やらなきゃいけないことを先延ばしにするクセをどうにかしたいと思っている。いろんな策を試しては先延ばししないで済むようにしようとしているのだが,効くときは効くが効かないときは効かないといった具合で,これといった鉄板の解決策が見つからない。
そもそもなんで先延ばしにするんだろうか。それは,それがやりたいことではないからだろう。やりたいことは,意識せずともいつのまにか自然にやっているものだけど,やりたくないことを「やる」まで持っていくには,やる理由がいる。だから,頭の中で理由を作ってみるのだけど,「やる」までモチベーションを上げるほどの理由はなかなか作れるものではないと,最近つくづく感じている。「これをやったらこんないいことがあるかも」とか,「これをやらなかったらこんな悪いことが起こるかも」とか,将来起こりそうなことを想像して理由にすることが多いのだが,その未来を具体的なイメージとして想像できていないうえに,どうも遠い先に起こることのような感じがして,「やる」というところまで自分を律せないのである。
とはいえ実際,たとえ先延ばしにしていても,結局どこかのタイミングで手をつけ終わらせることが多いのだが,それは自分の内側から生じた「やるぞ」という気持ちからではなく,締切が迫っているなど,外からの圧力によるのがほとんどだ。外からの圧力も無視することはできるが,無視した場合のコストを考え,結局やるほうを選んでいる。どうせやるならさっさとやれよ,と思うのだが,これならこのくらいの時期から始めれば大丈夫だろう,といった計算ができるようになってしまっているせいか,ギリギリになるまで始めることができない。
自分の怠けグセにほとほと呆れつつ,先のばし解消に向けて2つの策を試してみた。
①先延ばししていることをやみくもに始めてみる
やりたくないことでも,それを無理にでも始めたら調子づいて進めることができるかもしれない,という理屈で何回かやってみた。四の五の言わずにとにかくやれ!ということだ。これは,書く系のことを先延ばししているときにはけっこう効くと思った。私は学校のレポートをよく先延ばしにするのだけれど,まず,レポートを書くための材料となる資料などを机の上に広げる。それらを眺めつつしばらく座っていても,そう簡単にはやる気は起こらない。だが,その資料を見て感じたこととか思ったことを適当に書き始めると,考えが整理されたりアイディアが浮かんできたりして,勢いに乗って進めることができるのである。何でもいいから書き始めるというのは,先延ばし解消に本当に効果がある。これを図書館でやろうものならなおさらである。図書館には私の気を散らすものがないうえに,周りには勉強している人がたくさんいる。なるほど,それしかやることのないような状況を作って,とりあえず始めてみるとなんとかなるものである。やはり環境統制は意志の統制よりも確実に効果がある。
この方法,書く系以外のことでも効くんだろうか。私は本を読むのもよく先延ばしする。学校に提出するレポートとは異なり,期限を守らなかったときの分かりやすい罰がないので,先延ばしされやすい傾向にある。もちろん,本を買ったり借りたりするときは読む気まんまんなのだ。でも他のやらなければならないことにかまけているうちにどんどんモチベーションが減り,どんどん先延ばされることとなる。しかも私は読むのが遅いうえ,先延ばされる本の多くは小難しい本である。とりあえず,それらの本をやみくもに読み始めてみた。するとどうだろう,眠くなってしまうではないか!脳が拒否反応を起こしているんだろうか。全然先に進まない。ということで,最初から小難しい本を読むのではなく,読みやすい本とか,好きな本とか,ネット上の記事などの,読む抵抗が低めのものを読み始め,少し勢いがついてきたら小難しい本に切り替えるという方法をとってみた。結果はまちまち。読み進めることができるときもあれば,眠くなったり,飽きたりして少し読んで断念,となるときもある。読めるときと読めないときの何が違うかは,よくわからない。読んでいた本の内容かもしれないし,自分の体調のせいもあるかもしれないし,その両方とか,全く別の要因かもしれない。とにかく変数が多すぎてなんともいえない。
②とりあえず寝る
続いてやってみたのは,とりあえず寝るという方法。やらなきゃなー,でもやりたくないなー,そういうときは寝てしまおうということだ。起きていても,もやもやするだけでやらないだろうし,寝てしまえば翌日すっきりしてやる気になるかも,と期待を込めて眠るのだ。しかも,寝てしまって時間を無駄にしちゃったから,さっさとやらなきゃ!となるかもしれない。やってみた結果,書く系,読む系どちらの先延ばしについても,全く効き目はないことが分かった。寝てしまえばごちゃごちゃ考えなくて済むし,身体は健康になるが,先延ばし解消には全然役に立たない。すっきりしたからといってやる気は起こらないし,時間を無駄にしたとは確かに思うものの,やらなきゃ!となるための切迫感が起こらない。
さて最後に,ここまでの中途半端に効果があったり,全く効果がなかった方法とは打って変わり,図らずともいつのまにか先延ばしが解消していたときのことを1つ。怒りや悔しさが,先延ばしの解消につながっていたことである。怒りや悔しさを感じたとき,私は外に出さずに自分の中でどうにか折り合いをつけようとすることが多い。たいていは一過性で,少し経てば激しい感情は収まっているのだが,そうもいかないときがある。そんなとき,そういう感情を消そうと努力しても無駄なことは経験済みなので,それを考えないようにするために,別のことをする。それで先延ばししていたことに手をつけると,意外にはかどることが分かった。
感情の喚起による先延ばしの解消は,なかなか使える方法かもしれない。そういえば以前,イライラしているときにそうじしていたらいつのまにか集中して,普段しないようなところまできれいにしてしまったことがあった。これも行き場のない感情が,益となる行動をするためのエネルギーに変わった例だが,私自身,理屈よりも感情で動きやすい人間であることをふまえると,これをうまく活用しない手はない。とすると,次なる問題は,どうやって感情を喚起させるかだ。なんらかの原因によって既に感情が喚起されているときだったら,すぐさま先延ばししていることを始めればいいが,平常時に意図的に感情を喚起させるにはどうしたらいいものか。しかも,行動へと向けることができると分かっているのは,怒りや悔しさ,イライラなどの負の感情なんだが…。今考えているのは,やる理由を考える際に,感情を喚起させられないものか,ということ。多分,考えるときに具体的,直接的な経験やイメージが想像できると,感情が喚起されるんじゃないか。とりあえずやってみることにする。
2016/08/22
2016/08/10
本レビュー エリザベス・キューブラー・ロス「死ぬ瞬間―死とその過程について」
これから起こることが楽しみで,待ち遠しくて仕方がない―多くの人はそんな気持ちを抱いたことがあるだろう。例えば週末に旅行を予定しているとき,長年会っていなかった友人に会うとき,早くその日にならないかなと思う。でも最近,そう思うことに違和感を感じるようになった。私たち生き物は刻々と死に向かって歩みを進めているわけで,早くその日になってほしいと願うのは,自ら進んで死に近づいていくようなものじゃないか,と思ったからだ。将来に起こることが待ち遠しいとき,ただ純粋に早くそれをしたいだけだ。でも,死に近づいていくことなんだと感じてしまってからは,未来に起こることへの期待がちょっと複雑なものになってしまった。それは多分,死は私にとって恐怖で,近寄りたくないもので,考えたくないものだからだ。私は死を直視できない。
死を考えたくない,というのは今に始まったことではない。何かの本で読んだことがあるが,多くの人は思春期に,死について考えることがあるらしい。ご多分に漏れず,私も小学校高学年くらいのとき,よく死について考えていた。死んだらどうなるんだろうということをぼんやりと考えていたが,答えが見つからいばかりか,自分が死んだ後でも変わらずにどこまでも過ぎていく時間の流れを想像しては,怖くて怖くて仕方がなかった。また,高校生の頃,入院している祖父のお見舞いに行く気がなかなか起こらなかったことも,死に近づきたくない気持ちがあったからだろう。長く元気に働いていた祖父は,動くこともご飯を食べることもできなくなり,寝たきりで,身体に固定したチューブから流れてくる栄養をとっていた。しかも,目はばっちり開いていて,何かを訴えているように見えるのに,お話することはできないし,こちらからの問いかけが聞こえているかどうかもよく分からなかった。私は祖父のそんな姿を見るのが辛かった。年をとると人ってこうなってしまうのかとか,祖父は今の自分の状態をどう感じているんだろうとか,生きてるってなんだろうとか,いろいろ思うところがあった。そういうことを考え続けるのは嫌だったし,そんな祖父の姿も見たくなくて,なかなかお見舞いに行けなかった。そして最近では親である。両親ともにまだ健在だが,帰省する度に両親ともに老いていっていることを実感する。そのことを受け入れきれていない。
の著者エリザベス・キューブラー・ロスは,自身の研究を踏まえて,「死はこれまで人間にとってつねに忌むべきことであり,今後もつねにそうでありつづけるだろう」ということが分かったと述べている。それは,私たち人間が無意識のうちに,「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっているからだという。だから,「つねに他人による外部からの悪意ある干渉のせい」で私たちは死ぬのであり,「自然現象や老齢のために死ぬなんて考えられない」としている。死への恐怖は普遍的なもので,それこそ自らが受容するまで私たちは死と戦い続けるのである。
エリザベス・キューブラー・ロスは,余命わずかの多くの患者から,今どういう状態で何を求めているのか,何に心を砕き,日々どんなことを考えているのかなどを聞き,1人ひとりの患者のリアルな姿を知ろうとした。そして,人間が忌むべき死とどう戦うのかを記述した。それが,5段階の死の過程である。
第1段階は,「否認と孤立」である。病気を宣告されるなどして,自分が死ぬことに直面させられたとき,だれにでも起こるのが否認である。私にそんなことあるはずないとし,自らの死を否定する。否認は,不快なことや苦痛なことに対する自己防衛反応だ。そして,この否認は死ぬ本人だけでなく,その家族や友人などの親しい人にも生じるし,その人を治療する医療スタッフの間にも起こる。周囲の人間がその人の死を否認したままその人に接するとき,その人は孤立感を深めることになる。それは,その人が体験している自らの死との戦いを周囲の人と共有することができなくなるからだ。周囲の人が死を否認するとき,その患者は元気になったふりをしたり,病気や死に関する話し合いを避けることを見出している。
第2段階は,「怒り」である。自らの死を否認し続けることができなくなったとき,患者の心には「怒り・激情・妬み・憤慨」といった感情が湧いてくる。そして「『どうして私なのか』という疑問が頭をもたげる」という。何をしても何を見ても不満を感じ,怒りの感情はあちこちに向けられる。そして怒って何かを要求する,文句を言うなどの直接的な行動のほか,一見すると怒りとは関係なさそうな間接的な行動を通して,怒りは表現される。患者が怒りの状態にあるとき,周囲の人間がするべきことは,患者から向けられた怒りを自分個人に向けられたものとして受け取らないことである。そのように受け取り,患者を説き伏せようとしたりしようものならますます怒りは増幅する。それと同時に,患者のそばにいて話を聞き,怒りを受け止めようとしていくことである。周囲の人が患者を受け入れていくことで患者は自らの怒りをしずめていくことができる。
第3段階は,「取り引き」だ。避けられないと認識した自らの死を先延ばしにするために,交渉を試みる段階である。これができたらそれ以上は望まないので,どうかそれまで延命させてほしいと願う。しかしその望みが叶っても,さらなる延命を望むのが常である。
第4段階は,「抑鬱」である。抑うつは喪失感から来るものであるとしている。喪失感を感じる原因はいろいろだが,自らの身体が思い通りに動かない,経済的な負担が増える,職を失うなどの反応的な抑鬱と,これから家族と過ごすことができなくなる,など自分の死後を考えたときにみまわれる準備的な抑鬱がある。準備的な抑鬱の段階にいる患者は,その前に経てきたどの段階よりも死に対する覚悟ができ,自らの死を落ち着いて受け止めることができるようになってきている。
そして第5段階が,「受容」である。否認や怒り,喪失感を感じる段階を経て,自らの死を静観する,感情が欠落した状態である。このとき患者は,「しだいに長い時間眠っていたいと思うようになる」としている。そして,「まわりに対する関心が薄れ」,「一人にしてほしい,せめて世間の出来事や問題には煩わされたくないと願う」という。また,周囲の人がただその患者のそばにいて黙って手を握ることは,患者にとって意味のあることとなる。
これらの5段階は,全ての人において順に進んでいくとは限らない。部分的な否認は、第2段階や第3段階でも現れるし、先に進んではまた戻ってを繰り返したり,どこかの段階でとどまったまま死を迎えたりもする。しかしいずれの段階においても,患者は生き続けられるという希望を捨てていないとエリザベス・キューブラー・ロスは述べている。
私はこれから,親しい人の死や自分の死と向き合っていくことができるんだろうか。読んだ後,そんなことを考えた。おそらくそう簡単にはできないだろう。死の過程が分かったからといって,死は依然として近づきたくないものだし,その恐怖に対処できるとは思えない。それに,死が遠い今の状況ではなおさら,恐怖である死についてわざわざ考えたりしないだろうとも思う。だけどこの本は,死と向き合えるようになるヒントを示唆していた。それは,死に対する考えや気持ちを人と共有することだ。死が迫っている患者にとっても,病院で彼らと接する医療スタッフにとっても,死に関する思いを安心して他人と共有できることが死の恐怖に対抗するために有効であった。人はやはり,一人で生きて死んでいくようには作られていないらしい。
この死の過程は,死だけでなく,死のようなとてもじゃないけど簡単には受け入れることができないようなものを受け入れざるをえないときにも起こりうる心理的変化だと思う。自分のことや他人のことを理解したいときに,この5段階を通してみるとこれまでとは違う解釈が可能かもしれない。
死を考えたくない,というのは今に始まったことではない。何かの本で読んだことがあるが,多くの人は思春期に,死について考えることがあるらしい。ご多分に漏れず,私も小学校高学年くらいのとき,よく死について考えていた。死んだらどうなるんだろうということをぼんやりと考えていたが,答えが見つからいばかりか,自分が死んだ後でも変わらずにどこまでも過ぎていく時間の流れを想像しては,怖くて怖くて仕方がなかった。また,高校生の頃,入院している祖父のお見舞いに行く気がなかなか起こらなかったことも,死に近づきたくない気持ちがあったからだろう。長く元気に働いていた祖父は,動くこともご飯を食べることもできなくなり,寝たきりで,身体に固定したチューブから流れてくる栄養をとっていた。しかも,目はばっちり開いていて,何かを訴えているように見えるのに,お話することはできないし,こちらからの問いかけが聞こえているかどうかもよく分からなかった。私は祖父のそんな姿を見るのが辛かった。年をとると人ってこうなってしまうのかとか,祖父は今の自分の状態をどう感じているんだろうとか,生きてるってなんだろうとか,いろいろ思うところがあった。そういうことを考え続けるのは嫌だったし,そんな祖父の姿も見たくなくて,なかなかお見舞いに行けなかった。そして最近では親である。両親ともにまだ健在だが,帰省する度に両親ともに老いていっていることを実感する。そのことを受け入れきれていない。
の著者エリザベス・キューブラー・ロスは,自身の研究を踏まえて,「死はこれまで人間にとってつねに忌むべきことであり,今後もつねにそうでありつづけるだろう」ということが分かったと述べている。それは,私たち人間が無意識のうちに,「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっているからだという。だから,「つねに他人による外部からの悪意ある干渉のせい」で私たちは死ぬのであり,「自然現象や老齢のために死ぬなんて考えられない」としている。死への恐怖は普遍的なもので,それこそ自らが受容するまで私たちは死と戦い続けるのである。
リンク
エリザベス・キューブラー・ロスは,余命わずかの多くの患者から,今どういう状態で何を求めているのか,何に心を砕き,日々どんなことを考えているのかなどを聞き,1人ひとりの患者のリアルな姿を知ろうとした。そして,人間が忌むべき死とどう戦うのかを記述した。それが,5段階の死の過程である。
第1段階は,「否認と孤立」である。病気を宣告されるなどして,自分が死ぬことに直面させられたとき,だれにでも起こるのが否認である。私にそんなことあるはずないとし,自らの死を否定する。否認は,不快なことや苦痛なことに対する自己防衛反応だ。そして,この否認は死ぬ本人だけでなく,その家族や友人などの親しい人にも生じるし,その人を治療する医療スタッフの間にも起こる。周囲の人間がその人の死を否認したままその人に接するとき,その人は孤立感を深めることになる。それは,その人が体験している自らの死との戦いを周囲の人と共有することができなくなるからだ。周囲の人が死を否認するとき,その患者は元気になったふりをしたり,病気や死に関する話し合いを避けることを見出している。
第2段階は,「怒り」である。自らの死を否認し続けることができなくなったとき,患者の心には「怒り・激情・妬み・憤慨」といった感情が湧いてくる。そして「『どうして私なのか』という疑問が頭をもたげる」という。何をしても何を見ても不満を感じ,怒りの感情はあちこちに向けられる。そして怒って何かを要求する,文句を言うなどの直接的な行動のほか,一見すると怒りとは関係なさそうな間接的な行動を通して,怒りは表現される。患者が怒りの状態にあるとき,周囲の人間がするべきことは,患者から向けられた怒りを自分個人に向けられたものとして受け取らないことである。そのように受け取り,患者を説き伏せようとしたりしようものならますます怒りは増幅する。それと同時に,患者のそばにいて話を聞き,怒りを受け止めようとしていくことである。周囲の人が患者を受け入れていくことで患者は自らの怒りをしずめていくことができる。
第3段階は,「取り引き」だ。避けられないと認識した自らの死を先延ばしにするために,交渉を試みる段階である。これができたらそれ以上は望まないので,どうかそれまで延命させてほしいと願う。しかしその望みが叶っても,さらなる延命を望むのが常である。
第4段階は,「抑鬱」である。抑うつは喪失感から来るものであるとしている。喪失感を感じる原因はいろいろだが,自らの身体が思い通りに動かない,経済的な負担が増える,職を失うなどの反応的な抑鬱と,これから家族と過ごすことができなくなる,など自分の死後を考えたときにみまわれる準備的な抑鬱がある。準備的な抑鬱の段階にいる患者は,その前に経てきたどの段階よりも死に対する覚悟ができ,自らの死を落ち着いて受け止めることができるようになってきている。
そして第5段階が,「受容」である。否認や怒り,喪失感を感じる段階を経て,自らの死を静観する,感情が欠落した状態である。このとき患者は,「しだいに長い時間眠っていたいと思うようになる」としている。そして,「まわりに対する関心が薄れ」,「一人にしてほしい,せめて世間の出来事や問題には煩わされたくないと願う」という。また,周囲の人がただその患者のそばにいて黙って手を握ることは,患者にとって意味のあることとなる。
これらの5段階は,全ての人において順に進んでいくとは限らない。部分的な否認は、第2段階や第3段階でも現れるし、先に進んではまた戻ってを繰り返したり,どこかの段階でとどまったまま死を迎えたりもする。しかしいずれの段階においても,患者は生き続けられるという希望を捨てていないとエリザベス・キューブラー・ロスは述べている。
私はこれから,親しい人の死や自分の死と向き合っていくことができるんだろうか。読んだ後,そんなことを考えた。おそらくそう簡単にはできないだろう。死の過程が分かったからといって,死は依然として近づきたくないものだし,その恐怖に対処できるとは思えない。それに,死が遠い今の状況ではなおさら,恐怖である死についてわざわざ考えたりしないだろうとも思う。だけどこの本は,死と向き合えるようになるヒントを示唆していた。それは,死に対する考えや気持ちを人と共有することだ。死が迫っている患者にとっても,病院で彼らと接する医療スタッフにとっても,死に関する思いを安心して他人と共有できることが死の恐怖に対抗するために有効であった。人はやはり,一人で生きて死んでいくようには作られていないらしい。
この死の過程は,死だけでなく,死のようなとてもじゃないけど簡単には受け入れることができないようなものを受け入れざるをえないときにも起こりうる心理的変化だと思う。自分のことや他人のことを理解したいときに,この5段階を通してみるとこれまでとは違う解釈が可能かもしれない。
登録:
投稿 (Atom)