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2017/01/21

日本酒ゴクゴク

今日は友人と日本酒を飲んできた。このお店,日本酒とビール(多分1種類)しか置いていなくて,3240円ぽっきりで,店に置いてある日本酒(50~60種類くらい)をいくらでも飲んでいいですよ,というスタンスでやっている。何時間いてもOKだ。持ち込みもOKなので,ほとんどの客がつまみを持ってやってくる。ユニークなお店だねーということで,行ってみたのだ。

友人に連れられてお店の前まで来てちょっとびっくりしたのは,お店にベランダがあったことである。オフィス用のテナントビル?のようなところの2階でお店を開いていて,地上に看板がはっきり出ていないから,ベランダの手すりのところにかけてある看板を見逃すと完全にどこだか分からない。さらに,お店に入ってみてまたちょっとびっくり。企業の会社などでよく使う茶色いテーブル数台と,これまたオフィス通販で買えそうなスツールで,店内に3つの島が作られているだけであった。で,お店の端っこには日本酒がたくさん入った冷蔵庫と,食べ物を持ち込んだ人のための調味料が少々置いてある,といった感じ。トイレも期待を裏切らないくらいシンプルで,これまた中小企業のオフィスのトイレ?的な感じであった。こりゃ新感覚なお店だな,といった感じであった。

日本酒のバイキング,ということで結局10種類弱くらいは飲んだだろうか。友人とおしゃべりしつつ,隣に座っていたおひとりさまのお客さんからいただいたレーズンパンとピーナツをつまみにしながら,4時間弱くらい飲んでいた。日本酒に全く詳しくないゆえ,お店の人のおすすめとか,友人のおすすめとか,信長の本拠地滋賀県のお酒とか,目にしたことのない北海道のお酒とかを適当についで飲む。それぞれの味が違うということは分かるのだが,味を言葉でうまく表現することができず,そのためだろうか,記憶にとどめておくこともできず,結局,何のお酒がどうで・・・などの次回日本酒を飲見に行くときに参考になりそうな情報を全くと言っていいほど得られないままお店を後にした(これはいつものことである)。

にしても4時間日本酒を飲んでいたって,我ながらびっくりである。日本酒オンリー(水は飲んでいたが)でそこまで飲むのは初めてかもしれない。いくら飲んでも顔色が変わらないので,周りにいる人たちからは平気そうに見られるのだが,自分の中では2杯目が終わったくらいから酔いを感じ始めていた。酔いが進むと,私はいつも以上に自分のことをよく話し,相手にズケズケ質問をするようになる。そして声がいつも以上に大きくなる。4時間友人との話が全く途切れなかったのもけっこうすごい。最近サシ飲みでこんなに話せた人いただろうか。なにやら今夜は,シラフのときより頭の回転が早かった気がしている。

以前このブログで,家で晩酌をするようになったと書いたことがあったが,最近はお酒を飲むことが以前よりも楽しく,心地よくなっている。それだけ私も大人になったということだろうか。

今夜は楽しい時間であった。

2017/01/20

手首が痛い

今年に入りお部屋大改造をしたときから,左手首に痛みを感じるようになった。原因をはっきりとは覚えていないのだが,多分,本棚に入っていた本を別の本棚に移し替えるときにやってしまったような気がしている。少し経てば治るかなと思い,特に何もせず放置していたのだが,いっこうに治る気配がない。左手を使うたびに違和感がある。なのでネットで手首の痛みについて少し調べてみた。

ネットでググると健康ネタは山ほど出てくる。だが,どういう人が書いているか分からない記事や,内容が薄すぎて参考にならない記事も多く,いくつかのサイトをはしごしないと情報を得た感,納得感を得られない。そういうわけでいくつかのサイトに訪れ,せっせと情報を集めてみた。その結果,今まで知らなかった情報を2つ手に入れた。1つは,手首の痛みは治るまでに数週間~数ヶ月かかることもあるということ。そんなにかかるとは思ってもいなかった。どうやら私は軽く考えていたらしい。もう1つは,腱鞘の場所。腱鞘炎という言葉をよく聞くが,手が痛くなるということ以外全く知らなかった。腱鞘ってそんなところにあったんですね・・・という感じである。勉強になった。

病気や怪我についての情報なんて,自分や家族,友人などが実際に被らない限り,改まって調べたりしないものである。で,いざ調べたいと思ったときにネット上で誰かが情報を提供してくれているのはありがたい。いくつかの情報は,病院に行くべきか否かを判断する際にも参考になるし,自分の体をより理解するのに利用できる。もちろん情報を選別する必要はあるが,それを差し引いても便利なものだ。

とりあえず睡眠時だけでも湿布を貼って,あまり左手首を使わないようにしようと思っている。そのために手首用サポーターも用意した。何の問題もなく普段普通に機能してくれているものが機能してくれなくなるというのは,相当ストレスだ。早く治るといいのだが。

2017/01/19

あるものでどうにかしよう

今,哲学がらみの講義で提出するレポートを書いている。私は基本的にレポートを書くのが遅い。しかも今回は哲学がらみときている。講義の半分を理解できたかどうかすら怪しいのに,レポートを書かなければならないなんて酷である。しかし,他にもやることが多々あるためこのレポートにそんなに時間をかけたくない。どうにか早く終わらせられないかと考え思い至ったことは,「今あるものでどうにかしよう」ということだった。

私がレポートを書くのが遅い理由はいくつかある。まず,テーマが決まらないこと。先生が具体的なテーマを指摘してくれると非常に書きやすいのだが,「この授業で学んだことに関係することならなんでも」などと言われると困り果てるのがデフォルトだ。大抵は自分が日常的に体験していることの中で,授業で学んだことと関係ありそうなことから話をふくらましていくという方向性でいくのだが,ぱっとすぐに思いつくかというとそうでもなく,そこまでいくのに時間がかかる。思いついても書きにくそうだったら別のアイディアが出るまで待つので,また時間がかかる。テーマが決まった後は,関連する文献を集めることを始めるのだが,これでまた時間をくう。検索の仕方が悪いのか,はたまた私の疑問に答えてくれる文献が私が届く範囲にないからなのかは分からない。とにかく数冊集めようにもなかなか集まらない。しかし,テーマに即したレポートに使えそうな文献というのは探そうと思うとキリがないことが分かってきた。で,さあ書こうとなると,また書くのに時間がかかる。タイピングは決して遅くない。しかし,意見をまとめたり,書きながら文の構成を考えたり,適切は引用を入れ込んだりするのはけっこう骨の折れることである。結局一本レポートを書くのに,準備期間まで含めたら相当時間を費やしていることが分かる。

だがしかし,時間がないのである。だから今回は,上で述べたとおりになどやってられない。お題は困ったことに,「授業で学んだことならなんでも」のざっくり系。だが幸い,文献が最低一冊はある。この講義は一冊の本をもとに行われていたのである。なので今回は,この本を読んで直近でちょっと引っかかったところ(最初の頃に学んだことは記憶がうすれているゆえ)をテーマとすることにした。まずは,そのテーマに関する本文中の記述をまとめる。さらに,講義で学んだテーマに関する解釈と,自分の意見をまとめる。で,最後に必要があればそのテーマに関する文献(ネットに落ちている論文を少々にとどめておくつもり)に書いてあることを組み込む,という順で進めている。つまりは,読んだ本と参加した講義の内容から自分の意見をひねり出せ,今あるもので勝負せよということだ。本が難解,講義内容も難解,という状況だが仕方がない。理解できたところを中心にまとめ,理解できなかったところは触れないでおくか,なぜ理解できない買ったのかを書くことにしよう。どんなレポートになるのか心配だが,とにかくまとめる次第である。今日は,書き終わらせてから寝ることにする。

2017/01/18

ヘアカットにて

髪を切りに行ってきた。大体二ヶ月半に一回くらいの定期カット。ここ数年ずっと同じ人に切ってもらっていることもあり,緊張しない心地よい時間だ。

美容院に行くと,ヘアメイクの雑誌やファッション雑誌,女性向け情報誌がたくさんおいてある。私はたいてい,切ってもらう前の待ち時間にヘアメイクの雑誌に目を通して,新しい髪型の候補を探してみるのだが,結局いつも今の髪型(ワンレンボブ)に落ち着いている。今の髪型以上に一目惚れするような髪型が載っていないし,今の髪型はたいした手入れをせずともまとまるのでとても楽なのだ。雑誌に載っているヘアスタイルは,アレンジしないとそういうふうにはならないから私には手に負えない。そういうわけで,5~6年くらい今のヘアスタイルでいる。

美容室ではいつも主に,3人の人とお話する。受付の人,髪を濡らしてくれる人,髪を切ってくれる人だ。髪を濡らしてくれる人はたいてい,入社したての20代前半?くらいの人。私の髪を扱いながら一生懸命話をしている雰囲気が伝わってくる。自分と同世代ではない知らない人相手の会話。さぞ気を遣うことだろう。その日の天気の話や,髪のケアの話,その人の最近の出来事についてや,最近話題になっていることなど,人によっていろいろな話を振ってくる。明るい雰囲気で話を始め,こちらも相槌をうち,とやりとりを何度か続けて髪を切ってくれる人にバトンタッチである。

髪を切ってくれる人は,私と同世代の女性だ。もう何年も切ってもらっていることもあって,当たり障りのない距離感の関係である。友人や家族のような近さもなく,かといって見知らぬ人のような遠さ,よそよそしさもない。軽い気持ちでぽろぽろとつい話をしてしまう。今日は年末年始地元に帰ったんですか?の話から親や家族に対する思いの話になった。親も年とったよねとか,地元帰ると結婚の話されるよねなど,アラサーあるあるの話で盛り上がった。近すぎず,遠すぎずの距離だからだろう。感情的になることも構えることもなく,いい意味で冷静に話ができていたりする。私の知り合いを見回してみても,彼女との間の距離感と近い距離感を感じる人はいない。

そんなわけでヘアカットが終わり,また二ヶ月半後!となった。増えて少しうっとうしかった髪が少なくなってスッキリした。風邪を引かないように注意しよう。

2017/01/17

文法エラーの感覚

英作文の講義で先生に英文の添削をしてもらっていたとき,ふと思ったことがあった。英語のネイティブスピーカーが文法的に間違っている英語の文を見たときに感じる感覚と,日本語のネイティブスピーカーが文法的に間違っている日本語の文を見たときに感じる感覚は一緒なのだろうか。

日本語のネイティブスピーカーである私は,これまでに何度も日本語を学習中の友人たち(日本語のネイティブスピーカーではない)が書いた日本語の文を添削した経験がある。文法的な間違いで最も多いのは,助詞の使い間違いである。続いてよくあるのが活用の仕方の間違い,文脈に合わない単語の使用だろうか。そういった文を見ると,理屈抜きに瞬時に違和感を感じる。何を言いたいか分からない,意味が汲み取れない文章ではない場合でもはっきりおかしいと感じる。そしてどこがおかしいかもすぐ特定することができ,正しい表現に直すことも簡単だ。ただ,なぜそれが違うのかを説明しろと言われると,場合によってはしばし考えないといけなくなる。日本語を専門的に学習したことはないゆえうまい理屈が見つからず,結局日本語のネイティブスピーカーはこういうときにはこう言う,程度のことしか伝えることができていない。

一方で,英語の場合はどうか。英語は私にとっては第二言語であり,日本語のように自然に身につけたものではない。中学と高校でガッツリ文法を叩き込み,それを元に英文を読んだり書いたり,聞いたり話したりしている。英文を書いたり話したりするとき,私はよく文法ミスをする。話をしているときには,たまに今間違えたと自覚することもあるが,たいていはミスに気づかない。また,書いたものについても,よくよく見直しをしない限り自分では気づかないことが多い。つまり,母国語でなくなった途端,ミスをしても違和感を感じにくくなるわけだ。そして指摘されたあと,自分の頭の中にある文法知識と書いた文を照合させ,やっとミスに気づくこととなる。

母国語と,成長してから習得した言語の間には超えられない壁のようなものがあると私は思っている。しかし,それは私のレベルが高くないからそう思うのだろうか。もっと学習したら母国語のように外国語を扱えるようになるんだろうか。

イギリス人の先生は,私の書いた英文をささっと読んでミスを指摘してくれた。文法ミスのある英文を見たとき,彼はどんな感覚を感じているのだろう。私が文法ミスしている日本語文を見たときに感じるように,直感的に瞬時に変だと感じるのだろうか。そのような違和感は,言語によらず母国語において感じる普遍的なものなんだろうか。

2017/01/16

事実と当為の話

今日の哲学がらみの講義でのこと,事実と当為について話題に挙がった。この事柄について私は今日初めて知ったこともあって,話題に挙げたほかの学生たちの話を聞いていた。それでこれまでの経験を顧みて,日常生活において事実と当為は混同されがちではないかと思った。

事実と当為とは何か。あくまでも私が今日の講義で知ったこと及び辞書しかベースにしていないので,ざっくりした説明にはなるが,事実(存在と言われることもある)とは,「そうであること」・「そうであらざるをえないこと」である。一方当為は,「そうであるべきこと」・「なすべきこと」を意味する。それで,私が言うところの事実と当為が混同されがちだというのは,当為をあたかも事実のように扱うことである。

なんでこんなことを思ったかといえば,話をしていた学生たちから,「どんなに美辞麗句だとしても当為は必要だと思う」,「当為は理想であり,到達するのは不可能」といった発言があったことがきっかけだ。それを聞いていたとき思い浮かんできたのは,私がこれまで生きてきた中でいろいろな人(親,先生,友人)から言われてきた当為発言の数々である。彼らの発言から私がよく受けてきた印象は,「それはみんな当然のこととしてしてるでしょう」・「そうしないなんて変ね」のようなニュアンスである。私の偏見だとか,私の周りではたまたまそうだったと言われればそれまでだが,○○(す)べきというのは,発言者からしてみれば自身が正しいと思っていることを言うわけで,また,正しいと思っていることをあえて主張するというのは,聞き手を諭すか,私はあなたよりも優れているということを示したいというような意図も含まれていると想定されるので,私の印象もそこまで的外れなものではないと思われる。

このようなニュアンスを含んだ当為発言を真に受け,それに沿おうとすると,苦しい窮屈な生き方になるんじゃないだろうか。当為を事実のように受け取ってしまうと,あるべき姿をいつまでも追いかけたり,そうできない自分に対して自己嫌悪を抱いたりすることになりかねない。当為発言を悪だというつもりはない。あるべき姿を出すことは発展や改革にもつながる。ただ,当為と事実を分節できる力は持っていたほうがよいと思う。