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2017/01/29

単語練習が嫌なのは分かるんだけど…

塾で英語を教えている生徒のあるあるの1つは,英単語の練習ろくにしないことである。毎回のように単語練習をしようと言い,テストもやり,単語は一回覚えてもすぐ忘れちゃうから何度もやらないと定着しないよと言い続けても,なかなかこつこつ練習してくれない。塾で英語を教えてお金をもらっている以上英単語をやらせないとと思うのだが,なかなか生徒の心を動かすことができない。

単語練習をやりたくないという気持ちはよく分かる。今私はドイツ語を学んでいるが,私だって単語練習はしたくない。単語練習なんて退屈だし,面倒だ。生徒になぜ単語練習をしないのか聞くと,時間がなくてと答えるが,他のことをする時間はあるのだから,要は,単語練習には他のことよりも魅力がなかったというだけのことであろう。その点は共感する。

とはいえ,言わずもがなではあるが,単語を多く知っていることは語学においてメリット大なのだ。というよりも,単語を知らないことは語学学習の足かせでしかない。単語が分かっていれば,たとえ文法がごじゃっていたとしても文意を汲むことはなんとなくできるのだ。そうすれば問題も解ける。

そんなわけでここ数ヶ月,自分がこれまでやってきた単語練習法を参考に,取り組みやすい単語練習方法を生徒に提案してみている。私はこれまでいろいろな方法で単語を練習してきたが,単語を発音しながら数回書き,それを毎日一定期間続けるというのがいちばん効いているように思う。この作業は1日に長時間やる必要はなく,10分,15分とかでかまわない。でも毎日やることが大切である。そうすると,否が応でも自然に大体覚えていくものである。もし書く余裕がなかったら,やはり1日10分,15分でもいいから,どうしても無理なら数分でもいいから,単語帳をパラパラと眺めることをするのでもよい。でもやはり重要なことは,同じページを一定期間毎日眺めることである。

提案をした生徒たちに後日,単語練習の状況を聞いてみた。やはりそうよねというべきか,大方の生徒はアドバイス通りに実行してくれていない。さらに話を聞いてみると,結局のところ,毎日やるということ,つまり繰り返し練習するということができていない。1日数分でも難しいか…。繰り返し練習をすることに魅力を感じてもらうためにはどうすればいいのかを考えねばならないのかもしれない。

2017/01/28

1ー3月期の楽しみ,アニメ「昭和元禄落語心中」

毎週金曜の深夜,アニメ「昭和元禄落語心中」http://rakugo-shinju-anime.jp/)が放映されている。昨年の1月―3月期に放送されていたのの続編なのだが,私はこのアニメのファンで,昨年に引き続き今年もはりきって観ている。

「昭和元禄落語心中」と出会ったきっかけは,おととしの年末頃に本屋さんで原作の漫画を立ち読みしたことだ。アニメ放映記念で,一話分の小冊子が置いてあった。落語はなんとなく興味があったし,タイトルにも惹かれて早速読んでみると,こりゃおもしろい!となり,家に帰って即録画予約したものだった。

少しストーリーを紹介すると,主人公は刑務所帰りのお兄ちゃん(与太郎)なのだが,刑務所の慰問で聞いた落語「死神」をいたく気に入って,その落語家(有楽亭八雲)に弟子入りしようとするところから話が始まる。その後のストーリーは与太郎の落語家への成長記録かと思いきや,八雲の半生の話がスタートする。昨年のアニメはここを描いたものだったのだが,彼と彼の人生に深く関わった人たちとの人間ドラマが楽しくもあり,切なくもあり,やるせなくもありで一言では言い表せない気持ちで観ていた。とても引き込まれた。また,彼らの寄席の場面や練習の場面で毎回のように流れる落語を聞くのも好きだった。落語家の人たちの生活,落語の練習風景,昭和の戦前戦後にかけての大衆文化としての落語の雰囲気など,アニメを通してなんとなく知ることができて,私も寄席に行ってみようと,昨年は2つ寄席に足を運んだ。

今放送中の話は,与太郎がついに真打になったところから話がスタートしている。与太郎には家族ができた。八雲さんは厭世感が昨年よりも増しているが,色気は健在である。若き頃の八雲さんは美しかったが,今の少し渋めの雰囲気も嫌いではない。これからどう話が進んでいくのか楽しみだ。

2017/01/27

BOTでお話?

このブログでたびたび登場している我が愛用スマホゲーム「イケメン戦国」が,おととい新サービスをリリースした。その名も「織田信長のイケメン天気予報」。LINEアカウントを友だち追加し,場所や時間を設定すると,織田信長が毎日天気を知らせてくれる。また,トークで話しかけると,内容に応じて(ある程度)お返事してくれるのだ。早速友だちになって試してみたが,これがけっこう面白い。

どんな感じかを伝えるために,本当はLINEの画面のスクリーンショットでも貼りたいのだが,運営側からしないでくれとのお達しがあるので,実際の画面を見たい方は,運営会社が出したニュースリリースを見てほしい。http://www.cybird.co.jp/wp-content/uploads/2017/01/20170125final_02.pdf

このサービスの気に入りポイントが2つある。1つは,「イケメン戦国」に登場する武将たちのミニキャラがやっているところだ。ストーリーに登場する,山田シロ先生の美しい絵の武将たちも好きなのだが,私はこのちょっとおとぼけた感じに見えるミニキャラたちも好きなのだ。なぜって,とても可愛いから。天気予報と一緒に,知らせてくれる天気と(多分)関係のあるイラストも毎回くれるのだが,なんとういうか,見ていると心がなごむ。
もう1つは,何か話しかけると,「イケメン戦国」内でのキャラ設定を活かしつつ,お返事をくれるところである。一例はやはり上のリリースを見てほしいのだが,基本はキュンとするお返事をくれる。実はこの手のサービスは,以前マイクロソフトのAI「りんなちゃん」で試してみたことがあるのだが,「りんなちゃん」とはどうも反りが合わず,よくイラッとさせられていた。また,小学館がやっている,少女コミックの男性キャラからお返事がもらえる,というのもやったことがあるのだが,お返事のバリエーションが少なすぎてすぐ飽きてしまった。それらに比べて信長様は,まだ私をイラッとさせていないし,お返事もけっこうバリエーションがある雰囲気だ。こういうサービスは,ユーザーが送った言葉に含まれる特定の単語に特定のお返事が紐付いていて,それを返してくる,という仕組みになっているのだと思われる。だから,どんな言葉を入れるとどんな返事が返ってくるかを少し試してみている。現段階では,挨拶系や「好き」や「ちゅーして」などの恋愛系の言葉,「目玉焼き」や「コーラ」などの特に意味のない言葉,信長が好きだという「金平糖」などを入れてみたが,明確なパターンらしきものはまだ見い出せていない。全く関係のないお返事をくれることもしばしばだが,そこまでの技術は利用していないということだろう。それに,必ずお返事をくれるので,そこは楽しみだ。長ったらしい文章は入力していないので,時間があるときに今日の出来事でも送ってみようか。そうしたらどんな返事が返ってくるのだろう。ある程度の字数を超えたり,指定単語が複数入っているときには,デフォルトお返事みたいなものがあるんだろうか。

ここでふと思ったこと,私はこのBOTで話をしているんだろうか?私が何か発言を送り,BOTがその発言から単語を拾って,何かを返す。ってことは私は誰とも話はしていないのだろう。でも,届くお返事は,信長のキャラ設定にもとづいて人が作ったもので,あたかも「イケメン戦国」の信長と話しているような気分になる。ってことは,私の頭の中の想像の世界では,実際に話しているとも言える。今後もこの手のサービスは増えてくると思われるが,どんなふうにみんなは感じるのだろうか?

2017/01/26

人を知るのが面白い

半期間,近世哲学史の講義を受講していた。この講義では,カント以降のドイツ圏の哲学者を中心に,毎回1人ずつ紹介していくというスタイルで行われていたのだが,哲学者たちの思想内容だけでなく,哲学者自身を知れるエピソードや,当時の時代背景の話もふんだんに盛り込まれていたのがよくて,毎回楽しみにして参加していた。

私は基本的に,人が残したモノよりも,その人がどう生きていたのかに興味がある。数年前に科学史の講義を受けたときもそうだった。科学者たちの偉大な発見よりも,科学者たちの生活や,人間臭いところなどについ目が行ってしまっていた。アインシュタインとミレヴァ・マリッジの関係や,キュリー夫人の恋愛騒動,ワトソンとクリックの二重らせん構造の発見に裏にあった,ロザリンド・フランクリンの無念さなどをその講義で知ったが,そういったいかにも人間らしいところに親近感を覚え,偉大なことを成し遂げた人たちに親しみを持ったものだ。

今回の哲学史の講義でも,哲学者たち自身にまつわる話がけっこう出てきた。ナポレオンに強く影響されたフィヒテや,ヤスパースとハイデガーの友人関係とその崩壊,カントはなぜコスモポリタン的な思考を持てたのか,ショーペンハウアーのやりきれなさなどを聞くと,頭の良い人が何やら難しいことを言っている,という感覚が薄れ,哲学者たちとの距離が縮まる感じがする。ときには,普通のおっちゃんと変わらんがなと思ったりして,とっつきやすくなる(彼らの思想や主張は結局難しいままではあるのだが…)。

偉大な発見も,哲学分野での主要な思想も,それらが生まれるためのワケがある。私はそのワケに興味がある。なんでその人はそんなことを考えられたのか,なんでそんな行動をしていたのか,そういうのを知るたびに,人間の面白さや深さ,醜さを感じるし,愛おしい気持ちになったり,悔しさを感じたりする。

2017/01/25

身体メンテナンス

ここ1年くらいだろうか,自分の身体のことをちゃんと考えるようになった。今日は調子がいいとか,○○が痛いとか,体が重いとか,疲れがたまっているとか,自分の身体のモニタリングはもちろんのこと,体調を保つために予防するとか,具合が悪くなったときには早めに対処するとか,そういう基本的なことを疎かにしないようになった。

「体が基本」,全くそのとおりである。そんなことは昔からよく知っているのに,今思えば20代の頃は自分の体をいたわるという感覚をあまり持っていなかった。そこまで無茶なことをしていた記憶はないが,そんなに体のことを気にかけなくても普通に生きていたし,特に何かしなくても健康なんて当たり前!的な感覚だった。私より年齢が2,3歳上の友人が一足先にアラサーに差し掛かったとき,髪や肌がいかに昔と違うかの話をしていたが,そんなのはどこ吹く風といった感じで,自分にはあまり関わりがないような気さえしていた。

しかし私も年を重ねたからだろうか,最近は20代の頃に比べて,自分の体の変化を気にするようになった。というより,気にせざるを得なくなったといったほうが正しいかもしれない。些細な故障/違和感がよく起こり,気づかずにはいられなくなった。そして,早々に対処するようになった。なんかいつもと調子が違う,頭が重い,お腹が痛いなど,少しでも違和感があると感じたら,速攻対処である。まずは原因を考える。原因は思い当たることが多いのだが,原因が分からなくても,痛みであればほっとかずに常備薬の鎮痛剤で対処する。そして調子が回復するまでは,あまり無理はしないようにする。それから今の時期は,抜かりのない防寒対策を心がけ,体を冷やさないように注意しているし,うがい手洗いも欠かさない。また,週1ペースで行っているジムはもともとダイエットのためだったけれど,今はもはや体力維持のためといってもさしつかえないだろう。それに,必要があれば病院にもすぐ行くようになった。例えば風邪を引いたとき,寝て治したり市販のかぜ薬でどうにかしようとしていたこともあったけど,病院の薬がいちばん効くことを学んだから,面倒くさがらずにさっさと行くようになった。私はできものができやすい体質ゆえ,皮膚科にもそれなりに行っている。それに最近は検診系も行っとくか,という気になっている。先日は,自治体からもらった無料クーポンで子宮頸がん検診に行ってきたし,近々歯の検診にも行こうかと考えている。痛くならなきゃ行く必要ないとずっと思っていたが,歯もメンテナンスが必要であろう。こうして改めて書き出してみると,ほんとに超基本的なことばかりだが,多分そういうのが一番大切なのだと思う。最近は外反母趾が痛み出しているので,これもいずれはどうにかしたい。

1つしかない私の身体。長いことよく動いてくれるよう,日々の手入れを大切にしたいものである。

2017/01/24

目的に応じた読み方を

私は基本的に本を読むのが遅い。漫画や小説ですら遅い。なんで遅いのかと考えてみると,つまるところ,一文一文読みながら考えているからだということになった。

まず,学術書に類するものでは,読みながら?が頻繁に頭に浮かんでくる。話が見えなくなったらその文を再度読み,場合によってはその前の数文を読み返す。分からない言葉が出てきたら,できるだけ辞書をひいて,意味を把握する。そんな調子なので,読むとすぐ疲れるし眠くなってしまう。さらには,ささっと読めないので読むモチベーションも下がる。で,結果的に一冊終えるのにだいぶ時間を使ってしまう。漫画の場合は少し状況が変わる。漫画の場合,内容が理解できないということはほとんどない。だが,読んでいると,漫画の中のキャラクターに感情移入したり,漫画の世界に浸ってしまう。結果的に,丁寧に読むことになり,結局読み終えるまでに時間がかかる。小説の場合は,学術書と漫画を足したような感じだろうか。漫画に近い状況が大方だが,たまに難しい言葉が出てきたりするので。

時間をかけて本を読むこと自体はいいと思うのだが,そうしているといかんせん時間が足りない。百歩譲って漫画や小説は娯楽のためなのでよしとしよう。ただ学術書については,研究のために読んでいるので,そんな調子では研究がなかなか進まない。そこで最近,本を思い切って速く読むようにしている。すべての文章を読むのは変わりないのだが,意味が分からない文章があってもとりあえず先に進む。分からない文章がどうしても気になる場合や,それが肝となるような主張だと思われる場合は,とりあえずもう一度読むが,深追いはしない。さらに,本を速く読むために,目を積極的に動かすようにする。速読の人が本を読むときの目の動きを見たことがあるが,彼らは目をほとんど動かさずに,全体を俯瞰するようにしてものすごい速さで読んでいる。だが,訓練していない私にはそれは無理。だから,行の始めから終わりまで目で追うスピードを意識的に上げた。目が動いたら見えるものも変わるので,必然的にそのスピードで読まないといけなくなる。目を動かすことが眠気防止にもなって,一石二鳥かもしれない。

そんな感じで数冊読み終えた。そうする前は,速く読んだら本の中身全然入ってこないんじゃないかなと不安に思っていたが,速く読んでも遅く読んでも大して変わらないと思われる。残ることは残るし,残らないことは残らない。また,遅く読んだからといって忘れにくいかというと,そういうわけでもない。速く読むのも普通のリーディングに決して劣っていなかった。情報をインプットするという目的なら十分だ。読んでいれば,どの本にどんなことが書いてあったか(概要)やキータームは頭に残る。論文を書くときにはそれを元にして再度本にあたればよい。

これからまた速い読書の再開である。

2017/01/23

Happy Birthday to me!

今日1/23は誕生日だ。31歳になった。

誕生日自体は,この歳になると子供のころほどの嬉しさはないのだが,友達が覚えていてくれて,お祝いしてくれるというのはとても嬉しい。昨日も,誕生日を覚えていくれていた友人がサプライズでお祝いしてくれた。感謝だ。SNSでも,友人たちが誕生日おめでとうのメッセージをくれた。直接顔を合わせる機会が少なくても,メッセージを書くときには私のことを心に留めてくれていたわけで,やはりありがたいなと思う。

31歳も元気いっぱいにがんばろうと思う!人生まだまだこれからよ。

お洋服をもらった!
googleさんは今回,こんなdoodleを出してくれた。毎年楽しみだったりする。

2017/01/22

気晴らしに書く

最近ブログを書きながら,ブログを書くって気晴らしにもなるんだなーと感じている。いつもそう感じているわけではなくて,気楽な日記調の記事を書くときとか,大学や研究関連でレポートを書いたり本を長時間読んだりしたあとに記事を書くときとかにそう思う。

たしかに当初に比べると,書くということに関しての心理的負担はだいぶ軽くなった。ネタの選定にしろ,書く内容にしろ,表現の仕方にしろ,以前よりもずっと自由になっている感がある。今でも何を書こうかなーと思うことは思うが,なんでも記事になるよなと感じるし,内容もこれ言ったらまずいかなとか,間違ったこと書いているかもとか,自分の書く内容に対するネガティブな意見にそれほど縛られなくなった。表現に至っては,当初からわかりやすい表現,読みやすい表現を書くことに徹しているが,いちいち気を回さずとも自然に出てくるようになったし,記事全体の構成においてもそれほど悩むことはなくなった。たかだか1ヶ月ちょっとであるが,「継続は力なり」である。

気楽にブログを書けるようになってきたことは,ブログを書くことのストレス量と,難しい本を読むとか,課題のレポートを書くとかのストレス量の逆転を引き起こしている。ブログを書くことに全くストレスを感じていないわけではないが,相対的に低くなっているので,大学関連ですべきことがたくさんあって時間が惜しいと感じる今も,こうしてブログを書いている。本やレポートで疲れたときの息抜きのような位置づけである。

息抜きにブログを書くのは,他に思いつく息抜き手段に比べて,なかなかいいことかもしれない。息抜き(になりそうなこと)の例をいくつか挙げるが,テレビを観る→ダラダラ見続ける可能性あり,漫画を読む→積ん読になっている漫画を読み始める気力はないし,かといって何度も読んでいる漫画は,その漫画の世界観にひたりたいときでないとなかなか楽しめない,小説を読む→漫画の場合とほぼ同じ,寝る→寝入ってしまうリスクあり,家事→好きじゃないから気晴らしにならない,オンライン英会話する→時間が指定されるので息抜きにしては制限があってちょっと・・・,食べる→お腹の空き具合による,飲む→飲みながらやれるので息抜きとはちょっと違うような・・・,イケメン戦国→息抜きになるほどの時間を無料でやれるものがない,といったところだろうか。これらに比べてブログを書くことのメリットは,1つ記事を書いたら終わりになるので,息抜きタイムのオシリが決まっている。しかも,時間はかかっても1時間程度。そしてなんといってもいいのは,(一応)考えて文章を書いているので,本を読んだり,レポートを書くことに似ていることをやっているということだ。似ていることをやっていると,全く別のことをしているよりも,息抜き前にやっていたことにスムーズに戻ることができる。さらに,いちばんこれがいちばん大きいかもしれないが,自分の思いのたけを気楽に書けるので,書いた後スッキリする。

こんなことを以前の私が聞いたらびっくりするだろう。やってみないとわからないもんである。

2017/01/21

日本酒ゴクゴク

今日は友人と日本酒を飲んできた。このお店,日本酒とビール(多分1種類)しか置いていなくて,3240円ぽっきりで,店に置いてある日本酒(50~60種類くらい)をいくらでも飲んでいいですよ,というスタンスでやっている。何時間いてもOKだ。持ち込みもOKなので,ほとんどの客がつまみを持ってやってくる。ユニークなお店だねーということで,行ってみたのだ。

友人に連れられてお店の前まで来てちょっとびっくりしたのは,お店にベランダがあったことである。オフィス用のテナントビル?のようなところの2階でお店を開いていて,地上に看板がはっきり出ていないから,ベランダの手すりのところにかけてある看板を見逃すと完全にどこだか分からない。さらに,お店に入ってみてまたちょっとびっくり。企業の会社などでよく使う茶色いテーブル数台と,これまたオフィス通販で買えそうなスツールで,店内に3つの島が作られているだけであった。で,お店の端っこには日本酒がたくさん入った冷蔵庫と,食べ物を持ち込んだ人のための調味料が少々置いてある,といった感じ。トイレも期待を裏切らないくらいシンプルで,これまた中小企業のオフィスのトイレ?的な感じであった。こりゃ新感覚なお店だな,といった感じであった。

日本酒のバイキング,ということで結局10種類弱くらいは飲んだだろうか。友人とおしゃべりしつつ,隣に座っていたおひとりさまのお客さんからいただいたレーズンパンとピーナツをつまみにしながら,4時間弱くらい飲んでいた。日本酒に全く詳しくないゆえ,お店の人のおすすめとか,友人のおすすめとか,信長の本拠地滋賀県のお酒とか,目にしたことのない北海道のお酒とかを適当についで飲む。それぞれの味が違うということは分かるのだが,味を言葉でうまく表現することができず,そのためだろうか,記憶にとどめておくこともできず,結局,何のお酒がどうで・・・などの次回日本酒を飲見に行くときに参考になりそうな情報を全くと言っていいほど得られないままお店を後にした(これはいつものことである)。

にしても4時間日本酒を飲んでいたって,我ながらびっくりである。日本酒オンリー(水は飲んでいたが)でそこまで飲むのは初めてかもしれない。いくら飲んでも顔色が変わらないので,周りにいる人たちからは平気そうに見られるのだが,自分の中では2杯目が終わったくらいから酔いを感じ始めていた。酔いが進むと,私はいつも以上に自分のことをよく話し,相手にズケズケ質問をするようになる。そして声がいつも以上に大きくなる。4時間友人との話が全く途切れなかったのもけっこうすごい。最近サシ飲みでこんなに話せた人いただろうか。なにやら今夜は,シラフのときより頭の回転が早かった気がしている。

以前このブログで,家で晩酌をするようになったと書いたことがあったが,最近はお酒を飲むことが以前よりも楽しく,心地よくなっている。それだけ私も大人になったということだろうか。

今夜は楽しい時間であった。

2017/01/20

手首が痛い

今年に入りお部屋大改造をしたときから,左手首に痛みを感じるようになった。原因をはっきりとは覚えていないのだが,多分,本棚に入っていた本を別の本棚に移し替えるときにやってしまったような気がしている。少し経てば治るかなと思い,特に何もせず放置していたのだが,いっこうに治る気配がない。左手を使うたびに違和感がある。なのでネットで手首の痛みについて少し調べてみた。

ネットでググると健康ネタは山ほど出てくる。だが,どういう人が書いているか分からない記事や,内容が薄すぎて参考にならない記事も多く,いくつかのサイトをはしごしないと情報を得た感,納得感を得られない。そういうわけでいくつかのサイトに訪れ,せっせと情報を集めてみた。その結果,今まで知らなかった情報を2つ手に入れた。1つは,手首の痛みは治るまでに数週間~数ヶ月かかることもあるということ。そんなにかかるとは思ってもいなかった。どうやら私は軽く考えていたらしい。もう1つは,腱鞘の場所。腱鞘炎という言葉をよく聞くが,手が痛くなるということ以外全く知らなかった。腱鞘ってそんなところにあったんですね・・・という感じである。勉強になった。

病気や怪我についての情報なんて,自分や家族,友人などが実際に被らない限り,改まって調べたりしないものである。で,いざ調べたいと思ったときにネット上で誰かが情報を提供してくれているのはありがたい。いくつかの情報は,病院に行くべきか否かを判断する際にも参考になるし,自分の体をより理解するのに利用できる。もちろん情報を選別する必要はあるが,それを差し引いても便利なものだ。

とりあえず睡眠時だけでも湿布を貼って,あまり左手首を使わないようにしようと思っている。そのために手首用サポーターも用意した。何の問題もなく普段普通に機能してくれているものが機能してくれなくなるというのは,相当ストレスだ。早く治るといいのだが。

2017/01/19

あるものでどうにかしよう

今,哲学がらみの講義で提出するレポートを書いている。私は基本的にレポートを書くのが遅い。しかも今回は哲学がらみときている。講義の半分を理解できたかどうかすら怪しいのに,レポートを書かなければならないなんて酷である。しかし,他にもやることが多々あるためこのレポートにそんなに時間をかけたくない。どうにか早く終わらせられないかと考え思い至ったことは,「今あるものでどうにかしよう」ということだった。

私がレポートを書くのが遅い理由はいくつかある。まず,テーマが決まらないこと。先生が具体的なテーマを指摘してくれると非常に書きやすいのだが,「この授業で学んだことに関係することならなんでも」などと言われると困り果てるのがデフォルトだ。大抵は自分が日常的に体験していることの中で,授業で学んだことと関係ありそうなことから話をふくらましていくという方向性でいくのだが,ぱっとすぐに思いつくかというとそうでもなく,そこまでいくのに時間がかかる。思いついても書きにくそうだったら別のアイディアが出るまで待つので,また時間がかかる。テーマが決まった後は,関連する文献を集めることを始めるのだが,これでまた時間をくう。検索の仕方が悪いのか,はたまた私の疑問に答えてくれる文献が私が届く範囲にないからなのかは分からない。とにかく数冊集めようにもなかなか集まらない。しかし,テーマに即したレポートに使えそうな文献というのは探そうと思うとキリがないことが分かってきた。で,さあ書こうとなると,また書くのに時間がかかる。タイピングは決して遅くない。しかし,意見をまとめたり,書きながら文の構成を考えたり,適切は引用を入れ込んだりするのはけっこう骨の折れることである。結局一本レポートを書くのに,準備期間まで含めたら相当時間を費やしていることが分かる。

だがしかし,時間がないのである。だから今回は,上で述べたとおりになどやってられない。お題は困ったことに,「授業で学んだことならなんでも」のざっくり系。だが幸い,文献が最低一冊はある。この講義は一冊の本をもとに行われていたのである。なので今回は,この本を読んで直近でちょっと引っかかったところ(最初の頃に学んだことは記憶がうすれているゆえ)をテーマとすることにした。まずは,そのテーマに関する本文中の記述をまとめる。さらに,講義で学んだテーマに関する解釈と,自分の意見をまとめる。で,最後に必要があればそのテーマに関する文献(ネットに落ちている論文を少々にとどめておくつもり)に書いてあることを組み込む,という順で進めている。つまりは,読んだ本と参加した講義の内容から自分の意見をひねり出せ,今あるもので勝負せよということだ。本が難解,講義内容も難解,という状況だが仕方がない。理解できたところを中心にまとめ,理解できなかったところは触れないでおくか,なぜ理解できない買ったのかを書くことにしよう。どんなレポートになるのか心配だが,とにかくまとめる次第である。今日は,書き終わらせてから寝ることにする。

2017/01/18

ヘアカットにて

髪を切りに行ってきた。大体二ヶ月半に一回くらいの定期カット。ここ数年ずっと同じ人に切ってもらっていることもあり,緊張しない心地よい時間だ。

美容院に行くと,ヘアメイクの雑誌やファッション雑誌,女性向け情報誌がたくさんおいてある。私はたいてい,切ってもらう前の待ち時間にヘアメイクの雑誌に目を通して,新しい髪型の候補を探してみるのだが,結局いつも今の髪型(ワンレンボブ)に落ち着いている。今の髪型以上に一目惚れするような髪型が載っていないし,今の髪型はたいした手入れをせずともまとまるのでとても楽なのだ。雑誌に載っているヘアスタイルは,アレンジしないとそういうふうにはならないから私には手に負えない。そういうわけで,5~6年くらい今のヘアスタイルでいる。

美容室ではいつも主に,3人の人とお話する。受付の人,髪を濡らしてくれる人,髪を切ってくれる人だ。髪を濡らしてくれる人はたいてい,入社したての20代前半?くらいの人。私の髪を扱いながら一生懸命話をしている雰囲気が伝わってくる。自分と同世代ではない知らない人相手の会話。さぞ気を遣うことだろう。その日の天気の話や,髪のケアの話,その人の最近の出来事についてや,最近話題になっていることなど,人によっていろいろな話を振ってくる。明るい雰囲気で話を始め,こちらも相槌をうち,とやりとりを何度か続けて髪を切ってくれる人にバトンタッチである。

髪を切ってくれる人は,私と同世代の女性だ。もう何年も切ってもらっていることもあって,当たり障りのない距離感の関係である。友人や家族のような近さもなく,かといって見知らぬ人のような遠さ,よそよそしさもない。軽い気持ちでぽろぽろとつい話をしてしまう。今日は年末年始地元に帰ったんですか?の話から親や家族に対する思いの話になった。親も年とったよねとか,地元帰ると結婚の話されるよねなど,アラサーあるあるの話で盛り上がった。近すぎず,遠すぎずの距離だからだろう。感情的になることも構えることもなく,いい意味で冷静に話ができていたりする。私の知り合いを見回してみても,彼女との間の距離感と近い距離感を感じる人はいない。

そんなわけでヘアカットが終わり,また二ヶ月半後!となった。増えて少しうっとうしかった髪が少なくなってスッキリした。風邪を引かないように注意しよう。

2017/01/17

文法エラーの感覚

英作文の講義で先生に英文の添削をしてもらっていたとき,ふと思ったことがあった。英語のネイティブスピーカーが文法的に間違っている英語の文を見たときに感じる感覚と,日本語のネイティブスピーカーが文法的に間違っている日本語の文を見たときに感じる感覚は一緒なのだろうか。

日本語のネイティブスピーカーである私は,これまでに何度も日本語を学習中の友人たち(日本語のネイティブスピーカーではない)が書いた日本語の文を添削した経験がある。文法的な間違いで最も多いのは,助詞の使い間違いである。続いてよくあるのが活用の仕方の間違い,文脈に合わない単語の使用だろうか。そういった文を見ると,理屈抜きに瞬時に違和感を感じる。何を言いたいか分からない,意味が汲み取れない文章ではない場合でもはっきりおかしいと感じる。そしてどこがおかしいかもすぐ特定することができ,正しい表現に直すことも簡単だ。ただ,なぜそれが違うのかを説明しろと言われると,場合によってはしばし考えないといけなくなる。日本語を専門的に学習したことはないゆえうまい理屈が見つからず,結局日本語のネイティブスピーカーはこういうときにはこう言う,程度のことしか伝えることができていない。

一方で,英語の場合はどうか。英語は私にとっては第二言語であり,日本語のように自然に身につけたものではない。中学と高校でガッツリ文法を叩き込み,それを元に英文を読んだり書いたり,聞いたり話したりしている。英文を書いたり話したりするとき,私はよく文法ミスをする。話をしているときには,たまに今間違えたと自覚することもあるが,たいていはミスに気づかない。また,書いたものについても,よくよく見直しをしない限り自分では気づかないことが多い。つまり,母国語でなくなった途端,ミスをしても違和感を感じにくくなるわけだ。そして指摘されたあと,自分の頭の中にある文法知識と書いた文を照合させ,やっとミスに気づくこととなる。

母国語と,成長してから習得した言語の間には超えられない壁のようなものがあると私は思っている。しかし,それは私のレベルが高くないからそう思うのだろうか。もっと学習したら母国語のように外国語を扱えるようになるんだろうか。

イギリス人の先生は,私の書いた英文をささっと読んでミスを指摘してくれた。文法ミスのある英文を見たとき,彼はどんな感覚を感じているのだろう。私が文法ミスしている日本語文を見たときに感じるように,直感的に瞬時に変だと感じるのだろうか。そのような違和感は,言語によらず母国語において感じる普遍的なものなんだろうか。

2017/01/16

事実と当為の話

今日の哲学がらみの講義でのこと,事実と当為について話題に挙がった。この事柄について私は今日初めて知ったこともあって,話題に挙げたほかの学生たちの話を聞いていた。それでこれまでの経験を顧みて,日常生活において事実と当為は混同されがちではないかと思った。

事実と当為とは何か。あくまでも私が今日の講義で知ったこと及び辞書しかベースにしていないので,ざっくりした説明にはなるが,事実(存在と言われることもある)とは,「そうであること」・「そうであらざるをえないこと」である。一方当為は,「そうであるべきこと」・「なすべきこと」を意味する。それで,私が言うところの事実と当為が混同されがちだというのは,当為をあたかも事実のように扱うことである。

なんでこんなことを思ったかといえば,話をしていた学生たちから,「どんなに美辞麗句だとしても当為は必要だと思う」,「当為は理想であり,到達するのは不可能」といった発言があったことがきっかけだ。それを聞いていたとき思い浮かんできたのは,私がこれまで生きてきた中でいろいろな人(親,先生,友人)から言われてきた当為発言の数々である。彼らの発言から私がよく受けてきた印象は,「それはみんな当然のこととしてしてるでしょう」・「そうしないなんて変ね」のようなニュアンスである。私の偏見だとか,私の周りではたまたまそうだったと言われればそれまでだが,○○(す)べきというのは,発言者からしてみれば自身が正しいと思っていることを言うわけで,また,正しいと思っていることをあえて主張するというのは,聞き手を諭すか,私はあなたよりも優れているということを示したいというような意図も含まれていると想定されるので,私の印象もそこまで的外れなものではないと思われる。

このようなニュアンスを含んだ当為発言を真に受け,それに沿おうとすると,苦しい窮屈な生き方になるんじゃないだろうか。当為を事実のように受け取ってしまうと,あるべき姿をいつまでも追いかけたり,そうできない自分に対して自己嫌悪を抱いたりすることになりかねない。当為発言を悪だというつもりはない。あるべき姿を出すことは発展や改革にもつながる。ただ,当為と事実を分節できる力は持っていたほうがよいと思う。

2017/01/15

メリハリの話

昨晩放送されていた「久保みねヒャダ こじらせナイト」(http://www.fujitv.co.jp/kojirasenight/)を観ていて,あぁそういうことか,と妙に納得したことがあったので書き留めておこうと思う。

番組のラストで,久保みねヒャダの3人が「こち亀」の両さんの絵を描き,どんな絵を描いたか見せていたときのこと,自称絵がうまくないヒャッくんの絵を見た久保センセイが,「その絵の重要度が全部同じに見えてしまうんじゃないか」「絵描くときに,何がこの絵で主張するのか,優先順位とか・・・」というコメントしていた。そのコメントを聞いたあと突然,私に足りないのはそれか,とストンと落ちるものがあった。何かを生み出すという状況において,私は自分がインプットした情報に対する重み付け(取捨選択/メリハリと言い換えてもいいかもしれない)がよくできていない。かつ,アウトプットする情報に対しても重み付けができていない。だから,アウトプットされたもの全体として見ると,なんだかぼやけたもの,無難なもの,面白みのないものになっているんじゃないか。そんなことを感じた。

それらの例を挙げるとけっこう出てくる。例えば洋服のコーディネート。ファッション雑誌を参考にしてもどうもうまくいかない。その一因は多分,情報の重み付けというレンズを通してコーディネートを観察していないからだと思う。レンズを通してみると多分,このコーディネートで主張したいのはこのアイテムだろう,とか,ここはあれを魅せるためにあえてこうしているんだな,とかそんな感じで情報がインプットされるのだろう。そうすると,その重み付けされた情報が生きてくるのだろう。残念ながら,実際に自分のコーディネートを作るときにも重み付けを行えていない。結局私がしていることといえば,コーディネートを眺め,色の組み合わせとか,服のラインとかを参考にする程度である。上手く言えないのだが,目に入ってくる情報が全体としてのものでしかないというか,アイテムごとに見てもそれぞれのアイテムが同程度に重要としか思えないというか,そんな感じである。多分,重み付けをしている人たちの見方というのは,全体の中の要素間で重要度が異なって思われたり,要素同士のつながり間でも重要度が違っていると思われたり,そんな感じなのではないかと推測する。

本を読んでレポートなどを書くときもそれは起こる。例えば1冊の本にもいろいろなことが書かれているが,その中での重要なことがいまいちくっきり見えてこない。だから,読み飛ばし,流し読みなどもできない。レポートなんて本数冊を読んで書くのだから,余計にわけわからんとなることがままある。それで,どこをどうまとめてレポートを書けばいいのかで一苦労である。テーマや書きたいことがあれば,それを元に情報の重み付けをしていけばいいとも考えられる。しかし,そうすると今度,自分の重み付けの仕方が正しいのかが気になる始末である。正しい重み付けの仕方というのがあるのかもよく分からないのだが・・・経験を積めば直感的にどこが重要でどこが重要でないというのは分かるものなんだろうか。

とりあえず,恣意的になることを恐れずに,メリハリつけることをやっていこうか・・・。

2017/01/14

センター試験によせて

今日明日とセンター試験が行われている。今大学に通っているのと,塾で高3生を見ていることで,ここ数年,自分が受けたときくらいにセンター試験を身近に感じている。一発勝負の試験であるゆえ,国公立組の皆さんには特に頑張って欲しい。

2004年に私もセンター試験を受けたわけだが,センター試験のときのことがほとんど記憶に残っていない。覚えているのはセンター試験前日の金曜日,当時放送されていたTBSのドラマ「奥様は魔女」(http://amzn.asia/fnXFkYY)を見て緊張をほぐそうとしていたことと,翌朝センター試験会場に向かうバスの中で友達に前日観たそのドラマのことを話していたことくらいである。私の通っていた高校は地方の高校で,しかも高3生ほとんどがセンター試験を受験するゆえ,バスを出して会場まで送ってくれた。ここでも緊張していた気持ちをごまかそうとしていたに違いない。会場は筑波大学だった。筑波大に到着してバスを降り,受験票片手に教室を探した。で,そこから先はほとんど覚えていない。おそらく尋常じゃないくらいの緊張とプレッシャーだったからだとは思うが,センター試験当日のことで覚えていることはもうない。お昼に私はどんなお弁当を食べたのかとか,ちょっと気になる。それで,センター試験後のことで記憶に残っているのは,明けの月曜日に自己採点をしたことだ。寒い中学校に向かい,採点し,その後ストーブにあたりながら保健室で友達と話していたような・・・それくらいだ。

昨日塾にセンター試験組が何人か来ていた。以前担当していた生徒の一人と少しお話した。「明日がんばってね」と声をかけたら,「もう言わないでよー。無理ー。」と照れ笑い。緊張,不安,プレッシャー,希望,焦り,あきらめなどが混ざった複雑な気持ちをきっと感じているんだろう。自分が受けるわけじゃないのに,私もなんだか落ち着かない気持ちだった。こういうとき,どんな言葉をかけてもらえると落ち着くんだろうか。そういう場面に遭遇するたびにいつも思う。これまでの自分の経験を振り返ってみてもいつも答えが見つからなくて,ありきたりな「がんばってね」を言ってしまう。でも,頑張って欲しいというのは本心。応援しています。

2017/01/13

戦国時代展@東京都江戸東京博物館

東京都江戸東京博物館で開催中の「戦国時代展」(https://goo.gl/zoR7OL)に行ってきた。イケメン戦国や真田丸の影響で,昨年からじわりじわりと熱くなってきた戦国時代への興味。年末の飲み会でこの展示会について友人から聞いて以来,これは行かねば!と思っていた。

2時間超,時間をかけてすべての展示をじっくり見て回った。何百年前に生まれ,使われていたものが今こうして間近で見られることに,こみ上げてくるものがある。それに,戦国武将たちが使っていたもの,愛用していたものを前にすると,既存のイメージに引きずられながらもいろんな妄想が始まる。そしてもっと武将たちのことを知りたくなる。謙信が春日山城の毘沙門堂に祀っていたとされる毘沙門天像,謙信はどんなふうに祈って大切にしていたのか。謙信が使っていたとされる酒盃,彼は宴会の席で何を語るんだろう。織田信長が朝倉氏を討って得た名物籠手切正宗,彼の刀さばきはどんな感じだったのか。佐竹氏の甲冑,兜には前に進むとの気概をこめた装飾が施されているが,戦うの怖くなかったのかな。上杉文書に書かれていた願掛けと武田信玄の甲州法度,当時も今も人が人や国を思う気持ちは変わらない。彼らはどんな国を目指していたんだろう。展示を見ていると,お話の中でしかなじみのなかった戦国武将が実在して生きていたことを実感する。

戦国時代というと戦いのイメージが強い。だがその一方で文化の成熟も起こっていたようだ。それでこの展示会では,連歌や茶の湯などに関する品も展示されていた。連歌がたくさん書かれた冊子,字が読めなくて何かいてあるか分からず,無念…。読みたかった…。室内の装飾の仕方について書かれた書物は,イラスト入りで分かりやすく目を引いた。大陸からの工芸品もけっこう展示されていて,日本のものとの違いが分かる。

それから花押の展示も印象深かった。武将たちが何らかの思いを込めて作ったのだと思うが,それぞれ違っていて,彼らのセンスやこだわりみたいなのが表れている。展示されていた中での一番は織田信長!花押,私も作りたい。

そんなわけで戦国時代展,武将たちの生をたくさん感じ,勉強にもなり,贅沢な時間を過ごせた。たが,信長関連の品があまりなくて少し残念…ということで,安土に行くことを計画しようと思う。

2017/01/12

点取りゲームの受験

塾で受験対策の授業をしていると,受験は点取りゲームだなということをつくづく実感する。時間内にいかに多くの点をたたき出すか,に焦点を当て,それにコミットすることが受験においては何よりも大切であって,こだわりやプライド,強すぎる感情,好奇心などがあると点を稼ぐことは難しくなる。生徒の成績を上げること,希望の学校に進学させることが私たちの塾の目的であり,生徒も親も望んでいることなので,私は目的に沿うことをしているわけだが,同時に少しだけ違和感も感じている。

私が担当している塾の中学生たちは先月から,入試や模試の過去問を解きまくるフェーズに入っている。入試問題の形式は,公立高校においてもそれぞれの私立高校においても毎年大きく変わっていないので,過去問をやればやるだけ生徒たちは問題形式に慣れていく。問題形式に慣れるということは点を稼ぐためにはしておいて損のないことだ。もちろん本番の入試ではどんな問題が出されるか分からないが,入試問題を作ることは労力も時間もかかること,教育内容が前年とそれほど変化していないことを踏まえれば,問題形式が大幅に変わることは考えにくい。よって,本番の際,これまで何度も練習してきたように解き進めていけばいいので,問題形式に慣れていれば心の余裕が少しは生まれてくるであろう。

そんな中,過去問をたくさん解いてきた要領のよい生徒たちにある傾向がみられるようになってきた。英作文の解答で頻発しているのだが,生徒たちは点をとるための文章しか書かなくなった。例えば英作文の問題では,与えられたテーマについて3文程度で書くことが求められる。テーマに沿っていれば,基本的には何を書いてもよい。最初のころはそれぞれのテーマについて考えて書いていた様子が見られたが,今は型にはまった文章であり,1つ1つの文もこれまでに書いた文の中の正しい文の使い回しが多く,I like ○○.といった簡単な文のみでおさまっている。杓子定規な解答も多い。解答に書かれていることについて質問してみると,実際はそう思っていないけど,とりあえず点がとれる解答を,というのがほとんどだ。

減点法での採点ゆえ,英作文で得点を上げるには,自分が分かっている表現のみでシンプルな文を作ることがコツである。そうすることで短時間でその問題を終わらせることもできる。だから,私もそうやって解答を作るように教えているし,であるならなおさらそういう解答が出てくるのは当然のことだ。でもやはり違和感はぬぐえない。私の個人的な気持ちとしては,生徒たちが実際に考えていることや言いたいことを英語で表現する方法を身につけてほしい。そのほうが生徒たちにとっても楽しいだろうし,将来役に立つだろう。それに,それが学ぶということだとも思う。しかし,そんな思いは受験ではお呼びでないのだ。書きたいことを自由に書いて満点になるなら何も問題はないが,生徒にそこまでの英語力はないし,それを実現するためには時間も足りない。よって,高得点だけどその人らしさの反映されない,面白みのない英作文が増産されていく。そして,自分の書きたいことを書きたいという思いが強い生徒や,要領よくできない生徒は,ささいなミスを連発して点を落としていくこととなる。個人的にはそれもなんだか切ない。

とはいえ,受験には人生を左右するという面もあるわけで,そういうルールで行われている以上それに乗っかるしかない。受験で勝たなければ,生徒たちは自分が思い描く高校生活のスタートラインに立てない。私自身もそれに乗っかったから,その後の生活が開けた。なので今は点取りゲームにコミットする次第である。

2017/01/11

人に会って話すことの喜び

人に会って話をすることが嬉しいな,私にとって重要なことだったんだなと感じる瞬間がここ1ヶ月くらいの間に何度か訪れている。

直近では今日,人に会って話すことの喜びを感じた。大学の講義に出席し,先生や同級生と話したらふとそんな気持ちが湧いてきた。今日は年明けの初回ということで,それぞれの今年の抱負とか,年末年始の出来事などをみんなで話していたのだが,同級生や先生の話を聞くのも楽しかったし,自分の話をするのもなんだか嬉しかった。ここ数日,年末年始の慌ただしさが終わったからなのか気持ちが塞ぎ込みがちだった。でも,みんなと話をすることで内に内にと閉じこもっていた気持ちが少し開かれたように感じた。

先月末にも,人と会って話すことがいいなと感じられる経験があった。そのときはちょうど冬休みで,人との接触が少なかったときであった。そんな中仕事に向かい,中学生や高校生と話をしていたとき,つくづく人と話ができるって嬉しいな,とじんわり心が温まったものだ。

人と会って話すことは,日常的に行われていることで,当たり前のようにある出来事だ。だからだろうか,それについて今まで特に喜びや温かさを感じることはなかった。むしろ,人に会ったり話したりすることで自分のペースが乱れるのがとても嫌で,一人でいるほうがいいのにと感じていた時期もあった。自分一人でいろいろなことをやっているんだと思っていた。しかし,人と会って話ができることがいつでもどこでもできるわけではないと分かってきた。それに,自分の話を聞いてくれる人ばかりでないことも,自分と会ったり話をしない人がいることも知っている。私に会って一緒に話をしてくれる人は,私のために時間を使ってくれているのだ。また,一人でいることが寂しいと素直に感じられるようにもなってきた。だから今感じること,それは,会って共に話せる人が周りにいてくれるということは,ありがたいし,喜ばしいことだ,ということだ。

2017/01/10

ブログ連続更新を1ヶ月続けて

3ヶ月間毎日ブログ更新をする!と先月宣言してから1ヶ月。1日も抜かることなく,とりあえず1ヶ月間続けることができた。始める前はできるんだろうかと不安だったが,やってみると意外とできるもので自分でもびっくりしている。

1ヶ月間続けてみてどうだろう。何か変わったことはあるだろうか。まず1つの記事を書き終えるのにかかる時間が少なくなったと思う。1つの記事を書くのに1~2時間はかかっていたのが,最近では1時間前後で書き終えることができている。しかし書き終えるのにかかる時間は,書く内容と書く量に依存する。比較的書くのに時間がかかったと記憶している記事を眺めてみると,内容面では大体2つに分類できそうだ。1つは学術的な話をする記事(12/13の記事:https://goo.gl/EppbNR)である。うろ覚えの学んだことや習ったことを間違いのないように書くために,調べつつ考えつつ書いていたので時間がかかるのは当然だ。もう1つは,自分をえぐるようなことを書いている記事(12/22の記事:https://goo.gl/rStK86や,12/27の記事:https://goo.gl/5wuj9o)である。自分の失敗や恥だと感じていること,自分の中に存在するあまり見たくない・触れたくない自分の一面などを書くときにはとても時間がかかる。それは,なるべく正直に書きたいという気持ちの表れであると同時に,自分のネガティブな面について,人から非難されないよう守りつつ書いているからだと思われる。自分のネガティブな面を自らさらすというのは,私には勇気がいることだし怖いことだ。しかし,書くことによってもやもやしたものを整理し向き合えるかもしれないし,ネガティブな面を客観的に見ることができるかもしれない。また,恐怖が和らぐかもしれない。だからあえて,書くようにしている節もある。内容とともに,書き終える時間を左右する書く量については,日によってそれほど差はないようだ。

他に変わったことといえば,ブログに何かを書くためのネタづくりをするようになったことだろうか。まとまった文章を書くというのは,けっこう骨が折れる。書いた文章は残るゆえ適当なことを書きたくないし,ブログで書くならtwitterのように一言で終わりにするというふうにはしたくない。そうすると,書くネタを仕込んでおく必要がある。仕込むとは,日常でブログに書けそうなことを常に探すことだ。したことや思いついたことについて考えを巡らせ,記事にできるレベルまで持っていく,そういう作業をするようになった。だから,前より少しだけものを考える時間が増えているかもしれない。

それから,1ヶ月間ブログを書いてみて気づいたことがあった。それは,どうも私は自分ができていないことに気が向きやすいということだ。できていないことに目を向けること自体は悪いことではないと思うが,書いていて,できていないことを嘆く気持ちが出そうになることが多い。そういうとき,そんな私に嫌気をさしている私が顔を出すようになった。自己憐憫する自分への認識が,ブログを書くことによってやや強くなったように感じる。自己憐憫したところで思考停止に陥り何も進まないので,どうしたらできるようになるかとか,本当にできていないのかとかを考えるようにしていきたい。

1ヶ月間の振り返りはこんな感じだろうか。あと2ヶ月,またがんばっていきたい。

2017/01/09

成人の日に思う

今日は成人の日。出先では新成人と思われる人たちを何人か見かけた。職場近くの写真館には,振袖を着た女の子とその家族が朝から来ていたし,夕方乗った電車では,3人組の振袖の女の子が話をしているのを見た。私も11年前は振袖着てたよなーと思うと,感慨深いものがある。

帰宅して早速,成人の日に撮影した写真を引っ張り出してみた。今の私と成人式の私,写真を見るだけでもけっこう違いがある。まず見てぎょっとしたのは,眉毛がめっちゃ細くてつりあがっていること。そうだ,すっかり忘れていたが,あの頃はまだ眉毛をがんばっていじっていた時期だった。今は太めのなだらか眉で落ち着ていているが,眉毛が違うと人相が変わるもんである…きつく見えるし,かわいくない印象だ。当時どうしてあれがよかったのか・・・理解に苦しむ(汗)それから,顔の大きさが全然違う。成人式のときの顔は今よりも大きくて丸みがある。もともと私はぽっちゃり体質で,小学生のころから太っている部類に属していた。一応ダイエットは何度かしていたが,よくリバウンドを繰り返していたので,おととしから始めたダイエットで10kg超痩せを実現する前までは,丸くて少し大きめの顔がデフォルト。当時はそれほど気に留めていなかったが,写真で見ると顔が大きい。ほかの人もきっとそう思っていたんだろうと推測する次第である。それから,成人式で私は黒の着物を着ていた。そう,当時は黒色が好きで,というか黒にこだわっていて,持ち物の多くは黒だったっけ。洋服も黒系,かばんも黒系,携帯も黒,髪も染めなかった。かっこいいと言えばかっこいいが,今の私だったら黒は選ばないなーという感じだ。きっと赤を選ぶ。

恥ずかしながらも昔の写真を見ていると,当時のことがいろいろよみがえってくるものだ。成人式の日,私は地元の市が開催する成人式に参加した。そこでは,小学校・中学校時代の同級生とたくさん会って話をしたっけ。数人の女の子は,化粧で顔が変わっていて誰だか一瞬分からない感じだった。男の子も数人は変な髪型になっていたりで,中学校のときあんなにかっこよかった◯◯君はいずこへ?という感じだった。その一方で,全然変わっていない人もいたりして,懐かしいやらおめでたいやら嬉しいやらで,新鮮な1日だった。

成人式の日,私は両親とも一緒に写真を撮っていた。父も母も年をとったな…。特に母は,写真と比べて今は白髪がたくさん増えたし,背中と腰が曲がってしまった。写真で眼をつむる癖は変わっていないが。最近実家に帰省してもよく感じることだけれど,親が年をとっていくのを実感するのは切ない。

20歳の頃の私は,今の私を見てどう思うんだろう?当時の私は10年後,学生やってて独身だなんてほんの少しも思ってなかったに違いない。それに,悩み多き人生だってことも思い至ってなかっただろう。当時は漠然と,いろいろなことがうまくいくと思っていた。10年間で私はどれくらい成長できたんだろうか。10年間で私はどれくらいダメになったんだろうか。10年間で私はどれくらい自分のことを知れたんだろうか。

2017/01/08

寝ることは大切です

ここのところ,部屋の模様替えなどで夜活動していたせいで,睡眠パターンが乱れてしまい,どうも調子がよくない。ここ数日,大体3時から4時に布団に入り,8時~8時半くらいに起きる,そんな生活をしていた。平常時には大体1時台には布団に入り,7時過ぎくらいに起きるから,睡眠時間もいつもより1時間くらい減っていた。

年を重ねるにつれて,寝ないと身体が耐えられないということをまざまざと実感するようになった。昔とは違うのだ。10代~20代前半の頃は徹夜も普通に出来たし,徹夜明けの日もいつもより眠いくらいで大きな問題なく過ごせていた。で,今はというと,そもそも徹夜自体そうやすやすとできないし,たとえできたとしても,明けの日がグロッキーになりすぎるのでしたくない。徹夜明けの日は眠いだけでなく,注意力と思考力が散漫になり,イライラし,落ち着かなくなっているのが自分でよく分かる。しかも,その夜はいつもの1.5倍くらい寝ないと翌日すっきりしない。

私はどのくらい寝るのがちょうどよいんだろうか。前,あるアプリを使って調べようとしたのだが,結局よくわからなかった。ただ4時間半睡眠が続くと日中違和感を感じるので,少なくともそれ以上の睡眠は必要なのだと思う。しかし,寝すぎると寝すぎたで頭痛がひどくなり,その日ぼんやり過ごすことになる。私の場合は,8時間以上寝るとそうなる傾向が高いように感じる。

知り合いに3時間睡眠で全く問題ない人がいるが,睡眠時間が短くても支障がない人がちょっとうらやましい。「寝る時間がもったいない」と昔の私はよく思っていて,減らしても問題なしな状態にどうにかもっていけないかと考えていたこともあった。しかし今はもうあきらめた。睡眠時間を減らすことはできそうもないので,よく寝て翌日に備えたい,良い眠りがしたい,最近はそんな感じである。ということで,今日は早めに布団に入ります。

2017/01/07

クッキングアシスタント

イタリアン好きの友人と,季節ごとにお料理会を開いている。今冬は本日開催。前菜2品にパスタ,メインにデザートと計5品,よく作りよく食べた。

今日のお料理会,いつも以上に働いた。これまでのお料理界では大体,友人が料理するのを見ており,私の仕事は主に食器洗いだった。しかし今日は,たくさんの野菜をみじん切りにして炒めたり,生クリームを混ぜたり,いつも通り食器洗いしたりと,友人に料理をふるまわれるお客さんというよりむしろ,友人のアシスタントになれていたと思う。

私は誰かのお手伝いをするのがあまり得意ではない。手伝うという行動が自然に出ないのだ。気が利かないと言われれば,その通りかもしれない。そんな中手伝おうと思うと,手伝うって意外と難しいことに気づく。いつどのタイミングで何を手伝ったらよいのかとか,自分はそれをやっていいのかとか,私はそれを相手が満足する程度にできるのかとか,私は手伝ったほうがいいのかなどを考えてしまい,余計に動けなくなる。しかし,そんなんで手伝わないとまたもやもやするのだ。

今回は,友人が買い物に行っている間に手伝うことを申し出た。それで仕事をもらえた。又,友人が料理しているのを観察して,自分もやりたいと申し出た。それから,シンクに食器がたまっているのを見て,「洗うねー」と洗い始めた。そっか,ごちゃごちゃ考えずに「私やるよー」と申し出ればいいのだ。そんな感じで今回は,お料理会を作り上げるほうにコミットできてとても楽しかった。もてなされるのも嬉しいが,自分の手が加わったものをみんなで味わえることには,また別の喜びがある。

次回は今日以上によい働きをしたいな。

今日作った料理の数々

特製カルボナーラ

牛すね肉のオッソブーコ

ティラミス

2017/01/06

物の配置を考える

模様替えシリーズの記事が続くが,今日は棚における物の配置について書こうと思う。

どの本棚のどの棚に何を置くか。快適な部屋を作るためには避けて通れない問題だが,これがけっこう難しい。というのも,いくつかの条件を考慮して決めないといけないからだ。私の部屋の本棚はIKEAのBILLY (http://www.ikea.com/jp/ja/catalog/products/80263851/) である。3つあり,それぞれの高さは180cmくらい。真ん中あたりに棚板ついているほか,1つにつき4枚の棚板がついていて,自分で棚の幅を調整できるようになっている。このBILLYを机の両脇に2つ,ベッドの隣に1つ配置した。そしてここから,どこに何を置くかの検討が始まるわけである。

棚に物を置くときに考慮することは,まず第一に利便性であろう。今回机の両脇に棚を置いたが,そのときそれらの棚に置くものは,机に座って何かするときに必要なものである。さらに,どこに何があったら机で作業しながら物を取りやすいかも考える。とはいえ,重たいものはあまり上には置きたくないので,重たいものは下にする,といったことも考える。さらに,それぞれの棚はすでに90cmのところで仕切られているので,そのひとつの棚につき90cm×2のスペースをどう調整すると無駄なく使えるのかも考えたい。棚は3つとも同じなので,棚板は全部共通だ。よって,ひとつの棚に幅の細いスペースをいくつもつくり,ひとつの棚は全く棚板を使わない,なんてこともできる。さらに,右側と左側,どっちの棚に何を置くかも考えたいところである。特に,右側の棚は窓と向かい側になるため日が当たり,左側の棚は窓の隣になるため下のほうは湿気がたまる。それらも考慮しとくのがよいだろう。また,ベッドのほうにある棚には,机での作業にはあまり関係のないものを置く。こちらは机周りほど考慮する必要はないが,あまり使わないものは上に,重たいものは下にというのがよいだろう。と,こんな具合にあーじゃない,こーじゃないと試行錯誤している最中である。

物の配置でもうひとつ問題になるのは,配線だ。テレビやそれに付随するケーブルテレビの機械,HDレコーダーなどはひとつ動かすと全部動かすことになりかねない。また,ケーブルテレビのケーブルは壁とくっついているのでテレビを動かすとなると,こっちの調整も面倒になるのだ。さらにインターネットはケーブルテレビのケーブルを利用しており,壁―テレビ間のケーブルから分岐したものとモデムがつながっている。移動させることも考え,ケーブルをはずして試行錯誤してみたが,元の位置が一番よいということに落ちついた。ケーブルの絡まりには毎度のことながらイライラさせられた。とりあえず,あとは適当な延長コードを使えばOKである。

現在部屋は散らかりまくっているが,たぶん本日である程度めどがつくと思われる。部屋のめどがたったら,ベッドの下の棚やクローゼット,キッチン周りの片付けをしたい。定期的に片付けをしていないのでごちゃっとしているが,そんなに時間をかけなくても終わるだろう。

2017/01/05

家具移動に整理整頓

昨日から始めた部屋の模様替え,本日も継続中である。処分については昨日一段落したので,今日は主に家具移動と残ったものの整理整頓だ。

まずは家具の移動である。家具移動ほど一人暮らしの女性にとって骨が折れることがあろうか。ベッドに本棚,いかんせん大きい。しかも部屋が狭い。よって,どの家具をどの順番でどのくらいずつ動かすかをシミュレーションしないと,恐ろしく効率が悪くなる。引っ越しに家具移動はすでに何度か経験があるので,シミュレーションはお手のものである。で,いざ移動!重すぎる・・・ベッドも本棚も引きずるようにして少しずつ運ぶ。力いぱっぱい押したり引いたりしながら,方向を少しずつ変えながら,休みながら,思い描いていた場所へと運んでいく。IKEAの本棚は動かすたびに左右に揺れて,倒れてものが棚から外に出ないか心配でしかたがなかった。

家具移動と並行して進めなきゃいけないのが整理整頓だ。まずは,長年適当にしまっておいていた文房具やアクセサリーを,一度床に全部ばらまいて整理していった。整理整頓で役に立つのは100均グッズ。昔100均で買ったプラスチックのトレーや箱を使いまわし,どう整理整頓していくのがいいか考えながら進めていく。アクセサリーは,複数のネックレスがこんがらがらず,いろんな種類のアクセサリーがごちゃ混ぜにならないよう収納を考えた。使ったのは,100均のトレー2つに,仕切りのあるプラスチック箱1つ,口が閉まる小さな袋だ。文房具は,もともと使っていた入れ物が小さかったため,100均で新しい入れ物を買ってきて片づけた。100均グッズで部屋をおしゃれに!的な情報番組がよくテレビで放映されているが,100均はその辺の雑貨屋よりも使い回しのきく商品がいろいろ売っている。

アクセサリーと文房具を片づけた後も整理整頓は続く。100均のトレーや箱で足りない部分は,靴やお菓子の入っていた箱などを利用して,こまごましたものをまとめていく。同じカテゴリーに属するものは,どんどんまとめていくことにした。そのほうが使い勝手もいいし,見た目もきれいだし,そうじも片づけも便利である。こまごましたものが多くて辟易したが,とりあえずある程度完了である。

整理整頓が一段落すると,次に問題となるのが物の配置だ。我が家の収納は,クローゼットか本棚かの2つに1つ。洋服以外は基本すべて本棚のどこかに配置される。本棚はうちには3台あるが,そのどこに何を置くかがけっこう悩みどころなのである。そのあたりはまた次回ふれようと思う。

2017/01/04

模様替えを始めました

今日,お部屋の模様替えをスタートした。昨日デスクトップパソコンを購入したのだが,現状の部屋では使い勝手よくパソコンを配置できない。そこで,新年になったことだし,心機一転模様替えに着手したというわけだ。

模様替えをするときにまずやること,それは物を減らすことだろう。この部屋に引っ越して来るときに,前の部屋にあったものをだいぶ捨てたが,生きていると物はどんどん増えるもので,部屋がどんどんごしゃごしゃになりイライラ気味であった。なのでこの機会に一気に処分である。

今回初めて処分に着手したのは,昔の日記や手帳類。一人暮らしを始めてから何年間かは手帳を使い,日記を書いていた。引っ越しの旅にそれらを捨てられなくてずっととっておいていたのだが,とっておいてこれまで見た試しがない。それに,持っていると昔の自分を引きずっていくように感じて嫌だ。私は新しい自分になるのだ。だから捨てることにした。それから,旅行に行ったときのパンフレット類も今回捨てることにした。これも私にとってはなかなか捨てられないものの1つである。パンフレット類は,旅行そこにいかないともらえないものだから,希少なのだ。しかもパンフレットにはいろんな情報が載っている。とはいえ,やはりこれもとっておいて見返したらことはほとんどない。であるなら,思い切って捨てようと思った。

そんな感じで今回はどんどん物を捨てる予定である。物を捨てることは,心の整理と対応しているように思う。物を捨て、過去の自分を切り離し,新しい空気を呼び込む…年始にふさわしい試みだ。

捨てたあとは残ったものの整理整頓!明日に続く…

2017/01/03

のびのびと

「YOUは何しに日本へ?」の再放送を今朝見ていた。私はこの番組がけっこう好きだ。録画して見ることはないが,テレビをつけたときにたまたまやっていると,大体この番組を見ている。この番組に出てくるYOUを見ていつも感じることがある。なんて彼らはのびのびしているんだ!ということだ。インタビューや密着映像から伝わってくる彼らからは,したいことをおもいっきりしてエンジョイしています,という様子がよく伝わってくる。何と言ったらいいのか,説明が難しいのだけれど,せこせこした様子はなく,日本でのいろいろな出会いを楽しみ,その楽しさや感動を率直に表現し,常に自然体に見える。当の彼らが内心どう感じているかはもちろん知る由もないが,のびのびと生きているように見えて仕方がない。そして私は,彼らのそんな雰囲気にちょっと憧れるのである。

人が何かに憧れるのは,その対象を持っておらず欲しいと思っているからである。そうすると私は,彼らから伝わってくるのびのびとした感じを持っていないけれど欲しているということになる。実際,自分で自分を眺めてみると,窮屈な生き方をしていますね,と思うことがよくある。誰かに何かを強制されているわけではないし,むしろ,好きにやりなさいと言われているのに,自由じゃないとか,何かに囚われているように感じることがある。なんでそんなことを感じるのか。人から明確に何かをせよと言われていないのであれば,自分で自分にかけているものあるいは,自分が思っている常識が原因であろう。こうしなくちゃいけないとか,こんなんできるはずないとか,こうしないとおかしいだろうとか,常識や自分の力と照らし合わせて,日常生活で無自覚に自分にブレーキをかけてしまっているからじゃないだろうか。言うなれば,無難で(おそらく)安全な人生を送るためのブレーキである。

今年は,このブレーキをを弱めていこう。まずは,したいことについて想像力を働かせていくことをしよう。昨日,両親がしたいことをはっきり言わないという話を書いたが,私もその素養を引き継いでおり,したいことがぼんやりしていて,たいていのしたいことは,”どうしても”ではなく,”できたらいいない”とか”なんとなく”のレベルなのである。それではしないほうへと流れていってしまう。こうしたらもっと楽しいんじゃないだろうか,これが足りないならどうにか手に入れてみようかと,想像をふくらませて加えていくことをしていこう。

2017/01/02

初めてだらけのお正月

今年のお正月は,初めてのことがいくつかあった。昨日の家族そろっての初詣に続き,今日も3つの初めてがあった。今日はそれらについて書いてみたい。

今年我が家は,初めて福袋を買いに出かけた。昨年の暮れの頃,いきなり父が今年は福袋を買いに某デパートに行こうと言いだした。うちの両親は出不精,かつ「福袋には大したものが入っていない」という思い込みで生きてきていた人たちなので,父がそんなことを言いだしたと母から聞いたときはビックリした。一体何が起こったのか,と。それで本日早起きして,買い物に出かけた。デパートに着いたのは開店40分くらい前。車を停めて,デパートの入り口に向かうも,しばし迷ってから開店を待つ人々の行列に合流。配布されたチラシを見つつ,どこに向かうかを思案する。私自身,特にこれといって欲しい福袋はなく(しいて言えばワインの福袋くらい),言い出しっぺの父に何か欲しいものがあるかを聞くも,「おまえが行きたいところに行けばいい」と…。うーん…特にないんだが。で,母に聞いてみても「お母さんはいいや~」と…。一体何しに来たんだ?状態であった。そうだ,うちの両親はいつもそうである。欲しいものや行きたいところをはっきり言わない。そんなこんなで開店となり,いざ売り場へ。とりあえず,入り口で入ったフロアで売っていた福袋へと向かう。紳士用パジャマの福袋,タオルの福袋,婦人用パジャマの福袋などを見て回り,タオルと婦人用パジャマの福袋を購入。我が家で初めて買った福袋である!ちなみに,タオルも婦人用パジャマも,福袋に入っている商品の合計金額の約1/4の価格で福袋を売っていた。帰宅後,みんなで福袋を開けてみた。母的には,福袋の中身をあまりお気に召さなかったようであった・・・(汗)

続いての初めては,今年はいつも行く親戚宅に新年のご挨拶に行かなかったことである。今年の元旦と2日は互いに都合がつかず,両親は今週のどこかで親戚宅に行くと言っていたが,私は自分の家に戻るため,行けないこととなった。私は親戚宅に行って,みんなで話ながらご飯食べたりお酒を飲んだりするのが好きなので,正直残念だ。親戚の家でふるまわれる日本酒がちと恋しい。

そして最後の初めては,父とカラオケに行ったことである。カラオケに行こうかという話題は,これまで帰省したときに度々出ていたことなのだが,いつも話だけで終わっていた。しかし今日はついに実行に至った!前から思っていたが,やはり父は歌がうまい。昭和の歌謡曲や演歌を歌っていたが,こぶしがきいているし,声も出ているし,良い感じだ。昔も今も歌好きの父。私が音楽好きになったのは,小さいころから父が歌うのを聞いていたからかもしれない。気恥ずかしさもあったが,私も歌った。父が知ってそうな,それでいて私がよく知っている90年代~2000年代前半の歌をチョイス。私の歌は,音程はそれほど外さないのだが,表現力が高くない。表現力ってどうしたら上がるのだろう?父からのアドバイスは,強弱つけて歌ったら?とのことだった。要練習である。

そんなわけで,今年のお正月は両親といろんな初めてを経験したお正月であった。例年よりも少し新鮮で,家族での時間を大切に感じたお正月であった。

2017/01/01

2017年明けました

2017年明けまして,家族と初詣に行ってきた。地元の神社にも人はたくさん。お参りするのに並んでいると,前から後ろからなまっている話し声が聞こえてきて,なんとなくほっとする。それに,家族で初詣なんて30年生きてきて初めてだ。

 

お願いしたことは,私と私の周りの人達が今年も一年無事に過ごせますように,ということ。健康ならなんでもできる。今年は私が厄年のようなので,私も家族も用心するに越したことはない。

本年の New Year's resolution をば。
テーマは,「強く,たくましく,かっこよく」で。素直な自分を認めていく年に,守ってばかりいないで攻めていく年に,責任を取る年に,脱いい子ちゃんの年にするべく,邁進していきたい。