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2016/09/28

疾患自体がミステリー

ここ最近,「キルミー・ヒールミー」という韓国ドラマを見ている(http://killme-healme.jp/)。解離性同一性障害(多重人格)を患っている男性が,新米女性精神科医のもとで癒され,症状を改善させていくプロセスを描いた話だ。謎解き要素と恋愛要素も盛り込まれていて,ぐいぐい引き込まれる。そして解離性同一性障害の男性を演じるチソン,イケメンなうえに演じ分けがすばらしい。にしても解離性同一性障害,謎である。ドラマの内容よりも疾患自体がミステリーだ。

ドラマを見ててふと感じた一つ目の謎は,交代人格の名前ってどうやって決まったのだろう,ということだ。私には名前がある。でも私の名前は私がつけたものではなく,親が私の意思とは関係なく勝手につけたもの。赤ちゃんの頃からその名前で呼ばれ続け,いつの間にかその名前が私の名前だと認識するようになり,私は私の名前の人物になる。多くの人がこのようなプロセスをたどっているはずだ。では,多重人格に現れる交代人格たちはどうなんだろうか。交代人格は主人格の脳の中で生み出される人格で,主人格の一生のうちのどのタイミングで出てくるかも,どのくらいの頻度で出現するかもバラバラ。だからほかの誰かが名付けたとは考えにくい。さらに,主人格が交代人格の存在を把握しているとも限らないから,主人格が名付けたとも考えにくい。とすると,交代人格が自分で好きな名前を名付けたんだろうか?となる。え,でも名前付けるにも言葉知らなきゃいけないし,名前として使われている名前をつけているから,名前に関する知識があるんだろうか?

そう考えると次の謎が生まれてくる。交代人格と主人格はどのくらい記憶を共有しているのだろう。ドラマの中で交代人格たちは,言葉を話したり車を運転したり,絵を描いたりできる。交代人格たちがそれらの能力を,赤ちゃんがゼロから習得するように習得したとは考えにくいから,多分主人格が持っている手続き記憶を共有しているのだと思う。しかし,ビリー・ミリガン(実在した多重人格者)のように,主人格が習ったことのない言語を使える交代人格もいたりするので,手続き記憶だからといって共有されるとは限らないのだろう。個人の経験(エピソード記憶)に関しても,共有していることとしていないことがあるようだ。ドラマでは,交代人格たちがしていたことを主人格はまったく覚えていないものとして描いていた。そして交代人格たちは,自分がしたことを覚えている。ということは,記憶としては脳のどこかに存在していて,主人格はそれを引っ張り出せないということになるのだろう。でも逆に,交代人格は主人格やほかの交代人格についてよく知っていたりする。「24人のビリー・ミリガン」にもそんな話があった。ということは,どのくらいの記憶を脳から引っ張り出して意識化できるかは,それぞれの人格で違うということになる。じゃあその違いってどうして生まれるんだろう?

さらに,もう一つ。ドラマで登場する交代人格たちは,自分が交代人格であることを認識している。え,それってどういう感覚?なんで交代人格だって分かってるの?というか,どういうプロセスを経て主人格から分離して交代人格へと確立するんだ?

…本当に謎だらけ。


参考資料
記憶の分類(https://bit.ly/3uTmvud) 
ダニエル・キイス「24人のビリー・ミリガン」

2016/09/27

プレゼント選び

久しぶりに会う友人にプレゼントを買いたいなと思った。何を買うのがいいだろう。プレゼントするなら,やっぱり相手に喜んでほしい。でも一体,どういうこと/ものに喜びを感じてくれるんだろう。その友人とご飯を食べに行ったり遊んだりしたときのことを思い出して考えてみた。…答えがまとまらない。そして,「私,この人のこと実はよく知らないのか!」とはたと気づき,相手のことをどれだけ知ってるかでプレゼント選びの難易度って変わるなと思った。

プレゼント選びはお土産も含め,これまでに何度もしたことがある。どんな相手にあげるにしてもいつも大なり小なり悩むのだが,どうにも困ったときは食品を選択肢にすることで対処してきた。特に菓子はそれほど好き嫌いが分かれないし,消費されたらあとに残らない。何をあげたらいいか迷ったときの無難な選択だと思う。でも,食品や菓子では何かもの足りない。ちょっとしたお土産とか,付き合いでのプレゼントにはぴったりだと思うけれど,あげる相手やあげる機会によっては,身に着けるものや使えるものなど,食品以外で考えたい。するとプレゼント選び,なんと難しくなることか。

プレゼント選びを難しくさせているのは,相手が喜んでくれなかったらどうしよう…ということを考えるからなんだと思う。なんでそう考えるのか。もらったプレゼントがどうにも自分の好みとマッチしない,使えないということは私も経験したことがあるが,そのときの「どうしよう,これ…」感は半端ない。たいていは捨てることもできないまま引き出しの奥とかにしまわれ,忘れたころになんかのきっかけで出てくる,みたいな末路をたどる。私があげたプレゼントにそんな末路をたどってほしくないから?とか,相手に残念な感じを感じてほしくないから?とか,それによって自分の評価が下がるの嫌だから?とか,もんもんとした結果,相手が喜んでくれなかったらどうしよう,ということは考えても仕方ないなと思うに至った。どんなに相手のことを思い考えたって,私が思うように相手が動くわけではない。だったら,相手のことをできるだけ知る→その情報から相手が喜ぶ確率の高いものを選択する→プレゼントする,までのプロセスに集中,が最善策。そしてもし相手がプレゼントを喜んでくれたら,「やったー」,そうでもなかったら,相手の好みに関する情報としてストック,するとしよう。

2016/09/26

経験や感覚で掴んでいることを言語化すること

自分が経験や感覚で掴んでいることを言語化するのが難しい,最近仕事をしているとよく感じることだ。

私は個別指導塾で中学・高校生に英語を教えているのだが,担当しているある高3生の生徒は,英語の語句整序問題(提示された語句を並べて正しい英文を作る)ができない。自分でも苦手だということを把握していて,困っている様子。彼はそもそも英語が得意ではなく,問題形式によらず解けない問題がまだ多いのだが,それでもなんとか語句整序問題解けるようにならないものか,と解き方のコツみたいなのを見つけようと試みた。

まずは彼に,語句整序問題をいつもどう解いているか聞いてみた。すると,「提示された語句を見て,熟語になったり,つながりそうなものをまずつなげる。あとは適当にならべる。」との答え。(て,適当に…!?)思わず「おい!」とツッコミたくなるが,やり方が分からなかったら適当に並べるしかないか…,と思い直し,私自身,語句整序問題をいつもどうやって解いているんだっけ?と振り返ってみた。ん!?私の場合,提示された語をじっと見てるといつのまにか並び変わってちゃんとした文作れてることが多くないか!?…振り返った結果そう思ったが,それじゃ何のアドバイスにもならない。ということで,実際に問題を解きながら自分が何をとう考えて,文を作っているのかモニタリングしてみた。

モニタリングした結果,いくつかコツみたいなのが見えてきた。まず彼が話していた,語句同士でつながりそうなものを見つける,というやり方。これは私も実際にやることがあった。熟語の知識があることや前置詞の使い方などを知っていることが前提だが,決して使えない方法ではない。デメリットがあるとすれば,語句同士を正解とは別のつなげ方をしてしまい,それにとらわれて他の語も並べられなくなる,ということくらいか。ほかには,主語と動詞を把握することが挙げられる。英語の文は命令文などの一部を除き,必ず主語と動詞があるから,それを見つけてセットにしておけばいい。日本語文があれば,それをよく読んで見つければいい。日本語文もなく,主語がどれか見分けづらいときには,動詞の形を見て主語を見つける方法もある。あとは,これは日本語文がないと厳しいが,説明されるものを先に持ってきて,説明するための単語をあとにくっつけるということ。関係代名詞を考えると分かりやすいのだが,英語はまず核心となる単語や文を発して,あとに説明を加えてより詳しく説明したり,話を広げたりしていくことが多い。そういえば,英語圏の住所の書き方もこんな感じじゃないか。日本とは逆で,彼らは番地から,町,州やエリア,国へと広げていく。

早速この話を彼に伝えてみた。が,しかし,語句整序問題ができるようになった様子はない…。何が違うんだろう?当たり前だが私は彼よりも英語を勉強している時間が多い。だから,知っている単語の数,熟語の数が多いし,読んだことのある英文の数も断然多い。それで,語句が正しく並べられていない英文を読むとなんとなく違和感を感じるし,こういう意味の句はこの場所には来ないとか,この語がこの語とくっつくことはないとか,日本語でこう来たら英語ではこう書けるとか,経験的に,感覚的に掴んでいたりする。でもそういうのは,どう言葉にして伝えたらいいのだろう。もちろん参考書などで調べて,ルールとして明文化されているものはそれを使って説明するのだけど,見つからないものは,「そういうもんなんだよね…」としか言えず,なんか心苦しい。

「もっと勉強して!」で片付けたくなく,どうしたらいいか模索中である。

2016/09/25

気づけば4年,オンライン英会話

オンライン英会話を始めてから,今月で4年が経った。オンライン英会話始めたのそういえば今頃だったなーと思って登録日を調べたら,2012年の9月17日。2~3ヵ月間休会していたたことが一度あったけれど,それ以外は1日1回ペースでゆるく続けている。もはや生活の一部だ。

オンライン英会話は楽しい。長年続けて,何度も予約している講師と話すのは,勉強というより友達とのおしゃべり感覚になっている。4年前の始めたころは毎回緊張しっぱなしで,相手の言っていることが聞き取れない,聞き取れても返す言葉が浮かんでこない,言いたいことがあっても英語でどうどう言ったらいいか分からない,口ごもったり焦ってとんちんかんなことを言ってしまう,という感じでやるたびにどっと疲れ,みじめな気持ちにもなっていたが,さすがに回数を重ねれば慣れてくるもので。次第に,とりあえずなんでもいいから思ったこと伝えようという開き直り(9割)と,焦らずゆっくり考えてしゃべろうという自己コントロール(余裕があるときの1割)がむくむくと湧き上がり,結果,英語を話すのにほとんど緊張しなくなったし,なじみの講師にはプライベートをダダ漏らし状態である。

4年間でプライベートな話をたくさんしていたのは,同年代の女性講師。今彼女は講師をやめてしまっているが,彼女とのレッスンは,いつもお互いの日常の話だった。彼女は,最近気になる人がいて・・・とか,アートの勉強をしたいとか,洋服屋を始めたとか話し出し,私は私で,また学校行こうと思ってるとか,友達との間に起こったごたごたとか,仕事の愚痴を話しては,互いに共感やアドバイスを得たりしていた。世の中のイケメンの話で盛り上がる女性講師もいる。韓国の俳優とか,スポーツ選手の○○がかっこいいに始まり,こういう人がタイプでとか,こういう人がモテるとか,互いの国の恋愛事情を話している。一方で,私が大学で学んでいることに興味を持つ講師もいる。講義でこんな話を聞いたとか,心理学の理論とか,自分の研究について説明したりすると,それについて質問がとんで来る。自分のしていることに興味を持ってくれるのはやっぱりうれしい。

こんな感じで4年続けてきて思うことは,レッスンを自分でコントロールしないとなー,ということだ。オンライン英会話の環境に慣れすぎてしまった。友達感覚で話せる心地よさはいいけれど,英語話せた!楽しかった!で終わっちゃっては,お金を払うことにあまり意味がなくなる。英語を使うことに抵抗がなくなった今,講師の使う表現や使っているニュースサイトの単語,表現をもっと吸収し,自分の表現にしていきたい。

ちなみに,私が登録しているオンライン英会話は,キーアイというところ(http://www.key-eye.net/)。英語で話す機会を欲していた当時,いくつかのオンライン英会話サイトを比較・検討した結果,ここに行き着いた。決め手は24時間開講制と1回あたりの料金の安さ。24時間空いていれば,レッスンの予定を組みやすい。自分の予定や生活パターンを無理に調整することなくレッスンを予約できるし,生徒の予約が分散するから,土日や朝,夜など混んでいる時間帯にほかの生徒とバッティングして,レッスンが予約できないなんてことも避けられる。だから,定額制でも支払ったお金が無駄になるリスクは少ない。料金はいくつかの定額プランがある。プランの改定があって,始めたころより若干料金が上がったが,許容範囲なので続けている。どの講師に予約を入れるかで異なるのだが,現在の私のレッスン単価は200円(25分間)だ。レッスンの内容は受講者次第。キーアイがいくつかフリーのテキストを持っているのでそれを使って進めることもできるし,ただ単に会話するだけでもいいし,資格試験の対策もやってくれるらしい。私は大体,英語メディアのネット上の記事を音読し,それについて講師と話すという感じで進めている。分からない単語の発音や意味は聞けば教えてくれるし,自分の発した英語にミスがあれば,指摘し,ベターな表現を教えてくれる。

2016/09/24

モーツァルト効果

音楽を事前に聴くと,その後の作業によい影響が及ぶことをモーツァルト効果というらしい。発端はRauscherら(1993)の論文に発表された研究。被験者に,モーツァルトの曲「2台のピアノのためのソナタ」を10分間聴かせたら,リラックス効果のある音を聞かせたグループや何も聞かせなかったグループよりも,その後に解かせた空間的推論課題で好成績を収めたことから,モーツァルト効果と呼ばれるようになったのだとか。ちなみにこの効果は,音楽を聴いて10-15分で消失するとされている。音楽を聴くことが作業パフォーマンスにどんな影響を与えるかの研究はその後もされていて,辛島ら(2012)によれば,作業者がやる気が向上すると期待できる音楽を聴く→作業者のポジティブ感情UP→作業効率や精度が向上というデータが出ており,山下ら(2016)の研究では,作業前に音楽を聴くことが,その後の作業を楽しい,面白い,作業時間を短いと感じさせ,その後の課題成績が上がることを示している。被験者に聴かせる音楽は,辛島ら(2012)では,この曲を聴くとやる気が向上するとして被験者が選曲した曲,山下ら(2016)では,作業遂行に適した曲として被験者が選曲した曲と,実験者が選曲したクラシックの曲とインストゥルメンタルの曲だった。聴かせる時間はどちらも15分間である。

たしかに音楽を聴く→ポジティブ感情UP,というのはよく経験する。例えばテレビを見ていて曲が流れる。アップテンポの曲が流れるとなんとなく楽しい気分になるし,90年代J-POPが流れればカラオケに行きたくなる。最近週1で行っているジムでは,常にJ-POPか洋ROCKが流れていて,それを聞いているとなんかやる気になってくる。でも逆に,音楽を聴く→ネガティブ感情UPというのは,あまり聞いたことがない。曲を聴いていたら悲しい思い出や辛い思い出を思い出しちゃってとか,歌の歌詞が悲しいとかで気分が沈むというのはもちろんあるだろうが,曲を聴いただけでなんとなくポジティブな気分になるように,曲を聴いているだけでなんとなくネガティブな気分になったことはこれまでになかったように思う。高校生のとき,失恋してもっと泣きたいと思って,聴いたら悲しくなりそうな曲をいくつか集めてリピートしていたことがあったが,思った以上に気分は変化せず,泣けなかったことを思い出した・・・。私の感覚では,悲しい旋律の曲を聴いてもたいてい気分は現状維持,もしくはほんの少しネガティブに振れるか?くらいだ。

ところで,ポジティブ感情UPにより,その後の作業によい影響を与えることが辛島ら(2012)や山下ら(2016)の論文で実証されているが,感情以外に,集中力が高まった結果作業パフォーマンスが高まったというのも考えられるんではないだろうか。実験室という日常場面よりも少し緊張する環境で意識的に曲を15分聴くわけだから,音に集中していると考えるのが自然である。で,その状態で,つまり作業にかかる前の段階で集中を喚起された状態で作業を始められるので,それが作業への準備/助走のような役割を果たし,作業への取りかかりもスムーズになり,パフォーマンス自体もが上がるんではないだろうか。実証しないことには憶測にすぎないが。


参考文献
Frances H. Rauscher, Gorden L. Shaw, Katherine N. Ky 「music and spatial task performance」 (https://goo.gl/p13t4C
辛島光彦,西口宏美 「単純繰り返し作業における作業前音楽聴取の有効性に関する研究ー転記作業と心的回転作業を例にー」 (https://goo.gl/IUXmQG
山下利之,渡辺美帆,小俣世菜,大田安彦,北澤伸二,鈴木優太 「BGMの知的作業に対する心理的効果」 (https://goo.gl/fL2hmL

2016/09/23

「女性的なもの」についてごちゃごちゃ

※この文章は,2016年度前期「フランス語圏文化論A」の講義に提出した最終レポートを再編集したものである。

私は今期,「女性的なもの」について考えるという講義をとっていた。講義タイトルは「フランス語圏文化論」で先生は哲学畑の人,ということで,フランス革命前後から現代までのフランスにおいて,「女性的なもの」はどう考えられていたのか,を学んだり,女性について論じたり女性解放への道を示した文献などを読んでいた。
そもそもこの講義を取ろうと思ったきっかけは,私の中で内在化している「女性的なもの」と,それとは遠い姿の自分,その「女性的なもの」にあこがれる一方で,その「女性的なもの」を毛嫌いする自分など,自己と女性像の間でごちゃごちゃが長らく続いていたからである。

数年前から,「こじらせ女子」という言葉をメディアで見かけるようになったが,この言葉の意味を知ったとき,私は共感を覚えた。「こじらせ女子」とは,ライターの雨宮まみ氏のエッセイをきっかけに話題になった言葉で,自分が女であることをこじらせている女性を指す。こじらせているとはいわば,自己に内在するあるべき女性像と,女性としての現在の自己像,そして自分がなりたいと描く女性像の間で葛藤が生じている状態だといえる。なぜ葛藤が生じるか,それは,彼女たちの意識の中には常に,他者/社会が私をどう思うかという他者視点での認知が存在するからである。他者視点での認知は,他者が実際考えていることを反映している場合もあれば,社会に蔓延する固定観念にも近い女性像を反映している場合もあるだろう。しかしそれらは,自分の捉える自己像やなりたいと描く自己像と常に一致するとは限らない。けれど,他者に認められたい,社会での自分の居場所が欲しいという,人が普遍的に抱く欲求も満たしたい。そして,他者視点で自らに内在化している女性像と自己の欲求に折り合いをつけることができなくなる。その結果として,女性として生きることになんらかの困難を感じてしまうのである。

この,自己の中に内在化している女性像は,その女性像が現実離れしていたり,固定化されてしまっている場合,非常に厄介なものになる。偏見を承知のうえで,私が思春期の頃から感じてきた「女性的なもの」を形容すると,小さい,可愛い,きれい,初心,気が利く,優しい,明るい,家事,良妻賢母,ふんわりした,男性を立てる,色気,恥じらう,弱い,といった言葉でまとめることができる。

この私の中に内在化している女性像は,講義を受けて半ば衝撃を受けたのだが,18Cにルソーが著書「エミール」の描いた女性像と大して変わらない。「エミール」においてルソーは,男性と女性の間には,自然がもたらした性に関する差異があるとした。そしてその根幹にあるのは,男性は能動的で強く女性は受動的で弱い,というものである。その差異ゆえ,男女の関係は相互依存的であり,男性の強さに女性が惹かれる,女性は男性の気に入るように生まれつき,その女性の魅力を使って男性にさらなる力を呼び起こさせる,という関係が成り立っているとしている。さらにルソーは,「女性の教育はすべて男性に関連させて考えなければならない」,「男性の気に入り,役に立ち,男性から愛され,尊敬され,男性が幼いときには育て,大きくなれば世話をやき,助言をあたえ,なぐさめ,生活を楽しく快いものにしてやる」ことがあらゆる時代における女性の義務としている。ルソーにとって女性は,常に男性の存在ありきの存在だったようである。実際,このころのフランスで女性に期待されていたことは,妻であり母であることである。女性は,男性との関係や家庭という文脈の中で捉えられ,それが当然のこととして社会に受け入れられていたのである。

フランスでは,このような女性論が蔓延していた一方で,フランス革命期,オランプ・ドゥ・グージュが女性の権利をはっきりと要求する女性の権利宣言を,人権宣言に対応させた表現を使って1792年に発表した。人権宣言は,主に男性に主眼を置いたものだったから,彼女は,女性が男性と同等の権利を有していることを訴え,社会からその権利に基づいた扱いを受けることを求めたのである。そしてそれを公に宣言することで,女性たちに1人の個人として生きることを提唱した。オランプ・ドゥ・グージュ自身は革命政府と対立して処刑されてしまうが,その後も,女性解放の運動は根絶されることなく社会で生き続け,ルソーに通じる男性ありきでの女性と,オランプ・ドゥ・グージュらに通じる,一個人としての主体的な女性を大きな柱としつつも,「女性的なもの」は多様性を帯びて捉えられるようになった。例えば19世紀に書かれた小説には,修道院出身の主婦や自らの性で稼ぐ娼婦,洗濯や造花づくりを生業とする女性などが登場し,描かれている彼女たちの性格もさまざまである。さらに,20世紀後半には,ボーヴォワールが登場する。ボーヴォワールは著書『第二の性』で,ルソーの指摘した女性の本質を否定し,これまで長い間女性に見出されてきた「女性的なもの」は,さまざまな文化装置によって作られたものとした。このころになると,自由・平等を掲げる民主主義に重きを置く時代の風潮は,矛盾に陥るため,女性の要求を無視できなくなってくる。そして,職業の自由や平等,性差別禁止などの制度が成立していくのである。

ここまで述べてきたフランスの近代以降の女性に関する社会的な状況は,日本にも当てはまる部分が多かろう。制度の上では確かに男女平等の社会になったし,自由や多様性が認められる社会にもなった。しかし,小さいころから私の中で養われた「女性的なもの」は,多様な女性像にはほど遠く、「男性に人気のある女性」が持つ特徴のようなものだった。なぜならこれらは、私がこれまでに接してきた,クラスで男子から人気の女子,テレビで見る芸能人やモデル,幸せな恋愛をする少女漫画の主人公,恋愛教本などから得たものだからである。もちろん,偏ったものしか見ていないという指摘はもっともだし、そこから作り上げたイメージなんて偏っているに決まっているだろう,と言われればそれまでだが,このような特徴を持った女性が実際男性に好かれている,という話は,探せばこれでもかというくらいあるだろう。だから,男性に内在する女性に対する一般的なイメージや期待すること,一般的に好ましいと感じられる女性像は,制度上で女性解放がなされた今も,それこそルソーの挙げていた女性像と大きく変化していないのではないかと感じていた。

私は恋愛に興味があるにも関わらず、モテるタイプでは全然なかった。だから私は長い間,こういう女性になろうとしていた。男性に好かれること(恋愛という文脈で)が,女性の本能的なものなのか,文化装置によって作られた欲望なのかは分からないけれど,私はそれを欲していたのだ。私は,私の「女」を満たすのは,男性に受け入れられることだと強く感じていたし,今でも,どんなに高い能力を身につけたとしても,仕事で成功したとしても,それは男性にしかできないことではないかと感じている。私は思春期の頃から体型にコンプレックスがあったから,外見を男性好みにすることを諦める代わりに,内面を変えようともがいた。しかし次第に,内面を変えることは,外見を変えること以上に難しく苦しいことだと分かってきた。なぜなら,弱さや感情の揺れなど,私の中で見いだせる女性っぽいとされるような特性を素直に表現することにひどく抵抗があるし,気が利くとか,初心でいるとか,男性を立てるとかは,自然にできず,それをする度に違和感や煩わしさ,強い抵抗を感じてしまっていたからだ。それで自分の中でごちゃごちゃしていた状態が続いていたのだと思う。

しかしここ数年で私のこじらせは少し落ち着いてきたように思う。それは,現実を知ったからだろう。男性にモテないけれどモテたい私とか,一般ウケする女性にはなれそうにない私とか,余計なことを考えずに自分らしくいたい私とか,自己に関する葛藤を受け入れるよう努める一方で,自らの女性性と対峙した経験やそこから生まれた考え,葛藤,克服などを記した女性たちのエッセイや雑誌記事を読むようになった。本の中の女性たちの経験からは,自分の経験や葛藤との共通性が感じられた。彼女たちの声はとてもリアルで,温かく,心強かった。さらに,男性たちはどんな女性を望んでいるのかを実際に男性の友人たちに聞いた。そうすると,当たり前といえば当たり前だが,男性たちの望むリアルな女性像は私が思っていた以上に多様で,私の抱いていた「女性的なもの」だけでは収束できないことが分かった。私の抱いている「女性的なもの」になることは,それほど重要でないと思えた。私は,時間がかかっても,数が少なくても,作りこんでいない私を受け入れてくれる男性がいることを信じるほうがいいと思うようになっていった。そしてこれもまた当たり前の話だが,体型コンプレックスは言い訳に過ぎず克服が可能であることを悟った。
と並行して、好きで努力して身につけた能力を使って今仕事していること、そしてその仕事をしている自分が好きであることも大きい。このことは、自分に対する自信を高めることに貢献していると思う。今,「私は女としてダメなんじゃないか」という,自分に課していた劣等感のようなものは色あせてきている。ようやく私は,「私は女である」という事実を,最近になってだいぶ自然に扱えるようになった。

現代は,男女平等で個人が主体的に生きられる社会である。でも,そこで生きる個人は性からは逃れられない。自分は逃れたと思ったもしても、他者からの視点には性がつきまとう。それは、男性と女性にはれっきとした差異があるし,生殖という点で互いが不可欠だからだ。それでも主体的に生きるために、まずは自分に内在化されている性に関するイメージを疑うことから始めるのがいいのかもしれない。


参考資料
雨宮まみ(2015). 「女子をこじらせて」 幻冬舎文庫
千田有紀(2009). 「女性学/男性学 (ヒューマニティーズ)」 岩波書店
井上洋子,古賀邦子,富永桂子,星乃治彦,松田昌子(2012). 「ジェンダーの西洋史」 法律文化社
講義で配布された資料および授業内容