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2016/12/31

2016年を振り返る

2016年を締めくくるにはやはり今年の総まとめ。今年はどんな1年だっただろう。

そういえば今年はあわただしく幕を開けた。ヨドバシカメラの初売りでスマホを買うべく大みそかの明け方から行列に並び,いろいろあって買えなかったのを,友人が交渉してくれて買えることになり,その足で実家に帰宅と,初日からとばし気味の年明けであった。

今年のハイライトは,1月に30歳になったことだ。数年前,30代になることを嫌だ嫌だと思っていた自分がこと,ついに三十路になってしまった。ついに三十路か…と感慨深く思いつつも,年齢が重くのしかかってきた。30歳,もう若くないのにこんなこともできていないとか,労働力としての市場価値と婚活市場での価値がどんどん落ちていくことの怖さとか,そんなことを感じまくった年だった。というか,30歳になったことの喜びや嬉しさ,感謝は感じなかったのか…? ―正直感じなかった。

研究発表をしたことも今年のハイライトの1つ。このブログでも書いたが,今年の3月,初めての学会発表を経験した。そこでは私の研究の未熟さを再認識することとなったが,他にもいろいろなことがあった。例えば,発表の練習というものをこのとき初めて行った。これまで学校やそのほかの場所で何かを発表する機会はあったが,基本的にはどうにかなるだろうと精神で行き当たりばったりで臨んでいる。さすがにそれではいかんと,原稿書いて時間も測って練習したわけだが,本番でうまく発表できたかというとそうでもない。しかし少なくとも,自分で自分が何を言っているのかよくわからなくなるということはなかった。また,発表のためにパワーポイントで資料を作ったのだが,これがなかなかうまくできた!けっこう手間暇かけて作ったこともあって,パワポ資料作りおよび図解するときのコツをつかんだ。

3月は,欲と誘惑と外圧に屈した月でもあった。この選択が良かったのかはいまだによくわからない。

今年の夏はよく働いた。塾の夏期講習で通常月の2倍は稼がせていただいた。そのおかげで生活資金は潤うこととなった。しかしその一方で後悔もある。夏休みにあまり勉強しなかった。たくさん働いてはいたが,勉強する時間をとることはできた。でもついついのんびり&だらっとしてしまい,当初予定していたことはやらなかったし,研究もろくに進めなかった。夏のよき思い出は,友人たちと花火大会に出かけたこと,初夏に受けたTOEICが過去最高得点であったこと,「シンゴジラ」がすごく面白かったことである。

夏休みが終わり,10月から後期が始まり,そこからはあっという間に一日一日が過ぎていった感がある。本当に毎日が早い。印象に残っていることは,東京学芸大学の文化祭に友人と遊びに行ったこと。アクティブラーニングについて教わった。それから,11月に行った第九のコンサート。演奏も素晴らしかったが,指揮者の女性がとても魅力的であった。うまくいかないこともあった。秋から冬にかけていくつか目標を立てたが,ブログを毎日更新すること以外はすべて頓挫している。

そして大みそかの今,実家で年越しそばを食べ,Eテレでクラシックを聞きつつブログを書いている。なんというか,しなかったことばかりが目につく2016年だ…。楽しかったことやよかったこともあったはずなのに霞んでいる。ここ最近ブログを書いているときにも感じていることだが,どうも私は,ダメだったことばかりがデフォルメされ気になる傾向があるようだ…。

そんなわけで2016年の私,おつかれさまでした。

2016/12/30

織田信長が熱い

最近,織田信長がマイブームである。何度かこのブログにも登場しているスマホゲーム「イケメン戦国 時をかける恋」がそもそもの始まりだが,ゲームだけでは飽き足らず,先日時代小説をゲットした。山岡荘八の「織田信長」(http://amzn.asia/7yFYOr9)である。数日前に読み始めたが,これがけっこう面白い。

マイブームのきっかけとなった「イケメン戦国」内の信長は,ひときわキャラ立ちしている。このゲームのキャラクター設定は,史実や通説が反映させつつ,恋愛ゲーム向きの脚色がなされているが,信長は,突拍子もないことをしでかし,いつも自信たっぷり,冷酷非道な猛者ではあるが,天下布武のためのストイックさを持ち合わせ,家臣思いで,愛した女性をめっぽう大切にする,そんな描かれ方をしている。私はそんな信長にすっかり魅了されてしまった。現代にこういう人いたら,多分恋をするであろう・・・。

そしたら,信長は実際にはどんな人物だったのだろうということがすごく気になってきた。大うつけと呼ばれていたみたいだけど何したの?,冷酷非道って言われているけどなんで?,信長の恋愛事情って?,信長がしたかったことって何?,本能寺の変ってなんで起きたんだ?カリスマ性があったらしいが,それはどこから来たのか?などなど,ゲームのキャラ像と中学歴史程度の信長に関する知識から,気になることがむくむくと湧いてきた。それで手始めに時代小説に向かったというわけである。

昨日大学の友人たちとの飲み会の際,織田信長にはまっていることを話したら,日本史&時代小説好きの友達から,司馬遼太郎の「国盗り物語」(http://amzn.asia/fXZ3zfL)を読むべし!と勧められた。信長の嫁・濃姫の父親である斎藤道三と信長の生涯を描いたものらしい。さらには,ゲーム「信長の野望」やったら?とも勧められた。ゲームをやると,戦国時代のこと詳しく知れるよと。私はゲームに疎いゆえ,そういえばそんなゲーム聞いたことあるな,と思いつつ話を聞いていたら,これまでにリリースされている信長の野望のシリーズの概要を詳しく教えてくれた。信長の野望シリーズそんなにたくさん出ていることにもビックリしたが,その友人がゲームする人だったことも初めて知ってビックリだ。

そんなわけで,気ままに織田信長について学んでいこうと思う。

2016/12/29

初恋物語

私が働いている塾にはたくさんの中学生が来ている。同じ中学校に通う同じ学年の子が集まっていることもあり,休み時間になると仲良く騒いでいる。そんな様子を微笑ましく眺めていた矢先,ある講師の先生から彼らの恋愛事情を耳にした。そしたら,中学生のときの私自身の恋愛の思い出がいろいろ蘇ってきた。それで今,それらについて書きたい気持ちに駆られている。

中学生のとき,私には大好きな人(A君としよう)がいた。多分これは私の初恋だったのだと思う。その前にも好きは人はいたことにはいたが,なんとなくいいなー,かっこいいなー程度の話であり,A君への感情とは少し違っていた。A君とは,中1のときに出合い,ずっと友人関係を続けていたが,中3になる前後あたりで付き合うということになり,数ヵ月後に別れるということになり,それでもずっと好きだった。その後彼への気持ちが消えつつあった時期もあるにはあったが,何かといえば思い出し,会いたいと思い,思い焦がれたり復縁を願ったりしていて,結局完全に吹っ切れたと感じたのは大学3~4年のときである。なので,なんだかんだで10年弱私の心にいた人だ。

A君をどうしてそんなに好きだったのか,正直よく分からない。少なくとも,顔は好きなタイプでかっこいいと思っていた。でもそれだけではなくて,多分彼と友人関係を続ける中で好きという気持ちが成熟していったのだと思う。中1の最初のときにたまたま席が近かったことで仲良くなり,いろんな話をするようになった。本当にたくさん話をした。手紙交換とか,夜中の長電話とかよくしていた。彼の悩みやもやもやした何かを聞いたりもして,中学生ながら,彼のために何かしたいなと思ったり,ずっと一緒にいたいなと思ったりしていた。

当時の私の彼への好きっぷりを象徴する出来事はいくつもある。例えば,中3のときの高校選択。彼に合わせて,自分のレベルに合っていない高校に行くことを考えていたことがあった。また,私の名前をつけてくれた姓名判断の人に,私とA君の今後を占ってもらったところ,結婚することはないと言われ,ひどく悲しかったし,そんなの信じるか!と思ったのもよく覚えている。さらには,高校に入ってからの部活選択。結局,中3のときに「俺のせいで私の成績が下がる」といった理由で私はふられたのだが,その後もずっと好きだったから,高校では男子バレー部に入って,マネージャーをやっていた。それもこれも,彼はバレーボールのスポーツ推薦で私立高校に進学したので,私も男子バレー部にいれば,県大会などできっと会えるだろうという,それだけの理由であった。別れたあとの高校時代,大学時代も,私からメールや電話をしていたし,バレンタインデーには,チョコを渡そうと思って時間を作ってもらったこともあった。

どうやら私は恋をかんばっていたようだ。以前ブログで少女マンガ「イタズラなkiss」の主人公の琴子にあこがれるという話を書いたことがあったが(http://yukiron.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html),私もそれに近いことをしていたようだ。それに,私が心理学をやろうと思ったのには,彼の悩みやもやもやを聞いていたことも関わっていたのかもしれない。この恋物語は今までに何度も思い返したことがあるのに,今になっての発見だ。

A君は今,結婚して娘がいる。facebookで友達になっているから,タイムラインでときおりA君自身の写真が流れてくる。それを見かけると,ちょっと切ない気持ちになるけれど,それだけだ。

なんだか今日は随分感傷的になってしまった。

2016/12/28

国語ってどうすりゃいいの

私が働く塾では今,冬期講習開講中だ。入試が迫るこの時期,多くの受験生は1日に複数の教科を受講する。その一方,大学が長期休暇に入るため,帰省したり出かけたりで稼働可能な講師の数が減る。そんなわけで冬期講習の期間中,通常授業でみている英語に加え,国語(現代文)をみることになった。それで,国語ってどうやって教えるのがいいんだ!?となっている。

英語は,文法知識と単語の暗記量が点数を上げるための必須条件である。程度の如何の問題はあるものの,それらさえあれば受験英語は対処できる。問題を解くときに,持っている知識を出したりひっこめたり,組み合わせたりして使いまわせばいいからだ。だからとにかく,文法の問題演習と単語の練習を徹底的にやらせる。長文問題でも,文法力と単語力で長文と設問の選択肢の意味が分かれば恐れることは何もない。長文問題の多くは,本文中に明記されていることしか問われない。言い換えれば,その答えが正解となる根拠が明らかなのである。

では国語はどうだろうか。英語のように文法と語彙はもちろん必要である。さらに漢字も覚えておかなければならない。文法は日本語話者であれば日常的に使っているし,語彙だって文章に出てくるものの多くは分かるだろう。漢字だって普通に生きていればそれなりに書ける。だが,問題はそう易々と解けない。それは,その答えが正解となる根拠が,本文中に明記されているといえないからではないだろうか。

英語と国語の読解問題の違いは,求められている文章の内容理解の深度に由来するのではないかと思っている。英語の長文問題は,表層的な理解でもけっこう解ける。これは文章に書いてあった/書いていないのレベルで大丈夫なものが多い。しかし国語の問題となると,表層的な理解だけで解くとひっかけ選択肢に見事にひっかっかったりする。そこに書いてあることから,こういうことが言えるし,これはこう解釈できる,だからこれが正解だ,ともっていかないと正しい答えにたどり着けないことが多い。

そういうわけで,国語をどう教えたらいいか困っている。何回か国語の授業をやって,つくづく国語は英語と同じように教えられないと思った。国語では,英語のように細かく文を分解したところで解決しない。分解するよりもむしろ,文同士や段落同士がどういう関係を持っているかを汲みつつ読まないと,深いレベルの内容理解には達することができない。さらには,その文章(論説文)は筆者の主張と,それを主張するための材料から成っている,と考えて読み進めることが肝要である。そういうふうな文章の読み方をできるようにさせるにはどうしたいいものか。試行錯誤が続きそうだ。

2016/12/27

本レビュー 上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」

ここ数日,上野千鶴子の「女ぎらい――ニッポンのミソジニー」を読んでいた。遥洋子のエッセイ「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」に書かれている上野千鶴子に私は衝撃を受けたので,彼女の著作を読んでみたいと思っていた。上野千鶴子といえばフェミニズム,ジェンダー論だ。それに,以前ブログにも書いたが(http://yukiron.blogspot.jp/2016/09/blog-post.html),私は女としての自分を長いこと持て余しいた。そんなわけで興味を持ち,この本を手に取ってみた。

この本は,ミソジニーを軸に,日本社会のあちこちで起こっている現象を分析していくものである。ミソジニーとは「女性蔑視」と訳すことができる。男と女の2つの性別で秩序だっている社会において,ミソジニーは男性から女性への女性蔑視と,女性から女性自身への女性蔑視つまりは自己嫌悪と称することができる。この本についての説明は,私にとってここまでが限界だ。なぜなら,この本は私には難しい。巻末の参考文献の量からも推測できるが,この本を読みこなすには知識量が不足しており,上野氏の文献解釈・文献批判は私の思考レベルを圧倒的に超えており,息を呑むのが関の山。彼女の解釈や意見についてどう考えるかは,ほとんど言えることがない。ただ,そんな状態でもなんとなく共感するポイントはある。それは,女による女へのミソジニーと,女にとっての2つの価値であった。

女にとっての2つの価値とは,「自分で達成する価値」と「他人つまり男から与えられる価値」である。そして,女性にとって現代は,これら両方がないと十分ではない時代(p.205-206)としている。なんというか,これを読んだとき私は理屈抜きで納得した。それは多分,私が欲しているものを言語化してくれたからだ。冒頭で述べた以前の記事にも似たようなことを書いたが,「自分で達成する価値」をいくら得たとしても私は多分どこか欠落感を感じ,「男から与えられる価値」を得て初めて私の中の「女」が満たされるのではないかと思っている。

この2つの価値に関連して,数年前の私の鬱屈を振り返ると,私の中にミソジニーが内在していることが感じられる。私は,「男から与えられる価値」を手にしている女友達(つまり既婚者および彼氏持ち)を妬みを持って眺めたし,彼女たちと一緒に過ごすのを苦痛に感じて避けた。また,「私は彼女たちとは違うんだ」といった特別感を持つ一方で,「男から与えられる価値」を本当は欲していることに気づいてげんなりもした。「自分で達成する価値」の獲得には力を尽くしているはずなのに,「男から与えられる価値」は遠ざかっている気がして仕方がない。そんな感じであった。年齢のせいなのか,経験が増えたからなのか,これらの気持ちは,「自分で達成する価値」に重きを置き,「男から与えられる価値」は「自分で達成する価値」を得るプロセスで得ることができたら・・・というささやかな希望を保つということに今は変換されており,当時よりも若干収束した感はあるが,結局2つを欲していることには変わりない。

自意識に訴えてくるような話は,読むたびに心がえぐられて痛い。だが最低でもそれぐらいのことをしないと,自分のことなんてきっと分からないのだろう。

2016/12/26

自己紹介と見られたい自分像

ドイツ語の授業で,自己紹介を書きましょうという課題が出た。自己紹介を書くという以外に条件はなく,好きなことを好きなだけ書いていいとのことだった。それで早速書き始めたのが,自己紹介を書くって意外に難しい。ドイツ語だから難しいということではなくて,そもそも自己紹介として何を相手に伝えるかを決めるのが難しい。

自己紹介とは,自分はこういう人間です,というのを他者に伝えることである。では何を伝えたら自分がどういう人間かを相手に伝えられるのだろう。まず自己紹介で真っ先に書くことといえば,名前だろう。で,名前を書いたあと早速,次何を書こうか?となった。思いついたこといえば,住んでいるところ,出身地,年齢,専攻,仕事,趣味,性格である。それ,それらについて書く内容を考えてみた。茨城県出身です。心理学を学んでいます。英語講師をしています。日本語にするとこんな具合である。

一通り考えた後,いくつかのことを思った。1つ目は,年齢を書くのはやめようということ。私はアラサー大学生であり,年齢を書けば必ず,なんでアラサーで大学に?という話になる。説明するのが面倒であるゆえ,書くのをやめることにした。そして2つ目は,私の性格ってどんなだかよく分からんなということだった。性格を表す言葉はたくさんある。明るい,責任感がある,人見知り,裏表がない,マイペースなどなど。それでこれまでの自分の経験を振り返りつつ,どんな表現に収束できるかを考えていったのだが,ぴったりはまるものが見つからない。自分のこれまでの行動や考え方を振り返って,これだと感じる性格の表現があっても,「でもこういうエピソードのあったからそうは言えないかも・・・」みたいなことを気にし始めて,自信を持って言えないのである。かといって,暗い,自分勝手などのネガティブな性格表現を進んで使う気にもならない。授業でしか関わりのない先生に,あえてそんなことを言う必要もないであろう。ということで,性格を組み込むのもやめにした。そして3つ目は,私の自己紹介つまらない・・・ということであった。自分が誰かの自己紹介を聞くときに,相手の住んでいるところや出身,専攻,仕事,趣味などが何かを聞いたところで,正直どうでもいいことではないか。相手が言ったことの中に自分との共通点が見つかれば,それは興味を持つきっかけとなるかもしれない。でもそれがなかったら,聞いたところで「へーそれで?」って感じである。客観的な事実だけを羅列した自己紹介はつまらなく,その人らしさがあまり出てこない。そこで,主観的な話を盛り込むことにした。例えば仕事についてだったら,なんで英語講師をしているのかや仕事についてどう思っているかなど。例えば趣味についてだったら,その趣味にまつわる具体的な思い出やそこで感じたことなど。そんな調子で書き進めていき,最後は今後やってみたいこととその理由を書いて一通り書き終えた。主観的な話をいろいろ書いたので,私がどういう人間かがそこから垣間見ることができると思うし,事実を羅列しただけの一本調子の自己紹介よりも私という人間を多く紹介できたと思う。

冒頭で,自己紹介って意外と難しいと述べた。上述した自己紹介完成までのプロセスが示している通り,その難しさは,相手に伝えたい自分像と伝えたくない自分像,相手に思ってほしい自分像と思ってほしくない自分像を考慮しながら,伝えることと伝えないことを選別し,伝えることについてはどう伝えるかまで気にかける,ということから生まれて来るのだと思った。自己紹介は自分で何を伝えるか選ぶことができる。それゆえ,自己紹介を聞いたり読んだりして相手が受けるであろう自分の印象をある程度操作することができる。そのメリットを最大限生かそうとするからこそ,難しくなるんだろう。

2016/12/25

クリスマスと恋愛と

オンライン英会話のときに,この記事(https://goo.gl/FFIc94)が話題になった。あるウェディング関連のポータルサイトが,「クリスマスイブだけの相手」について20-39歳の女性253人に調査したところ,39.5%の人が,たとえその人とはもう二度とデートしないと思っていても,誘いがあればその人とのクリスマスイブデートに応じるということであった。調査をしたところが結婚関連のポータルサイトだから,きっと恋愛に積極的な女性が集まっていることと推測する。私だったらどうするだろうか。

そんなことを考えていたら,ふと記憶がよみがえってきた。数年前,大学の友人たちとの飲みの席で頻繁に話題になっていた,「明確な好意を感じていない相手とデートするか」問題である。友人たちは,明確な好意を感じていなくてもデートする派で,私は明確な好意を感じていなかったらあまりデートしたくない派であった。デートする派の理由としては,デートしたら相手のことをもっと知れるし,それでもしかしたら好きになるかもしれない。相手のことをよく知らない状態でこの人はダメとしてしまうのはもったいない。そんな感じであった。あまりデートしたくない派の私の理由は,好意を感じていない人と楽しく過ごせるのかという不安,であれば他のことに時間使ったほうがいいよな,という気持ち,さらには,一緒に過ごしてもあまり好きになれなくて,でも相手は好いてくれているとき,私は流されずにいられるのか?(これは過去の恋愛経験に由来する)といったことであった。当時の私が考えていたことをこうやって書いてみると,なんというか,独りよがりで恥ずかしい。デートの現実を無視しているし,相手の視点が抜けている。今思えば,当時の私は,デートと付き合うことを同じととらえていた。なんというか,デートするから付き合うし,付き合っているからデートする,みたいな感覚である。下手に真面目というか,警戒しすぎというか,余計なことを思い込みすぎというか。それじゃ彼氏できないよとさんざん批判されたが,まぁ,それもそうだろうと思う。機会損失になるのだから。とはいえ,私のようにデートしない派でシングルでない人もいることを思えば,つまるところどっちであってもあまり関係ないのだろう。決まるときは決まるということなんだと思う。ちなみに今は,デートすることは互いのことを知っていくプロセスだととらえている。私がその人に好意を持とうが,その人が私に好意を持ってくれていようが,そのプロセスの中でどちらかが合わないと感じればさよならする。それは付き合っていてもいなくても変わらない。

で,最初の問いに戻って結局私だったらどうするのか。やっぱりしないだろうなと思う。そもそも二度目のデートはないと思っているということは,その人に関心がなく,自分が求めているものを持っていないと判断した状態であろう。確かにデートして新たな発見があったり好意をもったり,ということはあるかもしれない。でも,自分の中で終了している気持ちをあえて呼び起こすこともないよな・・・と私は思うほうだ。

この調査は,クリスマスイブのデートに限定しているが,クリスマスイブでなかったら,YESと回答した40%弱の人はデートの誘いには応じるのだろうか。応じないとしたら,クリスマスマジックみたいなものなんだろうか。クリスマスと恋愛は切り離せないような雰囲気が巷にはある。私もその風潮に大いに煽りを受けて生きてきた。クリスマスといえばカップルの一大イベント,シングルの人間にとっては,それまでに相手を見つける!とか,相手のいない者は共に寂しさを分け合うとか,そんな話ばかりが耳に入ってくる。それで余計に寂しくなったり,敗北感を感じたりということのを経験してきた。にしても,どうしてこうもクリスマスと恋愛は結びついているんだろうか。

クリスマスにシングルであろうがなかろうが,年を重ねてどうでもよくなってきた。彼がいてもいなくても,楽しい時間になることもあるだろうし,つらい時間になることもあるだろう。相手がいるかいないかだけで左右されるものではないよなと思う。

2016/12/24

クリスマスイブの持ち寄りスナック

今日はクリスマスイブ。クリスマスイブは教会に行き,礼拝とホームパーティーをするのが定番となっている。ここ数年,花を持って教会に行くのがデフォルトになっていたが,今年は何か違うことがしたいなと思って,何か料理して持っていこうと思い至り,数日前から何を作ろうか考えていた。ホームパーティーでは毎年,豪華で美味しい料理や,初めて食べるような味の料理がふるまわれる。だから,仰々しい料理ではなく,簡単に食べられるスナック的なものがいいなと思って,ネットで調べてみた。そして目に留まったのが,餃子の皮で作るキッシュのレシピ。可愛いしおいしそう!と思って,これ(http://youpouch.com/2016/11/09/393599/)を参考に作ってみることにした。

初めて作る料理かつ,人に食べてもらう料理ゆえ,ひとまず昨晩練習がてら作ってみた。キッシュの中に入れる具材はレシピとは変えて,ハムとターサイとチーズで。塩コショウの分量の調整と,食材の大きさは少し変えたほうがいいなと思ったが,良い感じに完成!周りの餃子の皮もいい感じに焼けて,パリパリの食感を楽しめた。

昨晩の練習時に,もう一つ別のキッシュを作っていた。それはこれ(https://www.youtube.com/watch?v=heVKZl5vIlY)を参考にした。こちらは,失敗である。家のフライパンが大きくて,卵をたくさん使わないとここで紹介されている完成品のようにならないことが判明したのだ。昨日作ったのは卵の量が少なかったので,キッシュというよりもピザに近いものだった。しかも餃子の皮がけっこう焦げてしまい,まずくはないがそれほどでも…という感じ。そういうことで,こちらを作って持っていくことはあきらめた。

そんなわけで昨夜の反省点をふまえてキッシュ作りを始め,ついに完成した。それがこちら。 色とりどりでなかなかよい感じに仕上がった。ちなみに,形がこのようになっているのは,円形の餃子の皮をシリコンカップ(お弁当のおかずを入れるときに使う,アルミカップのような形のもの)にしいて焼いているためだ。どれ一つとして同じ形はなく,それもまた面白い。
昨日の具材に加え,にんじんとツナも加えて,数種類の組み合わせを作り,チーズによる味付けのほか,スイート&スパイシーペッパーソースも入れてみた。このソースとツナやハム,卵はよく合うから,美味しくなるに違いない,との期待を込めて。

喜んでもらえるといいな。

2016/12/23

Glühweinの季節です

最近,家に帰ってきてから軽くお酒を飲むのが日課になっている。先月,なぜかははっきり分からないが,無性にお酒が飲みたい気分になり,この時期に旬の,かねてから飲みたかったGlühwein(グリューワイン)を買って飲んでみたところおいしくて,それで晩酌が始まってしまった。

Glühweinとは,赤ワイン(白ワインで作られることもある)に砂糖やシナモンなどの香辛料,柑橘系の果物をなどを加えて煮て作った,ホットワインである。ドイツのクリスマスには定番の飲み物らしく,この時期各地で開催されるクリスマスマーケットでよくふるまわれているらしい。私が飲んだのはこちらの2種類。ラプンツェルのhttp://amzn.asia/33VRj61と,マリエンゴールドの(https://goo.gl/x5w4Kg)である。味が違うのは分かるのだが,ワインに飲みなれていないゆえ,何がどう違うかが説明できない(汗)私に言えるのは,どちらもおいしく,寒いところから家に帰ってきて身体を温めながらほっと一息つけるような味だということくらいだ・・・。私には甘さもちょうどよいし,香りも好きだ。


ワインに何かが加わった飲み物といえば,サングリアもよく知られている。私はサングリアも大好きで,飲み屋に行ってメニューにあればたいてい注文する。以前親戚との飲みの席でサングリアを飲んでいたところ,私の母方のおばあちゃんが昔よく作っていたという話を聞いた。大きな器に赤ワインを入れて,オレンジなどを漬け込んでいたらしい。たしかに私の記憶の中のおばあちゃんは,よく何かしら作っていた。梅ジュースや梅干し,ぬか漬けなど,おばあちゃんが作ったものをお母さんはよくもらってきていたものだ。まさかサングリアも作っていたとは!けっこうな驚きだった。おばあちゃんは亡くなってもう久しいし,うちの母はほとんどお酒を飲まないからすっかり記憶が薄れていたが,そういえばおばあちゃんはお酒をよく飲んでいたっけ。

そんなわけで,今日もGlühweinを飲みつつ,一日を終える。

2016/12/22

英語指導での気づき

働いている塾でここ半年くらい,来年1月にセンター試験を受験する高3生(1人)の英語を担当していた。今日はその子の英語を担当する最後の機会だった。その子の英語を担当しているもう1人の先生が,センター試験までの残り20日余り専任で担当することになっているからである。適材適所の采配だと納得しているが,自分の力不足が悔しくもあり,思い入れがある生徒だけに寂しさも感じている。ここに来て点をとれるようになってきているので,あと二十日余り,がんばってほしい。

センター試験の英語対策を塾で教えるのは,今年初めての経験だ。私自身,センター試験を受けている。確か,8割くらい点をとっていた。しかしそれは2005年のこと。10年以上も前だ。当時私は過去問を解いてセンター試験対策を行っていたが,詳しいことはほとんど覚えていない。だが,英語の勉強自体については,一般的な人よりも年季も執念も入っている。私の場合,20代になってからの方が高校時代よりも英語の勉強に費やしているので,覚えていることも多い。だからそれをベースに,春くらいから英語の基礎力づくりをサポートしてきた。とはいえ,思うように成績は上がってくれず,少し不安だった。

11月くらいからは,センター試験の練習問題や過去問を利用した対策にシフトしていった。それで,センター試験の何年か分の過去問と,センター試験対策問題集に出ている問題を一緒に解きつつ解説したりしていった。その中で,私が実際に受けた年度の問題にもあたったが,ここ数年のセンター試験の問題形式とは違うところがけっこうあった。ちょうどその頃,もう1人その生徒の英語を担当する先生が決まって,その先生と授業内容などのすり合わせでよく話をするようになっていった。

その先生が来てくれたことに,私は正直ほっとしていた。それは,センター英語対策をどう進めていくのがよいのか,よく分からなかったからだ。英語力が十分あれば,センター試験だろうと別の試験だろうと点数はとれる。しかし,英語力が不十分な状態で少しでも高い点をとらせるにはどうしたらいいか。今のままの勉強の仕方で大丈夫なんだろうかと思った。そんなとき,その先生が,センター試験では○○しか聞かれないとか,文章のどこを読めば答えを見つけられる,などのセンター試験虎の巻的な知識をたくさん持っていることが分かったのだ。それでその先生はその生徒にそれらを伝授してくれるという。それを聞いて,あぁ,私にはこれが足りなかったのかと思った。要は,問題の分析をろくにしていなかったのだ。生徒の英語力について,より伸ばすべきところや克服すべきところを分かっているだけでは,試験で勝てない。孫子もそんなことを言っていたのを今更思い出している。痛い経験だが,経験してよかった。その生徒の英語からは外れるが,高校入試の生徒や,受験生以外の生徒も担当しているので,この経験を生かしたい。

今度のセンター試験の英語は,自分でも通しで解いてみようと思う。

2016/12/21

言語化の効能

今日は言語化することのメリットについて書こうと思っている。というのも,自分がなんとなく感じていることや思っていることを紙に書きだして可視化すると,考えている内容がより明確になり先に進むという経験を私自身何度かしており,言語化することで生産的になれるなと感じていたからだ。それで,言語化することのメリットについて,好きなことを発表していいことになっている認知心理学演習の時間に,それらを扱った論文をいくつか発表することにした。今日の午前中発表してきたところである。

今日の発表で取り上げた論文の多くは,言語化することで自己成長や意識改革へと導くことができるというていで話が進んでいる。論文の中で取り上げられていたケーススタディで面白かったのは,コーディネートの上達のために言語化を利用したケースだ(庄司・諏訪,2008)。実験参加者(大学生の女性)は,自身のコーディネートをよくするため,8ヵ月間言語化を行った。言語化は,ファッション雑誌を読んでそこに載っているモデルの写真の中から気に入ったコーディネートを切り抜き,感じたことをメモすること,買い物の際に目にした洋服やアクセサリに関して感じたことをメモすること,ファッションに興味のある友達と座談会を開いて,それぞれのメンバーにどんなコーディネートが似合うか意見交換をしたり,そこで感じたことや考えたことをメモすること,で行った。記述内容は,言語化を進めてく中で変化していった。最初の頃は,自分と洋服を概念的に合わせることについての内容が目立ったが,3ヵ月後くらいからは,自分の身体部位の特徴や,洋服の見た目を関連付けた知識が頻繁に登場するようになる。さらに,5ヵ月後くらいからは,相手からの視線と自分の身体部位や洋服を関連付けた知識がたびたび出てくるようになり,6ヵ月後くらいからは,これまでの記述で出てきた知識が統合されたような知識が書かれるようになっていたようである。論文では,言語化によって生じる変化ついて,自分の中にだけあった表象が外に出されることで,他の表象との関係の発見が促されるようになることや,言語化することで今まで見いだせなかったものに気づくようになること,自分と周り(環境)との関係が再構築されることや,知識が単なる知識にとどまらず,自分とリンクして咀嚼されていくことなどを挙げていた。これらによって,人の意識改革が促される,というわけだ。

冒頭でも述べている通り私は,言語化することで考えが進み,より生産的になれることを感じている人間なので,この主張はけっこう納得ができる。ぼんやりとしたものをいくら思っても,何かに答えを出すことはできない。言語化するとは,ある意味,一つ一つの思いを決着していくことだと思う。だから次に進めるのだろう。

しめくくりにこの言葉を。

”ホモ・サピエンスたるもの,誇りを持って自分の言語を駆使しましょう”

この言葉は,私が今年最もよく読んだであろうブログ&twitterの住人,ぱぷりこさんが著書「妖怪男ウォッチ」で言っていたものである。私はこの言葉を気に入っている。


引用文献
庄司裕子・諏訪正樹(2008) 個人生活における価値創造の方法論:メタ認知実践のケーススタディ (https://goo.gl/WShJE3

2016/12/20

パラフレーズは勉強の友

今日は,英作文の時間にパラフレーズの練習をした。あるテーマについて書かれた短い文章を読み,そこに書いてあることをパラフレーズしながら要旨を作る。そのあと,同じテーマについての講義(内容は文章とは別)を聞いて,それもパラフレーズしながら要旨を作る。そして最後に,2つの要旨を再構成して1つの文章を作る。TOEFLのintegrated writingでも同様の問題が出題される。

パラフレーズをすることは,英語/日本語関わらず,何かを勉強するときにとても役に立つ。パラフレーズのプロセスは大きく2つに分けることができる。文献に書かれていることや相手の言ったことを理解するフェーズと,それを別の言葉で表現するフェーズだ。両方ともうまくできないと,話が別のほうにいってしまう。だから,パラフレーズをしてみることで,自分がどれくらいそれを理解しているのかを確認することができるし,自分の表現の幅を広げることができるのだ。

勉強するとき,インプットだけでなくアウトプットが大切だということをよく聞く。子供のころはアウトプットといえば問題集を解くことばかりしていたが,資格試験や語学でもない限り,大人になっての勉強は問題集があるわけではない。そこで,読んだことや聞いたことを書き出す,というアウトプットをすることになるのだが,やってみるとインプットだけのときよりも断然理解が進むことを実感する。アウトプットすることで,インプットのときに感じた「あ~なるほど,分かった」が,「分かったつもり」だったことに気づき,もうそれを一度読んだり,別の素材にあたって調べたりするからだ。また,個人的な感覚では,同じアウトプットでも,文献に書いてあることや先生が言ったことをそのままメモするのはあまり効果がないように思う。あくまでも,自分の言葉で書くこと,つまりパラフレーズするのがよいのである。多分,同じことをそのままメモするというのは,行為としてはアウトプットだが,頭の中ではインプットでの処理と大差ないのだろう。パラフレーズするとなると,内容を解釈して,それを表現するための適切な言葉を見つけるという作業が組み込まれるので,理解が促されることになるのである。

とはいえこのパラフレーズ,やってみるとけっこう疲れるもので,必要ないならやりたくない,というのが正直なところだ。しかし私は,仕事でもプライベートでもしばしば,「中学生にも分かるように話しなさい」と言われる。つまり「優れたパラフレーズをせよ」ということだ。日々精進である。

2016/12/19

考えるための講義

今学期,月曜日に履修している講義はけっこう重たい。今日もまたヘビーな時間であった。2つの科目を履修しているが,1つは昨日テスト勉強の記事で話題にした認知神経科学,もう1つは,フランスの思想家エマニュエル・レヴィナスがラジオ番組で語ったことをまとめた「倫理と無限」(http://amzn.asia/fzR3oAi)を読んでいく,というものである。認知神経科学はまだよい。毎回新しいことを学んでいるので確かに難しいが,多分その難しさは専門用語が多いことや,たくさんの要素が互いに相互作用して何らかの現象を成り立たせていることから,メカニズムが複雑であることなどに起因する。だから,用語の定義を把握し,複雑なメカニズムを整理していけば,けっこう理解が進むのである。また,心理学でこれまで学んできたこととも親和性があるので,比較的とっつきやすいし話についていきやすい。しかしレヴィナスの講義についてはそうはいかない。難しいことには変わりないのだが,認知神経科学の難しさとは違うように思える。何が違うか説明しにくいのだが,レヴィナスの気持ちになりきれないこと,彼の視点でものを見ることができないことからくる難しさと言えばいいのだろうか。

この講義では,私はいつも頭をフル回転させている。文章を読んでは,彼が何を言っているのか/言いたいのかよく分からずにちょくちょくつっかかる。これはこういうことか?なんでそう言えるんだ?とか,とにかく考えながら文章を読み進めている。また,先生やほかの哲学や思想に明るい学生たちが解説しているのを聞き,少しでも文章を理解しようとがんばっている。それでも,分かったような分からないような,ぼんやりとした感じで講義が終わることがしばしばだ。

そんな調子で毎回講義に出席していて気づいたことがある。私のこのような姿勢は,あまりほかの講義では見られないものなのだ。私はたいてい,講義で扱った内容について覚えたり,理解しようとして講義を受けている。当初はそんな感じで受けていた。しかしいつしか,覚えたり理解したりすることが最重要目的から外され,彼の言っていること自体について考えてみたり,彼が問題としていることについて自分なりに考えたりするようになっていた。彼の本の内容が一筋縄では理解できず,読んでも周りの人の話を聞いてもすっきりしないからそうなっていったのだろう。

私はこの体験をとてもポジティブにとらえている。理解した!とはならなくとも,この講義では考えることそれ自体に価値があるんじゃないかと感じている。だから,今後も文章に,レヴィナスの視点に寄り添いつつ,彼の話を考えていこうと思っている。思想・哲学を学ぶとは,そういうことなんじゃなかろうか。

2016/12/18

テスト勉強

明日,認知神経科学のテストがある。それでテスト勉強を始めたが,気が散ってなかなか先に進まない。ということで,とりあえずコーヒーを作って飲んでいる。コーヒーを飲むと覚醒する。だからそれでテスト勉強のモチベーションを上がるかもしれない。そして今ブログを書いている。ブログを書くためには考えるから,記事の更新がテスト勉強の助走になるかもしれない。

気が進まないならやらないで寝ちゃえばいいのにと感じつつ,それをできないことがもどかしい。だからこうしていろいろしつつ気分がのってくるのを待っているわけだが,昔はよくテスト勉強をしていたなとつくづく思う。

私はよくテスト勉強をする子だった。テストがある=テスト勉強するというのは,私にとっては極めて自然なことで,テスト勉強を全くせずにテストを受ける人たちが信じられなかった。それもこれも小さいころからそう教育されてきたからだと思うが,全くテスト勉強をせずにテストを受けたことはこれまでに一度もない。それに,昔の私にはテスト勉強時の強い味方がいた。記憶力である。中学生のころは本当に記憶力が良かったと思う。教科書の本文を一言一句間違えずに暗記することも難なくできていた。

そのころに比べたら,テスト全般に対するモチベーションは下がったように思う。しかも,当時ほどの記憶力もなくなった。テストに対するモチベーションが下がったのは,テストが褒められるためのツールとして機能しなくなったからだろう。昔はテストでよい点をとれば褒めてもらえたが,今は褒めてもらえず,誰かに言えばただの自慢になる。よい点をとることへの自己満足はある,でもそんなのはたかがしれている。テストへの認識,意味づけを根本から変える必要があるんだろうと思う。テストは何のために?自分のわかっていないところを把握して,次へ進むための手がかりとするためのツールじゃない?という具合に。記憶力については,まぁ,年をとったから仕方ない。何度も繰り返せば定着することは分かっているので,そうするだけだ。

ではそろそろ勉強を再開しようか。

2016/12/17

適当料理

毎週土曜の深夜,フジテレビで「久保みねヒャダ こじらせナイト」(http://www.fujitv.co.jp/kojirasenight/)という番組が放映されている。私はこの番組が大好きで,毎週録画して見ているのだが,その番組内のコーナーの1つに「予想を下回る微妙な料理」というのがある。視聴者から送られてきた,美味しいだろうと思って作ってみたはいいが思ったほど美味しくない,うーん…微妙な味…,と感じる料理を紹介するコーナーである。先日は,「お餅カレー」や「ヨーグルトトースト」が紹介されていた。

さて,私は料理をする。とはいえ正直料理が好きなわけではないし,こだわりがあるわけでもない。料理についてちゃんと学んだわけでもないから,私が作る料理はいい加減である。以前友人と,何を作るか決めるとき,料理が先か材料が先かの話をしたことがあった。ちまたではレシピ本があふれ,おふくろの味,あのときのレストランで食べた味などもあり,すでに存在しているありとあらゆる料理があふれている。それらの完成した料理ありきで,材料を集めたりしつつ料理をしていくのが前者である。一方後者は,まず食料棚や冷蔵庫の中身確認から入る。そしてあるものを組み合わせてなんとかしようとする。そしてなんとなく料理らしきものが出来上がる。私も友人も後者であった。一人暮らしを始めて12年余り,そんな感じでほぼ毎日なんかしら作っているのだが,けっこうさまになっていて,自分が作った料理でまずいと思ったことはほとんどない。作る前になんとなく味が想像できることが功を奏しているのだろう。せいぜい焦がした料理にゲッとなったくらいである。

しかしながらここ数日はちょっとピンチな状況になっている。なぜなら,うちの食料棚と冷蔵庫にあまり食材が入っていないからだ。買い物するのが億劫でしていないからそうなっているだけなのだが,使える食料の種類が少ないとそれだけ何を作るか頭を悩ませることになる。今ある材料のみの組み合わせで作ったことのある料理は全くないが,いかがなものか…。そこで思い出したのが,前述した久保みねヒャダのコーナーである。微妙だったら投稿しちゃえと,早速,初めての味になるありあわせ料理を作ってみた。それはツナキムチパスタである。作り方はいたって簡単だ。ゆでたパスタに,うちにあった「宗家(チョンガ)白菜キムチ」(今まで食べたキムチの中でこのキムチがいちばんおいしい)とツナ缶のツナを混ぜるだけ。キムチとツナが合うことはなんとなく想像がつく。でも,キムチとパスタは微妙な気がするな・・・そんなことを感じながら食べてみると,けっこういけるではないか。いや,むしろ美味い。微妙な味になることを想定し,投稿しようと息巻いていたのに,拍子抜けしてしまった。



思い込みを超えたところにい新しい発見があるんだなということと,使えるものがないときこそ創造力が試されるなということを実感した次第である。

みなさんもぜひお試しを。

2016/12/16

心理学実験やっています

今年に入ってから,学内で行われている心理学実験の実験者としての仕事をしている。自分の研究の実験ではなく,先生や院生の研究の実験を行う人として,参加者の人に実験内容の説明をしたり,実験手続きを遂行したりしている。現在関わっている実験は2つ。表象的慣性(動いているものが視界から消えたとき,それが実際に消えた位置からずれた位置で消えたと認識すること)に関する実験と,音楽の反復聴取と作業効率の関連についての実験だ。本日は,珍しくどちらの実験のシフトも入っていた。表象的慣性の実験については何度もやっているのでだいぶ慣れてきて,スムーズに終了。音楽の実験は今日が3回目。1回目2回目とトラブルが発生してひやひやものだったので,今日のは無事に終えることができてほっとしている。自分の研究の実験ならまだしも,他人の研究の実験なので,結果に影響を及ぼすようなミスはしたくない。

実験を実施して感じることは,まず,「参加者のみなさん,ありがとう」ということだ。上で述べた表象的慣性の実験については,2回私もテスト参加者として参加しており,音楽の実験については,現在行われている実験の予備調査のときに参加者として参加している。どちらの実験も,参加者にとってはけっこう負担が大きいように思う。表象的慣性の実験は,全体で2~3時間を要し,比較的単純なことを繰り返す課題をやってもらう。音楽の実験のほうは,1.5時間くらいを要し,こちらも同じく比較的単純な作業を繰り返してもらう。長時間単純作業を繰り返すことほど眠気や疲れ,イライラが募るものがあるだろうか。私はこれ以外にも,学内で行われている心理学実験にいろいろ参加してきたが,この手の実験が終わった後の解放感は半端ない。どんなよい実験パラダイムが思い浮かんでもやってくれる人がいなければ何の意味もないわけで,実験に参加するために時間を作ってくれる参加者がいるということは,ありがたいなと思う。

実験をしながら考えていたことがもう1つある。上で述べたような実験は,実験室実験と呼ばれている。現象の因果関係を導くために,原因となる変数以外の変数の影響が最小限にするべくコントロールされた状況で行うからだ。しかし,私たちが生きている現実は,いろいろな変数が絡み合って何らかの現象を起こしている。とすると,実験室実験の結果は,日常生活で起こっている現象をどれくらい反映するのだろうか。もう1つ実験室実験で気になることがある。それは参加者の人たちの取り組みだ。私も自分が実験の参加者であるときはそうするのだが,自ら実験に参加すると名乗りでてくれる人たちは,実験にとてもコミットしてくれる。実験者としてはそれはとてもありがたいことではあるが,そのコミットメントの強さが結果に影響を及ぼすことがある。やはり日常でのふるまいをどれくらい反映するのかが気になるところだ。

2016/12/15

研究をまとめ直してみたら

午前中から取り掛かっていたレポートが一段落ついた。大学での単位取得のため,今年の3月に発表した研究を,レポートとしてまとめなければならなかったのだ。発表時にある程度まとめていたのだが,改めて見直してみると,そのまとめ方が恣意的かつずぼらであった。こりゃまずい,と整理し直して文章化。元のものより分かりやすくなったと思う。が,しかし,やっぱりこの研究,客観的に見てあまり面白くないなと再認識してしまった。この研究の続きを進めてまた来年の3月に発表しないかと誘われているが,どうしたものか。

この研究については一度,ブログ内で言及したことがあった(http://yukiron.blogspot.jp/2016/03/1.html)。かなり付け焼刃な状態でエイッと進めてしまった。だから,興味を持ったテーマがぼんやりとある状態から,実験や調査可能なテーマへと絞り込んで,実験や調査の方法を選定するというプロセスをおざなりにしてしまった。たぶんそのせいだろう。なんとも薄っぺらい感じが否めない。実験やデータ分析自体は問題なく行えたため,結果もしっかり出ている。しかし,「私この時本当にこれ知りたかったんだっけ?」という思いがむくむく湧いてきた。

以前,面白い研究についての記事も書いたことがあった(http://yukiron.blogspot.jp/2016/09/blog-post_29.html)が,私面白いと感じた研究は,日常生活でなんとなく感じていることや目にしているものについて,「え,そんなことする必要が?」というくらいしつこく食いついた結果得られた新たな発見,という感じであった。なんというか,目の前で起こっている現実をベースに一つ一つ積み上げていくイメージである。では,私の研究はどうだろう。私が研究テーマを選んだとき,私も日常生活での気になることからスタートした。しかし,次のステップで先を急いだように思う。その気になることについていろいろ考えをめぐらす前に,すでに心理学の世界にある概念や手法を援用して,実験や調査を組み立てたのだから。それでは,薄っぺらい研究になってしまっても仕方がない。

なんとも後味が悪い。

2016/12/14

プロジェクト4日目の雑感

ブログを毎日書こうプロジェクト4日目になった。2日目の月曜日,3日目の火曜日,そして今日,と3日連続でいつもより少し早く起きてブログにとりかかるようにしている。朝の時間だけでブログを書き終えることはできていないが,1日を通して振り返ってみると,前よりも余裕のある1日を過ごせているような気がする。やることは増えているのに,他のことが,ブログを書くということを筆頭に組織されて,収まるべきところに収まっている,という感じである。

この変化は何に由来するのだろう。とりあえずまだ4日目なので推測の域を出ないのだが,考えなければならないということと,リミットを設けていることが効いているように思う。当たり前だが,ブログを書くには考えなければならないのである。それも,朝早く起きてブログのための時間を設けているので,朝から何かしら考え始めている。私はもともと朝の時間を,ストレッチやマインドフルネス,オンライン英会話などをする時間にあてていて,あまりぼんやり過ごしていない気でいたが,思えばどれも,それほど考えなくてもできることである。いや,オンライン英会話においては考えなければできない。でもブログを書くほうが考える量が多く,深度が深い。何を書くかは一日の細切れの時間で考えていることが多いが,決まるまでは頭のどこかにそれがあって,今その場で経験していることもブログ記事に昇華させられるかを考えていたりするので,ただなんとなく時間を過ごしているということが減っていっているように感じる。また,ネタが決まりさぁ書こうとなって書き始めてからも,時間は待ってくれないからなんとなくパソコンの前に座っているわけにいかない。頭の中で思っていたぼんやりしたことをより明確に文章で表現すべく,集中することが求められる。とはいえ,一気に最後まで書き上げられないから,これを1日に何度か繰り返すことになる。

つまりは,1日1つ記事を書くというゴールに向けて思考が動く→考えるという行為により,その時間を凝縮された時間として経験する→結果的にメリハリができて,余裕を感じる,ということではなかろうか。

どこまで私は続けることができるのだろうか。とりあえずがんばってみよう。

2016/12/13

長期増強と長期抑制

来週,認知神経科学のテストがある。そこで,テスト勉強がてら講義で学んだことを少しまとめておこうと思う。まずは長期増強(LTP: long term potentiation)と長期抑制(LDP: long term depression)について。「ヘッブ則」という,神経科学分野においては基本かつ重要概念も一緒にまとめる。このヘッブ則,昨年別の講義でも習い,よくわからなくて先生に聞いたのだが,それでもいまいち理解できなかった。しかし,先生が変われば説明も変わるわけで,今回の講義で理解がすすんだ。

長期増強と長期抑制は,学習に関わる概念である。心理学における学習とは,経験によって比較的永続的な行動の変化をもたらす操作,およびその過程を指す。一般的に学習と聞いて思い浮かべる概念とは隔たりがある。さて,では経験によってなぜ行動が変化するのか。神経科学によるその答えは,経験は,ニューロンのシナプス形成や刈り込み,強度変化などをもたらし,神経回路を変化させるからである。端的にいうと,経験は脳内の情報伝達ネットワークを変化させ,それによってそれまでとは異なる行動が生まれるというわけである。

可塑性があるため,経験によって神経回路の形成が変わるわけだが,神経回路はそもそもどのようにできていくのだろうか。まずニューロンは,脳内の脳室の表面の脳室帯で発生することが知られている。神経幹細胞は発生後上に上っていき,辺縁帯と呼ばれるところに到着すると,核の情報を2倍にし,脳室帯へと下がっていく。そしてそこで細胞分裂を起こす。垂直分裂を細胞からは新たな神経幹細胞が生まれ,また辺縁帯へと上がっていき,細胞の生成に寄与する。一方で水平分裂をした神経幹細胞からは,新たな神経幹細胞のほか,ニューロンやグリア細胞へと変化する細胞が生まれる。細胞が増えるにつれて脳の容量を上に上に増やしていく。その際,新しくできたニューロンたちは,遊走しながら適切な他のニューロンを引き付けて,自らの役割を定めていく。どこにあるニューロンがどこにあるニューロンを引き付けるかは決まっている(化学親和性仮説)ものの,神経回路には可塑性がある。だから伝達される活動電位が少ないニューロン間の結びつきは離れ,伝達される活動電位が多いニューロン間での回路が構築されていくのである。

「ヘッブ則」というのは,まさにこの活動電位の伝達と神経回路に関する法則である。あるニューロンが活動電位を生じ,それによって他のニューロンにも活動電位を生じさせたとき,そのニューロン同士の結びつきが強くなる,という法則だ。この結びつきが強くなるときにニューロンで起こっていることは,シナプスの構造の変化である。活動電位は,あるニューロンの軸索から他のニューロンの樹状突起へと伝わる。あるニューロンの軸索と他のニューロンの樹状突起は,くっついているわけではなく,シナプス間隙と呼ばれる隙間がある。あるニューロンで生じた活動電位は,軸索の先まで来ると化学物質(グルタミン酸)を放出するのだが,その放出された物質をほかのニューロンの樹状突起にある受容体(NMDA受容体,AMPA受容体など)が受け取ることで,そのニューロンに活動電位が伝わるのである。この現象が2つのニューロン間で繰り返し起こると,活動電位を受け取る側のニューロンが,樹状突起のAMPA受容体の数を増やすということが起こる。それによって,よりたくさんのグルタミン酸を受け取れることとなり,そのニューロン間の結びつきが強くなるのである。

長期増強と長期抑制は,このヘッブ則を元に成り立っている現象である。長期増強とは,活動電位を伝えられるほうのニューロンが高頻度で発火していたり,また発火しているときに,そのニューロンと結びつきのあるニューロンが同期して活動すると,そこの結びつきが強まるという現象だ。活動電位は,活動電位を発しているニューロンの軸索を通じて他のニューロンに活動電位を発生させるだけでなく,樹状突起から他のニューロンの軸索へと逆行して伝達されるため,同期した活動が生じる。一方,長期抑制は,長期増強と反対の現象である。つまり,活動電位を伝えられるほうのニューロンが低頻度で発火していたり,また発火していないときに,そのニューロンと結びつきのあるニューロンが同期して活動すると,そこの結びつきが弱まるという現象である。長期抑制のときには,活動電位を受け取る側のニューロンの樹状突起のAMPA受容体の数は減る,という構造変化が生じている。


参考資料
認知神経科学講義資料
中島義明ら編「心理学辞典」

2016/12/12

ゲームで鍛えられること

「ポケモンGO」をプレイしながら最近感じたこと,それは,ゲームで忍耐力や自制心を鍛えることできるのかもしれないな,ということである。

私は「ポケモンGO」をリリース直後の今年の7月後半から始めた。途中数週間放置していたこともあったが,再開し,今は,歩いているときにはアプリを起動して地味に続けている。目的地―駅間でのプレイが中心だ。そんな調子でやっているから,なかなかポケモン図鑑がコンプリートできない。一日に歩く時間なんて数分×数回だし,ポケモン探しに遠出もしない。それに課金もしない。ネット情報によれば,一定のエリアにしか生息しないポケモンがいるらしいので,それらを捕獲することは保留にしたとしても,比較的広範囲に出現するポケモンや,今持っているポケモンを進化させればいいポケモンについてはコンプリートを狙いたい。だが,進化させるには,プレイ時間を増やさざるをえない。さっさと全部集めたいが,「ポケモンGO」を優先させる生活はしたくない。そうすると結果的に,コンプリートまでにはまだまだかかることとなり,私の忍耐力と自制心が試されている気がしてくる。

道を歩いていて,ポッポやコラッタ,ズバットなど,いつも目にするポケモンばかり出てくると,かなりイラッとする。しかし,それでもたまにレアなポケモンが出てくることがあるし,とりあえず歩けばタマゴを孵化させてポケモンをゲットしたり,進化に必要なアメがもらえたりするので,起動する。レアなポケモンに遭遇しても,簡単にとれときばかりではない。今のところ捕獲率のが逃す率よりも高いが,逃すとけっこ悔しい。あぁ,コンプリートが遠ざかったと…。あとは,例えば駅について次の電車が来るまでに時間があるときには,駅の周りを散策したりする。そうすると,たまに新しいポケモンに出会ったりして,気分がとても良くなる。そんなこんなで,イライラしたり,悔しい思いをしたりしながら,日々の他の様々なことと折り合いをつけつつ地味に続けている。

結果として,図鑑にいるポケモンの数は徐々に増えてきた。本日現在,115/149種類を手に入れている。純粋に嬉しい。まさか「ポケモンGO」で長期間続けることのメリットを感じるとは思わなかったが。

もうひとつプレイしているゲームに「イケメン戦国 時をかける恋」という恋愛シミュレーションゲームがある。私は課金をしないでこれまた地味にプレイしているのだが,これも非常に忍耐力と自制心が試されているゲームである。課金をすることのメリットはいろいろあるのだが,私が最大のメリットだと感じているのは課金することでしか読めない特別ストーリーがあるということだ。「もっと甘いストーリー」だそうで。好きなキャラについてはとても読みたいのだが,課金はせぬという固い決心のもと,衝動を飼い馴らしている。

楽しむために始めたゲームだが,それ以外の使いみちもありそうだ。

2016/12/11

ブログを毎日書くために

ちょっといろいろあって,今日からブログを毎日更新することに決めた。とりあえず3ヵ月間,毎日更新を死守するつもりでいる。今これを書いている私の頭の中では,「え,ほんとにやるの?」「あんたほんとにできるの?」という声ばかりがこだましている。というか,それが私の本音だと思う。そういう状況の中,今まで何かをやろうとしたことはほとんどない。でもとりあえずがんばってみようと思う。今までの経験上,気負い過ぎるとダメになるので,気軽な気持ちで,でも適当にはせずに。とにかくやってみようと思う。

毎日ブログを更新するということは,当たり前のことだが,毎日何かを書くということである。そのためには挫折の要因になるような問題をできるだけ取り除いておかなければならない。今思いつくのは,「え,何書くの?」問題と「え,いつ書くの?」問題である。

まず,「え,何書くの?」問題について。このブログは一応,2014年8月の開設当初から日々の生活で感じたことや考えたこと,学んだことを書くということで運営している。この方針,開設時に特にこれといって書きたいテーマがあったわけでもなかったのでなんとなくそう決めたのだが,今改めて考えてみると,自由度がとても高い。私は自由度が高いとかえってやりづらいと感じるタイプの人間だ,と自分のことを感じている。しかし,日々生活する中で何かしら,たとえ小さなことであっても,感じたり考えたり学んだりしていることは確かだと思う。なら,書けること(ネタ)はいろいろあるはずだ。ということで,今後も今の方針を踏襲し,日々感じたこと,考えたこと,学んだことを書いていこうと思う。書けることはいろいろあっても,それをブログに文章という形で落とし込む,となると一気にハードルが上がるように思える。実際,ブログを開設した当初~ちょっと前までは,ちゃんとしたものを書かなくちゃとか,人に見られているんだ,という見えないプレッシャーを感じてなかなか書きづらく,かなり窮屈な思いを抱えながらなんとか記事としてまとめ,アップしていたものだ。とりあえず最低月1回は更新したいという気持ちもあったので,それに背中を押されてなんとか書いていたところもある。今だって,ブログを書くという行為は私にとっては自然にできることではない。でも,少しだけ前よりハードルが下がったような気がしている。書くときの窮屈さが少しとれて,前よりも記事を書きやすくなった。だから,その変化をばねに書き続けてみようと思う。

次に,「え,いつ書くの?」問題である。これまでの経験からいえば,私はブログの記事を1つ書くのに1時間以上,考えがまとまらないときには数時間を要している。現行の毎日のスケジュールでは毎日そんなに時間を割くことはできない。というわけで,現行の毎日のスケジュールを変えつつ,ブログを短時間で書くにはどうすべきかを考えなくてはならない。とりあえず,明日からブログは朝取り掛かろうと思っている。なぜなら,習慣化するためには,毎日固定でこの時間はこれをする,としたほうがやりやすいからである。とすると,私が毎日固定で自由に使える時間帯は朝学校などに出かける前と,夜家に帰ってきてからしかない。夜はそんなに早く帰ってこないし,基本疲れているし,眠くなるし,お酒飲んだりもあるだろうしで,挫折するための潜在的要因が多すぎる。朝にも起きられないというリスクはありそうだが,たとえ寝坊したとしても,その日はまだ昼と夜があるわけで,朝の失敗を埋め合わせることは可能だと思われる。とはいえ,早寝して,朝に書くようにしよう。そして,書き上げる時間の目標は30分~1時間とする。そんなに早く起きられないし,出かけなきゃいけないのにそんなにちんたら書いている余裕はないからである。では,短時間で記事を書くためにどうするか。単純に書く量を減らせばよいだろう。つまり,無理に記事を長くすることはない。それから今思いつくのは,常に考えていなさい,ということだろうか。先程も述べたように,記事になりうるようなネタはいろいろあるはずなので,感じたことや考えたことが流れていってしまう前に,それについて考えをすすめたりまとめたり,ということを意識的にやるようにしていく,それを心がけていけば早く書けるようになるんではないだろうか。言うは易し,行うは難しだが。時間についても,この心がけについても最初は難しいかもしれないが,徐々にできるようになれたらと思う。

ということで,1日目を終えようと思う。このやり方がうまく機能しない場合は,他のやり方を考えるまでである。