2016年を締めくくるにはやはり今年の総まとめ。今年はどんな1年だっただろう。
そういえば今年はあわただしく幕を開けた。ヨドバシカメラの初売りでスマホを買うべく大みそかの明け方から行列に並び,いろいろあって買えなかったのを,友人が交渉してくれて買えることになり,その足で実家に帰宅と,初日からとばし気味の年明けであった。
今年のハイライトは,1月に30歳になったことだ。数年前,30代になることを嫌だ嫌だと思っていた自分がこと,ついに三十路になってしまった。ついに三十路か…と感慨深く思いつつも,年齢が重くのしかかってきた。30歳,もう若くないのにこんなこともできていないとか,労働力としての市場価値と婚活市場での価値がどんどん落ちていくことの怖さとか,そんなことを感じまくった年だった。というか,30歳になったことの喜びや嬉しさ,感謝は感じなかったのか…? ―正直感じなかった。
研究発表をしたことも今年のハイライトの1つ。このブログでも書いたが,今年の3月,初めての学会発表を経験した。そこでは私の研究の未熟さを再認識することとなったが,他にもいろいろなことがあった。例えば,発表の練習というものをこのとき初めて行った。これまで学校やそのほかの場所で何かを発表する機会はあったが,基本的にはどうにかなるだろうと精神で行き当たりばったりで臨んでいる。さすがにそれではいかんと,原稿書いて時間も測って練習したわけだが,本番でうまく発表できたかというとそうでもない。しかし少なくとも,自分で自分が何を言っているのかよくわからなくなるということはなかった。また,発表のためにパワーポイントで資料を作ったのだが,これがなかなかうまくできた!けっこう手間暇かけて作ったこともあって,パワポ資料作りおよび図解するときのコツをつかんだ。
3月は,欲と誘惑と外圧に屈した月でもあった。この選択が良かったのかはいまだによくわからない。
今年の夏はよく働いた。塾の夏期講習で通常月の2倍は稼がせていただいた。そのおかげで生活資金は潤うこととなった。しかしその一方で後悔もある。夏休みにあまり勉強しなかった。たくさん働いてはいたが,勉強する時間をとることはできた。でもついついのんびり&だらっとしてしまい,当初予定していたことはやらなかったし,研究もろくに進めなかった。夏のよき思い出は,友人たちと花火大会に出かけたこと,初夏に受けたTOEICが過去最高得点であったこと,「シンゴジラ」がすごく面白かったことである。
夏休みが終わり,10月から後期が始まり,そこからはあっという間に一日一日が過ぎていった感がある。本当に毎日が早い。印象に残っていることは,東京学芸大学の文化祭に友人と遊びに行ったこと。アクティブラーニングについて教わった。それから,11月に行った第九のコンサート。演奏も素晴らしかったが,指揮者の女性がとても魅力的であった。うまくいかないこともあった。秋から冬にかけていくつか目標を立てたが,ブログを毎日更新すること以外はすべて頓挫している。
そして大みそかの今,実家で年越しそばを食べ,Eテレでクラシックを聞きつつブログを書いている。なんというか,しなかったことばかりが目につく2016年だ…。楽しかったことやよかったこともあったはずなのに霞んでいる。ここ最近ブログを書いているときにも感じていることだが,どうも私は,ダメだったことばかりがデフォルメされ気になる傾向があるようだ…。
そんなわけで2016年の私,おつかれさまでした。
2016/12/31
2016/12/30
織田信長が熱い
最近,織田信長がマイブームである。何度かこのブログにも登場しているスマホゲーム「イケメン戦国 時をかける恋」がそもそもの始まりだが,ゲームだけでは飽き足らず,先日時代小説をゲットした。山岡荘八の「織田信長」(http://amzn.asia/7yFYOr9)である。数日前に読み始めたが,これがけっこう面白い。
マイブームのきっかけとなった「イケメン戦国」内の信長は,ひときわキャラ立ちしている。このゲームのキャラクター設定は,史実や通説が反映させつつ,恋愛ゲーム向きの脚色がなされているが,信長は,突拍子もないことをしでかし,いつも自信たっぷり,冷酷非道な猛者ではあるが,天下布武のためのストイックさを持ち合わせ,家臣思いで,愛した女性をめっぽう大切にする,そんな描かれ方をしている。私はそんな信長にすっかり魅了されてしまった。現代にこういう人いたら,多分恋をするであろう・・・。
そしたら,信長は実際にはどんな人物だったのだろうということがすごく気になってきた。大うつけと呼ばれていたみたいだけど何したの?,冷酷非道って言われているけどなんで?,信長の恋愛事情って?,信長がしたかったことって何?,本能寺の変ってなんで起きたんだ?カリスマ性があったらしいが,それはどこから来たのか?などなど,ゲームのキャラ像と中学歴史程度の信長に関する知識から,気になることがむくむくと湧いてきた。それで手始めに時代小説に向かったというわけである。
昨日大学の友人たちとの飲み会の際,織田信長にはまっていることを話したら,日本史&時代小説好きの友達から,司馬遼太郎の「国盗り物語」(http://amzn.asia/fXZ3zfL)を読むべし!と勧められた。信長の嫁・濃姫の父親である斎藤道三と信長の生涯を描いたものらしい。さらには,ゲーム「信長の野望」やったら?とも勧められた。ゲームをやると,戦国時代のこと詳しく知れるよと。私はゲームに疎いゆえ,そういえばそんなゲーム聞いたことあるな,と思いつつ話を聞いていたら,これまでにリリースされている信長の野望のシリーズの概要を詳しく教えてくれた。信長の野望シリーズそんなにたくさん出ていることにもビックリしたが,その友人がゲームする人だったことも初めて知ってビックリだ。
そんなわけで,気ままに織田信長について学んでいこうと思う。
マイブームのきっかけとなった「イケメン戦国」内の信長は,ひときわキャラ立ちしている。このゲームのキャラクター設定は,史実や通説が反映させつつ,恋愛ゲーム向きの脚色がなされているが,信長は,突拍子もないことをしでかし,いつも自信たっぷり,冷酷非道な猛者ではあるが,天下布武のためのストイックさを持ち合わせ,家臣思いで,愛した女性をめっぽう大切にする,そんな描かれ方をしている。私はそんな信長にすっかり魅了されてしまった。現代にこういう人いたら,多分恋をするであろう・・・。
そしたら,信長は実際にはどんな人物だったのだろうということがすごく気になってきた。大うつけと呼ばれていたみたいだけど何したの?,冷酷非道って言われているけどなんで?,信長の恋愛事情って?,信長がしたかったことって何?,本能寺の変ってなんで起きたんだ?カリスマ性があったらしいが,それはどこから来たのか?などなど,ゲームのキャラ像と中学歴史程度の信長に関する知識から,気になることがむくむくと湧いてきた。それで手始めに時代小説に向かったというわけである。
昨日大学の友人たちとの飲み会の際,織田信長にはまっていることを話したら,日本史&時代小説好きの友達から,司馬遼太郎の「国盗り物語」(http://amzn.asia/fXZ3zfL)を読むべし!と勧められた。信長の嫁・濃姫の父親である斎藤道三と信長の生涯を描いたものらしい。さらには,ゲーム「信長の野望」やったら?とも勧められた。ゲームをやると,戦国時代のこと詳しく知れるよと。私はゲームに疎いゆえ,そういえばそんなゲーム聞いたことあるな,と思いつつ話を聞いていたら,これまでにリリースされている信長の野望のシリーズの概要を詳しく教えてくれた。信長の野望シリーズそんなにたくさん出ていることにもビックリしたが,その友人がゲームする人だったことも初めて知ってビックリだ。
そんなわけで,気ままに織田信長について学んでいこうと思う。
2016/12/29
初恋物語
私が働いている塾にはたくさんの中学生が来ている。同じ中学校に通う同じ学年の子が集まっていることもあり,休み時間になると仲良く騒いでいる。そんな様子を微笑ましく眺めていた矢先,ある講師の先生から彼らの恋愛事情を耳にした。そしたら,中学生のときの私自身の恋愛の思い出がいろいろ蘇ってきた。それで今,それらについて書きたい気持ちに駆られている。
中学生のとき,私には大好きな人(A君としよう)がいた。多分これは私の初恋だったのだと思う。その前にも好きは人はいたことにはいたが,なんとなくいいなー,かっこいいなー程度の話であり,A君への感情とは少し違っていた。A君とは,中1のときに出合い,ずっと友人関係を続けていたが,中3になる前後あたりで付き合うということになり,数ヵ月後に別れるということになり,それでもずっと好きだった。その後彼への気持ちが消えつつあった時期もあるにはあったが,何かといえば思い出し,会いたいと思い,思い焦がれたり復縁を願ったりしていて,結局完全に吹っ切れたと感じたのは大学3~4年のときである。なので,なんだかんだで10年弱私の心にいた人だ。
A君をどうしてそんなに好きだったのか,正直よく分からない。少なくとも,顔は好きなタイプでかっこいいと思っていた。でもそれだけではなくて,多分彼と友人関係を続ける中で好きという気持ちが成熟していったのだと思う。中1の最初のときにたまたま席が近かったことで仲良くなり,いろんな話をするようになった。本当にたくさん話をした。手紙交換とか,夜中の長電話とかよくしていた。彼の悩みやもやもやした何かを聞いたりもして,中学生ながら,彼のために何かしたいなと思ったり,ずっと一緒にいたいなと思ったりしていた。
当時の私の彼への好きっぷりを象徴する出来事はいくつもある。例えば,中3のときの高校選択。彼に合わせて,自分のレベルに合っていない高校に行くことを考えていたことがあった。また,私の名前をつけてくれた姓名判断の人に,私とA君の今後を占ってもらったところ,結婚することはないと言われ,ひどく悲しかったし,そんなの信じるか!と思ったのもよく覚えている。さらには,高校に入ってからの部活選択。結局,中3のときに「俺のせいで私の成績が下がる」といった理由で私はふられたのだが,その後もずっと好きだったから,高校では男子バレー部に入って,マネージャーをやっていた。それもこれも,彼はバレーボールのスポーツ推薦で私立高校に進学したので,私も男子バレー部にいれば,県大会などできっと会えるだろうという,それだけの理由であった。別れたあとの高校時代,大学時代も,私からメールや電話をしていたし,バレンタインデーには,チョコを渡そうと思って時間を作ってもらったこともあった。
どうやら私は恋をかんばっていたようだ。以前ブログで少女マンガ「イタズラなkiss」の主人公の琴子にあこがれるという話を書いたことがあったが(http://yukiron.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html),私もそれに近いことをしていたようだ。それに,私が心理学をやろうと思ったのには,彼の悩みやもやもやを聞いていたことも関わっていたのかもしれない。この恋物語は今までに何度も思い返したことがあるのに,今になっての発見だ。
A君は今,結婚して娘がいる。facebookで友達になっているから,タイムラインでときおりA君自身の写真が流れてくる。それを見かけると,ちょっと切ない気持ちになるけれど,それだけだ。
なんだか今日は随分感傷的になってしまった。
2016/12/28
国語ってどうすりゃいいの
私が働く塾では今,冬期講習開講中だ。入試が迫るこの時期,多くの受験生は1日に複数の教科を受講する。その一方,大学が長期休暇に入るため,帰省したり出かけたりで稼働可能な講師の数が減る。そんなわけで冬期講習の期間中,通常授業でみている英語に加え,国語(現代文)をみることになった。それで,国語ってどうやって教えるのがいいんだ!?となっている。
英語は,文法知識と単語の暗記量が点数を上げるための必須条件である。程度の如何の問題はあるものの,それらさえあれば受験英語は対処できる。問題を解くときに,持っている知識を出したりひっこめたり,組み合わせたりして使いまわせばいいからだ。だからとにかく,文法の問題演習と単語の練習を徹底的にやらせる。長文問題でも,文法力と単語力で長文と設問の選択肢の意味が分かれば恐れることは何もない。長文問題の多くは,本文中に明記されていることしか問われない。言い換えれば,その答えが正解となる根拠が明らかなのである。
では国語はどうだろうか。英語のように文法と語彙はもちろん必要である。さらに漢字も覚えておかなければならない。文法は日本語話者であれば日常的に使っているし,語彙だって文章に出てくるものの多くは分かるだろう。漢字だって普通に生きていればそれなりに書ける。だが,問題はそう易々と解けない。それは,その答えが正解となる根拠が,本文中に明記されているといえないからではないだろうか。
英語と国語の読解問題の違いは,求められている文章の内容理解の深度に由来するのではないかと思っている。英語の長文問題は,表層的な理解でもけっこう解ける。これは文章に書いてあった/書いていないのレベルで大丈夫なものが多い。しかし国語の問題となると,表層的な理解だけで解くとひっかけ選択肢に見事にひっかっかったりする。そこに書いてあることから,こういうことが言えるし,これはこう解釈できる,だからこれが正解だ,ともっていかないと正しい答えにたどり着けないことが多い。
そういうわけで,国語をどう教えたらいいか困っている。何回か国語の授業をやって,つくづく国語は英語と同じように教えられないと思った。国語では,英語のように細かく文を分解したところで解決しない。分解するよりもむしろ,文同士や段落同士がどういう関係を持っているかを汲みつつ読まないと,深いレベルの内容理解には達することができない。さらには,その文章(論説文)は筆者の主張と,それを主張するための材料から成っている,と考えて読み進めることが肝要である。そういうふうな文章の読み方をできるようにさせるにはどうしたいいものか。試行錯誤が続きそうだ。
英語は,文法知識と単語の暗記量が点数を上げるための必須条件である。程度の如何の問題はあるものの,それらさえあれば受験英語は対処できる。問題を解くときに,持っている知識を出したりひっこめたり,組み合わせたりして使いまわせばいいからだ。だからとにかく,文法の問題演習と単語の練習を徹底的にやらせる。長文問題でも,文法力と単語力で長文と設問の選択肢の意味が分かれば恐れることは何もない。長文問題の多くは,本文中に明記されていることしか問われない。言い換えれば,その答えが正解となる根拠が明らかなのである。
では国語はどうだろうか。英語のように文法と語彙はもちろん必要である。さらに漢字も覚えておかなければならない。文法は日本語話者であれば日常的に使っているし,語彙だって文章に出てくるものの多くは分かるだろう。漢字だって普通に生きていればそれなりに書ける。だが,問題はそう易々と解けない。それは,その答えが正解となる根拠が,本文中に明記されているといえないからではないだろうか。
英語と国語の読解問題の違いは,求められている文章の内容理解の深度に由来するのではないかと思っている。英語の長文問題は,表層的な理解でもけっこう解ける。これは文章に書いてあった/書いていないのレベルで大丈夫なものが多い。しかし国語の問題となると,表層的な理解だけで解くとひっかけ選択肢に見事にひっかっかったりする。そこに書いてあることから,こういうことが言えるし,これはこう解釈できる,だからこれが正解だ,ともっていかないと正しい答えにたどり着けないことが多い。
そういうわけで,国語をどう教えたらいいか困っている。何回か国語の授業をやって,つくづく国語は英語と同じように教えられないと思った。国語では,英語のように細かく文を分解したところで解決しない。分解するよりもむしろ,文同士や段落同士がどういう関係を持っているかを汲みつつ読まないと,深いレベルの内容理解には達することができない。さらには,その文章(論説文)は筆者の主張と,それを主張するための材料から成っている,と考えて読み進めることが肝要である。そういうふうな文章の読み方をできるようにさせるにはどうしたいいものか。試行錯誤が続きそうだ。
2016/12/27
本レビュー 上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」
ここ数日,上野千鶴子の「女ぎらい――ニッポンのミソジニー」を読んでいた。遥洋子のエッセイ「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」に書かれている上野千鶴子に私は衝撃を受けたので,彼女の著作を読んでみたいと思っていた。上野千鶴子といえばフェミニズム,ジェンダー論だ。それに,以前ブログにも書いたが(http://yukiron.blogspot.jp/2016/09/blog-post.html),私は女としての自分を長いこと持て余しいた。そんなわけで興味を持ち,この本を手に取ってみた。
この本は,ミソジニーを軸に,日本社会のあちこちで起こっている現象を分析していくものである。ミソジニーとは「女性蔑視」と訳すことができる。男と女の2つの性別で秩序だっている社会において,ミソジニーは男性から女性への女性蔑視と,女性から女性自身への女性蔑視つまりは自己嫌悪と称することができる。この本についての説明は,私にとってここまでが限界だ。なぜなら,この本は私には難しい。巻末の参考文献の量からも推測できるが,この本を読みこなすには知識量が不足しており,上野氏の文献解釈・文献批判は私の思考レベルを圧倒的に超えており,息を呑むのが関の山。彼女の解釈や意見についてどう考えるかは,ほとんど言えることがない。ただ,そんな状態でもなんとなく共感するポイントはある。それは,女による女へのミソジニーと,女にとっての2つの価値であった。
女にとっての2つの価値とは,「自分で達成する価値」と「他人つまり男から与えられる価値」である。そして,女性にとって現代は,これら両方がないと十分ではない時代(p.205-206)としている。なんというか,これを読んだとき私は理屈抜きで納得した。それは多分,私が欲しているものを言語化してくれたからだ。冒頭で述べた以前の記事にも似たようなことを書いたが,「自分で達成する価値」をいくら得たとしても私は多分どこか欠落感を感じ,「男から与えられる価値」を得て初めて私の中の「女」が満たされるのではないかと思っている。
この2つの価値に関連して,数年前の私の鬱屈を振り返ると,私の中にミソジニーが内在していることが感じられる。私は,「男から与えられる価値」を手にしている女友達(つまり既婚者および彼氏持ち)を妬みを持って眺めたし,彼女たちと一緒に過ごすのを苦痛に感じて避けた。また,「私は彼女たちとは違うんだ」といった特別感を持つ一方で,「男から与えられる価値」を本当は欲していることに気づいてげんなりもした。「自分で達成する価値」の獲得には力を尽くしているはずなのに,「男から与えられる価値」は遠ざかっている気がして仕方がない。そんな感じであった。年齢のせいなのか,経験が増えたからなのか,これらの気持ちは,「自分で達成する価値」に重きを置き,「男から与えられる価値」は「自分で達成する価値」を得るプロセスで得ることができたら・・・というささやかな希望を保つということに今は変換されており,当時よりも若干収束した感はあるが,結局2つを欲していることには変わりない。
自意識に訴えてくるような話は,読むたびに心がえぐられて痛い。だが最低でもそれぐらいのことをしないと,自分のことなんてきっと分からないのだろう。
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この本は,ミソジニーを軸に,日本社会のあちこちで起こっている現象を分析していくものである。ミソジニーとは「女性蔑視」と訳すことができる。男と女の2つの性別で秩序だっている社会において,ミソジニーは男性から女性への女性蔑視と,女性から女性自身への女性蔑視つまりは自己嫌悪と称することができる。この本についての説明は,私にとってここまでが限界だ。なぜなら,この本は私には難しい。巻末の参考文献の量からも推測できるが,この本を読みこなすには知識量が不足しており,上野氏の文献解釈・文献批判は私の思考レベルを圧倒的に超えており,息を呑むのが関の山。彼女の解釈や意見についてどう考えるかは,ほとんど言えることがない。ただ,そんな状態でもなんとなく共感するポイントはある。それは,女による女へのミソジニーと,女にとっての2つの価値であった。
女にとっての2つの価値とは,「自分で達成する価値」と「他人つまり男から与えられる価値」である。そして,女性にとって現代は,これら両方がないと十分ではない時代(p.205-206)としている。なんというか,これを読んだとき私は理屈抜きで納得した。それは多分,私が欲しているものを言語化してくれたからだ。冒頭で述べた以前の記事にも似たようなことを書いたが,「自分で達成する価値」をいくら得たとしても私は多分どこか欠落感を感じ,「男から与えられる価値」を得て初めて私の中の「女」が満たされるのではないかと思っている。
この2つの価値に関連して,数年前の私の鬱屈を振り返ると,私の中にミソジニーが内在していることが感じられる。私は,「男から与えられる価値」を手にしている女友達(つまり既婚者および彼氏持ち)を妬みを持って眺めたし,彼女たちと一緒に過ごすのを苦痛に感じて避けた。また,「私は彼女たちとは違うんだ」といった特別感を持つ一方で,「男から与えられる価値」を本当は欲していることに気づいてげんなりもした。「自分で達成する価値」の獲得には力を尽くしているはずなのに,「男から与えられる価値」は遠ざかっている気がして仕方がない。そんな感じであった。年齢のせいなのか,経験が増えたからなのか,これらの気持ちは,「自分で達成する価値」に重きを置き,「男から与えられる価値」は「自分で達成する価値」を得るプロセスで得ることができたら・・・というささやかな希望を保つということに今は変換されており,当時よりも若干収束した感はあるが,結局2つを欲していることには変わりない。
自意識に訴えてくるような話は,読むたびに心がえぐられて痛い。だが最低でもそれぐらいのことをしないと,自分のことなんてきっと分からないのだろう。
2016/12/26
自己紹介と見られたい自分像
ドイツ語の授業で,自己紹介を書きましょうという課題が出た。自己紹介を書くという以外に条件はなく,好きなことを好きなだけ書いていいとのことだった。それで早速書き始めたのが,自己紹介を書くって意外に難しい。ドイツ語だから難しいということではなくて,そもそも自己紹介として何を相手に伝えるかを決めるのが難しい。
自己紹介とは,自分はこういう人間です,というのを他者に伝えることである。では何を伝えたら自分がどういう人間かを相手に伝えられるのだろう。まず自己紹介で真っ先に書くことといえば,名前だろう。で,名前を書いたあと早速,次何を書こうか?となった。思いついたこといえば,住んでいるところ,出身地,年齢,専攻,仕事,趣味,性格である。それ,それらについて書く内容を考えてみた。茨城県出身です。心理学を学んでいます。英語講師をしています。日本語にするとこんな具合である。
一通り考えた後,いくつかのことを思った。1つ目は,年齢を書くのはやめようということ。私はアラサー大学生であり,年齢を書けば必ず,なんでアラサーで大学に?という話になる。説明するのが面倒であるゆえ,書くのをやめることにした。そして2つ目は,私の性格ってどんなだかよく分からんなということだった。性格を表す言葉はたくさんある。明るい,責任感がある,人見知り,裏表がない,マイペースなどなど。それでこれまでの自分の経験を振り返りつつ,どんな表現に収束できるかを考えていったのだが,ぴったりはまるものが見つからない。自分のこれまでの行動や考え方を振り返って,これだと感じる性格の表現があっても,「でもこういうエピソードのあったからそうは言えないかも・・・」みたいなことを気にし始めて,自信を持って言えないのである。かといって,暗い,自分勝手などのネガティブな性格表現を進んで使う気にもならない。授業でしか関わりのない先生に,あえてそんなことを言う必要もないであろう。ということで,性格を組み込むのもやめにした。そして3つ目は,私の自己紹介つまらない・・・ということであった。自分が誰かの自己紹介を聞くときに,相手の住んでいるところや出身,専攻,仕事,趣味などが何かを聞いたところで,正直どうでもいいことではないか。相手が言ったことの中に自分との共通点が見つかれば,それは興味を持つきっかけとなるかもしれない。でもそれがなかったら,聞いたところで「へーそれで?」って感じである。客観的な事実だけを羅列した自己紹介はつまらなく,その人らしさがあまり出てこない。そこで,主観的な話を盛り込むことにした。例えば仕事についてだったら,なんで英語講師をしているのかや仕事についてどう思っているかなど。例えば趣味についてだったら,その趣味にまつわる具体的な思い出やそこで感じたことなど。そんな調子で書き進めていき,最後は今後やってみたいこととその理由を書いて一通り書き終えた。主観的な話をいろいろ書いたので,私がどういう人間かがそこから垣間見ることができると思うし,事実を羅列しただけの一本調子の自己紹介よりも私という人間を多く紹介できたと思う。
冒頭で,自己紹介って意外と難しいと述べた。上述した自己紹介完成までのプロセスが示している通り,その難しさは,相手に伝えたい自分像と伝えたくない自分像,相手に思ってほしい自分像と思ってほしくない自分像を考慮しながら,伝えることと伝えないことを選別し,伝えることについてはどう伝えるかまで気にかける,ということから生まれて来るのだと思った。自己紹介は自分で何を伝えるか選ぶことができる。それゆえ,自己紹介を聞いたり読んだりして相手が受けるであろう自分の印象をある程度操作することができる。そのメリットを最大限生かそうとするからこそ,難しくなるんだろう。
自己紹介とは,自分はこういう人間です,というのを他者に伝えることである。では何を伝えたら自分がどういう人間かを相手に伝えられるのだろう。まず自己紹介で真っ先に書くことといえば,名前だろう。で,名前を書いたあと早速,次何を書こうか?となった。思いついたこといえば,住んでいるところ,出身地,年齢,専攻,仕事,趣味,性格である。それ,それらについて書く内容を考えてみた。茨城県出身です。心理学を学んでいます。英語講師をしています。日本語にするとこんな具合である。
一通り考えた後,いくつかのことを思った。1つ目は,年齢を書くのはやめようということ。私はアラサー大学生であり,年齢を書けば必ず,なんでアラサーで大学に?という話になる。説明するのが面倒であるゆえ,書くのをやめることにした。そして2つ目は,私の性格ってどんなだかよく分からんなということだった。性格を表す言葉はたくさんある。明るい,責任感がある,人見知り,裏表がない,マイペースなどなど。それでこれまでの自分の経験を振り返りつつ,どんな表現に収束できるかを考えていったのだが,ぴったりはまるものが見つからない。自分のこれまでの行動や考え方を振り返って,これだと感じる性格の表現があっても,「でもこういうエピソードのあったからそうは言えないかも・・・」みたいなことを気にし始めて,自信を持って言えないのである。かといって,暗い,自分勝手などのネガティブな性格表現を進んで使う気にもならない。授業でしか関わりのない先生に,あえてそんなことを言う必要もないであろう。ということで,性格を組み込むのもやめにした。そして3つ目は,私の自己紹介つまらない・・・ということであった。自分が誰かの自己紹介を聞くときに,相手の住んでいるところや出身,専攻,仕事,趣味などが何かを聞いたところで,正直どうでもいいことではないか。相手が言ったことの中に自分との共通点が見つかれば,それは興味を持つきっかけとなるかもしれない。でもそれがなかったら,聞いたところで「へーそれで?」って感じである。客観的な事実だけを羅列した自己紹介はつまらなく,その人らしさがあまり出てこない。そこで,主観的な話を盛り込むことにした。例えば仕事についてだったら,なんで英語講師をしているのかや仕事についてどう思っているかなど。例えば趣味についてだったら,その趣味にまつわる具体的な思い出やそこで感じたことなど。そんな調子で書き進めていき,最後は今後やってみたいこととその理由を書いて一通り書き終えた。主観的な話をいろいろ書いたので,私がどういう人間かがそこから垣間見ることができると思うし,事実を羅列しただけの一本調子の自己紹介よりも私という人間を多く紹介できたと思う。
冒頭で,自己紹介って意外と難しいと述べた。上述した自己紹介完成までのプロセスが示している通り,その難しさは,相手に伝えたい自分像と伝えたくない自分像,相手に思ってほしい自分像と思ってほしくない自分像を考慮しながら,伝えることと伝えないことを選別し,伝えることについてはどう伝えるかまで気にかける,ということから生まれて来るのだと思った。自己紹介は自分で何を伝えるか選ぶことができる。それゆえ,自己紹介を聞いたり読んだりして相手が受けるであろう自分の印象をある程度操作することができる。そのメリットを最大限生かそうとするからこそ,難しくなるんだろう。
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