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2018/04/23

言葉のお話

「言葉」にはいつも困らされる。「この言葉の意味ってなんだ?」「この言葉ってこういうとき使えるんだっけ?」「どの言葉を使えば言いたいことを的確に伝えられるんだ?」「どの言葉を使ったら相手に理解してもらえるんだ?」「どういう文章にすればおさまりがいいんだ?」「こういうふうに言ったら/書いたら面白いと思ってもらえるかな?」…とまぁこんな具合に,挙げだすとキリがない。私はちょくちょく「言葉」に悩まされ,ときにイライラし,たまには喜びも得ている。

そのせいなのかもしれない。私が「言葉」に関心があるのは。以前のエントリで書いたこと「言葉」という便利で不都合な存在にも少々関連するが,コミュニケーションの場では,言葉自体の性質と,言葉に対する自分と相手の認識のズレによって,摩擦が生じやすい。だからこそ,使う言葉を丁寧に選び的確に使わなくてはならない。そうすれば,多少なりとも摩擦は減らせる。最近はそんなことを意識させられる毎日である。

そんな日々を送る矢先,ある講演を聞く機会に恵まれた。三省堂で国語辞典を作っている,飯間浩明氏による「ことばが変化するってどういうこと?~国語辞典をつくる視点から~」いう講演だ。非常に分かりやすい内容の講演だった。主な内容は,ことばの意味の変化とそれによって起こりがちなコミュニケーショントラブル。それに私たちはどう対処していくのがよいか,また,それに辞書はどういう解決策を提示するか,であった。飯間さん,本当に言葉を一つ一つ吟味しながら話していたように思う。ゆっくり考えながら,落ち着いたトーンで終始お話されていて,言葉を選んでいるというのがよく伝わってきた。

 飯間さんが挙げていたコミュニケーショントラブルの例で思わず食いついてしまったのが,「おもむろに」と「せいぜい」いう言葉にまつわるもの。どちらの言葉も,世代によって認識している意味が違うらしい。「おもむろに」は,年配者はその漢字「徐に」の通り「ゆっくり」と認識しており,若者は逆に「突然,急に」の意味で認識している。ちなみに私は例に漏れず後者の意味しか知らなかった。「せいぜい」については,年配者では主に「精一杯」と認識しており,若い人では「(どうせたいしたことはできないだろうけど)」というニュアンスを出したいときに使っている。こちらも私は後者の使い方しか知らなかった。そういうわけで,同じ言葉の意味を異なって認識している人同士が会話をすると意思疎通が図れなかったり,トラブルが生じたりするわけである。そういう状況に陥ると,人は相手の認識に対する批判に走りやすい。そこで飯間さんは,「新しい意味や使い方があるという可能性を考えましょう」というようなことを提案していた。また,そのような言葉の意味の変化に対して,辞典では,意味の正誤を書くのではなく,いつ頃から,またはどのような集団の中で使われる意味なのか,を明記するようにしている,ということを話されていた。

辞典づくりの話は,三浦しをんの「舟を編む」(http://yukiron.blogspot.jp/2018/02/blog-post.html)で少し学んでいたから,その大変さはなんとなく理解してたつもりでいたけど,今回飯間さんの話を聞いて,本当に本当に大変な作業だということがリアルに伝わってきた。いつ頃から,どのような集団の中で使われる意味なのか…それについての信憑性・妥当性のある答えを導くために,一体どんだけのことを調べなくてはならないか…。想像しただけで気が遠くなる。

ところで,なぜ言葉の意味は変わるのだろう。「おもむろに」はなぜ「突然,急に」の意味でも使われるようになったのか。「せいぜい」はなぜ,マイナスのニュアンスが伴うようになったのか。おざっぱに言ってしまえば,誰かが何かのきっかけで使い出して,それが別の人からも認知されるようになり,そう使うのかということでどんどん広まっていった,というのが定番のルートだと思われるが,その詳細なプロセスが気になる。講演後の質問の時間が短くて,飯間さんに聞くことはできなかった。でも,これこそ調べて答えが出てくるのか難しいところである。結局,言葉の意味の変化というのは,気づいたときにはもう変わっているのだ。つまり,紆余曲折を経たあと。しかも,言葉が変化する場は複雑な人間社会。複雑な人間社会での紆余曲折をどうやって辿るというのか…。これもまた気の遠くなる話である。

ところで今回の講演は,町田市民文学館ことばらんどで開催された。少し前,ここでは本の装丁展をやっていて,それも観てきたのだがとても興味深かった。明治〜戦前に出版された本‥夏目漱石とか、谷崎潤一郎とか、近代を代表する日本文学の面々の本に,竹久夢二とか、棟方志功とか、東郷青児とか、これまた日本美術を代表する面々による装丁が施されている。今の時代の装丁は、カバーのデザインが凝っていて本の表紙は質素,というのをよく見るが、当時カバーはなく、表紙に直接デザインされていた。

「本は、書かれた中身だけでなく、装丁も含んで1つの作品」といったことが,誰かの言葉として展示してあったけれど、本当にそんな感じであった。表紙からでもいろいろなことが伝わってくる。面白いなと思ったのは、齋藤昌三の「げて装本」シリーズ。白樺の樹皮や、新聞紙型、酒袋、竹の皮など、紙以外の素材で表紙を作っている。書物としては扱いにくそう‥でもコレクションには楽しいし、なんといってもアイディアがステキだ。