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2017/01/18

ヘアカットにて

髪を切りに行ってきた。大体二ヶ月半に一回くらいの定期カット。ここ数年ずっと同じ人に切ってもらっていることもあり,緊張しない心地よい時間だ。

美容院に行くと,ヘアメイクの雑誌やファッション雑誌,女性向け情報誌がたくさんおいてある。私はたいてい,切ってもらう前の待ち時間にヘアメイクの雑誌に目を通して,新しい髪型の候補を探してみるのだが,結局いつも今の髪型(ワンレンボブ)に落ち着いている。今の髪型以上に一目惚れするような髪型が載っていないし,今の髪型はたいした手入れをせずともまとまるのでとても楽なのだ。雑誌に載っているヘアスタイルは,アレンジしないとそういうふうにはならないから私には手に負えない。そういうわけで,5~6年くらい今のヘアスタイルでいる。

美容室ではいつも主に,3人の人とお話する。受付の人,髪を濡らしてくれる人,髪を切ってくれる人だ。髪を濡らしてくれる人はたいてい,入社したての20代前半?くらいの人。私の髪を扱いながら一生懸命話をしている雰囲気が伝わってくる。自分と同世代ではない知らない人相手の会話。さぞ気を遣うことだろう。その日の天気の話や,髪のケアの話,その人の最近の出来事についてや,最近話題になっていることなど,人によっていろいろな話を振ってくる。明るい雰囲気で話を始め,こちらも相槌をうち,とやりとりを何度か続けて髪を切ってくれる人にバトンタッチである。

髪を切ってくれる人は,私と同世代の女性だ。もう何年も切ってもらっていることもあって,当たり障りのない距離感の関係である。友人や家族のような近さもなく,かといって見知らぬ人のような遠さ,よそよそしさもない。軽い気持ちでぽろぽろとつい話をしてしまう。今日は年末年始地元に帰ったんですか?の話から親や家族に対する思いの話になった。親も年とったよねとか,地元帰ると結婚の話されるよねなど,アラサーあるあるの話で盛り上がった。近すぎず,遠すぎずの距離だからだろう。感情的になることも構えることもなく,いい意味で冷静に話ができていたりする。私の知り合いを見回してみても,彼女との間の距離感と近い距離感を感じる人はいない。

そんなわけでヘアカットが終わり,また二ヶ月半後!となった。増えて少しうっとうしかった髪が少なくなってスッキリした。風邪を引かないように注意しよう。

2017/01/17

文法エラーの感覚

英作文の講義で先生に英文の添削をしてもらっていたとき,ふと思ったことがあった。英語のネイティブスピーカーが文法的に間違っている英語の文を見たときに感じる感覚と,日本語のネイティブスピーカーが文法的に間違っている日本語の文を見たときに感じる感覚は一緒なのだろうか。

日本語のネイティブスピーカーである私は,これまでに何度も日本語を学習中の友人たち(日本語のネイティブスピーカーではない)が書いた日本語の文を添削した経験がある。文法的な間違いで最も多いのは,助詞の使い間違いである。続いてよくあるのが活用の仕方の間違い,文脈に合わない単語の使用だろうか。そういった文を見ると,理屈抜きに瞬時に違和感を感じる。何を言いたいか分からない,意味が汲み取れない文章ではない場合でもはっきりおかしいと感じる。そしてどこがおかしいかもすぐ特定することができ,正しい表現に直すことも簡単だ。ただ,なぜそれが違うのかを説明しろと言われると,場合によってはしばし考えないといけなくなる。日本語を専門的に学習したことはないゆえうまい理屈が見つからず,結局日本語のネイティブスピーカーはこういうときにはこう言う,程度のことしか伝えることができていない。

一方で,英語の場合はどうか。英語は私にとっては第二言語であり,日本語のように自然に身につけたものではない。中学と高校でガッツリ文法を叩き込み,それを元に英文を読んだり書いたり,聞いたり話したりしている。英文を書いたり話したりするとき,私はよく文法ミスをする。話をしているときには,たまに今間違えたと自覚することもあるが,たいていはミスに気づかない。また,書いたものについても,よくよく見直しをしない限り自分では気づかないことが多い。つまり,母国語でなくなった途端,ミスをしても違和感を感じにくくなるわけだ。そして指摘されたあと,自分の頭の中にある文法知識と書いた文を照合させ,やっとミスに気づくこととなる。

母国語と,成長してから習得した言語の間には超えられない壁のようなものがあると私は思っている。しかし,それは私のレベルが高くないからそう思うのだろうか。もっと学習したら母国語のように外国語を扱えるようになるんだろうか。

イギリス人の先生は,私の書いた英文をささっと読んでミスを指摘してくれた。文法ミスのある英文を見たとき,彼はどんな感覚を感じているのだろう。私が文法ミスしている日本語文を見たときに感じるように,直感的に瞬時に変だと感じるのだろうか。そのような違和感は,言語によらず母国語において感じる普遍的なものなんだろうか。

2017/01/16

事実と当為の話

今日の哲学がらみの講義でのこと,事実と当為について話題に挙がった。この事柄について私は今日初めて知ったこともあって,話題に挙げたほかの学生たちの話を聞いていた。それでこれまでの経験を顧みて,日常生活において事実と当為は混同されがちではないかと思った。

事実と当為とは何か。あくまでも私が今日の講義で知ったこと及び辞書しかベースにしていないので,ざっくりした説明にはなるが,事実(存在と言われることもある)とは,「そうであること」・「そうであらざるをえないこと」である。一方当為は,「そうであるべきこと」・「なすべきこと」を意味する。それで,私が言うところの事実と当為が混同されがちだというのは,当為をあたかも事実のように扱うことである。

なんでこんなことを思ったかといえば,話をしていた学生たちから,「どんなに美辞麗句だとしても当為は必要だと思う」,「当為は理想であり,到達するのは不可能」といった発言があったことがきっかけだ。それを聞いていたとき思い浮かんできたのは,私がこれまで生きてきた中でいろいろな人(親,先生,友人)から言われてきた当為発言の数々である。彼らの発言から私がよく受けてきた印象は,「それはみんな当然のこととしてしてるでしょう」・「そうしないなんて変ね」のようなニュアンスである。私の偏見だとか,私の周りではたまたまそうだったと言われればそれまでだが,○○(す)べきというのは,発言者からしてみれば自身が正しいと思っていることを言うわけで,また,正しいと思っていることをあえて主張するというのは,聞き手を諭すか,私はあなたよりも優れているということを示したいというような意図も含まれていると想定されるので,私の印象もそこまで的外れなものではないと思われる。

このようなニュアンスを含んだ当為発言を真に受け,それに沿おうとすると,苦しい窮屈な生き方になるんじゃないだろうか。当為を事実のように受け取ってしまうと,あるべき姿をいつまでも追いかけたり,そうできない自分に対して自己嫌悪を抱いたりすることになりかねない。当為発言を悪だというつもりはない。あるべき姿を出すことは発展や改革にもつながる。ただ,当為と事実を分節できる力は持っていたほうがよいと思う。

2017/01/15

メリハリの話

昨晩放送されていた「久保みねヒャダ こじらせナイト」(http://www.fujitv.co.jp/kojirasenight/)を観ていて,あぁそういうことか,と妙に納得したことがあったので書き留めておこうと思う。

番組のラストで,久保みねヒャダの3人が「こち亀」の両さんの絵を描き,どんな絵を描いたか見せていたときのこと,自称絵がうまくないヒャッくんの絵を見た久保センセイが,「その絵の重要度が全部同じに見えてしまうんじゃないか」「絵描くときに,何がこの絵で主張するのか,優先順位とか・・・」というコメントしていた。そのコメントを聞いたあと突然,私に足りないのはそれか,とストンと落ちるものがあった。何かを生み出すという状況において,私は自分がインプットした情報に対する重み付け(取捨選択/メリハリと言い換えてもいいかもしれない)がよくできていない。かつ,アウトプットする情報に対しても重み付けができていない。だから,アウトプットされたもの全体として見ると,なんだかぼやけたもの,無難なもの,面白みのないものになっているんじゃないか。そんなことを感じた。

それらの例を挙げるとけっこう出てくる。例えば洋服のコーディネート。ファッション雑誌を参考にしてもどうもうまくいかない。その一因は多分,情報の重み付けというレンズを通してコーディネートを観察していないからだと思う。レンズを通してみると多分,このコーディネートで主張したいのはこのアイテムだろう,とか,ここはあれを魅せるためにあえてこうしているんだな,とかそんな感じで情報がインプットされるのだろう。そうすると,その重み付けされた情報が生きてくるのだろう。残念ながら,実際に自分のコーディネートを作るときにも重み付けを行えていない。結局私がしていることといえば,コーディネートを眺め,色の組み合わせとか,服のラインとかを参考にする程度である。上手く言えないのだが,目に入ってくる情報が全体としてのものでしかないというか,アイテムごとに見てもそれぞれのアイテムが同程度に重要としか思えないというか,そんな感じである。多分,重み付けをしている人たちの見方というのは,全体の中の要素間で重要度が異なって思われたり,要素同士のつながり間でも重要度が違っていると思われたり,そんな感じなのではないかと推測する。

本を読んでレポートなどを書くときもそれは起こる。例えば1冊の本にもいろいろなことが書かれているが,その中での重要なことがいまいちくっきり見えてこない。だから,読み飛ばし,流し読みなどもできない。レポートなんて本数冊を読んで書くのだから,余計にわけわからんとなることがままある。それで,どこをどうまとめてレポートを書けばいいのかで一苦労である。テーマや書きたいことがあれば,それを元に情報の重み付けをしていけばいいとも考えられる。しかし,そうすると今度,自分の重み付けの仕方が正しいのかが気になる始末である。正しい重み付けの仕方というのがあるのかもよく分からないのだが・・・経験を積めば直感的にどこが重要でどこが重要でないというのは分かるものなんだろうか。

とりあえず,恣意的になることを恐れずに,メリハリつけることをやっていこうか・・・。

2017/01/14

センター試験によせて

今日明日とセンター試験が行われている。今大学に通っているのと,塾で高3生を見ていることで,ここ数年,自分が受けたときくらいにセンター試験を身近に感じている。一発勝負の試験であるゆえ,国公立組の皆さんには特に頑張って欲しい。

2004年に私もセンター試験を受けたわけだが,センター試験のときのことがほとんど記憶に残っていない。覚えているのはセンター試験前日の金曜日,当時放送されていたTBSのドラマ「奥様は魔女」(http://amzn.asia/fnXFkYY)を見て緊張をほぐそうとしていたことと,翌朝センター試験会場に向かうバスの中で友達に前日観たそのドラマのことを話していたことくらいである。私の通っていた高校は地方の高校で,しかも高3生ほとんどがセンター試験を受験するゆえ,バスを出して会場まで送ってくれた。ここでも緊張していた気持ちをごまかそうとしていたに違いない。会場は筑波大学だった。筑波大に到着してバスを降り,受験票片手に教室を探した。で,そこから先はほとんど覚えていない。おそらく尋常じゃないくらいの緊張とプレッシャーだったからだとは思うが,センター試験当日のことで覚えていることはもうない。お昼に私はどんなお弁当を食べたのかとか,ちょっと気になる。それで,センター試験後のことで記憶に残っているのは,明けの月曜日に自己採点をしたことだ。寒い中学校に向かい,採点し,その後ストーブにあたりながら保健室で友達と話していたような・・・それくらいだ。

昨日塾にセンター試験組が何人か来ていた。以前担当していた生徒の一人と少しお話した。「明日がんばってね」と声をかけたら,「もう言わないでよー。無理ー。」と照れ笑い。緊張,不安,プレッシャー,希望,焦り,あきらめなどが混ざった複雑な気持ちをきっと感じているんだろう。自分が受けるわけじゃないのに,私もなんだか落ち着かない気持ちだった。こういうとき,どんな言葉をかけてもらえると落ち着くんだろうか。そういう場面に遭遇するたびにいつも思う。これまでの自分の経験を振り返ってみてもいつも答えが見つからなくて,ありきたりな「がんばってね」を言ってしまう。でも,頑張って欲しいというのは本心。応援しています。

2017/01/13

戦国時代展@東京都江戸東京博物館

東京都江戸東京博物館で開催中の「戦国時代展」(https://goo.gl/zoR7OL)に行ってきた。イケメン戦国や真田丸の影響で,昨年からじわりじわりと熱くなってきた戦国時代への興味。年末の飲み会でこの展示会について友人から聞いて以来,これは行かねば!と思っていた。

2時間超,時間をかけてすべての展示をじっくり見て回った。何百年前に生まれ,使われていたものが今こうして間近で見られることに,こみ上げてくるものがある。それに,戦国武将たちが使っていたもの,愛用していたものを前にすると,既存のイメージに引きずられながらもいろんな妄想が始まる。そしてもっと武将たちのことを知りたくなる。謙信が春日山城の毘沙門堂に祀っていたとされる毘沙門天像,謙信はどんなふうに祈って大切にしていたのか。謙信が使っていたとされる酒盃,彼は宴会の席で何を語るんだろう。織田信長が朝倉氏を討って得た名物籠手切正宗,彼の刀さばきはどんな感じだったのか。佐竹氏の甲冑,兜には前に進むとの気概をこめた装飾が施されているが,戦うの怖くなかったのかな。上杉文書に書かれていた願掛けと武田信玄の甲州法度,当時も今も人が人や国を思う気持ちは変わらない。彼らはどんな国を目指していたんだろう。展示を見ていると,お話の中でしかなじみのなかった戦国武将が実在して生きていたことを実感する。

戦国時代というと戦いのイメージが強い。だがその一方で文化の成熟も起こっていたようだ。それでこの展示会では,連歌や茶の湯などに関する品も展示されていた。連歌がたくさん書かれた冊子,字が読めなくて何かいてあるか分からず,無念…。読みたかった…。室内の装飾の仕方について書かれた書物は,イラスト入りで分かりやすく目を引いた。大陸からの工芸品もけっこう展示されていて,日本のものとの違いが分かる。

それから花押の展示も印象深かった。武将たちが何らかの思いを込めて作ったのだと思うが,それぞれ違っていて,彼らのセンスやこだわりみたいなのが表れている。展示されていた中での一番は織田信長!花押,私も作りたい。

そんなわけで戦国時代展,武将たちの生をたくさん感じ,勉強にもなり,贅沢な時間を過ごせた。たが,信長関連の品があまりなくて少し残念…ということで,安土に行くことを計画しようと思う。