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2014/12/30

近代ヨーロッパを探る④ 社会主義思想と国民国家

近代においてヨーロッパの国々は、貿易によって富を得、経済力を高めてきた。なかでもイギリスは群を抜いていた。商人や生産者が国家からの干渉を受けずに自由に貿易をすることができる自由貿易の推進、海軍力によって経済活動は保護され、イギリスは世界経済の中心になっていた。産業革命もイギリスの発展に大きく貢献した。産業革命はフランスやドイツ、アメリカ、日本などにも波及、工業技術によって新たな産業も生まれ、国は豊かになり、人々の生活が向上した。その結果、ヨーロッパでは人口が増加した。

このころイギリスで主流だった政治思想は、功利主義である。功利主義は、「最大多数の最大幸福」という言葉に象徴される。自らの幸福を求めつつ、社会全体の幸福を求めることを道徳原理とする思想である。カントが、理性がもつ普遍的な道徳原理に従って行動することを支持したのに対し、功利主義者は、幸福(快楽を増やし、苦痛をなくす)のための行動を正しい行為と据える。その幸福は個人だけでなく関係者全体の幸福である。功利主義の祖とされるベンサムと、ベンサムの理論を修正、拡張したジョン・スチュアート・ミルの理論を踏まえて、ヘンリー・シジウィックは、社会全体の幸福は個人が幸福を追求することから成るものの、個人の幸福と社会全体の幸福が対立する場合には、政府による介入が望ましいとしている。

一方で、資本主義が確立し経済がどんどん繁栄する中、富を得て投資しさらに富を築く人々と、彼らに雇われて厳しい労働条件の下働く人々の間の格差が明らかになっていった。景気が循環するようになり、失業も発生するようになった。そのような中次第に力を得て行ったのが、社会主義思想である。社会主義思想は、資本主義の自由競争や私的所有権の制限や禁止を訴え、平等で公正な社会の実現を目指す。社会主義思想の拡大に大きな影響を及ぼしたのが、ドイツのカール・マルクスである。マルクスは1848年、エンゲルスとともに「共産党宣言」を発表する。「幽霊がヨーロッパをさまよう―共産主義という名の幽霊が…」で始まり、「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」で終わる共産主義の綱領である。マルクスは、社会を貫く発展法則や社会のあらゆる側面の相互作用を、自然史の過程としてとらえて認識、分析し、その後の発展方向を予測する唯物史観の哲学をもつ。「共産党宣言」を流れているのは、①生産活動から生まれる社会組織がその時期の歴史の基礎をなしている、②よって、社会の発展のさまざまな段階における、支配する階級と支配される階級闘争の歴史が全歴史である、③今支配される階級(プロレタリア)を支配階級(ブルジョア)から開放するためには、社会全体を階級闘争から解放せねばならない、という根本思想である。ヨーロッパのこれまでの経済発展や社会の変化を歴史の必然性の中でとらえて展開し、労働者の団結、革命、現社会秩序の転覆を鼓舞している。マルクスはその後、資本主義の構造を分析した「資本論」を発表する。マルクス主義は19世紀後半~20世紀にかけて全世界に広まり、多くの革命を生んだ。そして共産党政党が生まれ、社会主義国家、共産主義国家が建国されることとなる。

また、18世紀~19世紀にかけて、ヨーロッパでは「国民国家」が次々と誕生した。「国民国家」とは血縁や宗教、言語、伝統などによって結ばれた共同体から成る国家である。近代ヨーロッパにおいて国家は、王の元で王を主権として形成されてきた。しかしフランス革命が起き、人権宣言で人権の保護や国民主権の思想が提唱されると、ヨーロッパのあちこちで国家の構成員が立ち上がり始め、政府への抗議運動や革命を起こしていく。国の代表者たちは、革命を抑え秩序を取り戻そうとするも、失敗に終わる。この間ヨーロッパではベルギーやギリシア、ルーマニアが独立し、イタリア、ドイツも統一を果たす。しかしこの「国民国家」は、争いの火種になり続ける。

東ヨーロッパのバルカン半島でも20世紀初頭に複数の国家が生まれた。しかしもともと東ヨーロッパを統治していたオスマン帝国が衰退していたことやバルカン半島は多くの民族が混在する地域だったことから、隣国である他のヨーロッパ諸国およびロシアの勢力争いがからみ合って、第一次世界大戦が勃発する。1914年の、セルビア人の青年によるオーストリア皇位継承者夫妻の暗殺を期に、オーストリアはドイツの支持を得てセルビアに宣戦する。セルビアを支持するロシアはこれに応じ、ドイツはロシアとその同盟国フランスに宣戦、イギリスもドイツが中立国であるベルギーに侵攻したのを期に参戦した。殺傷能力の高い新型兵器が使われ、膠着状態が続く塹壕戦となり、戦争は長期化、国民の間では厭戦感情が高まっていった。1917年にはアメリカがドイツに宣戦する。一方ロシアでは、戦争で疲弊した民衆や兵士が反乱を起こし、ロシア革命が起きて帝国は崩壊、社会主義国家が誕生して戦争から離脱する。1918年にはドイツでも革命が起こって帝政が崩壊し、第一次世界大戦は終結することとなった。


参考文献
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈8〉帝国の時代」創元社 2003
ミル『功利主義論』を解読する(http://www.philosophyguides.org/decoding-of-mill-utilitarianism/
中井大介「功利主義と経済学―シジウィックの実践哲学の射程」晃洋書房 2009
マルクス、エンゲルス「共産党宣言」岩波書店 2009
ブリタニカ国際大百科事典

2014/12/26

近代ヨーロッパを探る③ 革命のとき

17世紀の後半ごろから18世紀にかけて、ヨーロッパでは啓蒙思想が普及していた。キリスト教の教義、思想による社会基盤が崩れ、商業が発達して都市化が進み、実験や論理を用いる科学技術が進歩しつつあったこのころ、人間の理性や合理的精神、批判的精神が新しい社会を作っていくためのカギになる、と多くの思想家が思っていた。彼らは人間の理性、知性の持つ力を信頼していたのである。前回記述した、社会契約を基にした政治哲学を発表したロックも啓蒙思想家の1人である。啓蒙思想は海を越えて、フランスやドイツでもさかんになった。フランスでは、ロックの政治思想の影響を受けたモンテスキューが、立法権・行政権・司法権の分立を唱え、ディドロとダランベールは、同時代の哲学・芸術・科学・技術・産業などの諸部門の知をまとめた「百科全書」の編さんにあたった。ドイツでは、インマヌエル・カントが認識についての新たな見解を示し、理性について論じた。カントは、理性は生まれつき全ての人間に備わっており、善悪の法則をも持ち合わせているとしている。人々が理性を利用できる社会を求め、理性を用いた自律こそが自由であるとした。

一方、ヨーロッパの強国が植民地支配を続けていたアメリカ大陸では、18世紀後半に転機を迎える。当時アメリカ大陸では、先住民、奴隷としてアフリカから連れて来られた人ほか、ヨーロッパから移住した人も多く住んでいた。先住民たちの入植者に対する反乱や、本国からの植民地への一方的な課税法律への抗議および対抗措置などをきっかけに独立の気運が高まり、1776年、植民地は独立を宣言する。アメリカ合衆国の誕生である。

アメリカが独立を勝ち取ったころ、ヨーロッパ大陸ではフランスに革命が起こった。政治と経済の行き詰まりが原因だ。当時フランスは、イギリスとの戦争で出費がかさみ国の財政が悪化していた。富裕層から徴税を行おうとしたものの、特権や慣習による既得権益で守られている貴族は反発。しかも、増加する人口に食料生産が追いつかず、食料価格は高騰し、農作物の不作や家畜の病気などのあおりを受けて農民たちの生活は苦しくなっていた。民衆は、王や貴族への怒りを募らせ、1789年、バスティーユ牢獄を襲撃する。フランス革命は、ルソーの思想が影響したと言われている。ルソーは、封建的な隷属関係を批判した。各個人が自由・平等であるために互いに契約を結び(社会契約)、各個人に共通する利益を目指す国家を主張した。1791年議会は、国民主権、法の下での平等や個人の権利の法的保護などを提唱した「人権宣言」を前文に、憲法を制定する。フランス革命に象徴される民主主義や自由主義、ナショナリズムの思想は、ヨーロッパ諸国に影響を与え、その後のフランスを含めヨーロッパ各地で反政府運動が勃発していく。

18世紀後半に見られる革命は、アメリカ独立宣言やフランス革命のような、民衆の国家に対する抗議だけではなかった。イギリスでは産業革命が始まっていた。イギリスは毛織物などの工芸製品の生産が進んでおり、工場で人を雇う資本家が出現していた国だ。さらに、農業技術や生産率の向上で収益を得た地主たちが土地の売買を行った結果、仕事を失った農民が現れ、彼らは工場での労働力となった。また、工業の原料や燃料となる石炭や鉄鉱石などの資源が豊富にあり、自然科学の発達が技術の進歩を後押しした。紡績機によって繊維産業の生産性が一気に増し、蒸気機関が新しい動力となり、鉄道や汽船が現れる。鉄道や汽船は原料や生産物の遠距離輸送を可能にした。そして工場が建設され、労働者が集まるようになり、都市ができる。イギリスは工業国として名を馳せ、資本主義社会が確立する。しかし一方で、低賃金労働や児童労働、資本家の力の拡大、公害や犯罪の増加などの問題が浮上していた。



参考文献
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈7〉革命の時代」創元社 2003
ルソー『社会契約論』を解読する (http://www.philosophyguides.org/decoding-of-rousseau-contrat-social/

2014/12/22

近代ヨーロッパを探る② 革命前夜

前回、近代ヨーロッパの幕開けを、経済システムと社会システムの変化(商業および市場経済の発達、中央集権国家の確立)、そして人々の考え方や生き方の変化(合理的精神、現世的な世界観)の始まり、とまとめた。その後のヨーロッパにおいて、経済は資本主義経済へ、社会システムは民主主義へと進んでいく。そして、対外的には植民地化を進め、覇権争いを繰り広げる。一方、中世時代のヨーロッパ精神の根幹ともなっていたキリスト教は、宗教改革を経てカトリックとプロテスタントに分裂、政治ともからみ合ってあちこちで紛争の火種になっていた。

15世紀にポルトガルやスペインが交易海路を開拓し、アメリカ大陸にあった国々支配していったのに続き、オランダやイギリス、フランスもアジアとの交易、アメリカ大陸の植民地化に乗り出していた。ヨーロッパでは貿易会社や銀行が設立され、アントワープやアムステルダム、ロンドンなどの大西洋の都市が商業都市として栄えた。ヨーロッパの商人たちは砂糖や綿花、タバコなどをアメリカ大陸から輸入し、代わりに毛織物などを輸出した。しかし、アジアとの地中海貿易によってもたらされたコーヒーや茶がヨーロッパで普及するにつれて砂糖の需要が高まり、アフリカ大陸から現地民を、奴隷としてアメリカ大陸に連れてきて働かせ、生産物を輸入するようになる。このころイギリスやフランスでは貿易によって国力の増強を図る重商主義政策が行われており、輸出先の拡大や領地拡大のためしばしば戦争が勃発し、覇権争いを繰り広げていた。

大陸内では、それぞれの国で王の権力が強大化していた。王は軍事力を高めて反抗勢力を抑え、役人を雇って政治を行っていった。また、軍事力と官僚組織の維持のために民に徴税を課し、中央への権力の集中を図った。王への権力の集中は、経済圏の拡大を図りたい商人たちにとっても都合のよいことだったので、王権強化に協力した。近代初頭のヨーロッパでは、農業に従事する人たちが大多数を占めていたが、商品経済の発展により工業製品の需要が高まり、工場で人を雇って商品の生産を始める資本家が出現、商品を運搬する道路や運河などのインフラ整備も進められた。そして、農業や酪農の進歩によって栄養状態がよくなったことや飢餓による死亡者の現象、医学の発展などにより、人口も増加していくのである。

続いて思想についてである。17世紀の初頭は、科学革命の時代と言われている。科学革命を後押ししたことの1つは、宗教改革を後押しすることにもなった、印刷技術だ。印刷技術の普及により、人が入手できる情報量が圧倒的に増えた。出版物を通していろいろな知識が行き交うようになり、これまでの通念や権威が力を失い始めた。さらに、貿易海路の開拓で天文学や地理学の知見が増えたことや技術革新により、造船術や農業生産率が向上したことなども科学精神の萌芽に関係していると思われる。そして、実験によって得た事実を元にして、理論を構築していくという試みが始まっていく。科学革命の代表的人物は、天文学のヨハネス・ケプラーやガリレオ・ガリレイ、力学のアイザック・ニュートンである。ケプラーは、ティコ・ブラーエが得た膨大な天体観察記録を使って天体の運動に関する理論を構築し、ガリレオは天体の動きを観察して得たデータを数学を使って分析し、地動説を証明した。ニュートンは、ケプラーやガリレオの説からヒントを得つつ、万有引力の理論を構築した。科学はしばしばキリスト教と対立するものとして描かれる。カトリック教会や聖職者は、科学による新しい発見をキリスト教への脅威とみなしていた。しかしむしろこれは、キリスト教が衰退することへの危惧というよりは、キリスト教という基盤によって成り立っていた社会が崩れることへの危惧といえる。しかし実際には、キリスト教への信仰をほとんどの人たちはやめていない。科学の発展に寄与したガリレオやニュートンも神を否定しなかった。

この時代には、近代を代表する哲学者が2人現れる。デカルト(フランス)とロック(イギリス)だ。デカルトは多彩であった、数学の分野では代数学と幾何学を融合させて座標を発明した。また、疑うことを基礎におき、その著書「方法序説」にて真理を導くための思考のルールを発表する。一方ロックは、政治思想に影響を与えることとなる、社会契約の説を唱える。政治思想においてもキリスト教基盤の理論が崩れたことから、それに代わる新しい理論が必要になっていた。そこに登場するのが自然法と社会契約の考え方である。自然法とは、自然に由来する、あらゆる世界にあてはまるとされている法である。自然法が支配する自然状態において人間は、自由かつ平等である。そこでは他人の生命や自由、健康、所有物を侵害してはならない。しかし、この自然状態は、犯罪や暴行などの侵害行為が起こる可能性を秘めた不安定な状態でもある。もし侵害行為が起これば、そのとき人間は侵害者を自然法に基いて罰することができる。しかし、それぞれの人間が持っている罰する権威をある1つの共同社会に譲れば、その共同社会は大きな力を持つことができる。この共同社会が人間間の仲裁人となり、不安定な自然状態を安定へと導くことができる。人間の同意、契約によって成り立つ共同社会は、人間の私有財産の保護を最大の目的とする。共同社会が自然法を侵害したならば、それに反抗してもよい、といった考え方である。ロックのこの思想には、自由と平等の思想が織り込まれている。そして、共同社会への反抗の権利を条件つきで認めていたことから、のちの市民革命に根拠を与えるのである。


参考文献
ウィリアム・H・マクニール「世界史 下」中公文庫 2008
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部「成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史〈6〉 近代ヨーロッパ文明の成立」

2014/12/19

「ガリバー旅行記」と国家論

ジョナサン・スウィフトの書いた小説「ガリバー旅行記」は風刺文学と言われている。スウィフトは小説内で、ガリバーが漂流先で体験するあれこれをユーモアたっぷりに描くと同時に、当時のイギリス(イングランド)や人間を糾弾している。スウィフトは「ガリバー旅行記」を出版する際、自分が書いたことが公にならないようにした。タイトルに記載した著者名は、レミュエル・ガリバーとし、ガリバー本人による体験記という形をとった。さらに、自分が書いた原稿を第三者に写させて、その写した原稿を本屋においた、とも言われている。スウィフトは当時の政治への痛烈な批判を意図的に書き、トラブルが生じることも折り込み済みで出版したといえる。スウィフトは「ガリバー旅行記」の中でどのような国家を描き、批判し、どのような国家を理想としたのかを考えていこうと思う。

スウィフトは「ガリバー旅行記」でいくつかの国家を描いている。ガリバーが最初に漂流したのは小人の国リリパッドである。リリパッドは皇帝によって統治されている法治国家だ。軍隊を保有し、宮廷では高官たちが勢力争いや私利私欲の絡みあった陰謀を企てている。隣国との交易が国を支えており、また別の隣国とは戦争状態にある。2番目に訪れたのは、巨人の国ブロブディンナグだ。ここでは王が国を治めている。宮廷は平和で仲睦まじく、外で戦争も起こっていない。登場する人たちはガリバーに親切に対応する。農業がこの国の主要産業だ。大人国を離れたガリバーは5つの島に短期間滞在する。5つの島のうち、ラピュタとバルニバービは主従関係にあり、ラピュタの王による君主制がひかれている。両者は緊張状態にあり、数年前にはバルニバービの住民による反乱が起きた。学問に力を入れていて、天文学が発達しており、科学や政治、医学に関するとんちんかんな研究を行う機関がある。そして最後に訪れるのは、馬の国フウイヌタムである。礼儀正しく、理性を身につけた馬たちによる議会制の国であり、人間(ヤフー)は理性を持たない野蛮な動物として扱われている。

「ガリバー旅行記」で当時のイギリス政界のようすを端的に描写しているのは小人の国リリパッドである。先に挙げたリリパッド国の特徴には、当時のイギリスの政界と重なるところが多々あり、登場人物を政界の誰をモデルにして描いたかを突き止めることが可能という。例えば、リリパッド国に登場する大蔵大臣フリムナップは、当時のイギリスの政治家ロバート・ウォルポール(ホイッグ党)だとの解釈が定説である。「ガリバー旅行記」が出版されたのは1726年だが、イギリスではこの頃、国内では政治の混乱が生じており、対外的にはアメリカ大陸の植民地化と貿易による富の蓄積に励み、フランスやアイルランドなどの隣国との間には争いが起きていた。政治の混乱は、政党の勢力争いとキリスト教の宗派間をめぐる対立に起因する。そもそもイギリスでは、ピューリタン革命(1642-49)で絶対王政が転覆したものの、ピューリタンが独裁政治を始めたため、王政政治が復活、チャールズ2世が王座についた。しかしチャールズ2世は、イギリスの王たちが支持してきたイギリス国教会でも、ピューリタン革命で活躍したイギリス国教会改革派のピューリタンでもなく、フランスやスペインと近づいてカトリックを擁護する。さらにチャールズ2世の後を継いだ弟のジェームズ2世も、カトリックに親和的な政治を行い、絶対王政の復活を目指したことから議会は反発、ジェームズ2世の娘メアリと、プロテスタント国オランダを治めていた夫ウィリアムに武装援助を要請する。オランダからの援助により、ジェームズ2世はカトリック国のアイルランドに亡命、ウィリアム(ウィリアム3世に)とメアリは王位につく。これが名誉革命(1688)である。ジェームズ2世の即位をめぐって、議会には2つの政党ができていた。ホイッグ党とトーリー党である。ホイッグ党は王権の制限、植民地戦争や保護貿易の推進、宗教に対しては寛容な態度を掲げ、トーリー党は王権の擁護、戦争や保護貿易の反対、イギリス国教会支持を掲げていた。ウィリアム3世はホイッグ党を優遇したが、彼の死後王位についたジェームズ2世の娘(メアリの妹)アン女王は、トーリー党を優遇して組閣した。しかしアン上女王の死後は、17世紀前半に即位していたジェームズ1世の曾孫にあたるドイツの諸侯、ゲオルクが、ホイッグ党から多数の支持を受けジョージ1世として即位する。しかしジョージ1世はイギリスを嫌っていた。イギリスの言葉も話せず、議会政治を嫌っていたため、議会が内閣を組織し政治を行うようになった。そこでホイッグ党が政権をにぎり、トーリー党は力を失っていくのである。

スウィフトはトーリー党の支持者である。もともとはホイッグ党を支持していたが、自身の信仰するイギリス国教会に対しての、それぞれの政党の立ち位置が変化していったことから、支持政党を変えている。スウィフトの政治への強い関心は、経歴からうかがうことができる。1667年、イングランドからの移民である両親のもとアイルランドで生まれたスウィフトは、ダブリン大学を卒業後、イギリスで活躍していた外交官テンプルの秘書としてイギリスに渡る。スウィフトはそこでテンプル家にあった書物を読みあさり、イギリスの政治家たちと関わった。健康上の都合でアイルランドに戻って国教会の聖職者となってからもイギリス政界とのつながりを維持し続け、トーリー党のスポークスマンのような役割を果たすなど、政治活動を精力的に行っていた。しかし、支持していたアン女王は亡くなり、外国から連れて来られたイギリス統治に興味のない人間が王になり、ホイッグ党が独占的に政治をすすめ、トーリー党は失墜、スウィフト自身の出世の道も断たれた。このような状況下で「ガリバー旅行記」は書かれた。

ガリバーが2番目に訪れた巨人の国ブロブディンナグの王との会話には、スウィフトの辛辣な批判が現れている。ブロブディンナグの王はガリバーに、ヨーロッパの風俗習慣や法律、政治、学問、宗教になどついて尋ね、ガリバーは祖国の政治や政党間の抗争、貿易、戦争、宗派間の対立など(当時のヨーロッパ、イギリスの事情)を詳しく説明する。ガリバーは、ヨーロッパおよび祖国の社会を褒め称えつつ詳細に説明しているが、王はガリバーの言うところのすばらしさを全く理解しない。むしろ、「おまえの話からはっきりとわかったのは、ときとして無知、怠惰、悪徳のみが立法府の議員たる資格となること、そこで作られた法律は、それをねじ曲げ、混乱させ、すり抜けることに長けている連中によって、説明され、解釈され、適用されるのだということだ。…おまえの国ではどんな地位をめざすにせよ、美徳は何ひとつ必要ではないらしい。人徳が厚いものが貴族になる、敬虔で学識豊かなものが主教になる、勇猛果敢なものが軍人になる、高潔なものが裁判官になる、国を深く愛しているものが議員になる、賢明なものが顧問官になるというわけではないのだな。」(「ガリバー旅行記」p.193)とガリバーが伝えた内容に軽蔑を示す。そしてガリバーは王の才能を賞賛しながらも、視野が狭いと感じている。スウィフトが当時のイギリス政治に並々ならぬ怒りや、嫌悪感を持っていたことを踏まえて読むならば、王の返答のほうがスウィフトの本心で、ガリバーの価値観を嘲笑の対象としている、と解釈できる。ガリバーがヨーロッパやイングランドについて詳細を話すシーンは、ガリバーが最後に訪れる馬の国フウイヌタムにも描かれている。なぜ戦争が起きるのか、政界で高い地位につく方法、医者や法律家、貴族など身分の高い人びとの生活について馬の国の主君に説明するが、ブロブディンナグ国王と同様、主君はヨーロッパやイギリスで起こっていることが全く解せず、「おまえたちが本当に理性の備わった動物ならば、何をすべきか、何をしてはならないかは、自然や理性がはっきりと示してくれるものだと思うのだが」(同p.374)などと言う。馬の君主の理路整然とした返答は、イングランドの、欲にまみれ、争いの絶えない政府や高官たちの実情をさらに浮き上がらせている。

ガリバーが馬の国フウイヌタムに辿り着く前に訪れた、グラブダブドリブ島での体験には、批判とともにスウィフトの怒りと嘆きが反映されている。グラブダブドリブ島には降霊術を使って死者を呼び出し、命令できる族長がいるのだが、ガリバーはその人に古代の哲学者やヨーロッパで活躍した皇帝、名高い貴族を呼び出してもらう。彼らの姿を見てガリバーは、「戦で輝かしい殊勲を挙げたと臆病ものが讃えられ、思慮深い助言をしたと愚かものが称えられ、誠実だったとおべっか使いが称えられ、ローマ的高潔さの持ち主だと売国奴が称えられ、敬虔だと無神論者が称えられ、純潔だと獣姦者が称えられ、正直だと密告者が訴えられる」(同p.299)と語る。国王が次々と変わり、それによって高官や政策も変化する、国内外で反乱や戦争が頻発する、そのような時代にはガリバーが発言したことが実際に起こっていたと判断できる。さらにガリバーは、昔ながらの自作農を族長に呼び出してもらい、彼らを見て「飾り気のない態度、質素な衣食、公明正大な取引、自由を愛する精神、祖国愛あふれる勇敢な行動により、かつては名高かった人びとだ。…この自作農たちが持って生まれた汚れなき美徳も、自らの一票を金に換え、選挙運動に奔走し、宮廷でさまざまな悪徳や腐敗に染まった孫たちの手により、目先の金のために踏みにじられてしまうのだ。それを思うと、とうてい冷静ではいられなかった」(同p.304)と話す。当時イングランドでは既に選挙が行われていた。昔生きた人びとと今生きている人びとを比べ、今の人びとの振る舞いに心を大きく揺さぶられているスウィフトの姿を感じる。

イングランドが当時進めていた植民地政策への言及とみられる箇所もある。馬の国フウイヌタムから帰国したガリバーは、自身が発見した土地がイングランドの植民地とされることを危惧し、航海記録をすぐに国務大臣に提出しなかった、とある。そして続けて入植者の植民地での振る舞いを明確に描写し、「ひとつ断っておくが、こんなことを書いたからといって、わたしはけっして英国を非難するつもりはない。植民地経営の知識、配慮、正義において、英国は全世界の手本となるべき存在なのだから。」(同p.449)と自己弁護する。スウィフトは、ガリバーに語らせている植民地支配の実情が政府への誹謗に当たると自覚していたからこそ、ガリバーに弁明させているのである。よって、スウィフトが当時のイングランドの植民地支配を快く思っていなかったと判断できる。

ではスウィフトは、どのような国家を理想としたのだろうか。スウィフトが考えていた政府は、王、貴族、庶民の3形態から成る政府である。この3つの権力の均衡が保たれている状態が理想という。このことは、スウィフトが1701年に発表した、古代ギリシャやローマにおける統治体制や抗争を分析し、政府のあり方を提言した文書、「アテネとローマにおける貴族・平民間の不和抗争およびそれがこれら両国に及ぼした影響について」内の、「要するに、すべての自由な国家で回避すべき悪は圧政、換言すれば一人もしくは多数者が揮う無制限な権力…である。」(スウィフト,1701,中野、海保訳,1989, p.35)という記述からうかがえる。「ガリバー旅行記」内でも、理想国家について言及していると判断できる箇所がある。例えばブロブディンナグ国王についての、「君主であれ、大臣であれ、密室政治や小手先の技巧、権謀術数のたぐいは徹底的に嫌悪し、唾棄すべきであると国王は信じてやまない」(「スウィフト政治宗教論集」p.199)といった記載である。スウィフトは、前述した文書にて、常軌を逸した間違った政策をすすめないための議会として、「普遍的な協調にもとづき、公共の原理に依拠して公共目的のために行動する団体、非常識な熱狂や特定の指導者や煽動家の影響を封じる討論にもとづいて結論を下す会議、その個々の構成員が自分の私見への多数工作を試みるのではなく、公平で冷静な結論であれば自分と正反対の考えも受け入れる度量の大きい会議体にほかならない。」(同p.40)と述べていることから、スウィフトの理想と捉えることが可能だと思う。さらに、ガリバーが称したブロブディンナグ国王の特徴「国民の尊敬を、敬愛を、崇拝を一身に集める人格者、才能と知恵と学識に恵まれているばかりか、めざましい政治の才を兼ねそなえ、神とも崇められるほどの君主」(「ガリバー旅行記」p.198)は、スウィフトが発表した政治文書との比較により、理想の国王像(才能、知恵、学識、政治の才)だということが証明されており、ブロブディンナグ国の軍隊についての記載(貴族や紳士が無給で指揮を取り、都市の商人や地方の農民から構成される軍隊)も、政治文書に書かれている記載と重なるという。

スウィフトは革命や争いの絶えなかった17、18世紀のヨーロッパに生き、人生を通して政治と深く関わり、辛酸を嘗めた。「ガリバー旅行記」には、航海士ガリバーの旅を通して、スウィフトの政治や国家、そしてそれを取り巻く人間への怒り、やるせなさ、嘆き、悲しみが随所に織り込まれている。


参考文献:
ジョナサン・スウィフト 山田蘭訳「ガリバー旅行記」角川文庫 2011
富山太佳夫「『ガリヴァー旅行記』を読む」岩波書店 2000
青山吉信、今井宏編「新版 概説イギリス史―伝統的理解をこえて」有斐閣 1991
ジョナサン・スウィフト 中野好之、海保真夫訳「スウィフト政治・宗教論集」法政大学出版局 1989
成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006

2014/12/14

近代ヨーロッパを探る① 黎明期

アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルが書いた本「これからの「正義」の話をしよう」は、数年前ちょっとしたブームになった。テレビでも、サンデル教授のハーバード大学や東京大学の学生に向けた講義のようすが放映され、何が正しいことなのか、これから私たちはどう生きていくのか、などが議論された。これから数回に分けて、1500年ごろから現代までのヨーロッパの歴史、思想を振り返り、なぜ今「正義論」が議論されるのかを考えていきたいと思う。

1500年ごろのヨーロッパはどのような様子だったのだろうか。1500年頃のヨーロッパは、近代ヨーロッパの黎明期と捉えられる。中世、長きにわたって人びとの上にのしかかっていた封建制度やキリスト教絶対視の思想が衰退し、人びとは新たな世界観を獲得し始めた。そしてそれは、市場経済の発達が関係しているといえる。

このころのヨーロッパを捉える1つのキーワードは「ルネサンス」だ。14世紀中ごろから現在のイタリアで始まり、1500年ごろに頂点を迎えていた。ルネサンスは、古代ギリシャ・ローマ時代の学問や世界観の復興を意味する文化運動を意味する。人間の権威の主張や個人の独立と自由、学問や芸術の宗教からの開放、思想や信仰の自由をベースに、さまざまな作品、活動が生まれた。ルネサンスの勃興にはいくつもの要因が絡み合っているが、商業の発展が果たした役割は大きい。そもそもイスラム圏からの文化の流入は、対イスラム勢力の名目で十字軍が派遣されていた中世から起こっており、13世紀ごろにはイタリアを拠点に地中海諸国とさかんに交易が行われていた。イタリア商人はアラビアやビザンツなど西アジアの商人からコショウや香料、宝石などを輸入し、銀や銅、毛織物、武器などを輸出する。調味料などほとんどなかった当時のヨーロッパでは、商人はコショウを高額で売ることができた。金を得た商人たちは力を持つようになる。商売で成功するには、的確な需給予測や決断力、不屈の精神などが要求される。つまり、個人としての能力が要求され、能力ある者が勝者となる。さらに交易を通じて、イスラム圏の技術や知識、人も物品とともに流入してきていた。ルネサンスは、このような状況のもと、イタリアの新興商人に支援、保護された学者や芸術家などの少数のエリートたちの間で起こるのである。美術や自然科学、工学に長けたレオナルド・ダ・ヴィンチ、地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノ、小国分立状態のイタリアで君主はどうあるべきか、いかに人びとを統治すべきかを説いたマキャベリなどがこの時期の代表者だ。

続いてのキーワードは「大航海時代」である。この時代、ヨーロッパとアジア、アメリカ大陸、アフリカ大陸をつなぐ海路が開拓された。このころの主役はスペインやポルトガルで、当時高値で売れた香辛料を手に入れるために、また領土を拡大するために、王からの命を受けた航海士たちは次々と航海に出た。そしてアメリカ大陸やアフリカ大陸を植民地化していった。大航海時代を可能にしたのは、天文学や地理学の発達と、実用化された羅針盤、造船術の進歩だ。ヨーロッパでは冶金産業が発達していたことから、火薬を使った武器を備えた大型の丈夫な船を作ることができたのである。航海士たちは植民地から、金や銀、作物を持ち帰った。持ち帰った銀はヨーロッパで一波乱を巻き起こす。銀の供給が増えたことで貨幣がたくさん作られるようになり、インフレが起きたのである。貨幣は価値を失い、人びとの購買力は低下した。儲けられる者と儲けられない者が現れた。

さらにこのころのヨーロッパでは封建制度が衰退していく。封建制度とは、中世ヨーロッパで長く、広く成立していた社会システムだ。王―領主―家臣・農民の間の主従関係を基盤とし、上位者が下位者を支配する。下位者は上位者に仕えて働くことで土地や生活が補償される。教会は、王や領主から土地や財産の寄進を受けており、封建制度擁護の立場をとっていた。しかし、この封建制度は崩壊に向けて歩み始める。その背景は、農業の発展と貨幣経済の浸透だ。農地を3つの期間で区分して使用する三圃制や金属農具の普及などで12世紀ごろから農業生産率が向上する。農作物がたくさん取れると余った分を売ろう、ということになる。市場がにぎわい、貨幣経済が発展し、農民は豊かになる。そしてそこに都市ができ、農産物だけではなく物を製造して売ろうとする人間も現れる。交通網が整備され、都市と都市は交流をもつようになり、市場経済・貨幣経済はどんどん広がっていく。農民たちがこうして力をつける一方、農民たちを直接支配していたその土地の領主(中間層)は力を弱めていった。それは王(上位層)の力が強まったからである。王たちは火器を武器を用いて、強大な軍隊を作った。中世時のような鎧や槍、盾ではもはや太刀打ちできない。こうして中央集権国家が誕生し、領主―家臣・農民の個人的な支配関係は、王―国民の図式に変化し、封建制度は徐々に衰退していった。そして国民国家の成立へとつながっていく。

そして1517年には宗教改革が起こった。ドイツの神学者マルティン・ルターは、ローマ教皇の販売した免罪符に異議を唱え「95カ条の論題」を発表する。この、既存の教会(カトリック教会)に反発するプロテスタントの動きはヨーロッパ各地に飛び火していくが、それに一役買ったのは印刷技術である。このころ誕生した活版印刷はルターの思想や、聖書、キリスト教のさまざまな解釈を普及させた。

これらを踏まえてまとめると、経済システムの変化とともに社会システムが変化し、人間が個としての存在を確立し、社会にその存在を表し始めたのが1500年ごろのヨーロッパといえる。そして市場経済の発達、農業生産率の向上、技術の進歩を背景に人びとの生活は合理的になり、合理的精神が宿り始めた。神中心の階級にしばられた世界観は、人間の個としての自覚、現世的な世界観へとシフトし始め、近代ヨーロッパの土台ができ始めたのである。


参考文献
会田雄次>「ルネサンス」講談社現代新書 1973
ウィリアム・H・マクニール「世界史 下」中公文庫 2008
J.M.ロバーツ「図説 世界の歴史 〈5〉東アジアと中世ヨーロッパ」創元社 2003
大井正、寺沢恒信「世界十五大哲学」PHP文庫 2014
成美堂出版編集部成美堂出版編集部「一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ 」成美堂出版 2006

2014/11/26

カントからの励まし

哲学者カントが書いた短い論文「啓蒙とは何か」には、啓蒙の定義と個人・公衆への啓蒙のすすめ、理性(考える力)をいかに使い、社会を構築していくか、が書かれている。カントの生きた時代は、啓蒙思想が世の中に普及してきた時代である。中世以来ヨーロッパで勢力を伸ばしていたキリスト教は、教会の分裂や腐敗、さらにはルネッサンスの波を受けて、権威が薄れてきていた。そのような中、時代を切り開く道具として、人間の理性は注目を浴びた。そして理性を用いることで人間はよりよい生活、幸福を得ることができるという思想が広く信じられた。カントは人間の理性を信じた。そして理性は他人によって脅かされてはならず、理性によって考えたことが公の場で議論されるのをよしとした。とても印象に残った冒頭部分を引用し、「考えること」について考えてみる。

――啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

そもそも考えることというのは、人間に与えられた特権のようなものである。その昔パスカルが「人間は考える葦である」と言ったように、人間は考えるからこそ他の生物よりも強く、優位に立ち、自由であることができるのだ。しかし多くの人間はその特権をフル活用しない。大多数の人は特権を活用している少数の人間の後を追うのである。その理由をカントは、人間の怠慢と臆病としている。怠慢とはつまり、考えるより考えないほうが気楽だから考えない、ということだ。臆病とは、考えることによって躓いた人、失敗した人を見て、保身のために考えないという選択をすることだ。カントにとって、考えることをしない人たちは理性を持ち合わせていない人ではない。「理性を使わない人」である。理性はどんな人間にも与えられていて、使う/使わないはその人の理性によって決定される。そういう意味で考えないことへの責任は、理由は何であれ他の誰にでもなく自己に帰する。そしてカントは、勇気を持って考え始めよと訴える。

この論文は、現代人が読んでも全く古さを感じさせない。理性を使わない人は、現代においても決して少なくないと思う。昔よりも多くの情報が存在し、手に入れやすくなったため、考えるための素材は増えた。しかし考えることではなく、調べることや手を抜くことにエネルギーを使いがちだ。ではなぜ考えないのか。カントはその理由として論文の中で怠惰と臆病を挙げている。これらは現代でもそのまま当てはまると思う。考えることは多くの人にとって面倒なことである。考え続ければ答えが出ると分かっているものであれば、考えようという気も起こるかもしれないが、考え続けても答えが出るかどうかわからないものを考えるのには、相当根気がいる。いずれにしても時間、集中力、体力、知力、忍耐力の力を使うため、多くのエネルギーを消費して疲れる。また、考えたがゆえに非難されたり、面倒なことに巻き込まれたり、ということはよく起こる。友人が言ったことに納得していれば喧嘩になることもなかった、とか、上司にたてつかなければ左遷されることもなかった、とかはよく聞く話だ。さらに必要性も考えない理由の1つに挙げられる。考えることは疲れるし、考えて失敗しても困る。これらのマイナス面を念頭においたうえでも、考えることは必要なのか。現代は、それほど考えなくても生きることに支障はないし、それなりの満足を得ることができる時代だ。物や情報はすぐ手に入る。選り好みしなければ仕事もある程度は見つかり、お金を稼ぐことができる。戦争のような命を脅かすようなものもない。となると、特に意識して何かを考える必要はないのかもしれない。

しかし啓蒙は、つまり自身の考える力を使い始めることは、希望も含んでいる。考えても何も変わらない、望ましい状態になるとは限らない、といった反論もあろうが、結局のところ、考えることなしでは何も始まらないのである。考えることは、待ち受ける未来を自ら作っていくきっかけとなる。いわば、未来の社会や自分を構築するための出発点である。そして、ここを自覚することが最も重要だと思うのだが、考える力は既に与えられているのである。考える力がない、というのは正しい認識ではない。必要なのは、未成年状態から抜け出すという勇気を伴った決意と、希望を信じ続けることである。

2014/11/20

スター・ウォーズ鑑賞録

先週、映画「スター・ウォーズ」の全エピソードをイッキ見した。SFものはどうも苦手で、これまで見ずに過ごして来たのだが、スター・ウォーズ大好きの友人たちからの絶賛の声を聞いて観てみようと思った。観始めたらすっかりはまり、スター・ウォーズに対して持っていた先入観が打ち砕かれ、私もファンになった。ストーリーの中で描かれている人間たちにすっかり共感した。

スター・ウォーズは、普遍的な人間の感情や出来事を描いている。観る前は、スター・ウォーズはその名の通り、宇宙で起きる戦争の話かと思っていた。確かに戦いのシーンはたくさんあるが、それよりも人間ドラマ的な要素が強い。地球上で成り立っている人間社会が宇宙でもそっくり成り立っている。国ができて権力争いが行われ、登場人物たちは主義を主張して戦い、葛藤し、恋愛し、成長していく。国・地域関係なく、規模の程度こそあれ、人間誰もが日常的に経験していることである。
さらに、スター・ウォーズを通して描かれるのは、ライトサイド(ジェダイ側)とダークサイド(ダース○○側)の戦いである。愛・助け合い・自由・思いやり・信頼・正義などと結びつくのがライトサイドで、恐怖・怒り・憎しみ・疑惑などと結びつくのがダークサイドだ。ライトサイドとダークサイドはフォースから生まれ出る。これはそっくりそのまま1人の人間の感情や思考、行動に投影することができると思う。1人の人間の中には、明るい部分と暗い部分が共存している。愛にあふれた行動をすることもあれば、怒りや嫉妬に駆られて行動することもある。相手をすっかり信頼していることもあれば、不信に満ちていることもある。気分によって、状況によって、経験によって人間の感情や思考、行動は常に変わる。明るい部分と暗い部分、どちらに多くエネルギーが振り分けられるかは流動的で、明るい部分が暗い部分をより上回ることも、暗い部分が明るい部分をより上回ることも簡単に起こりうる。ジェダイの騎士からダース・ベイダーへと転向したアナキン・スカイウォーカーは、自己内のライトサイドとダークサイドに大きく揺さぶられた人間として描かれている。

また、スター・ウォーズは希望が描かれているストーリーでもある。激しい戦いが宇宙で起こるが、最終的には愛や正義と結びついたライトサイドが勝利し、恐怖や怒りと結びついたダークサイドは滅びる。そして、たとえダークサイドに囚われても、改心してそこから抜け出し、ライトサイドを強くすることができる。人間への信頼とそこから生じる希望が描かれていると思う。


P.S. その他印象に残っていること 
・C-3POのキャラクター設定。あのすっとぼけた感、空気読んでいない感が好き。
・エピソード4~6に出てくる、人間以外の生き物たち。怖さがなく、可愛く見えてしまう。
・エピソード3でアナキンがダースベーダーの弟子なり、活動し始めたときの表情。ヘイデン・クリステンセンのきれいな顔に凄みがきいていていっそう美しくなっていた。

2014/11/07

抽象化の技術

人と話をしたり本を読んだりしていると、知的な意味で「この人すごい」と思う瞬間がある。なぜそう感じるのか、それらの人たちの発言を振り返ってみると、1つの特徴が浮かんできた。抽象化の技術に長けているのだ。

ここで言う抽象化の技術とは、現象の要点を取り出し、その要点を別の表現を用いて普遍的な次元・高次元に適応させた形で処理することである。例えば、世界情勢や社会問題に関するニュースを見たとする。まずはそのニュースの内容を把握する。そしてそのニュースの主人公たち(国や団体、個人など)の思想や置かれている環境をふまえつつ構図を読み取り、そのニュースが意味していることを解く。もう1つ例を挙げると、例えば、誰かの悩み相談を受けたとする。まずは悩みを把握し、その悩みに出てくる人物や文脈などから、悩みを生み出している根幹部分を見つけ出す。1を聞いて10を知る、そんな感じだ。

現象を抽象化すると、それまで複雑極まりなく見えていたものが理解しやすくなる。さらに、さまざまな現象から抽象化した複数の概念は、互いに比べたり、組み立てたりできる。そうすることで、問題解決がしやすくなったり、他の現象を抽象化するときに適用できたりもする。

どうしてそんなことができるのか、すごいと感じた人に以前聞いてみたことがある。その人の中では全く自然になされていることなので特別なことはないという。ただ、いつも考えている、とのこと。起こったことについて、こういう場合はどうなるのか、をいろいろなパターンでシミュレーションしているらしい。そこには前提となる知識も必要だが、知識量というよりも、その知識をつないで何かを構想するほうに重きが置かれている。

理屈は分かった。が、修練である。

2014/11/04

見る+解釈する=知覚する

人は目に入ったそのままのものを知覚していない。目に入ったものになんらかの解釈が加わったものを知覚している。解釈は脳が加えているが、無意識下で行われるため、もちろん私たちに自覚はない。このことを示すよい例が錯視現象だ。錯視とは、目で見たものが実際とは違うものとして知覚されることである。だまし絵を見ると本当は絵なのに、絵に描かれているものがあたかもそこに存在するかのように感じる。だまし絵は、人間が何かを見るときに起こる、錯視の現象を逆手にとった作品だ。

知覚にはいろいろな特性がある。例えば奥行きの知覚。人は、生理的なメカニズムと経験的なメカニズムが組み合わさった状態で奥行きを知覚する。生理的なメカニズムとは、遠くを見る時と近くを見る時で水晶体の厚さを調節したり、右目と左目のそれぞれの網膜に映る像の差異を利用することなどだ。経験的なメカニズムとは、陰影や、ものの大きさ、もの同士の重なりなどを利用して奥行きを知覚することだ。トリックアートをはじめ多くの絵画は、3次元の空間を2次元上にリアルに表現するためにこれらの技法が活用されている。

20世紀前半にドイツのゲシュタルト心理学派が研究していた、「群化」とよばれる現象も知覚の特性の1つである。群化とは、まとまりを見出し知覚することだ。まとまりが作られるには条件がある。例えば近接の要因。さら地に全く同じプレハブが複数建っているところを想像してみる。3軒は南、5軒は北、4軒は西にあるとしたとき、南、北、西でプレハブがまとまりとして想像できるはずだ。つまり、物理的に近いものがまとまりとして知覚されるということである。群化の別の例は、類同の要因だ。今度はさら地に、赤、青、黄色のいずれかの色の屋根をもつ、同じ形、大きさのプレハブが散在していると想像してみる。私たちの中に屋根の色でまとまりが作られる。似ている性質のものは、まとまりとして知覚されやすい。

また、運動しているものを見たときに現れる知覚の特性もある。例えば「運動残効」。一定方向に動いているものをしばらく見ていると、動きが止まった時にそれまでの動きとは逆の運動が現れる現象である(デモはこちら→http://youtu.be/JLJ6bMSDlNE)。パラパラマンガも「仮現運動」とよばれる知覚の特性を利用している。適当な刺激強度の静止画像を、適当な時間間隔、空間間隔で連続提示すると、動画を見ているような感覚になる。

では、こうした錯視現象が起こるのはなぜだろう。脳の仕業であることは明らかだが、詳細なメカニズムはまだ分かっていないと思われる。視覚情報処理メカニズムを簡単に説明すると、眼球の瞳孔、水晶体を通じて入った視覚情報は網膜に投射され、視神経を通じて脳の後頭葉に送られる。後頭葉には、視覚情報処理に特化した視覚野が複数存在し、そこで処理される。さらに、その視覚情報は頭頂葉や側頭葉に送られ、後続する行動へと続いていく、というプロセスをたどる。また、脳内の情報処理は電気的シグナルと化学的シグナルである。眼球に投射された像は電気的シグナルに変換されて脳に送られるが、脳内でも複数の細胞、神経物質などの脳内環境の影響を受けて最終的に意識にのぼってくる(知覚される)。「見る」から「知覚する」までのプロセスは複雑だ。
また進化という視点から見れば、現在でも普遍的に見られる錯視の現象は、生存するために益となった特性だともいえる。ニワトリやハトなどの鳥類にもヒトと同じ、そして異なる錯視現象が見られるというデータもある。となると錯視の歴史は古いとも考えられる。

最後に、高尾山トリックアート美術館(http://www.trickart.jp/about.html)で見つけたお気に入りの絵を2つ。
床に落ちていた1000円札
トイレで遭遇したりんご売りの魔女さん


錯視をもっと楽しみたい方に。
北岡明佳の錯視のページ http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/

2014/10/19

認知症のあれこれ

先日、NHKスペシャルで認知症の特集を放送していた(http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0720/)。―認知症に対して、どういった治療法が効果的なのか―薬や認知症者への対応の面から、最近得られた知見を解説していた。
厚労省が公表している統計によると、平成22年現在、65歳以上の認知症有病者数は推計439万人(全体の15%)にのぼり、正常と認知症のはざまにあたる推計人数は380万人(全体の13%)になるという(http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou_kouhou/kaiken_shiryou/2013/dl/130607-01.pdf)。またWHOは、むこう40年間の間に世界的に認知症者が増加することを予測している。認知症への注目は今後も続くだろう。

認知症と聞くと、どんなイメージを思い浮かべるだろう?私は認知症を、忘れっぽい、思い出せない、徘徊する、などとイメージしていた。しかし、調べてみると認知症は単純なものでも、型にはまったものでもないことが分かった。

そもそも認知症とはどんな病気なのだろう。認知症は脳の障害である。脳の障害によって起こる症状は、認知症の基本症状(中核症状)と呼ばれており、記憶障害(もの忘れ、記銘力の低下)、自分の置かれた状況がわからなくなる見当識障害、認知障害(理解・判断力の低下、計算力低下、言語機能低下、学習能力低下など)、情動・行動の抑制力の障害、感覚機能に異常がないのに、ものを正しく理解できない失認、運動機能に異常がないのに手順通りに物事を行えない失行などがある。
脳はその場所ごとに、どんな機能を主に担うかが明らかになっている。例えば後頭葉は視覚情報を処理し、側頭葉は言語能力を担う、といった具合に(参考:http://www.sakurai.comp.ae.keio.ac.jp/classes/humansystemb/lesson02/Slide21.gif)。認知症では、脳のどの部位が侵されるかによって、生じる基本症状にばらつきが見られる。

認知症には、基本症状の他に周辺症状と呼ばれる、行動・心理症状(BPSD)がある。身体的、精神的苦痛や合わない薬の長期間の使用、日常感覚から遠ざかることなどにより起こるものだ。症状には、徘徊、多動、幻覚(幻視、幻聴)、妄想、介護への抵抗、叫声、食行動異常、睡眠・覚醒障害、抑うつ気分などが挙げられる。何がどれくらい現れるか、個人差が大きい。

また、ひとくちに認知症といっても、認知症を引き起こす原因によって複数に分けることができる。代表的なものをいくつか挙げると、①神経細胞が徐々に衰え死滅していく、アルツハイマー型認知症、前頭側頭葉型認知症、レビー小体型認知症、②脳の病気や障害などで生じる、血管性認知症である。他にも、アルコール飲料の長期間にわたる多飲が原因で生じたり、ビタミンやホルモンの不足が引き金となって生じるものもあるという。


また、認知症者の精神状態は病気が進むにつれて、とまどい・不安→否認・怒り→焦り・抑うつ→無欲・安穏、と変化するという。キュブラー=ロスが提唱した「死の受容プロセス」によく似ている。自分では受け入れられないことが生じ、かつそれが回避不可能であった場合、このようなプロセスをたどるのだろう。

今回認知症について勉強してみて、人間の情動、感情への興味が高まった。上記の心理変化プロセスにおいて最終段階である、無欲・安穏の時期に至っても、快・不快の情動は残るという。快、不快の情動は主に扁桃体が司っており、脳の内側に位置する。大脳で起こる脳の障害には侵食されないため、残る機能と考えられるが、快・不快というのは、ヒト延いては動物が生きる上で必要不可欠であり、行動の源泉のようなものでもある。


参考文献
「脳からみた認知症」伊古田俊夫 
「認知症のすべて―あなたはわかっていますか」十束支朗
「図説 認知症高齢者の心がわかる本」平澤秀人

2014/10/11

方法論より遂行

ここ1週間くらい、インプットとアウトプットに関する本をななめ読みしていた。どうしたら効率よく情報のインプットとアウトプットができるのだろうと思ったからだ。私は今、レポートや論文やらを書かなくてはいけない立場にいるが、どうもアウトプットへの苦手意識が強い。そもそもこのブログを始めたのも、アウトプットの苦手意識を和らげ、もっと気楽にできるようになりたいと思ったからだ。

まずは、ななめ読みした本のリストを。
「超・整理法―情報検索と発想の新システム」野口悠紀雄(http://goo.gl/609H83
「知的生産の技術」梅棹忠夫(http://goo.gl/xUWFpX
「「知」のソフトウェア」立花隆(http://goo.gl/gkbdlb
「学術論文の読み方。まとめ方―心理学を学ぶ人のために」三井宏隆(http://goo.gl/zchk3Z
ついでに、以前読んだことを思い出した同系統の本を追加。
「思考の整理学」外山滋比古(http://goo.gl/yZqKWQ

以上5冊を読んだ結果自覚したことは、「方法論を探すより、まず自分で始めよ」ということだ。

それぞれの本には参考になりそうな話が多々書いてあった。例えば野口氏は、得た情報は分類せず、時系列に並べて整理せよ、と述べている。分類分けというのは意外に難しい。なぜならたいていの場合、1つの文書や1冊の本には複数の異なる情報が存在しており、どこに分類するのが適切か判断に迷う。どこか1つに分類すれば他の分類項目から漏れるし、かといって複数の項目に分類するためにコピーでもすれば物が増え、整理するために分類するのに整理できていない状況に陥る。また、情報の解釈が変われば分類項目も変化する。前とは違う解釈で分類でもしようものなら、既に分類済みの情報はどうしたらいいものか…。しかし時系列で並べれば余計な混乱は生じない。ただただ日付順に積み重なるだけである。
梅棹氏は、見たこと、聞いたこと、学んだこと、つまり経験をなんでも書き留めたらいいと言っている。彼は自分で作ったカードに記録する、という方法をとっている。それはいずれアウトプットの元ネタになる。
立花氏は、本で情報収集する際には、知りたい分野の入門書数冊(読みやすい、わかりやすい、全体像が把握できる、基礎概念や基礎方法論が分かるもの)から入り、本の巻末にある参考文献や読書案内を活用しつつ、適宜中級書、専門書を読むのがいいとしている。初めて本を読む際にはメモはとらず、気になったところはページを折るにとどめる。そして読み終わってから必要に応じてパラパラと見返し、情報を利用する。得た情報は年表やチャートを作成して図式化する。
と、挙げればキリがないくらい、いろいろなチップが入っていた。

しかし結局のところ、それだけのチップを得ても使わなければ、つまり自分でやらなければ意味がない。当たり前の話だ。でもこの当たり前をやっていないことを自覚した。私と彼ら、いちばん大きな違いは、彼らは試行錯誤しながら日々インプットとアウトプットを繰り返している人たちであり、私はそうではない、ということである。基本、インプット過多→停止モードである。

方法論が必要ないとは思わない。でも、まずは始めてみて試行錯誤することなんだと思う。

2014/10/04

エリクソンの発達理論

――人間は生まれてから死ぬまでの間にいくつかのクリアしなければならない課題がある、そしてそれをクリアすることで精神の発達が進んでいく―― エリクソン(Erikson,E.H :1902-94)は人間の、一生における精神の発達について理論を残した。彼の考えた発達理論についてまとめておこうと思う。


エリクソンは、人間の一生を8つに区分し、それぞれの時期にクリアすべき課題(発達課題)があるとした。人間は環境との相互作用の中で生きている。つまり、個人の欲望と社会や文化から求められることの間で葛藤、緊張しながら生きている。その葛藤や緊張が発達課題である。各時期に適した発達課題をクリアすることで、健康的な精神の発達が促されるが、ある段階の発達課題をがクリアできないときには、次の段階の発達課題の解決にも支障をきたすとされている。

それでは、各時期の発達課題についてみていく。
①乳児期
不信感を克服し、「基本的信頼」を獲得することである。生まれたばかりの子は一人では自分の欲望を満たすことができない。泣いて周囲にいる人にごはんやトイレなど、何かを要求する。このとき周囲にいる人たちが子どもの要求に適切に応えるとき、基本的信頼が獲得される。そして人格形成の活力となる「希望」を得る。
②幼児前期
恥や自分の能力への疑惑を克服し、「自律性」の獲得である。幼児前期に子どもは言葉を話し始め、歩くことができるようになるなど、言語能力や身体機能が著しく発達する。それに並行する形で自我が芽生え始める。子どもの欲求に合わせていろいろな経験をさせ、「できる」という感覚を得させることで発達課題をクリアすることが可能となる。そして、「意志」をもつことの基盤が養われる。
③幼児後期
自分の行動への罪悪感を回避し、「自主性」を身につけることである。幼児後期の子どもはできることが多くなり、遊んだり、幼稚園・保育園に通ったりして他者との関わりが増え始める。そのような状況の中で子どもはいろいろなことに挑戦しようとし、と同時に親など周囲の大人からのしつけを受ける。そして、分別を身につけながら自分に対する自信を抱き、自主性を獲得していく。そして、めざす方向性をもちそれに向かって進む「目的性」が培われる。
④児童期
劣等感を克服し、「勤勉性」を獲得することである。児童期のハイライトは学校生活が始まることだ。学校では新しいことを日々学び、友人関係を築くことが求められる。自分の能力を他人と比較したり、自分が友人たちの中でどのくらいに位置しているのか、といったことを考える機会にさらされる。自分への自信を高め、肯定感を得るためにも「勤勉性」の獲得が求められる。勤勉性を獲得し、自分の能力の向上を体験することで、「有能感」が養われていく。
⑤青年期
「自我同一性(アイデンティティ)」の確立である。青年期には体の二次性徴が進む、自分の進路について決断する、親からの独立など、1人の自立した人間として生きていくためのいろいろな出来事が起こる。その中で、自分はどういう人間なのか、自分は今後どうしたいのか、など、自己への関心が強まり悩む時期でもある。自分のめざす自分と、他者から求められる自分の統合を図り、自我同一性を獲得することが求められる。アイデンティティの確立により、自分の選んだものに「忠誠」をつくす能力を獲得する。
⑥成人前期
「親密性」を獲得し、孤立を回避することである。成人前期は生活環境が大きく変わる時期でもある。学校生活が終わりを向かえて職場で働く、結婚して家庭を持つなど、人生において大きな出来事を経験する時期でもある。人生のパートナーや親友との関係を通して親密性を得ることで、「愛」を学び、与え、獲得する。
⑦成人期
次の世代に何かを残す「生殖性」を獲得することである。成人期は社会、職場、家庭の担い手となるときである。これまで主に自己に向かっていた関心が社会や次世代へと向かう。子どもを産み育てることをはじめ、職場で部下を育てること、後世に何らかの作品を残すことなどを通して発達課題をクリアし、「世話」する力が培われる。
⑧老年期
絶望感を克服し、自分の人生を「統合」することである。老年期は、身体の衰えを感じたり、仕事において第一線から外れるなど、自分や生活環境の変化を体験する時期である。また、死を迫ったものとして認識する。自分のこれまでの人生や、受け継がれていく生命の中での自分の命を受け入れることが求められる。そして、人生の集大成として「英知」を得る。

以上がエリクソンの唱えた発達論である。私はエリクソンの理論は魅力的だと思う。精神の発達を、社会に生きる存在という文脈の中に位置づけていること、そして生きる中での葛藤を通して精神が発達していく、としているからだ。人間が生きることは社会と関わることである。社会と関わりながら生きている以上、悩みや困難もある。しかし、それを克服することで一段階上のレベルにいける…エリクソンの理論には人生への希望を感じるし、自分のこれまでの経験とも重なり、リアリティを感じる。

2014/09/25

振り付けを覚えよう企画

ここのところ約3週間ほど、ももいろクローバーZの振り付け10曲マスター企画を個人的に行っていた。1曲につき9割程度完成したら次の曲に進む、ということにして、10曲(行くぜっ!怪盗少女 走れ! みてみて☆こっちっち サラバ、愛しき悲しみたちよ コノウタ 猛烈宇宙交響曲・第七楽章「無限の愛」 Chai Maxx ももいろパンチ 全力少女 ココ☆ナツ)を覚えた。その振り返りをちょこっと書いておこうと思う。

そもそも私はダンスが苦手だ。小さい頃から運動は苦手、昔行ったクラブでは音楽に合わせて踊れない、テレビで踊っているアイドルを見ながら踊ろうにも手と足が思うように動かない、などの経験から、ダンスへの苦手意識がある。諸事情あってこの企画をすることになり、最初は嫌な気持ちでいっぱいだったが、ダイエットにもなるだろう、とポジティブに捉えて始めてみた。

まずは曲の選定である。ダンスへの苦手意識が強い私にとって、曲の選定は極めて重要である。ももクロの曲は数曲知っているが、振り付けをちゃんと見たことは一度もない。とりあえず、①振り付けが見やすい映像がある、②難しくなさそう、③曲の長さが短い、にあてはまる曲を探そうと、YouTubeでいろんな曲を見て10曲を選んだ。

続いて、どうやって振り付けを覚えるか。振り付けが分かりやすい映像を再生して、一緒に踊りながら覚えていく。YouTube上には、一般の人が振り付けを覚えて踊っている映像が多くupされており、ももクロ本人の映像を見るより、こちらのほうが数倍分かりやすい。定点から撮った、全身が映っている映像がほとんどだからだ。
効率よく覚えられる方法を探した結果、①映像を数回見て歌と振り付けのイメージをつかむ、②数回映像に合わせて踊ってみる(最初から最後まで)、③映像を0.5倍速にして映像に合わせて踊る(最初から最後まで)、④1番、2番、などに区切って何回か練習し振り付けを覚える。(分かりにくいところを何度も再生しながら踊る)、⑤映像を1倍速に戻して踊る、⑥体の動きが音楽に合うようになるまで繰り返し踊る、⑦翌日復習する、というのがよかったと思う。

振り付けを練習していて感じたのは、スロー映像で繰り返し振り付けを観察していると、1倍速で見ているときには速くてどう動いているのか分からなかった動きも、単純な動きの繰り返しや組み合わせでできている、ということだ。さらにサビ、メロなど曲の部分によっては重複する動きがある。これを理解し、いくつかの単純な動きがマスターできると、ダンスが楽しくなってきた。また、ダンスの振り付けにはムダな動きがない。例えば体を回転するときには、回転する直前の足の向きや位置に合わせて無理のない方向に回転となる。どちらも、考えてみれば当たり前すぎるほどに当たり前。でも、やってみて初めて気づいたし、ダンスへのハードルが少し下がった。
とはいえ、やっぱりアイドルはすごい。キレのある動きを音楽に合わせて、しかも歌いながら完璧に踊るのは相当練習が必要だと思う。

ダンスは、今までダイエット目的でやったことのあるジョギングや水泳、ピラティスよりも消費カロリーが大きい気がする。ももクロの振り付けだから、という理由もあると思うが…。

最後に、練習した中でいちばん短い、踊りやすい曲をポスト。


追記:AKB48の恋するフォーチュンクッキーもクリア!

2014/09/17

好奇心の源泉

先日、幕張メッセで開催されている「宇宙博2014」(http://www.space-expo2014.jp/)に行ってきた。会場にはNASAとJAXAから来た展示品の数々。これまでの、アメリカ・ソ連・日本の宇宙開発の歴史を垣間見ることができた。展示品の中に、日本人として初めてコマンダーを務め今春に帰還した宇宙飛行士・若田光一さんからのメッセージがあった。宇宙に憧れる子どもたちに向けたメッセージだ。若田さんがメッセージの中で強調していたのは、「好奇心を大切に、目標をはっきり持ち、目標に向かってあきらめることなく一歩一歩努力していく」ということ。宇宙に関わる仕事をするためのアドバイスである。

宇宙に関わる仕事でなくとも、何かを成し遂げるためには、若田さんのアドバイスは全くもってその通りである。しかし、一体どれくらいの人が若田さんのアドバイスを遂行することができるのだろう。多くの人は成し遂げる前に途中であきらめる。時間がない、私にはできないなど、あきらめる理由はいろいろあるだろうが、結局のところ根源にあるのは、その成し遂げたいことに対する興味(好奇心)が少ない、ということだと思う。人間はしたいことをする。興味があることは、好きなこと/したいことなのでそれをするのは問題ない。反対に、嫌いなこと/したくないことは興味がないことである。たとえ興味があったとしても、興味の度合いはそれほど高くないか、心の底から湧いてきたという興味、好奇心ではない。利害などから発生した興味、好奇心である。だから途中でやめることが可能なのだ。

強い好奇心、興味はどうやったら生まれるのだろう。私は好奇心は「偶然の産物」だと思う。好奇心が生まれる、ということはその対象に接することがまず前提としてある。その対象に接するかどうかは恣意的であり、偶然の出来事だ。また、その対象に対して強い好奇心が生まれるかどうかも偶然である。才能ともいえる。そう考えると、何かに対して強い好奇心を持つというのはけっこう難しい。一時的に何かに好奇心を持つことは簡単だが、何かを成し遂げるほどに継続する好奇心は素質、環境、運が揃っていないと生じるものではないように感じる。ましてや、私を含め、年を重ねてたくさんの経験をし、感度が鈍くなった人たちにはなおさらだ。

強い好奇心は、何かを成し遂げるということを無理なく行わせる。強い好奇心がない場合、ある場合よりも、何かを成し遂げるには負荷がかかることになる。好奇心は持とうと思ってすぐ持てるものではないから、持てないことをぐだぐだ言っていても仕方がない。その時に好奇心の代わりをしてくれるのは、あきらめと忍耐だと思う。あきらめは、その成し遂げたいこと以外を捨てること。忍耐は、それを成し遂げるために必要なステップをやり続けること。やってるうちに楽しいことや喜びもあれば、つまらないことや挫折もあるだろうし、成し遂げたいことが成し遂げられるかも分からない。それでもひたすら続ける忍耐力である。

2014/09/03

本レビュー エレーヌ・フォックス「脳科学は人格を変えられるか?」

今夏出版された、「脳科学は人格を変えられるか?」エレーヌ・フォックス著
(原題:Rainy Brain, Sunny Brain The New Science of Optimism and Pessimism)を読んだ。楽天主義者と悲観主義者の脳の特徴と、脳の可塑性について、さまざまな実験や調査、脳の画像の観察をもとに論じている。本の内容を踏まえて、原題とはかけ離れたやや商売っ気を感じる邦題の問いに答えるなら、答えはYESだ。人格は固定したものではなく変化する。そして、脳に関する知見を応用すれば、人格を意図的に変化させることも可能である。
著者はまず、人間の脳内にある2つの回路(機能)Rainy BrainとSunny Brainを説明する。Rainy Brainとはネガティブな心の動きを司る回路のことで、Sunny Brainはポジティブな心の動きを司る回路のことだ。Rainy Brainの中心は、扁桃体と前頭前野を結ぶ回路である。扁桃体は恐怖に反応し、恐怖から身を守るための指令を出す所だ。扁桃体が恐怖に反応したあと、前頭前野はその恐怖を恐るるに値するものか判断する。扁桃体→前頭前野の経路数が前頭前野→扁桃体の経路数よりも多いと、恐怖に飲み込まれやすいという。一方、Sunny Brainの中心は、側坐核と前頭前野を結ぶ回路である。側坐核は快楽に反応する。側坐核は刺激を受けると、神経伝達物質ドーパミンとオピオイドが分泌され、より快楽を欲するようになる。前頭前野は、快楽追求に歯止めをかける役割を担っている。
人間はこの両方の回路を持っている。しかし人によって、どちらがどの程度活発に働くかは異なる。この2つの回路の働きがものを認識するためのフレームを作り、ひいてはそれが人格になっていくという。Rainy BrainとSunny Brainの働きに関わるのは、遺伝子と環境である。それぞれの回路に特有の遺伝子があるかないかは定かではない。しかし関係があるものとして、例えばセロトニン運搬遺伝子は発現量が低いと、発現量が高い人よりも周りの環境に影響されたり反応したりしやすい。つまりネガティブなことにもポジティブなことにも敏感に反応する傾向があるという。しかし遺伝子の機能は固定化されたものではない。遺伝子は、自身の発現の有無や程度について環境から影響を受けるのだ。これはエピジェネティクスと呼ばれている。
この、人格形成に関わるRainy BrainとSunny Brainの働きは変化させることができる。脳内の神経細胞同士のつながりは、人間の環境に対する反応によって消えたり組み替えられたり生まれたりする。また神経細胞は年をとっても新生する。つまり、環境に対する自身の反応を意図的に変化させることによって脳内のつながりが変化し、ひいては人格変容へとつながる、ということである。

人格形成については前から興味があった。おそらく発端は自分についての謎である。なぜ私はこう思い、こう感じ、こういう行動をとるのか、そしてそれらを他人と比較したとき、同じものを見ているはずなのになぜこうも違うのか、こんなことから人格形成について興味を持った。私の人格を作っているものは何なのか、と。それもあってか、人格形成について述べられたこの本はおもしろかった。Rainy BrainとSunny Brainはおそらく、進化の過程で生まれてきた、人間の精神の働きの根本的なものである。これらの機能が人格の根幹を成しているという説は納得のいくものである。
しかし今回、人格形成についてはまだ分からないことだらけ、ということを改めて認識させられることとなった。楽観主義者と悲観主義者の脳で起こっている現象についての言及はなされているが、その現象の起きるメカニズムの詳細は触れられていない。私も、遺伝子と環境が人格を形成すると考えているが、遺伝子と環境の絡み合いは常に流動的で複雑すぎる。このメカニズムが解ける日は来るのか…。

2014/08/30

話がみえなくて

言葉とは、人が何らかの情報を相手に伝えるための道具である。情報は物質的なモノから非物質的なことまで幅は広い。物質的なモノを表すために使われる際(例えば物の名前などを表す際)、言葉で伝えるのは比較的易しい。同じ時代に同じ文化を共有している同士なら、互いにその言葉が何を表しているかの共通認識が存在しているので、誤解が生じることは少ないと思われる。しかし、観念や感情などの非物質的なこととなると、伝える―理解する、の難易度が高くなる。たしかに、言葉を使えば考えていることや感じていることの大体は誰かに伝えることができるし、誰かが何を考え感じているかを知ることもできる。しかしここで大事なことは、自分がある観念を表すのに使っている言葉と、相手がある観念を表すのに使っている言葉が一致していることである。互いの観念が同じようなもの、少なくとも似ているものでない限り、同じ言葉を使っても通じ合わずに終わるのだ。誰かに何かを伝えようとしたけど、理解してもらえなかった―こんな話は誰と話をしていても起こる。そして本を読んでいる時にも起こる。

本を読んでいると、知っているはずの言葉の入った文章を読み進めているのにもかかわらず、だんだん話が見えなくなっていくことがある。特に、心理学や哲学関連の本を読んでいるとき。読み進めるのをやめて、ちょっと前に戻ってゆっくり読んでいくと、高確率で見つかるのが非物質的な概念や抽象的な概念を表すための言葉である。意識、精神、理性などなど…このような言葉は日頃耳にするしなんとなくのイメージしか自分の中になく、定義を説明できるのかと言われると怪しい。で、辞書で調べてみると、またしても出てくる抽象的な言葉。さらに調べ、読み進めると今度は複数の解釈が出てくる。この時代は○○という意味で使っていた、この学派は〇〇という意味で使っているなどなど。さらに別の辞書を使うとまた違った解釈が出てくる。つまり人による、時代による、定義や解釈の揺れがあり、完全無欠の定義はないのである。なので結局、作者の生きた時代背景を推測しつつ、その言葉の意味を検証しつつまた本を読み進めるしかない。読み続けていると、作者の言わんとしているニュアンスが解けるときもあるし、そのまま解けずに終わることもある。

言葉に完璧な定義はない。そんな中私がすることは、複数の解釈を咀嚼し、その言葉に対する自分の解釈、ニュアンスをはっきりさせておくことである。解釈を咀嚼することでその言葉が社会でどう使われているのかを知り、その言葉と自分の中にある観念を結ぶ。その作業は誰かがその言葉に込めたニュアンスを理解するうえでも、自分の伝えたいことが意図している通りに他の誰かに伝わるためにも役に立つと思う。

2014/08/24

心理学はどこへ行くのか

心理学の全体を俯瞰するのに始めたエントリーもいよいよ終盤。ここまで心理学の起源と心理学における研究領域をいくつか紹介してきたが、最後に最近の心理学についてまとめておこうと思う。
まず今更ながら一つ付け加えておくと、心理学は大分類として基礎心理学と応用心理学に分けることができる。基礎心理学は主に人間の心理について、一般的な法則を見つけようとする分野である。前回記載した、臨床心理学を除く○○心理学(発達、人格、社会、認知)は基礎心理学に位置づけられている。応用心理学は、基礎心理学で明らかになった知見をもとに実際の現場、社会に活かしていこうとする領域である。その代表的なものが臨床心理学だ。臨床心理学は主に、精神に不健康をきたしている人たちの精神を理解し、必要とあらば治療して望ましい方向へ持っていく、ということをしている。現在も引き続きさかんに研究がなされているが、ここ数十年間で、不健康な人以外をもターゲットとする、健康増進のための、より精神的に充実した生活を送るための心理学が登場した。健康心理学とポジティブ心理学である。

健康心理学は1978年頃、アメリカでスタートした。精神の不健康だけでなく、身体の健康や疾病に関わる心理を研究する分野だ。例えばフリードマンの「タイプA」理論。心臓疾患を患った人を調べると性格や行動に一定の傾向が導き出せたことから、この傾向をタイプAとし、心臓疾患にかかりやすい人たちの特徴的な傾向とした。タイプAには競争的、野心家、攻撃的、いらつきやすいなどの傾向が含まれる。また、ストレスもこの分野でメジャーな研究テーマの1つである。ストレスがたまる=病気になりやすい、は長年言われ続けてきたことだ。しかし健康心理学者のマクゴニガルは、ストレスの捉え方を変えればストレスは健康のための味方になると主張する。人間は普通、ストレスを感じると、心臓が高鳴り、血管が収縮(心臓病の原因とされているものの1つ)し、呼吸が早くなり、汗が出るなどの身体症状が現れる。しかし実験によって、ストレスを有用なものと捉えた人は、心臓が高なるものの、血管の収縮は起きなかったという。そしてこれは、喜びや勇気を感じているときの身体の状態と同じだそうである。また、ストレスを有効なものと捉えるための根拠としてオキシトシンを提示する。人間はストレスを感じるとオキシトシンを分泌する。オキシトシンは他の人と親密な関係を求めるようになるほか、血管を弛緩状態に保ったり、心臓細胞の再生を促したりと、ストレスから回復するための機能も持ち合わせているという。

ポジティブ心理学もやはりアメリカで、1998年頃からスタートした。一言でいうと、どうしたらより幸福な生活を送ることができるかを研究する分野である。この分野の代表的な心理学者はチクセントミハイである。彼は様々な職業や民族の人にインタビューし、彼ら、彼女らがどういうときに幸せを感じるか、そしてそのとき彼ら、彼女らはどんな状態なのかを調べた。チクセントミハイは、人はフロー状態にいるとき、幸せを感じているとした。フロー状態にはいくつかの要素がある。それは「、達成できる見通しのある課題に取り組んでいる、自分のしていることに集中している、行われている作業には明瞭な目標があり、フィードバックされる、意識から日々の生活の気苦労や欲求不満を取り除く、無理のない没入状態で行為が行われている、自分の行為を統制しているという感覚、フロー後、自己感覚はより強く現れる、時間の経過の感覚の変化、である。(一部引用:http://goo.gl/UgM81e)この他、フローに入りやすい/入りにくい性格傾向、環境なども指摘している。

最近の心理学でにおけるもう1つの潮流は進化心理学である。人間の心の働きの基本を、進化によって環境に適応的に形成された情報処理、意志決定システムから成り立つものとして捉える立場だ。つまり、人間の心や行動、そしてそれを生み出す脳を進化の産物とし、状態や変化の動因を適応に帰結する。動物において研究がなされている性淘汰理論(異性獲得競争を通じておきる進化)や互恵的利他行動(即座の見返りがなくとも、あとの見返りを期待して他の利益になることを行うこと)などを人間の行動や心理にもあてはめて考えていく。

数回に分けて心理学の歩みをざっくり振り返ってきた。ではこれから心理学はどこへ向かっていくのか。これまでの心理学は、人間の心的過程はどうなっているのか、何が起こっているのかという、現象を解くということが多くなされてきたと思う。ヴントの内観法や行動主義、認知心理学、社会心理学、発達心理学でなされてきた実験やモデルづくりに見ることができると思う。その一方で、なぜその現象や行動が起こっているのか、という議論もなされてきた。これは精神分析からの潮流に顕著に見ることができる。これらの、これまでなされてきた理由付けは、思弁的なものが中心だった。つまり、心理学者が現象や実験結果を元に、なぜそれが起こるのかを論理的な形で考えていった結果としての説、ということだ。しかし、昨今の心理学はより実証ベースでの理由づけをしていく傾向があるように感じる。なぜそうなるのかを、目に見えるものを使って1つ1つ裏付けしていくということだ。それは、神経科学や生物学の知見がどんどん明らかになってきていることが大きく影響している。デカルトが提唱した心身二元論は今では廃れ気味で、精神を脳の活動と捉える見方が優勢だ。しかし、脳、神経ネットワークの仕組みや遺伝子の仕組みの解明はまだ始まったばかりである。しかもどちらも複雑な仕組みであり、完全な解明ができるのかも分からない。しかし、解明作業は進められており、心理学に神経科学や生物学の知見を取り入れ、現象を説明することは今後も続いていくと思う。心理学は自然科学の系譜を受け継いでおり、精神と脳は切り離せなくなっているからである。

2014/08/21

○○心理学の台頭


前回のエントリで初期の心理学についてまとめたが、今日でも心理学のメジャー分野として名を馳せているいくつかの分野が20世紀に次々と起こる。

まずは発達心理学。発達心理学はその名の通り、人間の、生まれてから死ぬまでの発達をテーマとする。学校教育の普及や教育哲学からの流れで児童に興味が持たれるようになったのを背景に、発達心理学は児童心理学からスタートした。例えば1930年代ごろから活躍したピアジェは、「私たちはどのようにして身の回りの世界に対する認識や理解を獲得するのか?」という問題提起から実験を行い、子供の認知の発達には段階(感覚運動―前操作―具体的操作―形式的操作)があることを示す。行われた実験には例えば、保存課題(容器に入った液体を異なる形の容器に移し、見た目が変わっても量が等しいことを判断できるかを調べる)などがある。認知の発達は子供と環境の相互作用によってなされるとし、子供は自己中心性→社会性を得る、という社会化のプロセスを発達とみた。一方、ヴィゴツキーは別の発達理論を提唱した。ヴィゴツキーの考えはピアジェとは逆で、自己の発達は、人びととの関係の中に自己が現れることから始まり、のちに自分自身の心理内に自己が組織化されるとした。
ボウルヴィーが展開した愛着理論(1958-60ごろ)も有名である。母と子の結びつきの強さは母が子の生理的欲求に応える機会が多いから、という従来の説を覆し、母と子の間には情緒的な結びつきがあるとした。ハーローによるサルを使った代理母実験(ミルクを与える針金の母とミルクの出ない布でできた母のどちらと子ザルはいたがるか)でも母親が愛着の対象であり、安全基地として機能しているという結果が見られる。前述した、人間の発達理論を作ったエリクソンも発達心理学領域で活躍した人である。

続いて人間の個人差を測ることに関わる差異心理学。ここには知能検査などの開発や研究、人間の性格について研究する人格心理学が含まれる。例えばフランスのビネは自分の子を観察し、シモンと、子供の知的活動を総合的に測るためのビネ―シモン式知能検査を1905年に開発した。知能検査はウェクスラーによって成人版(ウェクスラー成人知能検査WAIS)も1955年に開発された。人格にまつわる説は古代ギリシャの頃からあった。例えばガレノスは、ヒポクラテスの唱えた4つの体液(血液、粘液、黄胆液、黒胆液)が気質を支配しているとした。19世紀になると、クレッチマーが体格ごとに特徴的な気質(躁うつ気質、分裂気質、粘着気質)があるという理論を唱えた。また前述したユングは、人間の態度を関心が自分に向く内向と、関心が外界に向く外向に分け、さらに自分と環境を関係づける方法として思考―感情、感覚―直観の4つの心理機能を提示した。これらは「類型論」と呼ばれている。つまり、型が存在しており、そこに人間をあてはめていくやり方だ。そんな類型論に異議を唱えたオルポートは「特性論」を元に人間の性格を定義しようとした。個人を、様々な特性が結合した状態ととらえる見方だ。
ちなみにアメリカでは戦争中、知能検査や性格検査が軍隊で取り入れられ、軍人の戦闘、軍生活に対する態度や行動、リーダーシップ、神経症症状等の傾向を調べるのに使われたようだ。

次は社会心理学。扱うテーマは幅広い。ざっくりまとめると、社会における個人の行動や相互作用、集団の行動、心理がメインである。実験を行うことも多い。社会心理学は、フランスで当時行われていた群衆や模倣の研究(社会学)や、19世紀末~20世紀前後にかけて展開されていた2つの自己の考え(主体性の根拠となる自我、他者の態度や役割によって社会化された客我)の影響を受け、1930年頃から始まった。レヴィンは1940年頃、「グループ・ダイナミクス」という考えを提唱する。これは、集団内における個人は、その集団のもつ性質やどんな成員がいるかによって影響を受ける、というものだ。第二次世界大戦後には前述した行動主義も廃れてきており、社会環境が個人に影響をもたらすという考えが行動主義に変わるアプローチとされ支持を得た。アッシュの印象形成における初頭効果(最初の印象が残る)、ハイダーやケリーの帰属理論(身の回りに起こった出来事や、自己/他者の行動に対して、どこに原因があると推察するか)などがある。また、1960年代になると、権威に対して人は自身の道徳観を無視するということがわかったミルグラムの実験や、一般の人が看守役と囚人役に無作為に分れられて刑務所内で生活するうちに互いにどんな変化が現れるのかを実験した、ジンバルドーのスタンフォード監獄実験(http://www.prisonexp.org/)が行われた。スタンフォード監獄実験は、映画「es」の題材にもなっている。

認知心理学も忘れてはならない。認知心理学が扱うのは、注意や知覚、記憶、忘却、言語の産出、問題解決や意思決定などの仕組み、意識などである。コンピュータや人工知能の技術が発展したことに影響を受けて1950年代からスタートした。脳を情報処理装置とみなし、コンピュータの情報処理過程のモデルを適用するなどして人間の認知過程を明らかにしていく。初期の認知心理学の代表的な人物は、人間が一度に記憶できるのは7つまでの情報の塊であると発表したミラーや、人間の知覚に及ぼす人格要因や社会的要因の影響も示したブルーナーなどである。目撃証言記憶の曖昧さを明らかにしたロフタスも認知心理学者である。ロフタスはいくつかの実験を行った。例えば、模擬事故の現場を被験者に見せ、そのあとで、2台の車が衝突している/どんと突き当たった/接触した/ぶつかった/ときどれくらいのスピードで走ってましたか?と聞くと被験者は、衝突したときと質問された時に、より速いスピードで走っていたと答えた。また、事故で窓ガラスは割れていなかったのにもかかわらず、衝突したときと質問されると割れていると答える人が増えたという。
ヒューリスティック、バイアスの概念も認知心理学の分野である。ヒューリスティックとは簡単にいえば経験則のことで、人が問題解決や何らか意志決定を行う際に時間や手間を省けるような手続き・方法である。しかし経験則はいつも有効であるとは限らず、経験則のせいで物事を偏って認識する(認知バイアス)という事態が生じることもある。ある側面で望ましい特徴のある人間に対して、全体評価を高くする傾向があることも、ハーロー効果と呼ばれるバイアスの1つである。

最後に臨床心理学をちょこっと。臨床心理学は、精神に不健康をきたしている人間を対象とし、カウンセリングや心理療法などの治療行為もこの領域に含まれる。臨床心理学分野では1960年代、人間性心理学とよばれる心理学が起こった。行動主義や精神分析に対するアンチテーゼとして、このころの哲学の実存主義(個別、主体的な存在として人間を捉える)からの影響を受けた。マズローは、自己実現を目指す5段階の欲求階層説を唱えた。またロジャースは、人間には外部から自由になり自律性に向かう傾向が内在しているとし、指示的・分析的な精神分析とは対をなす、クライアント中心療法(指示を与えず、患者の体験に心を寄せて尊重し、患者の本来の力を発揮させて問題の解決を促す)を始めた。また認知心理学を治療に応用した認知行動療法(物事の捉え方を修正していき、行動を変容させる)も、1967年、ベックによって提示された。

2014/08/20

心理学はどこから来たのか 続き

心理学が成立したころ、ドイツではヴントによる生理学から派生した心理学が、アメリカでは、ジェームズの機能的心理学やワトソンに象徴される行動主義が、オーストリアではフロイトによる精神分析が勃興していた。

ヴントの心理学はティチナーの唱えた構成心理学へと受け継がれた。ティチナーは要素還元主義の立場だ。意識(つまり、私たちが心の現象として経験していること、私たちが私たちの経験だと感じることのできるもの)を最も単純な要素に還元し、その要素が互いに連合する法則を見つける、そしてその意識過程と神経過程の相関を見つけて、意識が起こる原因を探ろうと、というものだ。しかし1910年頃、要素還元の立場に異を唱えたゲシュタルト心理学が起こる。要素に還元せず、統合された全体をそのまま捉える、というアプローチだ。ゲシュタルト心理学は人間の知覚研究から始まった。実際には動いていないのに動いて見える仮現運動の現象など、刺激と感覚の一対一対応では説明がつかないことが起こっていたからだ。その後、人には視覚刺激を単純明快な方向に向かって知覚する傾向がある、視野の中で近くに配置されているもの同士はひとまとまりとして知覚されやすい、性質の違う刺激があるとき、他の条件が等しければ、似ている性質のものがまとまって知覚されやすい、といった近くの諸理論も生まれる。

ワトソンの呈示した行動主義は1930年代になると新行動主義へと変化する。手続きや設定を詳細にした実験を行い、心的過程の理論を作る動きが生まれた。例えば、トールマンはラットを使った迷路箱実験を行い、ラットが経験から学習することを提示、体験―行動間に期待や仮説、信念、認知地図などといった媒介変数を導入して、心的過程の理論化を試みた。スキナーはラットを使った実験を通して、学習には「強化」が必要(強化随伴性)だと述べた。スキナーは、状況、行動、その結果が次の行動の生起にどう関係しているか、に注目、状況を変えれば行動は変化するとし、環境主義の立場をとった。

フロイトの理論は形を変えてユングやアドラー、娘のアンナ・フロイトなどに受け継がれていった。フロイトの、人間の心を無意識の中の性的欲動を中心に考える論理に賛同しなかったのはユングは、独自に分析心理学を打ち立てた。心の構造を意識―無意識とし、無意識には個人的無意識と集合的無意識があるとした。個人的無意識には、かつては意識化されていたものが抑圧、忘却されたものやコンプレックス(自我をおびやかす心的内容が一定の情動を中心に絡み合っているもの)を含む。集合的無意識には人類共通の心の基盤となっているもの(大母、老賢人、影など)が含まれる。集合的無意識は夢や神話、幻覚などに現れる。
アドラーは個人心理学を打ちたて、劣等感の概念を中心に人間の心理や行動を解こうとした。人はそれぞれ他人より劣ったものをもち、その弱さ、劣等感を補償するためにより強く完全になろうとする意志(権力への意志)をもつという。
アンナ・フロイトは自我心理学を展開した。自我を、エスにおける心的葛藤を統制するだけでなく自律性や適応機能を備えたものとし、自我を育てることを提示した。人間の発達には段階があり、各段階ごとに提示される課題を解決しながら人間は発達していくとしたエリクソンも自我の重要性を強調した新フロイト派の1人である。

2014/08/17

心理学はどこから来たのか

心理学は守備範囲が広い。世の中にたくさんある「○○心理学」は、それぞれ似ているようでちょっとずつ違う。数年間心理学を学んできたが、私の中ではどうも「○○心理学」の諸理論が断片的に入っているだけで体系だっていない。そこで、心理学はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、を何回かに分けてちょっとまとめておこうと思う。

心理学とは、心(精神)の営みとそれに基づく行動を研究する学問である。心理学の成立は1879年と言われている。場所はドイツ。医学と生理学を学んだヴントは、自身が教鞭をとるライプツィヒ大学に「心理学実験室」をつくり、ゼミナールを始めたときだ。ヴントが興味を持ったのは、「人間は外部からの刺激をどう認識するのか」ということ。ヴントはそれを実験によって観察し、分析しようとした。人間に外部から刺激を与え、外に出る反応を計測し、そのとき被験者がどんなことを感じたかを語ってもらう「内観法」という手法で解こうとした。ヴントは、刺激―反応という認知体系を統括するものとして、「統覚」という心的過程(つまり意識)を考えていた。
ヴントの始めた心理学は生理学から派生したものだ。ルネサンス以降、人間や動物の解剖が行われるようになり、生物学や医学が発達した。ドイツでは19世紀、医学・生理学の研究がさかんに行われていたという背景がある。

一方で心理学は哲学の土壌で育ってきたものでもある。医学・生理学分野からよりも、哲学からの系譜のほうが歴史が長い。古代ギリシアでは、アリストテレスが「霊魂論」の中で霊魂の性質や機能を明らかにしようとし、中世時代にはデカルトを始めとして、「認識」についてさかんに議論されるようになる。哲学において投げかけられた心に関する問いや説は、未だにはっきりと解明されていないものが多々ある。例えば「心とはなにか」「心はどこにあるのか」などの、心そのものに関する問い。現在でも心の哲学とよばれる哲学分野で議論されている。また、17世紀頃から西洋哲学で起こった、合理主義VS経験主義は心理学でも展開され、生まれか育ちか論争(人間の性格は生得的なものなのか、経験によるものなのか)も未だに続いている。

心理学に話を戻そう。ドイツで心理学が始まったころ、アメリカでも人間の意識に関する研究が始まっていた。ジェームズは、1890年に「心理学原理」を発表、意識を環境に適応する手段の一つと捉え、その目的や効用を明らかにする機能的心理学を提唱した。扱うのは、習慣や注意、記憶などの現象。機能的心理学は、ダーウィンの進化論の影響を受けている。アメリカでは、ドイツで見られるような実験を使ったアプローチではなく、理論的アプローチがとられていた。
機能的心理学はワトソンによって、行動主義へと移行する。ワトソンは意識とそれに伴う主観的言語を排除して、行動から心理学を研究する立場をうちたてる。ワトソンの提示した行動主義の代表的な特徴は、S-R主義、環境主義である。人間の内部で行われる心的過程を排除し、刺激と反応の結びつきにすべてを還元する。また、生後11ヵ月のアルバート坊やに実験によって恐怖反応の条件付けを行い、本能でさえも後天的に条件付けられた反応であるとした。

初期の心理学でもう1つ忘れてはならないのが精神分析の系譜である。19世紀末~20世紀にかけて、オーストリアの医師フロイトが始めた。フロイトによって「無意識」の概念が生み出される。自身によって意識されない領域にこそ、神経症患者の行動のキーがあると考えた フロイトは患者に自由に話してもらう自由連想法を通じて患者の無意識に近づき、無意識に抑圧された記憶(性的幻想を含む)を患者が自覚し、言語化されることで病気が改善すると考えた。フロイトは心は、超自我(良心、道徳的禁止機能)―自我(心的葛藤の統制)―エス(本能的欲望)から成るとした。

生理学からの、刺激に対する反応とその心的過程を捉えるというアプローチ、客観性を重視した行動主義、心を病んだ人を治療することから始まり、心の構造を理論化した精神分析、これらが心理学成立期における心理学の潮流である。

2014/08/06

微分の歴史

「オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ」(吉田武著、東海大学出版会、2010)という本を使うゼミに参加した。本の内容を紹介すると、オイラーの公式「ecosθisinθ」を導くことを目標に、関連する数学を解説していくというもの。参加者は、本の章立て(微分、積分、三角関数などの数学の分野名になっている)に沿って発表をしていく。

私は微分を担当した。微分は高校時代に得意だったから選択した。微分ってどういうことだろう?といろいろ調べていくうちに、微分っていつできたんだ?と歴史が気になってきた。

微分は、アイザック・ニュートンとゴットフリート・ライプニッツによって成立した。彼らは同時期にそれぞれ別のアプローチで接線問題や求積問題に取り組み、微積分学の基本定理(微分と積分は逆の関係にある)を発見した。ニュートンは微積分学の基本定理を1666年に発見、1704年に発表し、ライプニッツは1684年に発表した。
時系列で見ると、ニュートンによる微分の発見と発表の間にライプニッツの発表が入っているため、どちらが微分を先に発見したのかで一悶着あったようである…

微分の概念は「接線」の概念から生まれたものだ。古代ギリシャの時代には既に接線の概念が存在していた。ユークリッドの幾何学を中心とした当時の数学において接線は、「円と1点のみを共有する直線」と定義された。しかし、接線についての本格的な議論は長い間なされず、時代は中世に。
数学において中世の最大の出来事の1つは、デカルトによる座標の発明だ。座標によって幾何学と代数学が結びついた。定規やコンパスで書かれていた直線や曲線は、座標や代数の概念を使ってより厳密かつ正確に示すことができるようになった。そして、接線は注目を集めるようになる。
デカルトやフェルマーなどの数学者が、曲線に接線を引く方法(「接線問題」)の解決を目指した。デカルトは、方程式を使って楕円上の1点における法線を導き、接線を求めた(1637年)。フェルマーは矩形の面積を題材に、無限小の概念(無限小数e)を取り入れた極値決定法を考え、その方法を利用して接線を引いた(1638年)。しかしどちらも、平面上のどんな曲線にも接線が引ける方法とは言えなかった。

接線問題を解決に導いたのはニュートンだ。ニュートンは、曲線や直線は小さな点が時間の経過とともに動いた軌跡である、という考えのもと、動点の進行方向である接線の傾きを計算する方法を考案した。無限小の時間を表すο(オミクロン)という記を取り入れ、動点がx軸方向に進む距離をxο、y軸方向に進む距離をyοとし、これらの値を曲線の式に代入して、最後にοを含む項を捨てる。この方法は「流率法」と呼ばれている。
一方ライプニッツは、今日の微分で使用されている、dxdyなどの記号を生み、曲線と曲線上のある点における接線と垂線、軸で作られる三角形の辺の比を、微小な三角形の辺の比と等しくなるようにする、という考えから傾きを求めた。また、定数の微分や加減乗除の公式を発表した。

ニュートンとライプニッツによって提示された微分は、「無限小」の概念が十分に論理付けされていなかったため、今日のような厳密さが欠けていた。しかし、微分の概念は、力学や天文学など数学を用いる諸科学分野で応用可能、かつ実用的であったため、複数の科学者によって普及していった。微分概念の普及や発展に貢献した数学者は、ベルヌーイやロピタル、オイラー、ラグランジュ、ラプラスなどである。

微分学が厳密性を伴うようになったのは、19世紀に入ってからだ。仏の数学者コーシーは、1821年に発表した「解析教程」で「極限」や「無限小」、「連続関数」の概念を定義し、解析学の基礎を刷新し、その後デーデキントやカントールによる実数論などを経て、今日の微分の基礎が完成した。

正直、上記した各数学者の考えた理論を完全に理解したとは言えないのだが、微分成立の歴史をざっくりまとめるとこんな感じになる。時の中で1つ1つ論理性に欠けるところをつぶし、普遍的に成り立つものへと発展していく過程が見て取れる。
今あるものは、たくさんの人の積み重ねによって出来上がったもの。数学に限った話ではない。他の学問だって、お店に売ってる商品だって、人間だってそう。