ジョナサン・スウィフトの書いた小説「ガリバー旅行記」は風刺文学と言われている。スウィフトは小説内で、ガリバーが漂流先で体験するあれこれをユーモアたっぷりに描くと同時に、当時のイギリス(イングランド)や人間を糾弾している。スウィフトは「ガリバー旅行記」を出版する際、自分が書いたことが公にならないようにした。タイトルに記載した著者名は、レミュエル・ガリバーとし、ガリバー本人による体験記という形をとった。さらに、自分が書いた原稿を第三者に写させて、その写した原稿を本屋においた、とも言われている。スウィフトは当時の政治への痛烈な批判を意図的に書き、トラブルが生じることも折り込み済みで出版したといえる。スウィフトは「ガリバー旅行記」の中でどのような国家を描き、批判し、どのような国家を理想としたのかを考えていこうと思う。
スウィフトは「ガリバー旅行記」でいくつかの国家を描いている。ガリバーが最初に漂流したのは小人の国リリパッドである。リリパッドは皇帝によって統治されている法治国家だ。軍隊を保有し、宮廷では高官たちが勢力争いや私利私欲の絡みあった陰謀を企てている。隣国との交易が国を支えており、また別の隣国とは戦争状態にある。2番目に訪れたのは、巨人の国ブロブディンナグだ。ここでは王が国を治めている。宮廷は平和で仲睦まじく、外で戦争も起こっていない。登場する人たちはガリバーに親切に対応する。農業がこの国の主要産業だ。大人国を離れたガリバーは5つの島に短期間滞在する。5つの島のうち、ラピュタとバルニバービは主従関係にあり、ラピュタの王による君主制がひかれている。両者は緊張状態にあり、数年前にはバルニバービの住民による反乱が起きた。学問に力を入れていて、天文学が発達しており、科学や政治、医学に関するとんちんかんな研究を行う機関がある。そして最後に訪れるのは、馬の国フウイヌタムである。礼儀正しく、理性を身につけた馬たちによる議会制の国であり、人間(ヤフー)は理性を持たない野蛮な動物として扱われている。
「ガリバー旅行記」で当時のイギリス政界のようすを端的に描写しているのは小人の国リリパッドである。先に挙げたリリパッド国の特徴には、当時のイギリスの政界と重なるところが多々あり、登場人物を政界の誰をモデルにして描いたかを突き止めることが可能という。例えば、リリパッド国に登場する大蔵大臣フリムナップは、当時のイギリスの政治家ロバート・ウォルポール(ホイッグ党)だとの解釈が定説である。「ガリバー旅行記」が出版されたのは1726年だが、イギリスではこの頃、国内では政治の混乱が生じており、対外的にはアメリカ大陸の植民地化と貿易による富の蓄積に励み、フランスやアイルランドなどの隣国との間には争いが起きていた。政治の混乱は、政党の勢力争いとキリスト教の宗派間をめぐる対立に起因する。そもそもイギリスでは、ピューリタン革命(1642-49)で絶対王政が転覆したものの、ピューリタンが独裁政治を始めたため、王政政治が復活、チャールズ2世が王座についた。しかしチャールズ2世は、イギリスの王たちが支持してきたイギリス国教会でも、ピューリタン革命で活躍したイギリス国教会改革派のピューリタンでもなく、フランスやスペインと近づいてカトリックを擁護する。さらにチャールズ2世の後を継いだ弟のジェームズ2世も、カトリックに親和的な政治を行い、絶対王政の復活を目指したことから議会は反発、ジェームズ2世の娘メアリと、プロテスタント国オランダを治めていた夫ウィリアムに武装援助を要請する。オランダからの援助により、ジェームズ2世はカトリック国のアイルランドに亡命、ウィリアム(ウィリアム3世に)とメアリは王位につく。これが名誉革命(1688)である。ジェームズ2世の即位をめぐって、議会には2つの政党ができていた。ホイッグ党とトーリー党である。ホイッグ党は王権の制限、植民地戦争や保護貿易の推進、宗教に対しては寛容な態度を掲げ、トーリー党は王権の擁護、戦争や保護貿易の反対、イギリス国教会支持を掲げていた。ウィリアム3世はホイッグ党を優遇したが、彼の死後王位についたジェームズ2世の娘(メアリの妹)アン女王は、トーリー党を優遇して組閣した。しかしアン上女王の死後は、17世紀前半に即位していたジェームズ1世の曾孫にあたるドイツの諸侯、ゲオルクが、ホイッグ党から多数の支持を受けジョージ1世として即位する。しかしジョージ1世はイギリスを嫌っていた。イギリスの言葉も話せず、議会政治を嫌っていたため、議会が内閣を組織し政治を行うようになった。そこでホイッグ党が政権をにぎり、トーリー党は力を失っていくのである。
スウィフトはトーリー党の支持者である。もともとはホイッグ党を支持していたが、自身の信仰するイギリス国教会に対しての、それぞれの政党の立ち位置が変化していったことから、支持政党を変えている。スウィフトの政治への強い関心は、経歴からうかがうことができる。1667年、イングランドからの移民である両親のもとアイルランドで生まれたスウィフトは、ダブリン大学を卒業後、イギリスで活躍していた外交官テンプルの秘書としてイギリスに渡る。スウィフトはそこでテンプル家にあった書物を読みあさり、イギリスの政治家たちと関わった。健康上の都合でアイルランドに戻って国教会の聖職者となってからもイギリス政界とのつながりを維持し続け、トーリー党のスポークスマンのような役割を果たすなど、政治活動を精力的に行っていた。しかし、支持していたアン女王は亡くなり、外国から連れて来られたイギリス統治に興味のない人間が王になり、ホイッグ党が独占的に政治をすすめ、トーリー党は失墜、スウィフト自身の出世の道も断たれた。このような状況下で「ガリバー旅行記」は書かれた。
ガリバーが2番目に訪れた巨人の国ブロブディンナグの王との会話には、スウィフトの辛辣な批判が現れている。ブロブディンナグの王はガリバーに、ヨーロッパの風俗習慣や法律、政治、学問、宗教になどついて尋ね、ガリバーは祖国の政治や政党間の抗争、貿易、戦争、宗派間の対立など(当時のヨーロッパ、イギリスの事情)を詳しく説明する。ガリバーは、ヨーロッパおよび祖国の社会を褒め称えつつ詳細に説明しているが、王はガリバーの言うところのすばらしさを全く理解しない。むしろ、「おまえの話からはっきりとわかったのは、ときとして無知、怠惰、悪徳のみが立法府の議員たる資格となること、そこで作られた法律は、それをねじ曲げ、混乱させ、すり抜けることに長けている連中によって、説明され、解釈され、適用されるのだということだ。…おまえの国ではどんな地位をめざすにせよ、美徳は何ひとつ必要ではないらしい。人徳が厚いものが貴族になる、敬虔で学識豊かなものが主教になる、勇猛果敢なものが軍人になる、高潔なものが裁判官になる、国を深く愛しているものが議員になる、賢明なものが顧問官になるというわけではないのだな。」(「ガリバー旅行記」p.193)とガリバーが伝えた内容に軽蔑を示す。そしてガリバーは王の才能を賞賛しながらも、視野が狭いと感じている。スウィフトが当時のイギリス政治に並々ならぬ怒りや、嫌悪感を持っていたことを踏まえて読むならば、王の返答のほうがスウィフトの本心で、ガリバーの価値観を嘲笑の対象としている、と解釈できる。ガリバーがヨーロッパやイングランドについて詳細を話すシーンは、ガリバーが最後に訪れる馬の国フウイヌタムにも描かれている。なぜ戦争が起きるのか、政界で高い地位につく方法、医者や法律家、貴族など身分の高い人びとの生活について馬の国の主君に説明するが、ブロブディンナグ国王と同様、主君はヨーロッパやイギリスで起こっていることが全く解せず、「おまえたちが本当に理性の備わった動物ならば、何をすべきか、何をしてはならないかは、自然や理性がはっきりと示してくれるものだと思うのだが」(同p.374)などと言う。馬の君主の理路整然とした返答は、イングランドの、欲にまみれ、争いの絶えない政府や高官たちの実情をさらに浮き上がらせている。
ガリバーが馬の国フウイヌタムに辿り着く前に訪れた、グラブダブドリブ島での体験には、批判とともにスウィフトの怒りと嘆きが反映されている。グラブダブドリブ島には降霊術を使って死者を呼び出し、命令できる族長がいるのだが、ガリバーはその人に古代の哲学者やヨーロッパで活躍した皇帝、名高い貴族を呼び出してもらう。彼らの姿を見てガリバーは、「戦で輝かしい殊勲を挙げたと臆病ものが讃えられ、思慮深い助言をしたと愚かものが称えられ、誠実だったとおべっか使いが称えられ、ローマ的高潔さの持ち主だと売国奴が称えられ、敬虔だと無神論者が称えられ、純潔だと獣姦者が称えられ、正直だと密告者が訴えられる」(同p.299)と語る。国王が次々と変わり、それによって高官や政策も変化する、国内外で反乱や戦争が頻発する、そのような時代にはガリバーが発言したことが実際に起こっていたと判断できる。さらにガリバーは、昔ながらの自作農を族長に呼び出してもらい、彼らを見て「飾り気のない態度、質素な衣食、公明正大な取引、自由を愛する精神、祖国愛あふれる勇敢な行動により、かつては名高かった人びとだ。…この自作農たちが持って生まれた汚れなき美徳も、自らの一票を金に換え、選挙運動に奔走し、宮廷でさまざまな悪徳や腐敗に染まった孫たちの手により、目先の金のために踏みにじられてしまうのだ。それを思うと、とうてい冷静ではいられなかった」(同p.304)と話す。当時イングランドでは既に選挙が行われていた。昔生きた人びとと今生きている人びとを比べ、今の人びとの振る舞いに心を大きく揺さぶられているスウィフトの姿を感じる。
イングランドが当時進めていた植民地政策への言及とみられる箇所もある。馬の国フウイヌタムから帰国したガリバーは、自身が発見した土地がイングランドの植民地とされることを危惧し、航海記録をすぐに国務大臣に提出しなかった、とある。そして続けて入植者の植民地での振る舞いを明確に描写し、「ひとつ断っておくが、こんなことを書いたからといって、わたしはけっして英国を非難するつもりはない。植民地経営の知識、配慮、正義において、英国は全世界の手本となるべき存在なのだから。」(同p.449)と自己弁護する。スウィフトは、ガリバーに語らせている植民地支配の実情が政府への誹謗に当たると自覚していたからこそ、ガリバーに弁明させているのである。よって、スウィフトが当時のイングランドの植民地支配を快く思っていなかったと判断できる。
ではスウィフトは、どのような国家を理想としたのだろうか。スウィフトが考えていた政府は、王、貴族、庶民の3形態から成る政府である。この3つの権力の均衡が保たれている状態が理想という。このことは、スウィフトが1701年に発表した、古代ギリシャやローマにおける統治体制や抗争を分析し、政府のあり方を提言した文書、「アテネとローマにおける貴族・平民間の不和抗争およびそれがこれら両国に及ぼした影響について」内の、「要するに、すべての自由な国家で回避すべき悪は圧政、換言すれば一人もしくは多数者が揮う無制限な権力…である。」(スウィフト,1701,中野、海保訳,1989, p.35)という記述からうかがえる。「ガリバー旅行記」内でも、理想国家について言及していると判断できる箇所がある。例えばブロブディンナグ国王についての、「君主であれ、大臣であれ、密室政治や小手先の技巧、権謀術数のたぐいは徹底的に嫌悪し、唾棄すべきであると国王は信じてやまない」(「スウィフト政治宗教論集」p.199)といった記載である。スウィフトは、前述した文書にて、常軌を逸した間違った政策をすすめないための議会として、「普遍的な協調にもとづき、公共の原理に依拠して公共目的のために行動する団体、非常識な熱狂や特定の指導者や煽動家の影響を封じる討論にもとづいて結論を下す会議、その個々の構成員が自分の私見への多数工作を試みるのではなく、公平で冷静な結論であれば自分と正反対の考えも受け入れる度量の大きい会議体にほかならない。」(同p.40)と述べていることから、スウィフトの理想と捉えることが可能だと思う。さらに、ガリバーが称したブロブディンナグ国王の特徴「国民の尊敬を、敬愛を、崇拝を一身に集める人格者、才能と知恵と学識に恵まれているばかりか、めざましい政治の才を兼ねそなえ、神とも崇められるほどの君主」(「ガリバー旅行記」p.198)は、スウィフトが発表した政治文書との比較により、理想の国王像(才能、知恵、学識、政治の才)だということが証明されており、ブロブディンナグ国の軍隊についての記載(貴族や紳士が無給で指揮を取り、都市の商人や地方の農民から構成される軍隊)も、政治文書に書かれている記載と重なるという。
スウィフトは革命や争いの絶えなかった17、18世紀のヨーロッパに生き、人生を通して政治と深く関わり、辛酸を嘗めた。「ガリバー旅行記」には、航海士ガリバーの旅を通して、スウィフトの政治や国家、そしてそれを取り巻く人間への怒り、やるせなさ、嘆き、悲しみが随所に織り込まれている。
参考文献:
ジョナサン・スウィフト 山田蘭訳「ガリバー旅行記」角川文庫 2011
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富山太佳夫「『ガリヴァー旅行記』を読む」岩波書店 2000
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青山吉信、今井宏編「新版 概説イギリス史―伝統的理解をこえて」有斐閣 1991
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ジョナサン・スウィフト 中野好之、海保真夫訳「スウィフト政治・宗教論集」法政大学出版局 1989
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成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
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