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2014/08/06

微分の歴史

「オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ」(吉田武著、東海大学出版会、2010)という本を使うゼミに参加した。本の内容を紹介すると、オイラーの公式「ecosθisinθ」を導くことを目標に、関連する数学を解説していくというもの。参加者は、本の章立て(微分、積分、三角関数などの数学の分野名になっている)に沿って発表をしていく。

私は微分を担当した。微分は高校時代に得意だったから選択した。微分ってどういうことだろう?といろいろ調べていくうちに、微分っていつできたんだ?と歴史が気になってきた。

微分は、アイザック・ニュートンとゴットフリート・ライプニッツによって成立した。彼らは同時期にそれぞれ別のアプローチで接線問題や求積問題に取り組み、微積分学の基本定理(微分と積分は逆の関係にある)を発見した。ニュートンは微積分学の基本定理を1666年に発見、1704年に発表し、ライプニッツは1684年に発表した。
時系列で見ると、ニュートンによる微分の発見と発表の間にライプニッツの発表が入っているため、どちらが微分を先に発見したのかで一悶着あったようである…

微分の概念は「接線」の概念から生まれたものだ。古代ギリシャの時代には既に接線の概念が存在していた。ユークリッドの幾何学を中心とした当時の数学において接線は、「円と1点のみを共有する直線」と定義された。しかし、接線についての本格的な議論は長い間なされず、時代は中世に。
数学において中世の最大の出来事の1つは、デカルトによる座標の発明だ。座標によって幾何学と代数学が結びついた。定規やコンパスで書かれていた直線や曲線は、座標や代数の概念を使ってより厳密かつ正確に示すことができるようになった。そして、接線は注目を集めるようになる。
デカルトやフェルマーなどの数学者が、曲線に接線を引く方法(「接線問題」)の解決を目指した。デカルトは、方程式を使って楕円上の1点における法線を導き、接線を求めた(1637年)。フェルマーは矩形の面積を題材に、無限小の概念(無限小数e)を取り入れた極値決定法を考え、その方法を利用して接線を引いた(1638年)。しかしどちらも、平面上のどんな曲線にも接線が引ける方法とは言えなかった。

接線問題を解決に導いたのはニュートンだ。ニュートンは、曲線や直線は小さな点が時間の経過とともに動いた軌跡である、という考えのもと、動点の進行方向である接線の傾きを計算する方法を考案した。無限小の時間を表すο(オミクロン)という記を取り入れ、動点がx軸方向に進む距離をxο、y軸方向に進む距離をyοとし、これらの値を曲線の式に代入して、最後にοを含む項を捨てる。この方法は「流率法」と呼ばれている。
一方ライプニッツは、今日の微分で使用されている、dxdyなどの記号を生み、曲線と曲線上のある点における接線と垂線、軸で作られる三角形の辺の比を、微小な三角形の辺の比と等しくなるようにする、という考えから傾きを求めた。また、定数の微分や加減乗除の公式を発表した。

ニュートンとライプニッツによって提示された微分は、「無限小」の概念が十分に論理付けされていなかったため、今日のような厳密さが欠けていた。しかし、微分の概念は、力学や天文学など数学を用いる諸科学分野で応用可能、かつ実用的であったため、複数の科学者によって普及していった。微分概念の普及や発展に貢献した数学者は、ベルヌーイやロピタル、オイラー、ラグランジュ、ラプラスなどである。

微分学が厳密性を伴うようになったのは、19世紀に入ってからだ。仏の数学者コーシーは、1821年に発表した「解析教程」で「極限」や「無限小」、「連続関数」の概念を定義し、解析学の基礎を刷新し、その後デーデキントやカントールによる実数論などを経て、今日の微分の基礎が完成した。

正直、上記した各数学者の考えた理論を完全に理解したとは言えないのだが、微分成立の歴史をざっくりまとめるとこんな感じになる。時の中で1つ1つ論理性に欠けるところをつぶし、普遍的に成り立つものへと発展していく過程が見て取れる。
今あるものは、たくさんの人の積み重ねによって出来上がったもの。数学に限った話ではない。他の学問だって、お店に売ってる商品だって、人間だってそう。