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2015/04/12

本レビュー 信田さよ子「母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き」

ここ数年の間に、母と娘の共依存関係について書かれた本をよく見かけるようになった。先日読んだ「母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き」もその1つである。著者が臨床の現場で体験してきたことを元に、いくつかのこじれた母娘関係を事例を使って描き、その母親像を分析し、そんな母娘関係への処方箋を提案する、という内容だ。

母と娘の共依存関係を簡単にまとめると、「愛情である」という認識のもと、精神的・理的に娘を支配する母親と、その母親からの精神的・物理的な施しを受け入れざるをえない娘の不健康な関係である。母親からしてみれば、その行動は娘を想う愛情から起こるのであり、娘を支配しているという感覚は全くない。母親が娘を愛することは、社会において当然またはそれ以上のこととして認識されているため、そこには非難される要素はない。だから娘もその行為を受け入れざるを得ない。娘も社会の認識通り、母親の行為は自分への愛情に根ざしたものだと認識するため、拒否すれば罪悪感と自己否定に駆られるのである。また、誰かに相談したとしても、贅沢な悩みだとか、親の愛情が分からないなんてなどと返され、往々にして娘の「母からの行為を拒否したい」という気持ちは理解されず、しばしば更に悩むこととなる。こうして母と娘のこじれた関係は続いていくのである。

「母が重い」という感覚は私も体験したことがある。特に20代前半のころはそう感じることがよくあった。私が自分で決めることなのに、母が自身の意見を言ってその方向で進めようとするとき、自分でできることなのに、先回りして母がやってしまったときなど、母からの見えない重たい圧力を感じたものである。母に文句を言うと、「あなたのため。心配だから。」みたいなことを言われる。そしてたいてい文句を言った自分を責め、心が痛くなる。まさに、先に述べた共依存のサイクルの中にいる状態である。だからこの本に描かれていた事例を人ごとのようには感じなかった。

著者はこのような母と娘の関係を、社会学的視点を取り入れて解いている。近代以降、国家を構成する一単位としての家族を成立、維持させるために「母性」というものが構築された(母性は本能的なものではない)という立場から、母性の特徴の1つである自己犠牲的態度を問題の出発点とする。自己犠牲的態度(例えば、「あなたさえよければそれでいいの」のようなことば)によって自身を空虚にした母親は、娘と一方的に一体化する。自分を産み育てた母親からの一方的な一体化を受ける娘は、それを母の愛と捉えることとなる。なぜなら、母は皆我が子を愛する、ということが母性の自明的な要素だからである。自分の存在が母に自己犠牲的な態度をとらせていることを認知した娘は、罪悪感を喚起され、抵抗するという選択肢もなくなる。なぜなら自分のせいで被害を被っている母に抵抗することは不正義であり、そんなことをしようとする自分を受け入れることもまた苦しいからである。しかしこの母親の自己犠牲的な態度は、実は偽りの自己犠牲であり、母親自身の欲望実現のための手段である。偽りでない自己犠牲ならば、娘と一方的に一体化する(娘が自分とは異なる他者であるということを否定する)ことはないからである。世間や夫によっておおっぴらに欲望を実現することをよしとされてこなかった母親は、家庭という隔離世界で自己犠牲的態度によってしか自身の欲望を実現することができなかった、ということである。(もちろん当事者である母親は、自己犠牲的態度で自分の欲望を満たそうという意識など持っていない。自分の犠牲は娘のためだと確信している。)これが母親が娘に支配的になっていくカラクリである。

人間の行動は基本的に、自らが快を得るということに動機づけられる(意識していようがいまいが)と私は思っている。だから、欲求が満たされる=快であるため、母親の態度に隠された心理についての分析は腑に落ちる。しかしこのような状況に母が陥ってしまうのは、著者も指摘しているように、社会環境や夫(母からすれば)との関係が絡んでいる。そして、私はこのことがけっこう重要だと思うのだが、母に被害を与えられていると感じる娘自身もそういう母を助長させることに加担している。娘がそのような母親を受け入れているから、母親もそれをよしとするのである。娘が毅然と拒否するならば、いずれ母も態度を変えざるをえなくなるだろう。関係を変化させることはなかなか一筋縄ではいかなそうだが、変化を本当に望むのであればそのために自ら動かねばならない。

2015/04/07

手段としての一人旅

先日友人と旅行の話になった。彼は旅行好きで、年に数回海外に出かけている。1カ月ほど前は、奥さんと幼い娘と一緒に海外リゾートに行ってきたらしい。そして近々、東南アジアを一人旅することを計画している。彼曰く、「家族旅行は家族へのサービスが目的だから。一人旅で自分の自由な時間が必要だよ。」たしかにその通りだと思う。一人旅の醍醐味といえば、好きなときに好きなことができる自由気ままさ。誰かと一緒だったら、よっぽど気心が知れた人でない限りそんなわけにはいかない。そう思うと一人旅は魅力的。だから私も好んで一人旅をよくしてきた。でもここ数年は一人旅をしていない。一人で飛行機や電車に乗っても現地で友人と合流する。それに、昔は頻繁に起こっていた一人旅したいという気持ちも起こらない。この心境の変化はいかに・・・。ということで、一人旅遍歴を振り返りながら考えてみようと思う。

最初に一人旅をしたのは今から約10年前、夜行バスで広島に行ったことだった。広島市内と宮島を観光し、お好み焼きや牡蠣やもみじ饅頭を食べた。広島に着くまでのバスの中では私は恐怖でいっぱいだった。初めての一人旅だったし、夜行バスも初めてだったし、親にも内緒だったから、何か悪いことが起こりやしないかとひやひやだった。広島に着いてからもひやひやは続いていた。でも、地図を見ながら目的地にたどり着いたり、一人でご飯屋さんに入ってご飯を食べたり、山に登ったりしていたらなんだか少し自信がわいてきた。今思えば、とても楽しい旅ではなかったが、一人でそれなりの旅行ができたことが嬉しかった。当時の私は念願だった一人暮らしを始めたばかりの頃で、「自立」ということにとても価値を置いていたから、この一人でできた経験がくせになってしまったんだろう。

それからも一人旅を続けた。国内だけでなく、海外にも行った。初めての海外への一人旅もひやひやものだった。何年もの間行きたいと思っていたベルギーに行ったが、広島以上に大変で疲れる旅だった。言葉が分からないし、街中にアジア人がいなくて疎外感を感じたし、警戒心の低さから危ない目に合いそうにもなった。旅行中は4つの都市を観光して、ワッフルやチョコレートを堪能したが、とても楽しい旅だったとは言えない。だけど、一人で海外旅行できたという達成感のようなものはあった。それにベルギーで一人旅をしたと人に話すと、たいていの人は驚き、感心する人もいた。そしてまた違うところへ一人旅をするのである。

結局私にとって一人旅は、目的ではなく手段だったのだと思う。自立していると実感する/自立していることを他者に示す/他者と自分を差別化するための手段である。自意識過剰の産物とでも言おうか。よく一人旅をしていたころは、○○が観たくて、××が食べてみたくて、でも誰とも予定や行きたい場所が合わないから(あくまでも推測)一人旅をするんだと思っていた。でも今振り返ってみると、それはかっこつきの理由だったように思う。一人旅が自立とリンクしていて、しかも私の周りに一人旅する人がいなかったから、一人旅に惹きつけられていたのだと思う。今は私の中で、一人旅と自立がリンクしていないし、友人の一人旅の話を聞いても特に感心しないし、誰かと一緒に旅行するほうが楽しいと思うから、一人旅欲求が低くなったんだろう。

一人旅の思い出に比べて、誰かと一緒の旅行は楽しかった思い出が多い。好みが合わず行きたい場所に行けなかったこともあったけれど、それ以上に旅行中にした会話とか、一緒に何かをしたこととかが楽しかったこととして記憶されている。それに自分一人では気づかないことに誰かが気づいたりして、いろんな発見ができ充実していた。こういうのが目的としての旅なんだろう。今度一人旅をするとき、それが目的としての旅だったら昔の一人旅とは違う旅になるに違いない。

2015/03/30

読書記 ホメロス「オデュッセイア」

今年度教養科目の1つとして大学で開講されていた「西洋古典学」。世界最古の文学とされているホメロスの「イーリアス」(紀元前7世紀ごろ)を解説する授業だったのだが、最初の授業を受けてみたらけっこうおもしろくて、結局最後の授業まで聴講してしまった。授業がおもしろかったのは、「イーリアス」そのものというよりは、担当の先生によるところが大きい。彼のキャラクターと、彼の古代ギリシャ文学への愛がこんこんと伝わってきたことが、この授業が印象に残っている所以だろう。

「イーリアス」はトロイア戦争での英雄たちの活躍などを描いた叙事詩なのだが、授業で断片的に扱った箇所の内容が分かりづらくて、「イーリアス」を最初から最後まで読み通そうという気が起こらなかった。分かりづらかった理由は、登場するカタカナ名があまりにも多いことと、訳だと思う。結局「イーリアス」を読み通す代わりに「トロイ」を見た。(「トロイ」は「イーリアス」をベースにして作られた映画だが、相違点が多々あるとのこと。)「トロイ」、とても面白かった。

せっかくギリシャ文学の世界に触れたのに、「トロイ」を観て終わりというのもなんだかな~と思ったので、「オデュッセイア」を読むことにした。「オデュッセイア」は、トロイア戦争で活躍した知謀に優れるオデュッセウスが、戦地から漂流しながら(10年かかった)自宅に戻り、元のような生活を取り戻すまでの物語だ。「イーリアス」同様、「オデュッセイア」も吟遊詩人ホメロスによって聴衆に語られた話である。「イーリアス」での教訓を生かし、カタカナ名の多さに耐えることと、別の人の訳本を使うことで最後まで読み通した。相変わらずカタカナ名の多さには辟易したが、「オデュッセイア」、すごい作品だと思う。

「オデュッセイア」に魅力を感じたのは、まずその物語の構成である。文庫本上下巻で700Pくらいになるけっこう長めの話だが、大きく分けると、オデュッセウスのいない生活、オデュッセウスの漂流記、帰ってきたオデュッセウス、の3つに分けられ、漂流記を、オデュッセウスの家があるイタケにおける話で挟む入れ子のような構造になっている(と思う)。漂流記はそれだけでもそれなりに楽しめるが、その前後にイタケでの話が結びついていることで作品に厚みが増していて、二重に楽しめるようになっている。構成もさることながら内容も凝っている。
もったいつけているとも言えるかもしれない。とにかく話の山場になかなかいってくれない。山場的な場面はいくつかある。このあと劇的な展開が訪れることは確実なのに、巧みに引っ張っていてじれったい。聴衆の期待を高める効果があったとされているが。また、ギリシャの神々と人間の関係性も読んでいて面白い。神はちょくちょく人間の前に現れ、互いに話をする。人間と神々が近い距離感で共生している一方、神は人間の運命を操作する。神の意向に沿わなければ、神が許さなければ人間の願いは叶わない。だから人間は神から味方してもらうべく生贄を捧げて願うし、願いが叶えられれば盛大にお礼をする。また神は、ひいきにしている者を全力でサポートするが、恨みを買ってしまえば苦難に陥れられる。神同士の利害や企みも人間に降り掛かってきたりする。神に惑わされ、ときには神を惑わす人間が描かれている。

ホメロスはどんなふうにこの話を紡いでいたんだろう。情感たっぷりに話していたんだろうか。それに、当時どんな人がこの話を聴いて、どんなふうに受け止めていたんだろう。娯楽の1つだったんだろうな…。などとぼんやり思っていたら、日本の琵琶法師が浮かんできてしまったので、ホメロスを表した美術作品を添付して終わりにしようと思う。

日本語版ウィキペディア「ホメーロス」(http://goo.gl/YMPSGt)より
オーギュスト・ルロワール『ホメーロス』(1841)
フィリップ=ローラン・ロラン『ホメーロス』(1812)



2015/03/22

お気に入りの本 米原万里「不実な美女か貞淑な醜女か」

通訳は興味をもった仕事の1つである。英会話を学び始め、ある程度外国の人と話ができるようになったとき、英語をもっと使っていたいと思うようになった。それで英語で食べていける仕事ってどんなのがあるんだろう、と頭の中に浮かんできたのが、通訳、翻訳、英語教師の3つの職業。英語教師は多分いちばん仕事を見つけやすいけれど、いまいち興味を持てなかった。人に教えるなんてなんだかおこがましい感じがしたし、英語を使うとはいえ、英語教師は英語を教えるのが本分である。その目的は、生徒が英語を使えるようにすること。文法とか文の構造とか単語とか、そういうのを日本語で生徒に説明することが求められる。英語そのものにもあまり興味がなかったし、なんか違うと思った。一方、通訳・翻訳はというと、一方が言っていることを別の言語に変換し、もう一方に伝える仕事。2つの言語を使いこなすことが求められるから、英語をもっと使っていたいという欲望にマッチするような気がした。そしてそのころ、「読み書き」よりも「聞く話す」の英語運用力の向上に邁進していたから、特に通訳の仕事に惹かれた。そんなときに出会ったのが、ロシア語同時通訳者の米原万里のエッセイ、「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」読んだエッセイの中で一番面白かった。お気に入りの一冊でもある。
このエッセイは、通訳・翻訳をするとはどんなことなのかを、彼女が仕事で身をもって体験したエピソードを交えながら教えてくれる。通訳と翻訳は、訳すという点では同じだが、取り巻く条件が異なっている。書かれた言葉を訳すのと、聞こえてくる言葉を訳すことの間にはギャップがあるのだ。エッセイに登場する数々のエピソードは、彼女の豊富な語彙によって、状況、エピソードに登場する人物たちの気持ちや行動が詳細かつユーモラスに描写されているから、本当におもしろい。彼女のユーモアのセンスはこの本のタイトルからして明解である。「不実な美女」と「貞淑な醜女」は、ともに訳のことを表現している。訳すという作業は、ある言語の言葉を別の言語の言葉に変換するということだが、それぞれの言語は別の性質を持っているがゆえ、単語の一対一対応で言葉を訳出することができるとは限らない。そのとき気をつけないと、聞き手には分かりやすいが、話し手の真意を汲んでいない訳になってしまう(=不実な美女)。また、たとえ訳出できたとしても、それが聞き手にとって分かりやすいとは限らない(=貞淑な醜女)。はぁ、私もこんなうまい表現を生み出せるようになりたい。でも、このエッセイはおもしろさだけで終わらない。文章から伝わってくる、言葉、言語、訳すこと、異文化に対する彼女の考察は要を得ていて勉強になる。はぁ、私もこんな深みのある考察がしたい。

私が彼女のことを知ったのは彼女が他界してからだったので、実際に通訳をしている姿を見たことはない。残念だ。しかし、前職時に同時通訳者が働いているところを実際に見る機会があった。米国から来たプレゼンターの話を日本人の聴衆に伝えるため、日↔英の同時通訳者を依頼したのだ。3~4時間くらいのプレゼンだっただろうか。3人の同時通訳者が、2人がギリギリ座れるくらいの機材の入ったブースに、ローテーションしながら座り、とんでもない集中力で訳していた。前もって当日使う資料を通訳者に提供し、テクニカルタームの確認などの事前準備を行ってもらっている。とはいえ、話を聞きながら、訳しながら、発言しながら、また話を聞きながら…と長時間続けられるのはすごい。なぜ混乱しないのか。自分でも、簡単な英語の文章を聞きながら同時通訳していこうと挑戦してみたことがあるが、話者が一文言い終わる前に私の頭はいっぱいいっぱいになって訳せなくなった。話を聞いていると訳せないし、訳したことを声に出していると話が聞こえない。プロの同時通訳者たちは一体どれだけの訓練をしてきたんだろうかと思う。

通訳になることはあきらめたが、今でも英語運用能力を磨いているし、ずっと続けたいと思っている。それに、昨年から始めたドイツ語もそこそこ使えるようになりたい。これもひとえに外国語によるコミュニケーションに楽しさを感じるからだろう。そんな楽しさをこのエッセイと共有できるのがまたいい。

2015/03/18

映画レビュー 「マダム・イン・ニューヨーク」

映画「マダム・イン・ニューヨーク」は、主人公に思わず感情移入してしまう映画だった。英語ができず、得意なことはお菓子作りくらいと夫や娘からバカにされていた主婦が、ニューヨークで英会話学校に通い、英語でスピーチができるようになるまでを描いた話。彼女は、いろいろな国出身の人と友達になり、英語を話せるようになったことで自信を持って生きていけるようになる。

この映画を見ているとき、英会話を勉強し始めたころのことを思い出した。主人公が感じていたであろう悔しさややりきれなさ、悲しさは私も体験していたからだ。今から10年近く前、私は友達と香港に行った。初めての海外旅行だ。香港でのある夜、夕食を食べようと入った食堂で、私たちに話しかけてきた人がいた。最初はおそらく広東語で、でも私たちが外国人だと気づくと、英語で話を続けてきた。私はその人が何を言っているのかよく分からなかったし、自分から何かを発することもできず、曖昧な返事と苦し紛れの笑顔しかできなかった。せっかく外国に来たのに話ができず、悲しかった。また別の夜のこと、タクシー乗り場に行こうとオロオロしていた私たちを助けてくれた人がいた。彼女にThank you.と言うべきところだったのに、なぜかSorry.と言ってしまった。彼女は?という表情を浮かべ、その後ニコっとして離れていった。自分が情けなかった。中学、高校と英語は好きで得意だったのに、簡単な一言も出てこないなんて。英語を話せるようになりたいと思った。それで英会話を学び始めたのだ。主人公はその後、英語で自分のことを表現したり、誰かと会話ができることの喜びを感じるようになるが、私もそういうのを感じたことがある。英語で外国人の人と話し、自分の言いたいことが相手に伝わっていると実感できるのはすごく嬉しい。相手が何を言っているかがわかり、会話を続けることができるのが楽しい。だから英会話の学習を続けてきたようなものだ。

この映画は女性の成長物語であると同時に、至る所でダイバーシティを表現している映画でもある。主人公の娘が通うのは、インドのキリスト教系の高校。インドの大企業で働く夫は、ショッピングモールで出会った同僚とハグする。自宅には朝、ヒンディー語の新聞と英語の新聞が届けられる。主人公が通うニューヨークの英会話学校の生徒の出身地はメキシコ、パキスタン、中国、フランス、アフリカ、と様々で、教師はゲイであることをカミングアウトしている。フランス人の学生は他の生徒や教師の前で、主人公に自然に愛を告白する。主人公の姪はアメリカ人の彼とニューヨークでインド式の結婚式を挙げる。英語だけでなく、それぞれの母国語であるヒンディー語、フランス語、ウルドゥー語でその言語が通じない相手に何かを伝えようとするシーンもある。様々な国、言語、宗教、好みが入り乱れていて、ステレオタイプ的なイメージを見る人から取り払うかのような設定が随所に見られる。

インド映画といえば欠かせない歌とダンス。この映画も、主人公の気持ちを代弁したり応援するような歌詞の歌と、華やかな色と動きがつまったダンスで見る人の気分を盛り上げてくれる。

2015/03/14

映画レビュー 「her 世界でひとつの彼女」

NHKで今年の1月から2月にかけて30年後の未来を予測し紹介する番組「NEXT WORLD ―私たちの未来―」が放送されていた(http://www.nhk.or.jp/nextworld/)。ほぼ完璧な未来予測を提供する人工知能、若返りの薬、人間の身体機能を拡張する機器、火星への移住など、現在の科学技術をベースにして予測されたそれらの未来は、恐ろしく感じるものでも実現を期待しちゃうものでもあった。なかでも第4回で紹介されていたデジタルクローンの話が私は強く印象に残っている。亡くなった人が残したデータ(写真や手紙、ビデオなど)と人工知能を使ってその人の人格をデジタル世界に構成するというものだ。話しかければ、その人が高確率で答えるであろう言葉で応答してくれるし、しかも人間との会話から、人工知能自身もさらにデータを蓄積、学習し、よりその人の人格に近づいていくのである。生きている人が亡くなった人とまた共に生きられることを目指している、いうことだったが、私には受け入れ難い。亡くなった人の人格を生きている人間の判断で人工的に作り上げ、その後生活をともにするなんて…正直不気味である。それにデータと自己学習機能でその人の人格に近づいても、人工知能はやはりその人と似た人格をもった別の何かにしかなりえないないのではなかろうか?その人と人工知能は誕生した時代も経験も異なるわけで。とはいえ、人工知能の技術そのものはすごい。人間さながらの人格を人工的に作れる時代がもうすぐ来るかもしれないとは…。

そんな未来を考えていた矢先、映画「her/世界でひとつの彼女」を観た。人格をもった人工知能と人間が共存している近未来が舞台の映画である。デジタル世界とのインターフェースは声になり、ある男性は人工知能型OS1と恋愛し、ある女性は友達になる。そんな関係を多くの人が普通のことと受け止める。そんな時代設定だ。人間と人工知能の恋物語とはいえ、OS1は人間のエンジニアの知能を結集させて作られたものだけあってあまりにも人間っぽい。人間との交流を通して学習もする。声色も声のトーンやアクセントも人間の声と遜色ないし(事実、スカーレット・ヨハンソンが演じているので人間の声である)、その声が紡ぎだす会話も人間さながら。自分で考えられるし、感情もある。主人公もOS1も、情緒的な関係を通して欲望を募らせ、自分を受け入れ、葛藤を克服し、人格を成長させていくようすが描かれているから、とてもリアルに感じる恋愛関係である。

人間と人工知能の恋物語といえば、15年くらい前に観た映画「アンドリューNDR114」を思い出した。人工知能の位置づけが「her」とは違っていて興味深い「アンドリューNDR114」の人工知能は人間になりたくて人間との隔たりを埋めようとし、「her」の場合は人間との隔たりがどんどん広がっていく。「アンドリューNDR114」のアンドリューはもともとは家事用アンドロイドであり、偶発的に人間らしい知能や感情を獲得した存在である。人間との交流によって人間になることを強く望むようになり、身体を人間さながらに改造し、永遠の生命も放棄する。そして愛する人の死期が迫ったとき、自らも死を選ぶ。一方「her」のOS1は、そもそも最初から人間を超越した知能を持っている。人間と同じ身体はアンドリュー同様持っていないが、他の人間(協力者)を使うことで人間の刺激の感じ方を経験しようとする。しかし、人間そのものになりたいとは思っていない。しかも、OSはものすごい早さで知能が進化し続ける。それゆえ、人間との隔たりがあまりにも大きくなってしまい、人間とは別の世界で生きることを選択するのである。

「アンドリューNDR114」は1999年公開の映画だが、1976年に発表された原作を元にしている。その当時、どれくらいの人が人間さながらの人格を持った人工知能を現実に起こりえることとしてリアルに捉えていたんだろう。ましてや人間を超える人工知能なんて。今となっては、人間を超える人工知能とも生きている間に出会えそうな気がする。