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2016/09/23

「女性的なもの」についてごちゃごちゃ

※この文章は,2016年度前期「フランス語圏文化論A」の講義に提出した最終レポートを再編集したものである。

私は今期,「女性的なもの」について考えるという講義をとっていた。講義タイトルは「フランス語圏文化論」で先生は哲学畑の人,ということで,フランス革命前後から現代までのフランスにおいて,「女性的なもの」はどう考えられていたのか,を学んだり,女性について論じたり女性解放への道を示した文献などを読んでいた。
そもそもこの講義を取ろうと思ったきっかけは,私の中で内在化している「女性的なもの」と,それとは遠い姿の自分,その「女性的なもの」にあこがれる一方で,その「女性的なもの」を毛嫌いする自分など,自己と女性像の間でごちゃごちゃが長らく続いていたからである。

数年前から,「こじらせ女子」という言葉をメディアで見かけるようになったが,この言葉の意味を知ったとき,私は共感を覚えた。「こじらせ女子」とは,ライターの雨宮まみ氏のエッセイをきっかけに話題になった言葉で,自分が女であることをこじらせている女性を指す。こじらせているとはいわば,自己に内在するあるべき女性像と,女性としての現在の自己像,そして自分がなりたいと描く女性像の間で葛藤が生じている状態だといえる。なぜ葛藤が生じるか,それは,彼女たちの意識の中には常に,他者/社会が私をどう思うかという他者視点での認知が存在するからである。他者視点での認知は,他者が実際考えていることを反映している場合もあれば,社会に蔓延する固定観念にも近い女性像を反映している場合もあるだろう。しかしそれらは,自分の捉える自己像やなりたいと描く自己像と常に一致するとは限らない。けれど,他者に認められたい,社会での自分の居場所が欲しいという,人が普遍的に抱く欲求も満たしたい。そして,他者視点で自らに内在化している女性像と自己の欲求に折り合いをつけることができなくなる。その結果として,女性として生きることになんらかの困難を感じてしまうのである。

この,自己の中に内在化している女性像は,その女性像が現実離れしていたり,固定化されてしまっている場合,非常に厄介なものになる。偏見を承知のうえで,私が思春期の頃から感じてきた「女性的なもの」を形容すると,小さい,可愛い,きれい,初心,気が利く,優しい,明るい,家事,良妻賢母,ふんわりした,男性を立てる,色気,恥じらう,弱い,といった言葉でまとめることができる。

この私の中に内在化している女性像は,講義を受けて半ば衝撃を受けたのだが,18Cにルソーが著書「エミール」の描いた女性像と大して変わらない。「エミール」においてルソーは,男性と女性の間には,自然がもたらした性に関する差異があるとした。そしてその根幹にあるのは,男性は能動的で強く女性は受動的で弱い,というものである。その差異ゆえ,男女の関係は相互依存的であり,男性の強さに女性が惹かれる,女性は男性の気に入るように生まれつき,その女性の魅力を使って男性にさらなる力を呼び起こさせる,という関係が成り立っているとしている。さらにルソーは,「女性の教育はすべて男性に関連させて考えなければならない」,「男性の気に入り,役に立ち,男性から愛され,尊敬され,男性が幼いときには育て,大きくなれば世話をやき,助言をあたえ,なぐさめ,生活を楽しく快いものにしてやる」ことがあらゆる時代における女性の義務としている。ルソーにとって女性は,常に男性の存在ありきの存在だったようである。実際,このころのフランスで女性に期待されていたことは,妻であり母であることである。女性は,男性との関係や家庭という文脈の中で捉えられ,それが当然のこととして社会に受け入れられていたのである。

フランスでは,このような女性論が蔓延していた一方で,フランス革命期,オランプ・ドゥ・グージュが女性の権利をはっきりと要求する女性の権利宣言を,人権宣言に対応させた表現を使って1792年に発表した。人権宣言は,主に男性に主眼を置いたものだったから,彼女は,女性が男性と同等の権利を有していることを訴え,社会からその権利に基づいた扱いを受けることを求めたのである。そしてそれを公に宣言することで,女性たちに1人の個人として生きることを提唱した。オランプ・ドゥ・グージュ自身は革命政府と対立して処刑されてしまうが,その後も,女性解放の運動は根絶されることなく社会で生き続け,ルソーに通じる男性ありきでの女性と,オランプ・ドゥ・グージュらに通じる,一個人としての主体的な女性を大きな柱としつつも,「女性的なもの」は多様性を帯びて捉えられるようになった。例えば19世紀に書かれた小説には,修道院出身の主婦や自らの性で稼ぐ娼婦,洗濯や造花づくりを生業とする女性などが登場し,描かれている彼女たちの性格もさまざまである。さらに,20世紀後半には,ボーヴォワールが登場する。ボーヴォワールは著書『第二の性』で,ルソーの指摘した女性の本質を否定し,これまで長い間女性に見出されてきた「女性的なもの」は,さまざまな文化装置によって作られたものとした。このころになると,自由・平等を掲げる民主主義に重きを置く時代の風潮は,矛盾に陥るため,女性の要求を無視できなくなってくる。そして,職業の自由や平等,性差別禁止などの制度が成立していくのである。

ここまで述べてきたフランスの近代以降の女性に関する社会的な状況は,日本にも当てはまる部分が多かろう。制度の上では確かに男女平等の社会になったし,自由や多様性が認められる社会にもなった。しかし,小さいころから私の中で養われた「女性的なもの」は,多様な女性像にはほど遠く、「男性に人気のある女性」が持つ特徴のようなものだった。なぜならこれらは、私がこれまでに接してきた,クラスで男子から人気の女子,テレビで見る芸能人やモデル,幸せな恋愛をする少女漫画の主人公,恋愛教本などから得たものだからである。もちろん,偏ったものしか見ていないという指摘はもっともだし、そこから作り上げたイメージなんて偏っているに決まっているだろう,と言われればそれまでだが,このような特徴を持った女性が実際男性に好かれている,という話は,探せばこれでもかというくらいあるだろう。だから,男性に内在する女性に対する一般的なイメージや期待すること,一般的に好ましいと感じられる女性像は,制度上で女性解放がなされた今も,それこそルソーの挙げていた女性像と大きく変化していないのではないかと感じていた。

私は恋愛に興味があるにも関わらず、モテるタイプでは全然なかった。だから私は長い間,こういう女性になろうとしていた。男性に好かれること(恋愛という文脈で)が,女性の本能的なものなのか,文化装置によって作られた欲望なのかは分からないけれど,私はそれを欲していたのだ。私は,私の「女」を満たすのは,男性に受け入れられることだと強く感じていたし,今でも,どんなに高い能力を身につけたとしても,仕事で成功したとしても,それは男性にしかできないことではないかと感じている。私は思春期の頃から体型にコンプレックスがあったから,外見を男性好みにすることを諦める代わりに,内面を変えようともがいた。しかし次第に,内面を変えることは,外見を変えること以上に難しく苦しいことだと分かってきた。なぜなら,弱さや感情の揺れなど,私の中で見いだせる女性っぽいとされるような特性を素直に表現することにひどく抵抗があるし,気が利くとか,初心でいるとか,男性を立てるとかは,自然にできず,それをする度に違和感や煩わしさ,強い抵抗を感じてしまっていたからだ。それで自分の中でごちゃごちゃしていた状態が続いていたのだと思う。

しかしここ数年で私のこじらせは少し落ち着いてきたように思う。それは,現実を知ったからだろう。男性にモテないけれどモテたい私とか,一般ウケする女性にはなれそうにない私とか,余計なことを考えずに自分らしくいたい私とか,自己に関する葛藤を受け入れるよう努める一方で,自らの女性性と対峙した経験やそこから生まれた考え,葛藤,克服などを記した女性たちのエッセイや雑誌記事を読むようになった。本の中の女性たちの経験からは,自分の経験や葛藤との共通性が感じられた。彼女たちの声はとてもリアルで,温かく,心強かった。さらに,男性たちはどんな女性を望んでいるのかを実際に男性の友人たちに聞いた。そうすると,当たり前といえば当たり前だが,男性たちの望むリアルな女性像は私が思っていた以上に多様で,私の抱いていた「女性的なもの」だけでは収束できないことが分かった。私の抱いている「女性的なもの」になることは,それほど重要でないと思えた。私は,時間がかかっても,数が少なくても,作りこんでいない私を受け入れてくれる男性がいることを信じるほうがいいと思うようになっていった。そしてこれもまた当たり前の話だが,体型コンプレックスは言い訳に過ぎず克服が可能であることを悟った。
と並行して、好きで努力して身につけた能力を使って今仕事していること、そしてその仕事をしている自分が好きであることも大きい。このことは、自分に対する自信を高めることに貢献していると思う。今,「私は女としてダメなんじゃないか」という,自分に課していた劣等感のようなものは色あせてきている。ようやく私は,「私は女である」という事実を,最近になってだいぶ自然に扱えるようになった。

現代は,男女平等で個人が主体的に生きられる社会である。でも,そこで生きる個人は性からは逃れられない。自分は逃れたと思ったもしても、他者からの視点には性がつきまとう。それは、男性と女性にはれっきとした差異があるし,生殖という点で互いが不可欠だからだ。それでも主体的に生きるために、まずは自分に内在化されている性に関するイメージを疑うことから始めるのがいいのかもしれない。


参考資料
雨宮まみ(2015). 「女子をこじらせて」 幻冬舎文庫
千田有紀(2009). 「女性学/男性学 (ヒューマニティーズ)」 岩波書店
井上洋子,古賀邦子,富永桂子,星乃治彦,松田昌子(2012). 「ジェンダーの西洋史」 法律文化社
講義で配布された資料および授業内容