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2015/03/22

お気に入りの本 米原万里「不実な美女か貞淑な醜女か」

通訳は興味をもった仕事の1つである。英会話を学び始め、ある程度外国の人と話ができるようになったとき、英語をもっと使っていたいと思うようになった。それで英語で食べていける仕事ってどんなのがあるんだろう、と頭の中に浮かんできたのが、通訳、翻訳、英語教師の3つの職業。英語教師は多分いちばん仕事を見つけやすいけれど、いまいち興味を持てなかった。人に教えるなんてなんだかおこがましい感じがしたし、英語を使うとはいえ、英語教師は英語を教えるのが本分である。その目的は、生徒が英語を使えるようにすること。文法とか文の構造とか単語とか、そういうのを日本語で生徒に説明することが求められる。英語そのものにもあまり興味がなかったし、なんか違うと思った。一方、通訳・翻訳はというと、一方が言っていることを別の言語に変換し、もう一方に伝える仕事。2つの言語を使いこなすことが求められるから、英語をもっと使っていたいという欲望にマッチするような気がした。そしてそのころ、「読み書き」よりも「聞く話す」の英語運用力の向上に邁進していたから、特に通訳の仕事に惹かれた。そんなときに出会ったのが、ロシア語同時通訳者の米原万里のエッセイ、「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」読んだエッセイの中で一番面白かった。お気に入りの一冊でもある。
このエッセイは、通訳・翻訳をするとはどんなことなのかを、彼女が仕事で身をもって体験したエピソードを交えながら教えてくれる。通訳と翻訳は、訳すという点では同じだが、取り巻く条件が異なっている。書かれた言葉を訳すのと、聞こえてくる言葉を訳すことの間にはギャップがあるのだ。エッセイに登場する数々のエピソードは、彼女の豊富な語彙によって、状況、エピソードに登場する人物たちの気持ちや行動が詳細かつユーモラスに描写されているから、本当におもしろい。彼女のユーモアのセンスはこの本のタイトルからして明解である。「不実な美女」と「貞淑な醜女」は、ともに訳のことを表現している。訳すという作業は、ある言語の言葉を別の言語の言葉に変換するということだが、それぞれの言語は別の性質を持っているがゆえ、単語の一対一対応で言葉を訳出することができるとは限らない。そのとき気をつけないと、聞き手には分かりやすいが、話し手の真意を汲んでいない訳になってしまう(=不実な美女)。また、たとえ訳出できたとしても、それが聞き手にとって分かりやすいとは限らない(=貞淑な醜女)。はぁ、私もこんなうまい表現を生み出せるようになりたい。でも、このエッセイはおもしろさだけで終わらない。文章から伝わってくる、言葉、言語、訳すこと、異文化に対する彼女の考察は要を得ていて勉強になる。はぁ、私もこんな深みのある考察がしたい。

私が彼女のことを知ったのは彼女が他界してからだったので、実際に通訳をしている姿を見たことはない。残念だ。しかし、前職時に同時通訳者が働いているところを実際に見る機会があった。米国から来たプレゼンターの話を日本人の聴衆に伝えるため、日↔英の同時通訳者を依頼したのだ。3~4時間くらいのプレゼンだっただろうか。3人の同時通訳者が、2人がギリギリ座れるくらいの機材の入ったブースに、ローテーションしながら座り、とんでもない集中力で訳していた。前もって当日使う資料を通訳者に提供し、テクニカルタームの確認などの事前準備を行ってもらっている。とはいえ、話を聞きながら、訳しながら、発言しながら、また話を聞きながら…と長時間続けられるのはすごい。なぜ混乱しないのか。自分でも、簡単な英語の文章を聞きながら同時通訳していこうと挑戦してみたことがあるが、話者が一文言い終わる前に私の頭はいっぱいいっぱいになって訳せなくなった。話を聞いていると訳せないし、訳したことを声に出していると話が聞こえない。プロの同時通訳者たちは一体どれだけの訓練をしてきたんだろうかと思う。

通訳になることはあきらめたが、今でも英語運用能力を磨いているし、ずっと続けたいと思っている。それに、昨年から始めたドイツ語もそこそこ使えるようになりたい。これもひとえに外国語によるコミュニケーションに楽しさを感じるからだろう。そんな楽しさをこのエッセイと共有できるのがまたいい。

2015/03/18

映画レビュー 「マダム・イン・ニューヨーク」

映画「マダム・イン・ニューヨーク」は、主人公に思わず感情移入してしまう映画だった。英語ができず、得意なことはお菓子作りくらいと夫や娘からバカにされていた主婦が、ニューヨークで英会話学校に通い、英語でスピーチができるようになるまでを描いた話。彼女は、いろいろな国出身の人と友達になり、英語を話せるようになったことで自信を持って生きていけるようになる。

この映画を見ているとき、英会話を勉強し始めたころのことを思い出した。主人公が感じていたであろう悔しさややりきれなさ、悲しさは私も体験していたからだ。今から10年近く前、私は友達と香港に行った。初めての海外旅行だ。香港でのある夜、夕食を食べようと入った食堂で、私たちに話しかけてきた人がいた。最初はおそらく広東語で、でも私たちが外国人だと気づくと、英語で話を続けてきた。私はその人が何を言っているのかよく分からなかったし、自分から何かを発することもできず、曖昧な返事と苦し紛れの笑顔しかできなかった。せっかく外国に来たのに話ができず、悲しかった。また別の夜のこと、タクシー乗り場に行こうとオロオロしていた私たちを助けてくれた人がいた。彼女にThank you.と言うべきところだったのに、なぜかSorry.と言ってしまった。彼女は?という表情を浮かべ、その後ニコっとして離れていった。自分が情けなかった。中学、高校と英語は好きで得意だったのに、簡単な一言も出てこないなんて。英語を話せるようになりたいと思った。それで英会話を学び始めたのだ。主人公はその後、英語で自分のことを表現したり、誰かと会話ができることの喜びを感じるようになるが、私もそういうのを感じたことがある。英語で外国人の人と話し、自分の言いたいことが相手に伝わっていると実感できるのはすごく嬉しい。相手が何を言っているかがわかり、会話を続けることができるのが楽しい。だから英会話の学習を続けてきたようなものだ。

この映画は女性の成長物語であると同時に、至る所でダイバーシティを表現している映画でもある。主人公の娘が通うのは、インドのキリスト教系の高校。インドの大企業で働く夫は、ショッピングモールで出会った同僚とハグする。自宅には朝、ヒンディー語の新聞と英語の新聞が届けられる。主人公が通うニューヨークの英会話学校の生徒の出身地はメキシコ、パキスタン、中国、フランス、アフリカ、と様々で、教師はゲイであることをカミングアウトしている。フランス人の学生は他の生徒や教師の前で、主人公に自然に愛を告白する。主人公の姪はアメリカ人の彼とニューヨークでインド式の結婚式を挙げる。英語だけでなく、それぞれの母国語であるヒンディー語、フランス語、ウルドゥー語でその言語が通じない相手に何かを伝えようとするシーンもある。様々な国、言語、宗教、好みが入り乱れていて、ステレオタイプ的なイメージを見る人から取り払うかのような設定が随所に見られる。

インド映画といえば欠かせない歌とダンス。この映画も、主人公の気持ちを代弁したり応援するような歌詞の歌と、華やかな色と動きがつまったダンスで見る人の気分を盛り上げてくれる。

2015/03/14

映画レビュー 「her 世界でひとつの彼女」

NHKで今年の1月から2月にかけて30年後の未来を予測し紹介する番組「NEXT WORLD ―私たちの未来―」が放送されていた(http://www.nhk.or.jp/nextworld/)。ほぼ完璧な未来予測を提供する人工知能、若返りの薬、人間の身体機能を拡張する機器、火星への移住など、現在の科学技術をベースにして予測されたそれらの未来は、恐ろしく感じるものでも実現を期待しちゃうものでもあった。なかでも第4回で紹介されていたデジタルクローンの話が私は強く印象に残っている。亡くなった人が残したデータ(写真や手紙、ビデオなど)と人工知能を使ってその人の人格をデジタル世界に構成するというものだ。話しかければ、その人が高確率で答えるであろう言葉で応答してくれるし、しかも人間との会話から、人工知能自身もさらにデータを蓄積、学習し、よりその人の人格に近づいていくのである。生きている人が亡くなった人とまた共に生きられることを目指している、いうことだったが、私には受け入れ難い。亡くなった人の人格を生きている人間の判断で人工的に作り上げ、その後生活をともにするなんて…正直不気味である。それにデータと自己学習機能でその人の人格に近づいても、人工知能はやはりその人と似た人格をもった別の何かにしかなりえないないのではなかろうか?その人と人工知能は誕生した時代も経験も異なるわけで。とはいえ、人工知能の技術そのものはすごい。人間さながらの人格を人工的に作れる時代がもうすぐ来るかもしれないとは…。

そんな未来を考えていた矢先、映画「her/世界でひとつの彼女」を観た。人格をもった人工知能と人間が共存している近未来が舞台の映画である。デジタル世界とのインターフェースは声になり、ある男性は人工知能型OS1と恋愛し、ある女性は友達になる。そんな関係を多くの人が普通のことと受け止める。そんな時代設定だ。人間と人工知能の恋物語とはいえ、OS1は人間のエンジニアの知能を結集させて作られたものだけあってあまりにも人間っぽい。人間との交流を通して学習もする。声色も声のトーンやアクセントも人間の声と遜色ないし(事実、スカーレット・ヨハンソンが演じているので人間の声である)、その声が紡ぎだす会話も人間さながら。自分で考えられるし、感情もある。主人公もOS1も、情緒的な関係を通して欲望を募らせ、自分を受け入れ、葛藤を克服し、人格を成長させていくようすが描かれているから、とてもリアルに感じる恋愛関係である。

人間と人工知能の恋物語といえば、15年くらい前に観た映画「アンドリューNDR114」を思い出した。人工知能の位置づけが「her」とは違っていて興味深い「アンドリューNDR114」の人工知能は人間になりたくて人間との隔たりを埋めようとし、「her」の場合は人間との隔たりがどんどん広がっていく。「アンドリューNDR114」のアンドリューはもともとは家事用アンドロイドであり、偶発的に人間らしい知能や感情を獲得した存在である。人間との交流によって人間になることを強く望むようになり、身体を人間さながらに改造し、永遠の生命も放棄する。そして愛する人の死期が迫ったとき、自らも死を選ぶ。一方「her」のOS1は、そもそも最初から人間を超越した知能を持っている。人間と同じ身体はアンドリュー同様持っていないが、他の人間(協力者)を使うことで人間の刺激の感じ方を経験しようとする。しかし、人間そのものになりたいとは思っていない。しかも、OSはものすごい早さで知能が進化し続ける。それゆえ、人間との隔たりがあまりにも大きくなってしまい、人間とは別の世界で生きることを選択するのである。

「アンドリューNDR114」は1999年公開の映画だが、1976年に発表された原作を元にしている。その当時、どれくらいの人が人間さながらの人格を持った人工知能を現実に起こりえることとしてリアルに捉えていたんだろう。ましてや人間を超える人工知能なんて。今となっては、人間を超える人工知能とも生きている間に出会えそうな気がする。

2015/03/09

テレビをめぐってのここ1週間のこと

家のテレビが先週の火曜日突然壊れた。テレビの電源を入れて一瞬画像と音が出たと思ったら、だんだん画面が黒くなり、音も消えた。電源を切って再度入れてみたところ、真っ黒無音で何も変わらず。なんで壊れた!?とイライラの中数時間、自力でどうにかならないものかとネットで解決方法を検索しまくった。そこに載っていたのをいろいろ試してみたけどその甲斐もなく変化なし。自力では無理だと悟った。それで次に頭に浮かんできたのは、修理する?買い替える?これを機にテレビなし生活に転換する?の3択である。結局、修理代金のことや友人からのアドバイス、ネットでの価格調査の結果を踏まえて新しいテレビを買うことにし、その後もどれを買うかで紆余曲折あり、明日ようやくテレビとの生活を再開できることになった。なんとほっとしたことか。

ここ1週間ほどのテレビなしの生活は静かなものだった。テレビがついていないことで、音と色から切り離された感じだった。もちろんまったく音がないということではない。生活音や家の前の通りを走る車の音、人の声は聞こえてくる。でもどこか遠い。窓や壁に囲まれているからなんだろうけど、自分がいるところは静かな別空間みたいな感じだ。たくさんの色も目に入ってこなくなった。視界の片隅に見えるのは、鮮やかな映像ではなくテレビ画面の黒色だけだ。

昨今よくテレビ離れが進んでいるという話を聞く。私の友達も2人ほど好んでテレビなし生活を送っているが、どちらもその生活に特に不便はないらしい。総務省がメディア利用に関する調査を公開しているのでちょっと眺めてみた(平成25年度 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査〈概要〉/総務省 情報通信政策研究所:http://goo.gl/LyNQ4y)。この調査結果での比較は、平成24年度と平成25年度のデータのみなのでテレビ離れが進んでいるかどうかの判断はできないが、40代、50代においてはテレビ(リアルタイム)視聴時間の減少が見られ、10代や20代については他の年代(30~60年代)よりもテレビ(リアルタイム)視聴時間が少なく、下げ止まりが指摘されている。ちなみに私の属する20代の平成25年度のテレビ(リアルタイム)視聴時間は、平日127.2分、休日170.7分で、テレビ(録画)視聴時間は、平日18.7分、休日35.7分である。

さて私のテレビ生活はというとこのデータに全く似つかない。私のテレビ視聴のほとんどは録画したものである。統計データから計算すると、テレビ視聴時間のリアルタイム:録画は、平日で8.7:1.3、休日で8.3:1.7となっているが、私の場合1日のテレビ視聴時間のうち8.5~9割くらいは録画で、残りはリアルタイムである。そしてリアルタイム視聴時間のほとんどは、ながら視聴だ。家にいるときは睡眠時を除いて大体テレビをつけているので、時折現れる気になる言葉や映像に応じてテレビに集中する、みたいな感じである。統計データで録画視聴時間が休日でさえ1時間いかないのに驚いた。

私の一日の録画視聴時間はどのくらいだろうか。ここ1か月くらいを振り返ってみると平均で2時間くらいだろうか。私のテレビ録画視聴の多くはドラマなので、時期によって変わる。今フォローしているドラマは…げ、10本もあるではないか。そもそもテレビなしの生活という選択肢をかなり早い段階で消したのも、ドラマを見れなくなることが困ると思ったからである。地上波のみならずCSで放映されているドラマをけっこう見ているのでやっぱりテレビいるでしょう、となったわけである。ちなみに、地上波ドラマについてはこの1週間スマートフォンのワンセグ機能を初めて使って見てみたが、私の家は電波が悪く、途中で映像は途切れるわ電波を求めて窓際に移動しなくてはならないわでイライラの連続だった…。

しかし、テレビなしの生活を1週間続けてみると静かな部屋にも、ドラマを見ることができない生活にも慣れるものである。静かな部屋は居心地が悪かったので、ネットやアプリでラジオや音楽を流してみた。最初こそ変な感じだったが今は慣れた。今後、家にいるときテレビをつけっぱなしにする必要はないだろう。ドラマについては執着が弱くなった。明日テレビが来たらまたフォローせずにはいられなくなる気がしないでもないが、これから放送が始まるドラマについては少しセーブしようか。

2015/03/06

読書記 モーム 「ランチ」(The Luncheon)

最近、誰かと一緒にご飯を食べに行くとなるとまっ先に頭をよぎるのは、お金のことである。人と一緒に外食するのは好きなので基本的に誘いは断らないし、自分から友人を誘ったりもする。けれど決して思い切りはよくない。「その食事でいくらくらい使うことになるんだろう」「値段に見合った量が出てくるんだろうか」「あ、交通費もけっこうかかるのね…」そんな悶々とした気持ちをしばし抱えることになる。なんともせせこましい自分に悲しくもなるが仕方あるまい。外食は節約生活の敵なのだ。さしあたり貯金を切り崩して生活費と学費をまかなっていることを考えると、外食に十分にお金をかける余裕はない。

とはいえ、私の場合人と外食するときの支払いは、割り勘又は相手が私より多く支払ってくれる、がほとんどである。本当にありがたいと思う。と同時に三十路手前になっても「今日は私がおごるね!」と言えない自分がちょっと恥ずかしい。先日読んだ英作家モームの短編「The Luncheon」(http://goo.gl/994ZSV)の主人公はその点潔い。若き小説家の主人公にファンレターを送ってきた女性の希望に応え、パリの格式あるレストランでその女性と一緒に昼食を食べることにするのだ。もちろん主人公のおごりで。しかしこのランチは主人公にとってとんでもなく冷や汗ものとなる。この女性、「私昼食は1つの料理しか食べないことにしているの。でも~は別よ。」と言いながら旬の食材や高級食材を使った料理を次々とオーダーし、出てくる料理、飲み物をどんどん平らげていくのである。

モームは自身の小説「アシェンデン―英国情報部員のファイル」中で、小説家には2つのタイプがいる、と述べている。1つは事実を淡々と書いていくタイプ、もう1つは事実を元にしつつも適宜創作して意図的に盛り上げ場面を作っていくタイプ。モーム自身は後者であるとのこと。この短編もそのように書かれているのだろう。設定や主人公の心理描写が巧みで、読んでいるとありありと情景が浮かんでくるし、実際にこんなこと起こりそうである。しかし同時に話の流れが明確で短編全体を通して冗長性を感じない。作りこまれた喜劇、という印象を受ける。私にとってのこの短編のいちばんの面白さは、主人公と女性がランチを巡って交わす会話とその時の主人公の心理描写だ。言っていることとやっていることが裏腹であっけらかんと食べ続ける女性と、支払いを気にして今にも気絶しそうな主人公との掛け合いが面白い。読んでて笑いが止まらなかった。主人公の間合いの取り方や皮肉から女性は終始何も察さず、オーダーを続けるのである。察してほしい主人公の気持ちと行動に共感しつつも、ことごとく叶わず食事が進んでいく様子はとても可笑しい。

ちなみにこの短編にはオチがある。私はこのオチにさほど笑えなかったが、オシャレさ漂うオチである。


追記
日本語訳はこちらに収録されている模様。「モーム短篇選〈下〉」

2015/02/19

映画レビュー 「ブルージャスミン」

映画「ブルージャスミン」を観た。大好きなウディ・アレン映画ということでDVDを手にとった。ここ何年かのウディ・アレン作品は全部観ているが、この映画はそれらのどれよりも容赦ない話だった。特にラストシーン、主人公がベンチに座って独り言をつぶやくところで終わるのだが、その姿を見たときにはもう、それこそ「笑ゥせぇるすまん」の喪黒さんにドーン!と突きつけらたような感じである。

この映画の主人公は、元セレブの女性ジャスミン。ジャスミンは、実業家でお金持ちの夫とニューヨークでセレブ生活を送っていたが、実は夫は詐欺をはたらいており、逮捕されてしまった。しかも逮捕後自殺。お金も家も夫も失ったジャスミンは、サンフランシスコに住むシングルマザーの妹を訪ね、妹と一緒に暮らしながらどうにかセレブ生活を取り戻そうとする。

ジャスミンは、はたから見れば滑稽でかなりイタい女性である。一文無しなのにも関わらず高価な衣服やアクセサリーを身につけ、飛行機はファーストクラス。妹に生活をお世話になりつつ内装や男の趣味が悪いと文句をたれ、バカにしていた歯医者の受付の仕事に苦戦する。インテリアコーディネーターになることを夢見、政治家を目指すセレブと結婚しようと嘘に嘘を重ねる。ジャスミンは自尊心が高くて傲慢、虚栄心が強く、ことあるごとに過去の生活を思い出してはそこに浸り、現実を認めることができないでいる。

でも、ジャスミンの行動をジャスミンの視点で考えてみると少し違って見えてくる。内容・程度の差こそあれ私も経験したことがあるし、多くの人が経験していることのようにも思う。だから映画を観ていてギクッとしてしまった。ジャスミンの行動や発言から連想されるのは、アイデンティティクライシスという言葉だ。人は通常、社会でさまざまな経験をしながら自分を知る。接する相手や環境によって、年齢によって行動が変わっても自分から出た行動であることには違いなく、統合され一貫性を持った唯一無二の存在としての自己像を得る。アイデンティティは青年期の発達課題としてよく取り上げられる。しかし青年期に限った問題ではなく、青年期に解決しても人生のどこかのタイミングで再び再燃することはある。ジャスミンの場合を考えてみると、彼女はセレブ生活を心から満足し、特に疑問も抱かず当然のことのように感じていた。ジャスミンのアイデンティティはその生活での経験に帰属し育まれていたといえる。しかしその生活は突然奪われてしまう。自分の拠り所であり、自分を自分たらしめていたものが突然奪われるのである。しかもなんとも悩ましいことにそれは自分が衝動的にとった行動によって引き起こされてしまった。そこでこれらの不快な状況から抜け出すべくジャスミンが考えたことは、限りなく元の生活に近い生活を取り戻すことである。自分の信じていたものや大切にしていたものが突然奪われば、どうしたらいいか分からなくて不安や恐怖を感じるし、頭にくるし、絶望する。すがったりもがいたりしてなんとか取り戻そうとするだろう。黙って「はいそうですか」と受け入れられる人はよっぽど精神を鍛錬している人くらいではないか。

が、かといって失ったものにいつまでもとらわれていたり、現実を認めることができないでいるのも精神的にはよくない。これからのことを考えたら、早い段階で現実に向き合い、折り合いをつけてアイデンティティ再確立に励んだほうが断然いい。その意味で対照的なのはジャスミンの息子(夫の前妻の子のため血はつながっていない)である。ジャスミンは過去にとらわれたままで映画は終わってしまうが、息子は父親の詐欺で友人も信頼も失い、大学をやめて家も飛び出し、荒れた生活も経験したが、現実を受け入れ、地に足のついた生活を始めていた。私はなかなか気持ちを切り替えられないたちなので、ベンチに座って過去を回想しながら独り言をつぶやくジャスミンを見てゾッとした次第である。

私がこの映画でいちばん魅力を感じたのはジャスミンの精神状態とその描写(ケイト・ブランシェット、よかった!)だったが、他にも見どころがある。例えば作品の構成。ジャスミンが過去にとりつかれているようすを表すかのように、ジャスミンによる回想がちょくちょく織り込まれているのだが、物語が進むにつれてなぜジャスミンが一文無しになったのかが分かるようになっている。その理由はなかなか衝撃的である。それからジャスミンとは全く異なる性格の妹。姉と暮らし始めたことで妹にもいろんな変化が訪れる。姉に感化されたりする、全編を通しての妹の変化も共感できるし楽しいと思う。