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2014/12/30

近代ヨーロッパを探る④ 社会主義思想と国民国家

近代においてヨーロッパの国々は、貿易によって富を得、経済力を高めてきた。なかでもイギリスは群を抜いていた。商人や生産者が国家からの干渉を受けずに自由に貿易をすることができる自由貿易の推進、海軍力によって経済活動は保護され、イギリスは世界経済の中心になっていた。産業革命もイギリスの発展に大きく貢献した。産業革命はフランスやドイツ、アメリカ、日本などにも波及、工業技術によって新たな産業も生まれ、国は豊かになり、人々の生活が向上した。その結果、ヨーロッパでは人口が増加した。

このころイギリスで主流だった政治思想は、功利主義である。功利主義は、「最大多数の最大幸福」という言葉に象徴される。自らの幸福を求めつつ、社会全体の幸福を求めることを道徳原理とする思想である。カントが、理性がもつ普遍的な道徳原理に従って行動することを支持したのに対し、功利主義者は、幸福(快楽を増やし、苦痛をなくす)のための行動を正しい行為と据える。その幸福は個人だけでなく関係者全体の幸福である。功利主義の祖とされるベンサムと、ベンサムの理論を修正、拡張したジョン・スチュアート・ミルの理論を踏まえて、ヘンリー・シジウィックは、社会全体の幸福は個人が幸福を追求することから成るものの、個人の幸福と社会全体の幸福が対立する場合には、政府による介入が望ましいとしている。

一方で、資本主義が確立し経済がどんどん繁栄する中、富を得て投資しさらに富を築く人々と、彼らに雇われて厳しい労働条件の下働く人々の間の格差が明らかになっていった。景気が循環するようになり、失業も発生するようになった。そのような中次第に力を得て行ったのが、社会主義思想である。社会主義思想は、資本主義の自由競争や私的所有権の制限や禁止を訴え、平等で公正な社会の実現を目指す。社会主義思想の拡大に大きな影響を及ぼしたのが、ドイツのカール・マルクスである。マルクスは1848年、エンゲルスとともに「共産党宣言」を発表する。「幽霊がヨーロッパをさまよう―共産主義という名の幽霊が…」で始まり、「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」で終わる共産主義の綱領である。マルクスは、社会を貫く発展法則や社会のあらゆる側面の相互作用を、自然史の過程としてとらえて認識、分析し、その後の発展方向を予測する唯物史観の哲学をもつ。「共産党宣言」を流れているのは、①生産活動から生まれる社会組織がその時期の歴史の基礎をなしている、②よって、社会の発展のさまざまな段階における、支配する階級と支配される階級闘争の歴史が全歴史である、③今支配される階級(プロレタリア)を支配階級(ブルジョア)から開放するためには、社会全体を階級闘争から解放せねばならない、という根本思想である。ヨーロッパのこれまでの経済発展や社会の変化を歴史の必然性の中でとらえて展開し、労働者の団結、革命、現社会秩序の転覆を鼓舞している。マルクスはその後、資本主義の構造を分析した「資本論」を発表する。マルクス主義は19世紀後半~20世紀にかけて全世界に広まり、多くの革命を生んだ。そして共産党政党が生まれ、社会主義国家、共産主義国家が建国されることとなる。

また、18世紀~19世紀にかけて、ヨーロッパでは「国民国家」が次々と誕生した。「国民国家」とは血縁や宗教、言語、伝統などによって結ばれた共同体から成る国家である。近代ヨーロッパにおいて国家は、王の元で王を主権として形成されてきた。しかしフランス革命が起き、人権宣言で人権の保護や国民主権の思想が提唱されると、ヨーロッパのあちこちで国家の構成員が立ち上がり始め、政府への抗議運動や革命を起こしていく。国の代表者たちは、革命を抑え秩序を取り戻そうとするも、失敗に終わる。この間ヨーロッパではベルギーやギリシア、ルーマニアが独立し、イタリア、ドイツも統一を果たす。しかしこの「国民国家」は、争いの火種になり続ける。

東ヨーロッパのバルカン半島でも20世紀初頭に複数の国家が生まれた。しかしもともと東ヨーロッパを統治していたオスマン帝国が衰退していたことやバルカン半島は多くの民族が混在する地域だったことから、隣国である他のヨーロッパ諸国およびロシアの勢力争いがからみ合って、第一次世界大戦が勃発する。1914年の、セルビア人の青年によるオーストリア皇位継承者夫妻の暗殺を期に、オーストリアはドイツの支持を得てセルビアに宣戦する。セルビアを支持するロシアはこれに応じ、ドイツはロシアとその同盟国フランスに宣戦、イギリスもドイツが中立国であるベルギーに侵攻したのを期に参戦した。殺傷能力の高い新型兵器が使われ、膠着状態が続く塹壕戦となり、戦争は長期化、国民の間では厭戦感情が高まっていった。1917年にはアメリカがドイツに宣戦する。一方ロシアでは、戦争で疲弊した民衆や兵士が反乱を起こし、ロシア革命が起きて帝国は崩壊、社会主義国家が誕生して戦争から離脱する。1918年にはドイツでも革命が起こって帝政が崩壊し、第一次世界大戦は終結することとなった。


参考文献
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈8〉帝国の時代」創元社 2003
ミル『功利主義論』を解読する(http://www.philosophyguides.org/decoding-of-mill-utilitarianism/
中井大介「功利主義と経済学―シジウィックの実践哲学の射程」晃洋書房 2009
マルクス、エンゲルス「共産党宣言」岩波書店 2009
ブリタニカ国際大百科事典

2014/12/26

近代ヨーロッパを探る③ 革命のとき

17世紀の後半ごろから18世紀にかけて、ヨーロッパでは啓蒙思想が普及していた。キリスト教の教義、思想による社会基盤が崩れ、商業が発達して都市化が進み、実験や論理を用いる科学技術が進歩しつつあったこのころ、人間の理性や合理的精神、批判的精神が新しい社会を作っていくためのカギになる、と多くの思想家が思っていた。彼らは人間の理性、知性の持つ力を信頼していたのである。前回記述した、社会契約を基にした政治哲学を発表したロックも啓蒙思想家の1人である。啓蒙思想は海を越えて、フランスやドイツでもさかんになった。フランスでは、ロックの政治思想の影響を受けたモンテスキューが、立法権・行政権・司法権の分立を唱え、ディドロとダランベールは、同時代の哲学・芸術・科学・技術・産業などの諸部門の知をまとめた「百科全書」の編さんにあたった。ドイツでは、インマヌエル・カントが認識についての新たな見解を示し、理性について論じた。カントは、理性は生まれつき全ての人間に備わっており、善悪の法則をも持ち合わせているとしている。人々が理性を利用できる社会を求め、理性を用いた自律こそが自由であるとした。

一方、ヨーロッパの強国が植民地支配を続けていたアメリカ大陸では、18世紀後半に転機を迎える。当時アメリカ大陸では、先住民、奴隷としてアフリカから連れて来られた人ほか、ヨーロッパから移住した人も多く住んでいた。先住民たちの入植者に対する反乱や、本国からの植民地への一方的な課税法律への抗議および対抗措置などをきっかけに独立の気運が高まり、1776年、植民地は独立を宣言する。アメリカ合衆国の誕生である。

アメリカが独立を勝ち取ったころ、ヨーロッパ大陸ではフランスに革命が起こった。政治と経済の行き詰まりが原因だ。当時フランスは、イギリスとの戦争で出費がかさみ国の財政が悪化していた。富裕層から徴税を行おうとしたものの、特権や慣習による既得権益で守られている貴族は反発。しかも、増加する人口に食料生産が追いつかず、食料価格は高騰し、農作物の不作や家畜の病気などのあおりを受けて農民たちの生活は苦しくなっていた。民衆は、王や貴族への怒りを募らせ、1789年、バスティーユ牢獄を襲撃する。フランス革命は、ルソーの思想が影響したと言われている。ルソーは、封建的な隷属関係を批判した。各個人が自由・平等であるために互いに契約を結び(社会契約)、各個人に共通する利益を目指す国家を主張した。1791年議会は、国民主権、法の下での平等や個人の権利の法的保護などを提唱した「人権宣言」を前文に、憲法を制定する。フランス革命に象徴される民主主義や自由主義、ナショナリズムの思想は、ヨーロッパ諸国に影響を与え、その後のフランスを含めヨーロッパ各地で反政府運動が勃発していく。

18世紀後半に見られる革命は、アメリカ独立宣言やフランス革命のような、民衆の国家に対する抗議だけではなかった。イギリスでは産業革命が始まっていた。イギリスは毛織物などの工芸製品の生産が進んでおり、工場で人を雇う資本家が出現していた国だ。さらに、農業技術や生産率の向上で収益を得た地主たちが土地の売買を行った結果、仕事を失った農民が現れ、彼らは工場での労働力となった。また、工業の原料や燃料となる石炭や鉄鉱石などの資源が豊富にあり、自然科学の発達が技術の進歩を後押しした。紡績機によって繊維産業の生産性が一気に増し、蒸気機関が新しい動力となり、鉄道や汽船が現れる。鉄道や汽船は原料や生産物の遠距離輸送を可能にした。そして工場が建設され、労働者が集まるようになり、都市ができる。イギリスは工業国として名を馳せ、資本主義社会が確立する。しかし一方で、低賃金労働や児童労働、資本家の力の拡大、公害や犯罪の増加などの問題が浮上していた。



参考文献
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈7〉革命の時代」創元社 2003
ルソー『社会契約論』を解読する (http://www.philosophyguides.org/decoding-of-rousseau-contrat-social/

2014/12/22

近代ヨーロッパを探る② 革命前夜

前回、近代ヨーロッパの幕開けを、経済システムと社会システムの変化(商業および市場経済の発達、中央集権国家の確立)、そして人々の考え方や生き方の変化(合理的精神、現世的な世界観)の始まり、とまとめた。その後のヨーロッパにおいて、経済は資本主義経済へ、社会システムは民主主義へと進んでいく。そして、対外的には植民地化を進め、覇権争いを繰り広げる。一方、中世時代のヨーロッパ精神の根幹ともなっていたキリスト教は、宗教改革を経てカトリックとプロテスタントに分裂、政治ともからみ合ってあちこちで紛争の火種になっていた。

15世紀にポルトガルやスペインが交易海路を開拓し、アメリカ大陸にあった国々支配していったのに続き、オランダやイギリス、フランスもアジアとの交易、アメリカ大陸の植民地化に乗り出していた。ヨーロッパでは貿易会社や銀行が設立され、アントワープやアムステルダム、ロンドンなどの大西洋の都市が商業都市として栄えた。ヨーロッパの商人たちは砂糖や綿花、タバコなどをアメリカ大陸から輸入し、代わりに毛織物などを輸出した。しかし、アジアとの地中海貿易によってもたらされたコーヒーや茶がヨーロッパで普及するにつれて砂糖の需要が高まり、アフリカ大陸から現地民を、奴隷としてアメリカ大陸に連れてきて働かせ、生産物を輸入するようになる。このころイギリスやフランスでは貿易によって国力の増強を図る重商主義政策が行われており、輸出先の拡大や領地拡大のためしばしば戦争が勃発し、覇権争いを繰り広げていた。

大陸内では、それぞれの国で王の権力が強大化していた。王は軍事力を高めて反抗勢力を抑え、役人を雇って政治を行っていった。また、軍事力と官僚組織の維持のために民に徴税を課し、中央への権力の集中を図った。王への権力の集中は、経済圏の拡大を図りたい商人たちにとっても都合のよいことだったので、王権強化に協力した。近代初頭のヨーロッパでは、農業に従事する人たちが大多数を占めていたが、商品経済の発展により工業製品の需要が高まり、工場で人を雇って商品の生産を始める資本家が出現、商品を運搬する道路や運河などのインフラ整備も進められた。そして、農業や酪農の進歩によって栄養状態がよくなったことや飢餓による死亡者の現象、医学の発展などにより、人口も増加していくのである。

続いて思想についてである。17世紀の初頭は、科学革命の時代と言われている。科学革命を後押ししたことの1つは、宗教改革を後押しすることにもなった、印刷技術だ。印刷技術の普及により、人が入手できる情報量が圧倒的に増えた。出版物を通していろいろな知識が行き交うようになり、これまでの通念や権威が力を失い始めた。さらに、貿易海路の開拓で天文学や地理学の知見が増えたことや技術革新により、造船術や農業生産率が向上したことなども科学精神の萌芽に関係していると思われる。そして、実験によって得た事実を元にして、理論を構築していくという試みが始まっていく。科学革命の代表的人物は、天文学のヨハネス・ケプラーやガリレオ・ガリレイ、力学のアイザック・ニュートンである。ケプラーは、ティコ・ブラーエが得た膨大な天体観察記録を使って天体の運動に関する理論を構築し、ガリレオは天体の動きを観察して得たデータを数学を使って分析し、地動説を証明した。ニュートンは、ケプラーやガリレオの説からヒントを得つつ、万有引力の理論を構築した。科学はしばしばキリスト教と対立するものとして描かれる。カトリック教会や聖職者は、科学による新しい発見をキリスト教への脅威とみなしていた。しかしむしろこれは、キリスト教が衰退することへの危惧というよりは、キリスト教という基盤によって成り立っていた社会が崩れることへの危惧といえる。しかし実際には、キリスト教への信仰をほとんどの人たちはやめていない。科学の発展に寄与したガリレオやニュートンも神を否定しなかった。

この時代には、近代を代表する哲学者が2人現れる。デカルト(フランス)とロック(イギリス)だ。デカルトは多彩であった、数学の分野では代数学と幾何学を融合させて座標を発明した。また、疑うことを基礎におき、その著書「方法序説」にて真理を導くための思考のルールを発表する。一方ロックは、政治思想に影響を与えることとなる、社会契約の説を唱える。政治思想においてもキリスト教基盤の理論が崩れたことから、それに代わる新しい理論が必要になっていた。そこに登場するのが自然法と社会契約の考え方である。自然法とは、自然に由来する、あらゆる世界にあてはまるとされている法である。自然法が支配する自然状態において人間は、自由かつ平等である。そこでは他人の生命や自由、健康、所有物を侵害してはならない。しかし、この自然状態は、犯罪や暴行などの侵害行為が起こる可能性を秘めた不安定な状態でもある。もし侵害行為が起これば、そのとき人間は侵害者を自然法に基いて罰することができる。しかし、それぞれの人間が持っている罰する権威をある1つの共同社会に譲れば、その共同社会は大きな力を持つことができる。この共同社会が人間間の仲裁人となり、不安定な自然状態を安定へと導くことができる。人間の同意、契約によって成り立つ共同社会は、人間の私有財産の保護を最大の目的とする。共同社会が自然法を侵害したならば、それに反抗してもよい、といった考え方である。ロックのこの思想には、自由と平等の思想が織り込まれている。そして、共同社会への反抗の権利を条件つきで認めていたことから、のちの市民革命に根拠を与えるのである。


参考文献
ウィリアム・H・マクニール「世界史 下」中公文庫 2008
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部「成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈6〉 近代ヨーロッパ文明の成立」

2014/12/19

「ガリバー旅行記」と国家論

ジョナサン・スウィフトの書いた小説「ガリバー旅行記」は風刺文学と言われている。スウィフトは小説内で、ガリバーが漂流先で体験するあれこれをユーモアたっぷりに描くと同時に、当時のイギリス(イングランド)や人間を糾弾している。スウィフトは「ガリバー旅行記」を出版する際、自分が書いたことが公にならないようにした。タイトルに記載した著者名は、レミュエル・ガリバーとし、ガリバー本人による体験記という形をとった。さらに、自分が書いた原稿を第三者に写させて、その写した原稿を本屋においた、とも言われている。スウィフトは当時の政治への痛烈な批判を意図的に書き、トラブルが生じることも折り込み済みで出版したといえる。スウィフトは「ガリバー旅行記」の中でどのような国家を描き、批判し、どのような国家を理想としたのかを考えていこうと思う。

スウィフトは「ガリバー旅行記」でいくつかの国家を描いている。ガリバーが最初に漂流したのは小人の国リリパッドである。リリパッドは皇帝によって統治されている法治国家だ。軍隊を保有し、宮廷では高官たちが勢力争いや私利私欲の絡みあった陰謀を企てている。隣国との交易が国を支えており、また別の隣国とは戦争状態にある。2番目に訪れたのは、巨人の国ブロブディンナグだ。ここでは王が国を治めている。宮廷は平和で仲睦まじく、外で戦争も起こっていない。登場する人たちはガリバーに親切に対応する。農業がこの国の主要産業だ。大人国を離れたガリバーは5つの島に短期間滞在する。5つの島のうち、ラピュタとバルニバービは主従関係にあり、ラピュタの王による君主制がひかれている。両者は緊張状態にあり、数年前にはバルニバービの住民による反乱が起きた。学問に力を入れていて、天文学が発達しており、科学や政治、医学に関するとんちんかんな研究を行う機関がある。そして最後に訪れるのは、馬の国フウイヌタムである。礼儀正しく、理性を身につけた馬たちによる議会制の国であり、人間(ヤフー)は理性を持たない野蛮な動物として扱われている。

「ガリバー旅行記」で当時のイギリス政界のようすを端的に描写しているのは小人の国リリパッドである。先に挙げたリリパッド国の特徴には、当時のイギリスの政界と重なるところが多々あり、登場人物を政界の誰をモデルにして描いたかを突き止めることが可能という。例えば、リリパッド国に登場する大蔵大臣フリムナップは、当時のイギリスの政治家ロバート・ウォルポール(ホイッグ党)だとの解釈が定説である。「ガリバー旅行記」が出版されたのは1726年だが、イギリスではこの頃、国内では政治の混乱が生じており、対外的にはアメリカ大陸の植民地化と貿易による富の蓄積に励み、フランスやアイルランドなどの隣国との間には争いが起きていた。政治の混乱は、政党の勢力争いとキリスト教の宗派間をめぐる対立に起因する。そもそもイギリスでは、ピューリタン革命(1642-49)で絶対王政が転覆したものの、ピューリタンが独裁政治を始めたため、王政政治が復活、チャールズ2世が王座についた。しかしチャールズ2世は、イギリスの王たちが支持してきたイギリス国教会でも、ピューリタン革命で活躍したイギリス国教会改革派のピューリタンでもなく、フランスやスペインと近づいてカトリックを擁護する。さらにチャールズ2世の後を継いだ弟のジェームズ2世も、カトリックに親和的な政治を行い、絶対王政の復活を目指したことから議会は反発、ジェームズ2世の娘メアリと、プロテスタント国オランダを治めていた夫ウィリアムに武装援助を要請する。オランダからの援助により、ジェームズ2世はカトリック国のアイルランドに亡命、ウィリアム(ウィリアム3世に)とメアリは王位につく。これが名誉革命(1688)である。ジェームズ2世の即位をめぐって、議会には2つの政党ができていた。ホイッグ党とトーリー党である。ホイッグ党は王権の制限、植民地戦争や保護貿易の推進、宗教に対しては寛容な態度を掲げ、トーリー党は王権の擁護、戦争や保護貿易の反対、イギリス国教会支持を掲げていた。ウィリアム3世はホイッグ党を優遇したが、彼の死後王位についたジェームズ2世の娘(メアリの妹)アン女王は、トーリー党を優遇して組閣した。しかしアン上女王の死後は、17世紀前半に即位していたジェームズ1世の曾孫にあたるドイツの諸侯、ゲオルクが、ホイッグ党から多数の支持を受けジョージ1世として即位する。しかしジョージ1世はイギリスを嫌っていた。イギリスの言葉も話せず、議会政治を嫌っていたため、議会が内閣を組織し政治を行うようになった。そこでホイッグ党が政権をにぎり、トーリー党は力を失っていくのである。

スウィフトはトーリー党の支持者である。もともとはホイッグ党を支持していたが、自身の信仰するイギリス国教会に対しての、それぞれの政党の立ち位置が変化していったことから、支持政党を変えている。スウィフトの政治への強い関心は、経歴からうかがうことができる。1667年、イングランドからの移民である両親のもとアイルランドで生まれたスウィフトは、ダブリン大学を卒業後、イギリスで活躍していた外交官テンプルの秘書としてイギリスに渡る。スウィフトはそこでテンプル家にあった書物を読みあさり、イギリスの政治家たちと関わった。健康上の都合でアイルランドに戻って国教会の聖職者となってからもイギリス政界とのつながりを維持し続け、トーリー党のスポークスマンのような役割を果たすなど、政治活動を精力的に行っていた。しかし、支持していたアン女王は亡くなり、外国から連れて来られたイギリス統治に興味のない人間が王になり、ホイッグ党が独占的に政治をすすめ、トーリー党は失墜、スウィフト自身の出世の道も断たれた。このような状況下で「ガリバー旅行記」は書かれた。

ガリバーが2番目に訪れた巨人の国ブロブディンナグの王との会話には、スウィフトの辛辣な批判が現れている。ブロブディンナグの王はガリバーに、ヨーロッパの風俗習慣や法律、政治、学問、宗教になどついて尋ね、ガリバーは祖国の政治や政党間の抗争、貿易、戦争、宗派間の対立など(当時のヨーロッパ、イギリスの事情)を詳しく説明する。ガリバーは、ヨーロッパおよび祖国の社会を褒め称えつつ詳細に説明しているが、王はガリバーの言うところのすばらしさを全く理解しない。むしろ、「おまえの話からはっきりとわかったのは、ときとして無知、怠惰、悪徳のみが立法府の議員たる資格となること、そこで作られた法律は、それをねじ曲げ、混乱させ、すり抜けることに長けている連中によって、説明され、解釈され、適用されるのだということだ。…おまえの国ではどんな地位をめざすにせよ、美徳は何ひとつ必要ではないらしい。人徳が厚いものが貴族になる、敬虔で学識豊かなものが主教になる、勇猛果敢なものが軍人になる、高潔なものが裁判官になる、国を深く愛しているものが議員になる、賢明なものが顧問官になるというわけではないのだな。」(「ガリバー旅行記」p.193)とガリバーが伝えた内容に軽蔑を示す。そしてガリバーは王の才能を賞賛しながらも、視野が狭いと感じている。スウィフトが当時のイギリス政治に並々ならぬ怒りや、嫌悪感を持っていたことを踏まえて読むならば、王の返答のほうがスウィフトの本心で、ガリバーの価値観を嘲笑の対象としている、と解釈できる。ガリバーがヨーロッパやイングランドについて詳細を話すシーンは、ガリバーが最後に訪れる馬の国フウイヌタムにも描かれている。なぜ戦争が起きるのか、政界で高い地位につく方法、医者や法律家、貴族など身分の高い人びとの生活について馬の国の主君に説明するが、ブロブディンナグ国王と同様、主君はヨーロッパやイギリスで起こっていることが全く解せず、「おまえたちが本当に理性の備わった動物ならば、何をすべきか、何をしてはならないかは、自然や理性がはっきりと示してくれるものだと思うのだが」(同p.374)などと言う。馬の君主の理路整然とした返答は、イングランドの、欲にまみれ、争いの絶えない政府や高官たちの実情をさらに浮き上がらせている。

ガリバーが馬の国フウイヌタムに辿り着く前に訪れた、グラブダブドリブ島での体験には、批判とともにスウィフトの怒りと嘆きが反映されている。グラブダブドリブ島には降霊術を使って死者を呼び出し、命令できる族長がいるのだが、ガリバーはその人に古代の哲学者やヨーロッパで活躍した皇帝、名高い貴族を呼び出してもらう。彼らの姿を見てガリバーは、「戦で輝かしい殊勲を挙げたと臆病ものが讃えられ、思慮深い助言をしたと愚かものが称えられ、誠実だったとおべっか使いが称えられ、ローマ的高潔さの持ち主だと売国奴が称えられ、敬虔だと無神論者が称えられ、純潔だと獣姦者が称えられ、正直だと密告者が訴えられる」(同p.299)と語る。国王が次々と変わり、それによって高官や政策も変化する、国内外で反乱や戦争が頻発する、そのような時代にはガリバーが発言したことが実際に起こっていたと判断できる。さらにガリバーは、昔ながらの自作農を族長に呼び出してもらい、彼らを見て「飾り気のない態度、質素な衣食、公明正大な取引、自由を愛する精神、祖国愛あふれる勇敢な行動により、かつては名高かった人びとだ。…この自作農たちが持って生まれた汚れなき美徳も、自らの一票を金に換え、選挙運動に奔走し、宮廷でさまざまな悪徳や腐敗に染まった孫たちの手により、目先の金のために踏みにじられてしまうのだ。それを思うと、とうてい冷静ではいられなかった」(同p.304)と話す。当時イングランドでは既に選挙が行われていた。昔生きた人びとと今生きている人びとを比べ、今の人びとの振る舞いに心を大きく揺さぶられているスウィフトの姿を感じる。

イングランドが当時進めていた植民地政策への言及とみられる箇所もある。馬の国フウイヌタムから帰国したガリバーは、自身が発見した土地がイングランドの植民地とされることを危惧し、航海記録をすぐに国務大臣に提出しなかった、とある。そして続けて入植者の植民地での振る舞いを明確に描写し、「ひとつ断っておくが、こんなことを書いたからといって、わたしはけっして英国を非難するつもりはない。植民地経営の知識、配慮、正義において、英国は全世界の手本となるべき存在なのだから。」(同p.449)と自己弁護する。スウィフトは、ガリバーに語らせている植民地支配の実情が政府への誹謗に当たると自覚していたからこそ、ガリバーに弁明させているのである。よって、スウィフトが当時のイングランドの植民地支配を快く思っていなかったと判断できる。

ではスウィフトは、どのような国家を理想としたのだろうか。スウィフトが考えていた政府は、王、貴族、庶民の3形態から成る政府である。この3つの権力の均衡が保たれている状態が理想という。このことは、スウィフトが1701年に発表した、古代ギリシャやローマにおける統治体制や抗争を分析し、政府のあり方を提言した文書、「アテネとローマにおける貴族・平民間の不和抗争およびそれがこれら両国に及ぼした影響について」内の、「要するに、すべての自由な国家で回避すべき悪は圧政、換言すれば一人もしくは多数者が揮う無制限な権力…である。」(スウィフト,1701,中野、海保訳,1989, p.35)という記述からうかがえる。「ガリバー旅行記」内でも、理想国家について言及していると判断できる箇所がある。例えばブロブディンナグ国王についての、「君主であれ、大臣であれ、密室政治や小手先の技巧、権謀術数のたぐいは徹底的に嫌悪し、唾棄すべきであると国王は信じてやまない」(「スウィフト政治宗教論集」p.199)といった記載である。スウィフトは、前述した文書にて、常軌を逸した間違った政策をすすめないための議会として、「普遍的な協調にもとづき、公共の原理に依拠して公共目的のために行動する団体、非常識な熱狂や特定の指導者や煽動家の影響を封じる討論にもとづいて結論を下す会議、その個々の構成員が自分の私見への多数工作を試みるのではなく、公平で冷静な結論であれば自分と正反対の考えも受け入れる度量の大きい会議体にほかならない。」(同p.40)と述べていることから、スウィフトの理想と捉えることが可能だと思う。さらに、ガリバーが称したブロブディンナグ国王の特徴「国民の尊敬を、敬愛を、崇拝を一身に集める人格者、才能と知恵と学識に恵まれているばかりか、めざましい政治の才を兼ねそなえ、神とも崇められるほどの君主」(「ガリバー旅行記」p.198)は、スウィフトが発表した政治文書との比較により、理想の国王像(才能、知恵、学識、政治の才)だということが証明されており、ブロブディンナグ国の軍隊についての記載(貴族や紳士が無給で指揮を取り、都市の商人や地方の農民から構成される軍隊)も、政治文書に書かれている記載と重なるという。

スウィフトは革命や争いの絶えなかった17、18世紀のヨーロッパに生き、人生を通して政治と深く関わり、辛酸を嘗めた。「ガリバー旅行記」には、航海士ガリバーの旅を通して、スウィフトの政治や国家、そしてそれを取り巻く人間への怒り、やるせなさ、嘆き、悲しみが随所に織り込まれている。


参考文献:
ジョナサン・スウィフト 山田蘭訳「ガリバー旅行記」角川文庫 2011
富山太佳夫「『ガリヴァー旅行記』を読む」岩波書店 2000
青山吉信、今井宏編「新版 概説イギリス史―伝統的理解をこえて」有斐閣 1991
ジョナサン・スウィフト 中野好之、海保真夫訳「スウィフト政治・宗教論集」法政大学出版局 1989
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006

2014/12/14

近代ヨーロッパを探る① 黎明期

アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルが書いた本「これからの「正義」の話をしよう」は、数年前ちょっとしたブームになった。テレビでも、サンデル教授のハーバード大学や東京大学の学生に向けた講義のようすが放映され、何が正しいことなのか、これから私たちはどう生きていくのか、などが議論された。これから数回に分けて、1500年ごろから現代までのヨーロッパの歴史、思想を振り返り、なぜ今「正義論」が議論されるのかを考えていきたいと思う。

1500年ごろのヨーロッパはどのような様子だったのだろうか。1500年頃のヨーロッパは、近代ヨーロッパの黎明期と捉えられる。中世、長きにわたって人びとの上にのしかかっていた封建制度やキリスト教絶対視の思想が衰退し、人びとは新たな世界観を獲得し始めた。そしてそれは、市場経済の発達が関係しているといえる。

このころのヨーロッパを捉える1つのキーワードは「ルネサンス」だ。14世紀中ごろから現在のイタリアで始まり、1500年ごろに頂点を迎えていた。ルネサンスは、古代ギリシャ・ローマ時代の学問や世界観の復興を意味する文化運動を意味する。人間の権威の主張や個人の独立と自由、学問や芸術の宗教からの開放、思想や信仰の自由をベースに、さまざまな作品、活動が生まれた。ルネサンスの勃興にはいくつもの要因が絡み合っているが、商業の発展が果たした役割は大きい。そもそもイスラム圏からの文化の流入は、対イスラム勢力の名目で十字軍が派遣されていた中世から起こっており、13世紀ごろにはイタリアを拠点に地中海諸国とさかんに交易が行われていた。イタリア商人はアラビアやビザンツなど西アジアの商人からコショウや香料、宝石などを輸入し、銀や銅、毛織物、武器などを輸出する。調味料などほとんどなかった当時のヨーロッパでは、商人はコショウを高額で売ることができた。金を得た商人たちは力を持つようになる。商売で成功するには、的確な需給予測や決断力、不屈の精神などが要求される。つまり、個人としての能力が要求され、能力ある者が勝者となる。さらに交易を通じて、イスラム圏の技術や知識、人も物品とともに流入してきていた。ルネサンスは、このような状況のもと、イタリアの新興商人に支援、保護された学者や芸術家などの少数のエリートたちの間で起こるのである。美術や自然科学、工学に長けたレオナルド・ダ・ヴィンチ、地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノ、小国分立状態のイタリアで君主はどうあるべきか、いかに人びとを統治すべきかを説いたマキャベリなどがこの時期の代表者だ。

続いてのキーワードは「大航海時代」である。この時代、ヨーロッパとアジア、アメリカ大陸、アフリカ大陸をつなぐ海路が開拓された。このころの主役はスペインやポルトガルで、当時高値で売れた香辛料を手に入れるために、また領土を拡大するために、王からの命を受けた航海士たちは次々と航海に出た。そしてアメリカ大陸やアフリカ大陸を植民地化していった。大航海時代を可能にしたのは、天文学や地理学の発達と、実用化された羅針盤、造船術の進歩だ。ヨーロッパでは冶金産業が発達していたことから、火薬を使った武器を備えた大型の丈夫な船を作ることができたのである。航海士たちは植民地から、金や銀、作物を持ち帰った。持ち帰った銀はヨーロッパで一波乱を巻き起こす。銀の供給が増えたことで貨幣がたくさん作られるようになり、インフレが起きたのである。貨幣は価値を失い、人びとの購買力は低下した。儲けられる者と儲けられない者が現れた。

さらにこのころのヨーロッパでは封建制度が衰退していく。封建制度とは、中世ヨーロッパで長く、広く成立していた社会システムだ。王―領主―家臣・農民の間の主従関係を基盤とし、上位者が下位者を支配する。下位者は上位者に仕えて働くことで土地や生活が補償される。教会は、王や領主から土地や財産の寄進を受けており、封建制度擁護の立場をとっていた。しかし、この封建制度は崩壊に向けて歩み始める。その背景は、農業の発展と貨幣経済の浸透だ。農地を3つの期間で区分して使用する三圃制や金属農具の普及などで12世紀ごろから農業生産率が向上する。農作物がたくさん取れると余った分を売ろう、ということになる。市場がにぎわい、貨幣経済が発展し、農民は豊かになる。そしてそこに都市ができ、農産物だけではなく物を製造して売ろうとする人間も現れる。交通網が整備され、都市と都市は交流をもつようになり、市場経済・貨幣経済はどんどん広がっていく。農民たちがこうして力をつける一方、農民たちを直接支配していたその土地の領主(中間層)は力を弱めていった。それは王(上位層)の力が強まったからである。王たちは火器を武器を用いて、強大な軍隊を作った。中世時のような鎧や槍、盾ではもはや太刀打ちできない。こうして中央集権国家が誕生し、領主―家臣・農民の個人的な支配関係は、王―国民の図式に変化し、封建制度は徐々に衰退していった。そして国民国家の成立へとつながっていく。

そして1517年には宗教改革が起こった。ドイツの神学者マルティン・ルターは、ローマ教皇の販売した免罪符に異議を唱え「95カ条の論題」を発表する。この、既存の教会(カトリック教会)に反発するプロテスタントの動きはヨーロッパ各地に飛び火していくが、それに一役買ったのは印刷技術である。このころ誕生した活版印刷はルターの思想や、聖書、キリスト教のさまざまな解釈を普及させた。

これらを踏まえてまとめると、経済システムの変化とともに社会システムが変化し、人間が個としての存在を確立し、社会にその存在を表し始めたのが1500年ごろのヨーロッパといえる。そして市場経済の発達、農業生産率の向上、技術の進歩を背景に人びとの生活は合理的になり、合理的精神が宿り始めた。神中心の階級にしばられた世界観は、人間の個としての自覚、現世的な世界観へとシフトし始め、近代ヨーロッパの土台ができ始めたのである。


参考文献
会田雄次>「ルネサンス」講談社現代新書 1973
ウィリアム・H・マクニール「世界史 下」中公文庫 2008
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史 〈5〉東アジアと中世ヨーロッパ」創元社 2003
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006

2014/11/26

カントからの励まし

哲学者カントが書いた短い論文「啓蒙とは何か」には、啓蒙の定義と個人・公衆への啓蒙のすすめ、理性(考える力)をいかに使い、社会を構築していくか、が書かれている。カントの生きた時代は、啓蒙思想が世の中に普及してきた時代である。中世以来ヨーロッパで勢力を伸ばしていたキリスト教は、教会の分裂や腐敗、さらにはルネッサンスの波を受けて、権威が薄れてきていた。そのような中、時代を切り開く道具として、人間の理性は注目を浴びた。そして理性を用いることで人間はよりよい生活、幸福を得ることができるという思想が広く信じられた。カントは人間の理性を信じた。そして理性は他人によって脅かされてはならず、理性によって考えたことが公の場で議論されるのをよしとした。とても印象に残った冒頭部分を引用し、「考えること」について考えてみる。

――啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

そもそも考えることというのは、人間に与えられた特権のようなものである。その昔パスカルが「人間は考える葦である」と言ったように、人間は考えるからこそ他の生物よりも強く、優位に立ち、自由であることができるのだ。しかし多くの人間はその特権をフル活用しない。大多数の人は特権を活用している少数の人間の後を追うのである。その理由をカントは、人間の怠慢と臆病としている。怠慢とはつまり、考えるより考えないほうが気楽だから考えない、ということだ。臆病とは、考えることによって躓いた人、失敗した人を見て、保身のために考えないという選択をすることだ。カントにとって、考えることをしない人たちは理性を持ち合わせていない人ではない。「理性を使わない人」である。理性はどんな人間にも与えられていて、使う/使わないはその人の理性によって決定される。そういう意味で考えないことへの責任は、理由は何であれ他の誰にでもなく自己に帰する。そしてカントは、勇気を持って考え始めよと訴える。

この論文は、現代人が読んでも全く古さを感じさせない。理性を使わない人は、現代においても決して少なくないと思う。昔よりも多くの情報が存在し、手に入れやすくなったため、考えるための素材は増えた。しかし考えることではなく、調べることや手を抜くことにエネルギーを使いがちだ。ではなぜ考えないのか。カントはその理由として論文の中で怠惰と臆病を挙げている。これらは現代でもそのまま当てはまると思う。考えることは多くの人にとって面倒なことである。考え続ければ答えが出ると分かっているものであれば、考えようという気も起こるかもしれないが、考え続けても答えが出るかどうかわからないものを考えるのには、相当根気がいる。いずれにしても時間、集中力、体力、知力、忍耐力の力を使うため、多くのエネルギーを消費して疲れる。また、考えたがゆえに非難されたり、面倒なことに巻き込まれたり、ということはよく起こる。友人が言ったことに納得していれば喧嘩になることもなかった、とか、上司にたてつかなければ左遷されることもなかった、とかはよく聞く話だ。さらに必要性も考えない理由の1つに挙げられる。考えることは疲れるし、考えて失敗しても困る。これらのマイナス面を念頭においたうえでも、考えることは必要なのか。現代は、それほど考えなくても生きることに支障はないし、それなりの満足を得ることができる時代だ。物や情報はすぐ手に入る。選り好みしなければ仕事もある程度は見つかり、お金を稼ぐことができる。戦争のような命を脅かすようなものもない。となると、特に意識して何かを考える必要はないのかもしれない。

しかし啓蒙は、つまり自身の考える力を使い始めることは、希望も含んでいる。考えても何も変わらない、望ましい状態になるとは限らない、といった反論もあろうが、結局のところ、考えることなしでは何も始まらないのである。考えることは、待ち受ける未来を自ら作っていくきっかけとなる。いわば、未来の社会や自分を構築するための出発点である。そして、ここを自覚することが最も重要だと思うのだが、考える力は既に与えられているのである。考える力がない、というのは正しい認識ではない。必要なのは、未成年状態から抜け出すという勇気を伴った決意と、希望を信じ続けることである。