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2016/10/18

エッセイライティング

英語でエッセイを書くのは,長いことかなりの重荷だった。数年前,英検1級取得とTOEFLでの高得点を目指して始めたエッセイライティング,なんとしてでも時間内にしっかりとしたエッセイを書き上げたかったのだけど,書くのに時間はかかるわ,内容は薄いわでイライラしていた。とにかく練習しなきゃと思って,エッセイの書き方の本とか英語の表現集とかも買ってみた。でもどう勉強したらいいかもよくわからず,結局続かなくて,そのまま勉強がおざなりになってしまった。でもその過程で1つ気づいたことがあった。私がちゃんとしたエッセイを書けなかったのは,英語での表現力とか,エッセイの形式に慣れていないなどの英語マター以前の問題だったのだ。つまり,何を書いたらいいか分からない,内容を練ることができていない,などの日本語で十分やれるところが問題だったのである。(エッセイは,introduction, body, conclusionという構成で作る。introductionで自らの主張の概要を書き,bodyではその主張の理由づけや詳細説明を書く。conclusionでは,introductionでの主張をパラフレーズすればよい。私はbodyを書くことができなかった。)それに気づいてからというもの,苦手意識はますます強くなり,結局英検でもTOEFLでも,ライティングはあまり得点できなかった。テストが終わってからはすっかり放置していたので,しばらくエッセイライティングをすることもなかった。

大学では,英作文の授業が開講されている。中途半端になっていたライティング,この機会にどうにかしようと思って履修してみることにした。そして,数年ぶりにエッセイを書いてみた。数年前からの苦手意識を引きずったまま授業に臨み,与えられたお題について書き始めたわけだが,書いてみるとどうだろう,数年前より明らかにスムーズに書くことができていた。もちろん,エッセイの書き方は,イギリス人の先生からレクチャーされていたわけだけど,どういうわけか,あんなに昔悩んでいたbodyの部分がけっこうすんなり進んだのである。当時の私と今の私,何が一体違うのか。人生経験も積んだし,英語力も上がった。でもそれだけじゃなくて。当時の私は正しいこと,ちゃんとしたことを書こうとしすぎていたのではないのだろうか。おかしな理由づけだと言われないように…,その理由,穴だらけと言われないように…,しっかりしたものを書かなくちゃ…,などと気負い過ぎていたような気がする。私にはもともとそういうきらいがあるうえに,ライティングの本に載っているサンプルがあまりにも優等生な回答だったからなおさらビビっていたのだと思う。だから,そのお題について一般的に言われているようなことを書きがちになっていた。でもそれは自分の経験から生まれてきたものではないから,文章が続かなかったのだろう。

授業での私は,昔あれほど気にしていたことをさして気にすることなく,自分の経験と知識から自分の意見と主張を書いていた。案外するすると出てくるもので,自分でもけっこうびっくりした。あれ,私エッセイ苦手だったんじゃなかったっけ?と。先生はエッセイに「正しい答えはない」と言っていた。それはつまり,何を書いてもいいということ。自分の主張とその主張を持つにいたった経緯(そう主張する理由)が丁寧に書かれていたら,それでOKなのだ。もう少し練習したら,エッセイへの恐怖心はほぼなくなることだろう。

2016/09/26

経験や感覚で掴んでいることを言語化すること

自分が経験や感覚で掴んでいることを言語化するのが難しい,最近仕事をしているとよく感じることだ。

私は個別指導塾で中学・高校生に英語を教えているのだが,担当しているある高3生の生徒は,英語の語句整序問題(提示された語句を並べて正しい英文を作る)ができない。自分でも苦手だということを把握していて,困っている様子。彼はそもそも英語が得意ではなく,問題形式によらず解けない問題がまだ多いのだが,それでもなんとか語句整序問題解けるようにならないものか,と解き方のコツみたいなのを見つけようと試みた。

まずは彼に,語句整序問題をいつもどう解いているか聞いてみた。すると,「提示された語句を見て,熟語になったり,つながりそうなものをまずつなげる。あとは適当にならべる。」との答え。(て,適当に…!?)思わず「おい!」とツッコミたくなるが,やり方が分からなかったら適当に並べるしかないか…,と思い直し,私自身,語句整序問題をいつもどうやって解いているんだっけ?と振り返ってみた。ん!?私の場合,提示された語をじっと見てるといつのまにか並び変わってちゃんとした文作れてることが多くないか!?…振り返った結果そう思ったが,それじゃ何のアドバイスにもならない。ということで,実際に問題を解きながら自分が何をとう考えて,文を作っているのかモニタリングしてみた。

モニタリングした結果,いくつかコツみたいなのが見えてきた。まず彼が話していた,語句同士でつながりそうなものを見つける,というやり方。これは私も実際にやることがあった。熟語の知識があることや前置詞の使い方などを知っていることが前提だが,決して使えない方法ではない。デメリットがあるとすれば,語句同士を正解とは別のつなげ方をしてしまい,それにとらわれて他の語も並べられなくなる,ということくらいか。ほかには,主語と動詞を把握することが挙げられる。英語の文は命令文などの一部を除き,必ず主語と動詞があるから,それを見つけてセットにしておけばいい。日本語文があれば,それをよく読んで見つければいい。日本語文もなく,主語がどれか見分けづらいときには,動詞の形を見て主語を見つける方法もある。あとは,これは日本語文がないと厳しいが,説明されるものを先に持ってきて,説明するための単語をあとにくっつけるということ。関係代名詞を考えると分かりやすいのだが,英語はまず核心となる単語や文を発して,あとに説明を加えてより詳しく説明したり,話を広げたりしていくことが多い。そういえば,英語圏の住所の書き方もこんな感じじゃないか。日本とは逆で,彼らは番地から,町,州やエリア,国へと広げていく。

早速この話を彼に伝えてみた。が,しかし,語句整序問題ができるようになった様子はない…。何が違うんだろう?当たり前だが私は彼よりも英語を勉強している時間が多い。だから,知っている単語の数,熟語の数が多いし,読んだことのある英文の数も断然多い。それで,語句が正しく並べられていない英文を読むとなんとなく違和感を感じるし,こういう意味の句はこの場所には来ないとか,この語がこの語とくっつくことはないとか,日本語でこう来たら英語ではこう書けるとか,経験的に,感覚的に掴んでいたりする。でもそういうのは,どう言葉にして伝えたらいいのだろう。もちろん参考書などで調べて,ルールとして明文化されているものはそれを使って説明するのだけど,見つからないものは,「そういうもんなんだよね…」としか言えず,なんか心苦しい。

「もっと勉強して!」で片付けたくなく,どうしたらいいか模索中である。

2016/09/25

気づけば4年,オンライン英会話

オンライン英会話を始めてから,今月で4年が経った。オンライン英会話始めたのそういえば今頃だったなーと思って登録日を調べたら,2012年の9月17日。2~3ヵ月間休会していたたことが一度あったけれど,それ以外は1日1回ペースでゆるく続けている。もはや生活の一部だ。

オンライン英会話は楽しい。長年続けて,何度も予約している講師と話すのは,勉強というより友達とのおしゃべり感覚になっている。4年前の始めたころは毎回緊張しっぱなしで,相手の言っていることが聞き取れない,聞き取れても返す言葉が浮かんでこない,言いたいことがあっても英語でどうどう言ったらいいか分からない,口ごもったり焦ってとんちんかんなことを言ってしまう,という感じでやるたびにどっと疲れ,みじめな気持ちにもなっていたが,さすがに回数を重ねれば慣れてくるもので。次第に,とりあえずなんでもいいから思ったこと伝えようという開き直り(9割)と,焦らずゆっくり考えてしゃべろうという自己コントロール(余裕があるときの1割)がむくむくと湧き上がり,結果,英語を話すのにほとんど緊張しなくなったし,なじみの講師にはプライベートをダダ漏らし状態である。

4年間でプライベートな話をたくさんしていたのは,同年代の女性講師。今彼女は講師をやめてしまっているが,彼女とのレッスンは,いつもお互いの日常の話だった。彼女は,最近気になる人がいて・・・とか,アートの勉強をしたいとか,洋服屋を始めたとか話し出し,私は私で,また学校行こうと思ってるとか,友達との間に起こったごたごたとか,仕事の愚痴を話しては,互いに共感やアドバイスを得たりしていた。世の中のイケメンの話で盛り上がる女性講師もいる。韓国の俳優とか,スポーツ選手の○○がかっこいいに始まり,こういう人がタイプでとか,こういう人がモテるとか,互いの国の恋愛事情を話している。一方で,私が大学で学んでいることに興味を持つ講師もいる。講義でこんな話を聞いたとか,心理学の理論とか,自分の研究について説明したりすると,それについて質問がとんで来る。自分のしていることに興味を持ってくれるのはやっぱりうれしい。

こんな感じで4年続けてきて思うことは,レッスンを自分でコントロールしないとなー,ということだ。オンライン英会話の環境に慣れすぎてしまった。友達感覚で話せる心地よさはいいけれど,英語話せた!楽しかった!で終わっちゃっては,お金を払うことにあまり意味がなくなる。英語を使うことに抵抗がなくなった今,講師の使う表現や使っているニュースサイトの単語,表現をもっと吸収し,自分の表現にしていきたい。

ちなみに,私が登録しているオンライン英会話は,キーアイというところ(http://www.key-eye.net/)。英語で話す機会を欲していた当時,いくつかのオンライン英会話サイトを比較・検討した結果,ここに行き着いた。決め手は24時間開講制と1回あたりの料金の安さ。24時間空いていれば,レッスンの予定を組みやすい。自分の予定や生活パターンを無理に調整することなくレッスンを予約できるし,生徒の予約が分散するから,土日や朝,夜など混んでいる時間帯にほかの生徒とバッティングして,レッスンが予約できないなんてことも避けられる。だから,定額制でも支払ったお金が無駄になるリスクは少ない。料金はいくつかの定額プランがある。プランの改定があって,始めたころより若干料金が上がったが,許容範囲なので続けている。どの講師に予約を入れるかで異なるのだが,現在の私のレッスン単価は200円(25分間)だ。レッスンの内容は受講者次第。キーアイがいくつかフリーのテキストを持っているのでそれを使って進めることもできるし,ただ単に会話するだけでもいいし,資格試験の対策もやってくれるらしい。私は大体,英語メディアのネット上の記事を音読し,それについて講師と話すという感じで進めている。分からない単語の発音や意味は聞けば教えてくれるし,自分の発した英語にミスがあれば,指摘し,ベターな表現を教えてくれる。

2015/08/20

ニュアンスが大事なの

ここのところ、マーク・ピーターセンの書いた「日本人の英語」シリーズ3作を読んでいた。「日本人の英語」、「続 日本人の英語」、「心にとどく英語」だ。20年近く前に出版された本だが、とても勉強になった。というのも、日本語にはないけれど英語にはある考え方や概念を日本語で説明してくれているからだ。たとえば冠詞と単数・複数の区別。英語には名詞の前にa, an, theなどの冠詞をつける場合があり、しかも複数形と単数形使い分けているが、日本語は冠詞はなくてOKだし、複数にするか単数にするかを文をつくる度に気にしない。だから日本語話者はたいてい、この名詞にはどの冠詞をつけるのがいいのか、複数形にしてしまうのがいいのかと悩んだり、冠詞を付け忘れたり、ということになる。私がいつも経験していることだ。一方英語話者は、本によれば、その名詞を発する時点でどの冠詞を使うか、複数形にするのかは既に決まっている。名詞にはその名詞が表す概念があり、冠詞にもその冠詞が表す概念がある。そして名詞と冠詞を組み合わせた時、組み合わせの違いで語同士の間にニュアンスの差が現れる。それをふまえたうえで話者は、言葉を発する際に自分の伝えたいことが伝わる語を選択しているのである。

言葉のもつニュアンスは、自分の言いたいことを相手に正確に効果的に伝えようとすればするほど大切になってくる。母国語ではない言語を使うならなおさらだ。私は中学レベルの単語ですらニュアンスをよく分かっていないと感じることがある。例えば「可愛い」ということを伝えたいとき、cuteを使うのがいいのか、prettyを使うのがいいのか…。前置詞も一通り中学校で習ったけれど、熟語として暗記している使い方以外、それぞれの前置詞の使いどころや、前置詞を使うべきかどうかの判断がいまいちできていない。和英辞典を使って日本語のある単語に相当する英単語を調べたとき、2つ3つ英単語が載っているときも困る。どれを使うのがいいのか…。神経質に考えすぎる必要はないが、伝えたいことが伝わらないことを避けるため、できるだけ適切な言葉を選びたい。英英辞典を使いこなせたら、この悩ましさは多少和らぐと思われる。英語を英語で説明しているからニュアンスの違いも示されている。それを感じ取り、身に付けることができたら今よりスムーズにコミュニケーションできるはず。あとは「日本人の英語」シリーズのように、英語の感覚を日本語で伝えてくれるものを活用する。英語のことでも日本語で理解できるにこしたことはない。そして日々の練習。英英辞典などで学んだことを英語を使うときに適用し続けること。

日本語にはないけれど英語にはある概念や考え方、英語の単語がもつ微妙なニュアンスは、中学校や高校での英語教育を通じても学ぶことができたらといいなと思う。少なくとも、私が中学や高校で英語を学んだとき、そういう教育はなかったし、現在塾で英語を教えていても、生徒たちが学校でそのようなことを教わっているという印象を受けない。私は高校時代、英語と日本語は容易に変換可能であり、構文や単語を暗記すれば済むと思っていた。それでも受験はどうにかなるし、確かに私の英語力はこのときの知識に支えられているところが大きい。でも、英語を使って自分の伝えたいことを伝え、それが相手に伝わる、相手が自分に伝えたいことを理解する、といった実践的なコミュニケーションをするときには、それだけでは十分ではないことも痛感している。それに、そういう微妙なニュアンスの違いや考え方の違いを知りながら英語を学んでいくほうが、ただ機械的に暗記するよりも頭に残りやすいし、応用がきくし、楽しいのではないだろうか。英語だって日本語と同様に、話者の意図や思いが込められて発されているのだから、そこにもっと注目してもいいと思う。

2015/04/26

英会話の功罪

大学で勉強するようになってから、英語の文献をしょっちゅう読まなければならなくなった。指定された英語文献の逐語訳の発表や、その文献に書かれている内容の解説を授業で行うから、文献の内容を頭に叩き込んでおかないと授業に出てもあまり意味がない。このときに要求される能力は、文献の内容を正確に理解する能力である。文献全体の内容を大まかにつかむ、というのでは確実に不十分だ。そして私は精読が苦手なのである。

これまでに何度か英語との付き合いをこのブログに書いているが、私は英語が好きだ。好きだからそうしたのか、そうしたから好きになったのか、とにかく私は英語力を高めるのにこれまで多くの時間を費やしてきた。だからそれなりに英語を読んで書けるし、英語でのコミュニケーションに特に抵抗もない。しかし精読と逐語訳はどうも苦痛である。

精読と逐語訳が苦痛な理由は、慣れていないかつ、面倒だからである。英語は継続的に何年も学んでいるが、高校の受験対策以降、英文の精読および逐語訳をほとんどやっていない。でもこれには理由がある。私が大学に入って英語の再学習を始めたのは、あくまで英語の聞く・話す能力(英会話力ともいえる)を高めたかったからである。英会話力を高めるのに精読や逐語訳は必要ないし、むしろ妨げになるとさえ思っていた。それは、会話には流れがあるからだ。相手の言っていることを即座に理解し、それに対して意味のない間をとることなく返答する、これができるようになりたいと思っていた。だから英語を英語のまま理解することをかなり重視し、会話中日本語を排除することを意識してきた。そのかいあってか、「英語を英語のまま理解し、日本語で考えることなく英語で返答する」ことがある程度できるようになった。

しかし、私はこの能力を重視しすぎたために、読む・書く能力がいまいちになっているのでは、と最近感じている。会話で力を発揮してくれている、「英語を英語のまま理解し、日本語で考えることなく英語で返答する」スキルは、ネイティブ並のものでは到底なく、読む・書く能力(英語ネイティブ向けに書かれた記事や本を読む、英文エッセイを書く)が求められる状況ではそれほど役に立たないのである。例えば、読むにおいては、文章の大体の内容はとっさにつかむことができるが、細かい内容をある程度の早さで把握し、理解することができない。ある程度の早さを持って読もうとすると混乱するし、内容を間違えて把握していることが往々にしてある。間違える理由は大体、辞書を引いて確認しなかった/文の構造を間違えて把握した/指示代名詞が指すものの取り違え、である。精読せざるを得ない状況に最近なって初めて、自分の大雑把な(適当な)内容の把握っぷりに恐ろしくなった。そして電子辞書にありがたみを感じ、「成句検索」という便利が機能があることを知った…。書くにおいては、英語だけでは複雑なことが考えられず、思考が薄っぺらくなるからである。日常会話よりも書くときのほうが断然、内容の明晰さや論理的な流れ、文構造の正しさ、適切な言葉を適切な位置に配置すること、などが求められる。決して会話の価値を低く評価しているわけではないが、英語でエッセイを書くのは相当な時間がかかる。

結局私が苦手なのは、これまでやってこなかった英語⇔日本語の変換作業である。和訳するにしても英訳するにしてもぎこちない文章になりがちだし、時間がかかる。もちろん理想はかねてから私が目指していた「英語を英語のまま理解し、日本語で考えることなく英語で返答する」スキルを高いレベルで持っていることである。しかし、そこに至るには英語⇔日本語の変換作業を繰り返し行うことは避けて通れない、という結論に至った。なぜなら私は、日本で生まれ育ち、日本語を使って思考するのが自然な人間だからである。ということで、前置きが長くなったが、面倒くさがらずに、そして忍耐を持って、英語⇔日本語の変換作業を続けていこうと思う。

2014/11/07

抽象化の技術

人と話をしたり本を読んだりしていると、知的な意味で「この人すごい」と思う瞬間がある。なぜそう感じるのか、それらの人たちの発言を振り返ってみると、1つの特徴が浮かんできた。抽象化の技術に長けているのだ。

ここで言う抽象化の技術とは、現象の要点を取り出し、その要点を別の表現を用いて普遍的な次元・高次元に適応させた形で処理することである。例えば、世界情勢や社会問題に関するニュースを見たとする。まずはそのニュースの内容を把握する。そしてそのニュースの主人公たち(国や団体、個人など)の思想や置かれている環境をふまえつつ構図を読み取り、そのニュースが意味していることを解く。もう1つ例を挙げると、例えば、誰かの悩み相談を受けたとする。まずは悩みを把握し、その悩みに出てくる人物や文脈などから、悩みを生み出している根幹部分を見つけ出す。1を聞いて10を知る、そんな感じだ。

現象を抽象化すると、それまで複雑極まりなく見えていたものが理解しやすくなる。さらに、さまざまな現象から抽象化した複数の概念は、互いに比べたり、組み立てたりできる。そうすることで、問題解決がしやすくなったり、他の現象を抽象化するときに適用できたりもする。

どうしてそんなことができるのか、すごいと感じた人に以前聞いてみたことがある。その人の中では全く自然になされていることなので特別なことはないという。ただ、いつも考えている、とのこと。起こったことについて、こういう場合はどうなるのか、をいろいろなパターンでシミュレーションしているらしい。そこには前提となる知識も必要だが、知識量というよりも、その知識をつないで何かを構想するほうに重きが置かれている。

理屈は分かった。が、修練である。

2014/08/30

話がみえなくて

言葉とは、人が何らかの情報を相手に伝えるための道具である。情報は物質的なモノから非物質的なことまで幅は広い。物質的なモノを表すために使われる際(例えば物の名前などを表す際)、言葉で伝えるのは比較的易しい。同じ時代に同じ文化を共有している同士なら、互いにその言葉が何を表しているかの共通認識が存在しているので、誤解が生じることは少ないと思われる。しかし、観念や感情などの非物質的なこととなると、伝える―理解する、の難易度が高くなる。たしかに、言葉を使えば考えていることや感じていることの大体は誰かに伝えることができるし、誰かが何を考え感じているかを知ることもできる。しかしここで大事なことは、自分がある観念を表すのに使っている言葉と、相手がある観念を表すのに使っている言葉が一致していることである。互いの観念が同じようなもの、少なくとも似ているものでない限り、同じ言葉を使っても通じ合わずに終わるのだ。誰かに何かを伝えようとしたけど、理解してもらえなかった―こんな話は誰と話をしていても起こる。そして本を読んでいる時にも起こる。

本を読んでいると、知っているはずの言葉の入った文章を読み進めているのにもかかわらず、だんだん話が見えなくなっていくことがある。特に、心理学や哲学関連の本を読んでいるとき。読み進めるのをやめて、ちょっと前に戻ってゆっくり読んでいくと、高確率で見つかるのが非物質的な概念や抽象的な概念を表すための言葉である。意識、精神、理性などなど…このような言葉は日頃耳にするしなんとなくのイメージしか自分の中になく、定義を説明できるのかと言われると怪しい。で、辞書で調べてみると、またしても出てくる抽象的な言葉。さらに調べ、読み進めると今度は複数の解釈が出てくる。この時代は○○という意味で使っていた、この学派は〇〇という意味で使っているなどなど。さらに別の辞書を使うとまた違った解釈が出てくる。つまり人による、時代による、定義や解釈の揺れがあり、完全無欠の定義はないのである。なので結局、作者の生きた時代背景を推測しつつ、その言葉の意味を検証しつつまた本を読み進めるしかない。読み続けていると、作者の言わんとしているニュアンスが解けるときもあるし、そのまま解けずに終わることもある。

言葉に完璧な定義はない。そんな中私がすることは、複数の解釈を咀嚼し、その言葉に対する自分の解釈、ニュアンスをはっきりさせておくことである。解釈を咀嚼することでその言葉が社会でどう使われているのかを知り、その言葉と自分の中にある観念を結ぶ。その作業は誰かがその言葉に込めたニュアンスを理解するうえでも、自分の伝えたいことが意図している通りに他の誰かに伝わるためにも役に立つと思う。

2014/08/04

ドイツ語学習での覚書

この4月からドイツ語を習い始めた。週3回、各90分の授業。授業はそれぞれ「文法」「会話」「読解」に重点を置く、という形でドイツ文学やオーストリア文学が専門の3人の先生から習っている。

ドイツ語は興味があったわけでもなく、ドイツ語を話す知り合いや友達がいるわけでもなく、触れる機会といったら、たまーにドイツ映画を観るくらい、といった程度。完全な初学者で、習い始めてから2ヵ月くらいはドイツ語の仕組みがいまいち把握できず、英語の仕組みともごっちゃになり、予習や宿題が億劫で仕方がなかった。しかし、続けてみると慣れるもので今ではそこそこ楽しくなってきている。

この数ヵ月間のドイツ語学習を振り返ってみると、ドイツ語の理解が進むきっかけがあったように思う。

1つめは、音とそれに対応する文字が頭の中で一致し始めたことだ。これは、単語を見てその単語を発音できる、または、単語を聞いてその単語を文字に起こすことができる、ということである。
そういえば語学の教科書を見てみると、その言語に使われる文字とその発音がまとまっている表や、発音のルールが一番最初のセクションに載っているものは多い。今まで特に意識したことがなかったが、音と文字の対応というのはけっこう重要なのかもしれない。
実際これがある程度できると、音と文字の関連付けがあやふやなときより、単語が記憶に残りやすく、意味も覚えやすい。単語の音だけを覚えようとしても、似ている音を混同して間違って覚えていたりすることがある。単語のスペルだけを覚えるにしても、記号にすぎない文字の並びを写真のようにそのまま再現するのは単語数が増えるほど厳しくなる。しかし、音と文字が対応すると、頭の中で単語の外観のようなものが正しく確立される。そして、その単語が表しているイメージや観念(単語の意味)がそこに入り込み、1つの単語が完成する。
もちろん、いくら単語の音と文字で外観を支えても、時間とともに中身の意味がすっかり抜け落ちるいうのは避けられないので、要反復練習になるわけだが…

2つめは、文の構造を捉えられるようになったことである。文を単語もしくは句レベルに分解して、単語や句がどういう役割を果たしているか(主語、目的語、述語、この句はどの単語、句に係っているのかなど)を捉え、文の意味を理解する。もちろんこれには文法の基礎を習得することがなんといっても不可欠。文法はとにかく覚える、としか言いようがないのだが、文法を分かっていることが果たす役割は大きい。もちろん、ある程度のレベルの短文は単語の意味を知っていれば対処が可能である。しかし長文、複文になってくると単語の意味だけでは収拾がつかないことはしばしばある。しかも、テストでもない限り知らない単語は辞書で引けばいいが、文法はそういうわけにはいかない。文法が分かっていれば、文が自ずと整理されて解けるようになる。
文法の重みは、英語学習を振り返ってみても実感する。ここ数年来、会話で英語を使うことを目的に英語学習をしてきたが、会話でよく使うフレーズを覚えたところで広げられる表現の幅には限界がある。それよりも英文法をマスターしたほうが自分の伝えたいことが伝えられるようになる。言いたいことを口に出せるかどうかは慣れや訓練の問題だ。

ということで、私のドイツ語学習は音読と文法を中心に。