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2016/12/21

言語化の効能

今日は言語化することのメリットについて書こうと思っている。というのも,自分がなんとなく感じていることや思っていることを紙に書きだして可視化すると,考えている内容がより明確になり先に進むという経験を私自身何度かしており,言語化することで生産的になれるなと感じていたからだ。それで,言語化することのメリットについて,好きなことを発表していいことになっている認知心理学演習の時間に,それらを扱った論文をいくつか発表することにした。今日の午前中発表してきたところである。

今日の発表で取り上げた論文の多くは,言語化することで自己成長や意識改革へと導くことができるというていで話が進んでいる。論文の中で取り上げられていたケーススタディで面白かったのは,コーディネートの上達のために言語化を利用したケースだ(庄司・諏訪,2008)。実験参加者(大学生の女性)は,自身のコーディネートをよくするため,8ヵ月間言語化を行った。言語化は,ファッション雑誌を読んでそこに載っているモデルの写真の中から気に入ったコーディネートを切り抜き,感じたことをメモすること,買い物の際に目にした洋服やアクセサリに関して感じたことをメモすること,ファッションに興味のある友達と座談会を開いて,それぞれのメンバーにどんなコーディネートが似合うか意見交換をしたり,そこで感じたことや考えたことをメモすること,で行った。記述内容は,言語化を進めてく中で変化していった。最初の頃は,自分と洋服を概念的に合わせることについての内容が目立ったが,3ヵ月後くらいからは,自分の身体部位の特徴や,洋服の見た目を関連付けた知識が頻繁に登場するようになる。さらに,5ヵ月後くらいからは,相手からの視線と自分の身体部位や洋服を関連付けた知識がたびたび出てくるようになり,6ヵ月後くらいからは,これまでの記述で出てきた知識が統合されたような知識が書かれるようになっていたようである。論文では,言語化によって生じる変化ついて,自分の中にだけあった表象が外に出されることで,他の表象との関係の発見が促されるようになることや,言語化することで今まで見いだせなかったものに気づくようになること,自分と周り(環境)との関係が再構築されることや,知識が単なる知識にとどまらず,自分とリンクして咀嚼されていくことなどを挙げていた。これらによって,人の意識改革が促される,というわけだ。

冒頭でも述べている通り私は,言語化することで考えが進み,より生産的になれることを感じている人間なので,この主張はけっこう納得ができる。ぼんやりとしたものをいくら思っても,何かに答えを出すことはできない。言語化するとは,ある意味,一つ一つの思いを決着していくことだと思う。だから次に進めるのだろう。

しめくくりにこの言葉を。

”ホモ・サピエンスたるもの,誇りを持って自分の言語を駆使しましょう”

この言葉は,私が今年最もよく読んだであろうブログ&twitterの住人,ぱぷりこさんが著書「妖怪男ウォッチ」で言っていたものである。私はこの言葉を気に入っている。


引用文献
庄司裕子・諏訪正樹(2008) 個人生活における価値創造の方法論:メタ認知実践のケーススタディ (https://goo.gl/WShJE3

2016/12/20

パラフレーズは勉強の友

今日は,英作文の時間にパラフレーズの練習をした。あるテーマについて書かれた短い文章を読み,そこに書いてあることをパラフレーズしながら要旨を作る。そのあと,同じテーマについての講義(内容は文章とは別)を聞いて,それもパラフレーズしながら要旨を作る。そして最後に,2つの要旨を再構成して1つの文章を作る。TOEFLのintegrated writingでも同様の問題が出題される。

パラフレーズをすることは,英語/日本語関わらず,何かを勉強するときにとても役に立つ。パラフレーズのプロセスは大きく2つに分けることができる。文献に書かれていることや相手の言ったことを理解するフェーズと,それを別の言葉で表現するフェーズだ。両方ともうまくできないと,話が別のほうにいってしまう。だから,パラフレーズをしてみることで,自分がどれくらいそれを理解しているのかを確認することができるし,自分の表現の幅を広げることができるのだ。

勉強するとき,インプットだけでなくアウトプットが大切だということをよく聞く。子供のころはアウトプットといえば問題集を解くことばかりしていたが,資格試験や語学でもない限り,大人になっての勉強は問題集があるわけではない。そこで,読んだことや聞いたことを書き出す,というアウトプットをすることになるのだが,やってみるとインプットだけのときよりも断然理解が進むことを実感する。アウトプットすることで,インプットのときに感じた「あ~なるほど,分かった」が,「分かったつもり」だったことに気づき,もうそれを一度読んだり,別の素材にあたって調べたりするからだ。また,個人的な感覚では,同じアウトプットでも,文献に書いてあることや先生が言ったことをそのままメモするのはあまり効果がないように思う。あくまでも,自分の言葉で書くこと,つまりパラフレーズするのがよいのである。多分,同じことをそのままメモするというのは,行為としてはアウトプットだが,頭の中ではインプットでの処理と大差ないのだろう。パラフレーズするとなると,内容を解釈して,それを表現するための適切な言葉を見つけるという作業が組み込まれるので,理解が促されることになるのである。

とはいえこのパラフレーズ,やってみるとけっこう疲れるもので,必要ないならやりたくない,というのが正直なところだ。しかし私は,仕事でもプライベートでもしばしば,「中学生にも分かるように話しなさい」と言われる。つまり「優れたパラフレーズをせよ」ということだ。日々精進である。

2016/12/19

考えるための講義

今学期,月曜日に履修している講義はけっこう重たい。今日もまたヘビーな時間であった。2つの科目を履修しているが,1つは昨日テスト勉強の記事で話題にした認知神経科学,もう1つは,フランスの思想家エマニュエル・レヴィナスがラジオ番組で語ったことをまとめた「倫理と無限」(http://amzn.asia/fzR3oAi)を読んでいく,というものである。認知神経科学はまだよい。毎回新しいことを学んでいるので確かに難しいが,多分その難しさは専門用語が多いことや,たくさんの要素が互いに相互作用して何らかの現象を成り立たせていることから,メカニズムが複雑であることなどに起因する。だから,用語の定義を把握し,複雑なメカニズムを整理していけば,けっこう理解が進むのである。また,心理学でこれまで学んできたこととも親和性があるので,比較的とっつきやすいし話についていきやすい。しかしレヴィナスの講義についてはそうはいかない。難しいことには変わりないのだが,認知神経科学の難しさとは違うように思える。何が違うか説明しにくいのだが,レヴィナスの気持ちになりきれないこと,彼の視点でものを見ることができないことからくる難しさと言えばいいのだろうか。

この講義では,私はいつも頭をフル回転させている。文章を読んでは,彼が何を言っているのか/言いたいのかよく分からずにちょくちょくつっかかる。これはこういうことか?なんでそう言えるんだ?とか,とにかく考えながら文章を読み進めている。また,先生やほかの哲学や思想に明るい学生たちが解説しているのを聞き,少しでも文章を理解しようとがんばっている。それでも,分かったような分からないような,ぼんやりとした感じで講義が終わることがしばしばだ。

そんな調子で毎回講義に出席していて気づいたことがある。私のこのような姿勢は,あまりほかの講義では見られないものなのだ。私はたいてい,講義で扱った内容について覚えたり,理解しようとして講義を受けている。当初はそんな感じで受けていた。しかしいつしか,覚えたり理解したりすることが最重要目的から外され,彼の言っていること自体について考えてみたり,彼が問題としていることについて自分なりに考えたりするようになっていた。彼の本の内容が一筋縄では理解できず,読んでも周りの人の話を聞いてもすっきりしないからそうなっていったのだろう。

私はこの体験をとてもポジティブにとらえている。理解した!とはならなくとも,この講義では考えることそれ自体に価値があるんじゃないかと感じている。だから,今後も文章に,レヴィナスの視点に寄り添いつつ,彼の話を考えていこうと思っている。思想・哲学を学ぶとは,そういうことなんじゃなかろうか。

2016/12/18

テスト勉強

明日,認知神経科学のテストがある。それでテスト勉強を始めたが,気が散ってなかなか先に進まない。ということで,とりあえずコーヒーを作って飲んでいる。コーヒーを飲むと覚醒する。だからそれでテスト勉強のモチベーションを上がるかもしれない。そして今ブログを書いている。ブログを書くためには考えるから,記事の更新がテスト勉強の助走になるかもしれない。

気が進まないならやらないで寝ちゃえばいいのにと感じつつ,それをできないことがもどかしい。だからこうしていろいろしつつ気分がのってくるのを待っているわけだが,昔はよくテスト勉強をしていたなとつくづく思う。

私はよくテスト勉強をする子だった。テストがある=テスト勉強するというのは,私にとっては極めて自然なことで,テスト勉強を全くせずにテストを受ける人たちが信じられなかった。それもこれも小さいころからそう教育されてきたからだと思うが,全くテスト勉強をせずにテストを受けたことはこれまでに一度もない。それに,昔の私にはテスト勉強時の強い味方がいた。記憶力である。中学生のころは本当に記憶力が良かったと思う。教科書の本文を一言一句間違えずに暗記することも難なくできていた。

そのころに比べたら,テスト全般に対するモチベーションは下がったように思う。しかも,当時ほどの記憶力もなくなった。テストに対するモチベーションが下がったのは,テストが褒められるためのツールとして機能しなくなったからだろう。昔はテストでよい点をとれば褒めてもらえたが,今は褒めてもらえず,誰かに言えばただの自慢になる。よい点をとることへの自己満足はある,でもそんなのはたかがしれている。テストへの認識,意味づけを根本から変える必要があるんだろうと思う。テストは何のために?自分のわかっていないところを把握して,次へ進むための手がかりとするためのツールじゃない?という具合に。記憶力については,まぁ,年をとったから仕方ない。何度も繰り返せば定着することは分かっているので,そうするだけだ。

ではそろそろ勉強を再開しようか。

2016/12/17

適当料理

毎週土曜の深夜,フジテレビで「久保みねヒャダ こじらせナイト」(http://www.fujitv.co.jp/kojirasenight/)という番組が放映されている。私はこの番組が大好きで,毎週録画して見ているのだが,その番組内のコーナーの1つに「予想を下回る微妙な料理」というのがある。視聴者から送られてきた,美味しいだろうと思って作ってみたはいいが思ったほど美味しくない,うーん…微妙な味…,と感じる料理を紹介するコーナーである。先日は,「お餅カレー」や「ヨーグルトトースト」が紹介されていた。

さて,私は料理をする。とはいえ正直料理が好きなわけではないし,こだわりがあるわけでもない。料理についてちゃんと学んだわけでもないから,私が作る料理はいい加減である。以前友人と,何を作るか決めるとき,料理が先か材料が先かの話をしたことがあった。ちまたではレシピ本があふれ,おふくろの味,あのときのレストランで食べた味などもあり,すでに存在しているありとあらゆる料理があふれている。それらの完成した料理ありきで,材料を集めたりしつつ料理をしていくのが前者である。一方後者は,まず食料棚や冷蔵庫の中身確認から入る。そしてあるものを組み合わせてなんとかしようとする。そしてなんとなく料理らしきものが出来上がる。私も友人も後者であった。一人暮らしを始めて12年余り,そんな感じでほぼ毎日なんかしら作っているのだが,けっこうさまになっていて,自分が作った料理でまずいと思ったことはほとんどない。作る前になんとなく味が想像できることが功を奏しているのだろう。せいぜい焦がした料理にゲッとなったくらいである。

しかしながらここ数日はちょっとピンチな状況になっている。なぜなら,うちの食料棚と冷蔵庫にあまり食材が入っていないからだ。買い物するのが億劫でしていないからそうなっているだけなのだが,使える食料の種類が少ないとそれだけ何を作るか頭を悩ませることになる。今ある材料のみの組み合わせで作ったことのある料理は全くないが,いかがなものか…。そこで思い出したのが,前述した久保みねヒャダのコーナーである。微妙だったら投稿しちゃえと,早速,初めての味になるありあわせ料理を作ってみた。それはツナキムチパスタである。作り方はいたって簡単だ。ゆでたパスタに,うちにあった「宗家(チョンガ)白菜キムチ」(今まで食べたキムチの中でこのキムチがいちばんおいしい)とツナ缶のツナを混ぜるだけ。キムチとツナが合うことはなんとなく想像がつく。でも,キムチとパスタは微妙な気がするな・・・そんなことを感じながら食べてみると,けっこういけるではないか。いや,むしろ美味い。微妙な味になることを想定し,投稿しようと息巻いていたのに,拍子抜けしてしまった。



思い込みを超えたところにい新しい発見があるんだなということと,使えるものがないときこそ創造力が試されるなということを実感した次第である。

みなさんもぜひお試しを。

2016/12/16

心理学実験やっています

今年に入ってから,学内で行われている心理学実験の実験者としての仕事をしている。自分の研究の実験ではなく,先生や院生の研究の実験を行う人として,参加者の人に実験内容の説明をしたり,実験手続きを遂行したりしている。現在関わっている実験は2つ。表象的慣性(動いているものが視界から消えたとき,それが実際に消えた位置からずれた位置で消えたと認識すること)に関する実験と,音楽の反復聴取と作業効率の関連についての実験だ。本日は,珍しくどちらの実験のシフトも入っていた。表象的慣性の実験については何度もやっているのでだいぶ慣れてきて,スムーズに終了。音楽の実験は今日が3回目。1回目2回目とトラブルが発生してひやひやものだったので,今日のは無事に終えることができてほっとしている。自分の研究の実験ならまだしも,他人の研究の実験なので,結果に影響を及ぼすようなミスはしたくない。

実験を実施して感じることは,まず,「参加者のみなさん,ありがとう」ということだ。上で述べた表象的慣性の実験については,2回私もテスト参加者として参加しており,音楽の実験については,現在行われている実験の予備調査のときに参加者として参加している。どちらの実験も,参加者にとってはけっこう負担が大きいように思う。表象的慣性の実験は,全体で2~3時間を要し,比較的単純なことを繰り返す課題をやってもらう。音楽の実験のほうは,1.5時間くらいを要し,こちらも同じく比較的単純な作業を繰り返してもらう。長時間単純作業を繰り返すことほど眠気や疲れ,イライラが募るものがあるだろうか。私はこれ以外にも,学内で行われている心理学実験にいろいろ参加してきたが,この手の実験が終わった後の解放感は半端ない。どんなよい実験パラダイムが思い浮かんでもやってくれる人がいなければ何の意味もないわけで,実験に参加するために時間を作ってくれる参加者がいるということは,ありがたいなと思う。

実験をしながら考えていたことがもう1つある。上で述べたような実験は,実験室実験と呼ばれている。現象の因果関係を導くために,原因となる変数以外の変数の影響が最小限にするべくコントロールされた状況で行うからだ。しかし,私たちが生きている現実は,いろいろな変数が絡み合って何らかの現象を起こしている。とすると,実験室実験の結果は,日常生活で起こっている現象をどれくらい反映するのだろうか。もう1つ実験室実験で気になることがある。それは参加者の人たちの取り組みだ。私も自分が実験の参加者であるときはそうするのだが,自ら実験に参加すると名乗りでてくれる人たちは,実験にとてもコミットしてくれる。実験者としてはそれはとてもありがたいことではあるが,そのコミットメントの強さが結果に影響を及ぼすことがある。やはり日常でのふるまいをどれくらい反映するのかが気になるところだ。