、こんな友情すごくいいなぁ、こんな大人ステキだなぁ、ということ。裏をかかれることも、斜めから読まないとよく分からないなんてこともなくて、ストレートに読んでストレートにいい!と言えることがいっぱいつまった話だった。それに心がほっこりするようなあったかい話。ドイツの作家、ケストナーの「飛ぶ教室」だ。

この話は児童文学として書かれたものらしい。だからだろう、メインの登場人物はドイツでギムナシウムに通う14歳前後の男の子5人、マルティン、ジョニー、マティアス、ウーリ、セバスチャン。そして彼らの先生とその友達、ライバル校の生徒たちも登場する。5人の男の子たちにはそれぞれ異なるキャラクターが設定されている。マルティンは正義感の強いしっかり者で、5人のうちではリーダー的存在。ジョニーは繊細でおとなしめ、想像力豊かな文学少年。マティアスはいつもお腹をすかしているけど喧嘩は強い。ウーリはそんなマティアスの影に隠れる小さくて弱い男の子。セバスチャンは頭の回転の早いあー言えばこー言うタイプの少年だ。彼らは互いにいいところと欠けているところを分かっていて認め合っている。それに信頼もしている。それぞれが活かすべきところでいいところを活かし、欠けているところを互いに補い合えるから、いろんなことに対処していける。もちろんそれには、そんな5人を温かいまなざしで見守っている先生(正義さん)とその友達(禁煙さん)の存在も大きいのだけれど。彼らは少年たちを信頼し、知恵を与え、人としての道を示す。

あまりにも率直に、それこそ理想的とも言える人間関係、少年たちの成長の物語が紡がれているから、現実はそううまくいかないんだよね、とつっこみたくなっちゃうのだけれど、でもこういうシンプルな理想的なものは心の片隅に留めておきたいなと思う。

この話は、上記した少年たちの物語のほかに子どもたちに励ましのメッセージも送っている。小説全体が枠構造になっていて、「まえがき」と「あとがき」が上記した物語(第1章~第12章)をはさむ構成になっているのだが、「まえがき」と「あとがき」の主人公は、はさまれた物語の作者で彼が子どもたちに現実的な説教を与えているのだ。その中で印象的だったのは、
”きびしい人生は、お金を稼ぐようになってから始まるわけではない。そこで始まるわけでもそこで終わるわけでもない。…ただし、自分をごまかしてはいけない。ごまかされてもいけない。災難にあっても、目をそらさないで。うまくいかないことがあっても、驚かないで。運が悪くても、しょんぼりしないで。元気をだして。打たれ強くならなくちゃ。” (p.22)
というもの。 私は子供のころに読んでいた話や見ていたアニメから、また周囲の大人たちから、このようなことを教わらなかったような気がする。お話やアニメでは、誰かが困難に陥ったら、たいていその人は助けてもらえていた。「打たれ強くなれ」というより、「助けてくれる人はいる」とか、「困っている人がいたら助けましょう」のようなメッセージだったのだろう。それに大人たちも現実の厳しさをそんなに伝えてこなかったように記憶している。もちろんそれは私を守るためだったのだろうけれど。

別に上の引用のようなことをしなくても生きていける。なんだかんだとごまかしていくほうが楽だし、助け手だって現れるだろう。それに実際問題、いざそういう状況に直面したとき、引用のように行動するのはなかなか難しい。子供だけじゃなくて大人だってそうだろう。いや、むしろ大人のほうが経験を積んで知恵がある分難しいかもしれない。でもそうすると結局、つけをいつか死ぬまでに払わなきゃいけないんだろうと思う。だったら1つ1つ正直に向き合って対処していくことを目指したい。それに、始めるなら早いほうが断然いい。

ケストナーの率直な物言いは、読んでいてとても気持ちがよかった。