映画「東京タワー」で岡田くんが言っていた、―恋はするものじゃなく、落ちるものだ― というセリフをきまって思い出すときがある。それは、人から「ゆきはどんな人がいいの?」という、恋愛ネタで浮いた話をしないと高確率で飛んでくるお決まりの質問をされたときである。とりあえず、優しい人、背の高い人、など私が好ましいと感じる男性像に含まれる要素を挙げてみるわけだが、考えるだけ無駄のような気がしてならない。それは、自分が認識している自分の好みだけでは、好きになる人を全く予測できないからである。これまでの恋を振り返れば、私が好ましいと感じる男性像に含まれている要素を持たない人や、もしくは好ましくないと感じる男性像に含まれている要素を持つ人でも好きになったからである。なぜ好きになったのかは正直よく分からない。好きなところを考えてみても、後付け感がぬぐえない。そもそも、誰かを好きだと認識するとき、好きな要素の個数を数えたり、それぞれの要素の重みを計算したりしていない。つまり合理的には判断していないのである。その人と出会い、話したり一緒に何かしたりするうちに好きという感情がただ湧いてくるだけである。それは突然起こることもあるし、じんわり来ることもある。おそらく、その人自身とその人のいる状況なども含めた全体から受けとる何かが私と相互作用を起こし、私の好意が喚起されるのだろうが、いずれにしても自分の認識している自らの好みと意識的に照らし合わせたから好意が生まれたのではなく、直感的なものなのである。
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そもそも直感とは何だろうか。Gigerenzerは、gut feeling とintuitionの2種類を定義している。日本語では、前者が直感で後者が直観と訳されている。直感は“一瞬で意識にのぼる判断”を、直観は“基になっている理由が自分でもよく分からない判断”を意味するという。そしてこの直感/直観を構成するのは、Gigerenzerによると、“単純な経験則”(ヒューリスティック)と“脳の進化した能力”とのことである。ヒューリスティックとは、労力をかけずに迅速に対象を理解したり問題を解決したりするために私たちがしばしば利用する方略のことである。また、“脳の進化した能力”についてGigerenzerは、“自然が人間に素質を与え、長年の実践がそれを能力に変える”と言っている。つまり、ヒトが生きていく過程で獲得してきた状況に適応的な能力を意味していると考えてよいだろう。
ヒューリスティックの研究はKahnemanとTverskyによってこれまでに多くなされてきた。ヒューリスティックにはいくつかの種類がある。例えば利用可能性ヒューリスティックを用いると、ある特定の対象が目立っていたり、その対象について頻繁に耳にするなどしてヒトの記憶に強く記銘されたとき、ヒトはその対象が生じる頻度を実際以上に見積もってしまうこととなる。また、係留と調整のヒューリスティックを用いると、自分の行動や考えを基準にし(係留点の設定)、相手の行動や考えを過剰もしくは過小に判断したりすることとなる。これらヒューリスティックの多くは、合理的な判断を妨げるバイアス、自らをだますものという文脈で捉えられることが多い。しかしGigerenzerによれば、ヒューリスティック(“単純な経験則”)を彼のいうところの“脳の進化した能力”によって利用するとき、直感/直観は合理的判断をしたときと同等以上に当事者にとって好ましい結果をもたらすという。その例としてGigerenzerが挙げるのは、ある病院の小児科で起こった出来事である。その病院に入院してきた1歳9ヶ月の男の子に対し、ある医師は行き届いた育児環境を整えることがその子にとって重要と直感的に判断した。そして育児環境を管理したところ、男の子の体調は改善に向かっていった。しかし別の医師は、男の子の病因を突き止めることが体調改善に最も重要と判断し、専門チームを組んで男の子にあらゆる検査を実施した。すると病因が見つからなかったばかりか、男の子は死んでしまったという。このような例は他にもある。Gladwellは著書の中で、美術品(彫刻)鑑定の場面で起こった出来事を挙げている。高解像度の立体顕微鏡によって得られたデータから地質学者が希少な年代ものと判断した美術品に、美術史や彫刻の専門家たちは、言葉では言い表せない違和感や危機感を覚えたのだという。実際にその美術品は偽物であったそうだ。
これらのことから言えるのは、直感/直観は合理的判断を行ったときよりも当事者にとって望ましくない結果をもたらすこともあれば、同等以上の結果をもたらすこともあるということである。つまり、自らの未来に対して直感/直観がもたらす影響は決して少なくなく、合理的判断に重きを置き過ぎることはあまり適切ではないということだ。
ところで、直感/直観と合理的判断の結果が問題になるのは、直感/直観による結果と合理的判断による結果が異なるからである。同じであれば判断結果は1つに収束するので何も問題は起こらない。ではなぜ直感/直観と合理的判断の内容は異なってしまうのだろうか。
合理的な判断とはそもそも自らが意識して行うものである。私たちがそのような意識的な判断をするときに避けて通れないのは、論理や常識や、社会的望ましさによる影響である。私たちは、これらを意識せずとも受け入れているため、社会で適応的に生きられる。
一方直感/直観は、Gigerenzerの定義より、意識上でそう判断した理由をつかむことができず、瞬間的に生じるものであることから、無意識下における判断と考えられる。無意識下で起こっていることといえば、接近行動や回避行動を喚起する情動(原始的な感情)や、食欲や性欲、睡眠欲などの生命維持に関わる欲求、生体内で行われている自律的な身体活動、何度も繰り返し学習したことによって意識せずとも行うことができるようになったスキルなどである。これらは無意識下で行われているため、合理的判断時ほど論理や常識、社会的望ましさによる影響は極めて少ないと思われる。
以上をふまえて、先に出した私の好みのタイプ問題について再検討してみる。私は特定の人に対して直観的に好意を抱く傾向がある。その直観的な好意の正体は本能的なものでもあり、技能学習における成果のように獲得したスキルのようなものでもあると思う。本能的であるとした理由は、恋愛は性欲や快―不快などの原始的な感情と結びつきが深いものだからである。獲得したスキルのようなものであるとした理由は、これまでの人生における経験値があるからである。出会い、関わり、別れるというプロセスを恋愛関係に限らず多くの人と繰り返すことで獲得した、蓄積された膨大なデータは、自分の好む人を無意識的に判断するだけの判断力を持っていると考えられる(というか、そうであると信じたい)。一方、私が認識している自らの好みはいわば、合理的で意識的な判断である。自らの好みを意図せずとも、論理や常識、社会的な望ましさによって、多くの人が好ましいと感じる要素や他人が聞いても変だと感じないような要素へと、幾分同化させて認識してしまっている可能性もあるだろう。
直感/直観と合理的判断はどちらも人間が獲得した能力である。どちらによる判断も未来に何らかの影響を及ぼすことは必至であることが分かった今、2つの判断結果が異なるときにどちらを採用するかは大問題である。しかし結局、未来はいくら考えても正確には予測できない。であればつまるところ、自分の下した判断を受け入れ、楽しめる余裕をもつことがどう判断するかよりも大切であると感じる。
参考文献
Gigerenzer, G. (2007). Gut Feeling: The Intelligence of the Unconscious. Viking Adult. (ギーゲレンツァー, G. 小松淳子(訳) (2010). 「なぜ直感のほうが上手くいくのか? - 「無意識の知性」が決めている」インターシフト)
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Gladwell, M. (2005). blink: The Power of Thinking Without Thinking. Little, Brown and Company (グラッドウェル, M. 沢田博・阿部尚美(訳) (2006). 「第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」光文社)
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